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 その身にそれぞれ美しい宝玉を嵌め込んだ不思議な獣達は、ヨハンに従順に付き従っている。龍可もようやく気が付いた。彼らは精霊だ。
 ただ、実体化をしている理由には思い当たらなかった。精霊研究者のヨハンの手による何かの発明なのかもしれないし、実はヨハンがアキのようなサイコ・デュエリストだったのかもしれない。龍可はこの父親の事が分からない。
「パパにも、精霊が見えたなんて」
 精霊を研究している機関に身を置いていると知った時に、気付いていても良かったように思う。しかし、ヨハンが精霊視の力を持っているなど、今まで考えた事もなかった。
 この父親は何も話さない。ただいつも母と一緒に世界を忙しなく飛び回っていた。落ち着いて話をした事は無かったのだ。
 ヨハンはエメラルド色の双眸を、驚いたように見開いている。
「お前は精霊狩りの……!?」
 <隊長>は片腕でガッチャを抱いたまま、億劫そうに倒れたホイールを引き起こした。セキュリティのロゴが土色に汚れてしまっている。肩を竦めて、改めてヨハンに向き直った。二人は面識があるらしい。
「こっちにも色々と事情があってな。今は<ジェリー・ビーンズマン>と名乗ってる」
「ふざけるな。その名前を、お前が名乗る資格はない。まだ懲りてなかったのか!」
「相変わらずだな。色男よ、相変わらず、そんなでかいガキがいるようにはとても見えない若さだ。その若作りの秘訣を是非聞きたいもんだな。なぁ?」
 ジェリーと名乗った<隊長>は、皮肉げにガッチャを見た。腕を首に掛けて、細い喉を締め上げる。ガッチャが苦しそうに喘いだ。
「そいつを離せ!」
 ヨハンが顔色を変えた。
 昨晩ヨハンがガッチャを引き取りに来た時から、ヨハンとジェリーが共犯なのかもしれないと疑っていたが、少なくとも見る限りにおいて仲間という様子ではない。二人は険悪そのものだった。
「しがない一匹狼の精霊ハンターが、手下に偉そうに命令できるようになったのもお前のおかげだよ。ヨハン、お前に感謝してやったっていい。だが俺は元々群れるのが嫌いだ。一人の方が何かとやりやすいんだがね」
 ジェリーが皮肉げに口の端を歪めた。どこか自嘲をするようでもあった。ヨハンが、理解できないというふうに頭を振る。
「何故精霊を苦しめるんだ? 何故人間の薄汚れた欲望を、純粋な精霊達に向けることができる。力があるなら守ってやるべきだ。精霊達と手を取り合って生きられる場所がきっと作れるはずなんだ。手を伸ばせば優しい世界に届くのに、何故あえて彼らを傷付ける道を選ぶ!」
「中年の親父が、相変わらず若造みたいな青臭い口を叩くもんだ。気持ち悪いよお前は。……痛ェ!」
 ガッチャがまたジェリーの腕に噛み付いた。ヨハンが侮辱される事が、どうしても赦せないという様子だ。
「何しやがる! 化物!」
 ジェリーがガッチャを罵りながら殴り付けると、ヨハンは、殴られたガッチャよりもずっと痛そうな顔になった。
「やめろ! 傷付けるな!」
「精霊と心を通わせる事ができる純粋な人間なんていやしない。そんな奴は世界の法則から外れて、精霊にも人間にもなりきれない化物になる。その事はお前もよく知ってるだろう?」
「化物なんかじゃないさ。精霊と人間を繋ぐ、架け橋なんだ。俺の夢そのものだ!」
「これがお前の夢? バカを言うな。こいつが架け橋なんて綺麗な存在かよ。現実を見ろ。醜い竜の肉体、おぞましい悪魔の心。強大な力を人間どもに利用され擦り減っていき、もう言葉さえ失った憐れな異形だ。お前は物珍しくて自分よりも不幸なこいつを見てこう思っていたにすぎない。『なんだ。俺なんてまだましだ』と」
 先生が生徒に講義をするような口調だ。ガッチャの腕を掴む手に力を込める。手首が軋んで、ガッチャが頭を振って悶えた。
「あうう……」
「やめろ……やめてくれ!」
「こいつも可哀想になあ。お前にさえ出会わなきゃ、無駄な夢なんて見なかっただろう。現実に押し潰されて絶望する事も無かったのにな」
 意地が悪そうに片方の眉を上げて、またガッチャの胸を乱暴に掴んだ。ヨハンの顔色が変わる。表情が憎しみに歪んだ。
 この人は精霊を愛して人間を憎んでいるんだと、龍可は気が付いた。
「俺の……! 俺の妻に気安く触るなっ!」
 ヨハンが叫んだ。
 その時、龍可の中で時間が停まったようになった。
 妻?
 父親のヨハンの妻?
 それは――
 ジェリーが嘲るような笑い方をした。
「妻ねえ。玩具にして弄んだだけじゃ満足できなかったのか? 夫婦プレイかよ、化物と。お綺麗な顔をして余程女に飢えてるのか。風俗へでも行け。それともそういう嗜好なら……救いは無いな、うん。見てみろよ、ガキ共がヒイてるぜ」
 ヨハンが息を飲んで龍可と龍亞を見た。ひどく苦しそうな顔になって、視線を逸らし、ジェリーを睨んだ。
 龍可の身体の中を通っている芯のようなものが、跡形もなく崩れ落ちていくような気がした。考えたくない。思考を放棄する。龍亞も呆然としている。
「お前と怪物の可愛い可愛い共同製作物って奴だ。知ってるぜ。生まれてすぐに処分され掛けた、双子の危険生物だ。それをお前は精霊研究機関の最高責任者って地位を利用して生かしておいてやった。化物の腹から生まれても、自分の子ってのは可愛いもんなのかねぇ。その辺りは俺にはさっぱり理解できないが、分かることはある。精霊と人間のハーフなんて、そんなレア物は、欲しがる奴なんざいくらでもいるってことだ。さて、いくらになるかねぇ」
「俺の子供達に値段なんて付けようとするな。何故お前はそうやって平気で薄汚れた言葉を口にできるんだ。させるものか……! 妻も子供達も、たとえ命に代えても俺が守る!」
「命に、ねぇ……」
 ジェリーは、憐れむような、馬鹿にするような、そして遠い過去に思いを馳せるような複雑な表情になった。その時の彼の、何十年も前に上映された旧い映画に出てくる、もういない登場人物を見るような目が語るものを龍可が知るのは、もう少し後のことになる。
「お前は昔から口ばっかりだ。何年経とうが何も分かってねぇ青二才の若造だ。光ばかり追い駆けてる虫けらだ。振り返って闇に眼を凝らしたことは、お前は一度も無いんだろうよ。その闇の中にいる恐怖の形なんざ、それこそ死んだって分かりはしないだろうな。そんな可哀想な野郎こそ、知った顔をして精霊を語る資格なんかないんだよ。ガキを置いてとっとと消えな。そうすりゃ、お前と大切な宝玉獣は見逃してやるぜ」
「ふざけるな、絶対に渡さない!」
「ふん、選ぶ力もないくせに意気がりやがる。奇跡を起こしてくれるお前の神様は、今回は欠席だとよ! なあ!?」
 ガッチャの顎を掴んで無理矢理に上向け、ジェリーが吼えた。その人がいる限り手の出しようがない事を悟って、ヨハンの目に絶望の色が混じり込む。
 澄んだ声が飛び込んできた。
―― 代理だって、来るかもしれないわよ!」
 一抱えもある革張りのトランク・ケースが飛んできた。頭に衝突し、ジェリーが水溜まりの中へ仰向けに転倒する。素早くガッチャを救い出したのは、見覚えのない女性だった。
 髪が長く、タイトなスーツ姿だ。学校の先生のような印象があったが、ネオ童実野校において、こんなに美しい上に腕力が抜きん出ている女教師を見た事がない。
「もう安心していいわよ。貴方、大丈夫?」
 彼女はガッチャを覗き込むと、泥で汚れて、今にも泣き出しそうにしている情けない顔に、まるでリビングデッドの呼び声を聞いたような表情になった。
 しかしそれも一瞬で、ヨハンへ向かって右手の指を二本揃えて突き付けた。『ガッチャ!』の仕草だ。もう心配はいらないという意味合いなのだろうが、やはりこの仕草はシティでも流行っているらしい。
「ヨハン! 何をやっているのよ!? こんな最低な男、さっさとやってしまいなさい!」
 ぶつけた頭をさすりながら、ジェリーが泥塗れになった身体を起こした。
「このアマッ! ふざけた真似をしやがって……!」
 腰に差していた鞭を引き上げる。雨粒が舞う空気を切り裂いて、ガッチャを守る女性の背を打った。鋭い音が鳴り、彼女の端整な顔が歪む。
「明日香!」
 龍可と龍亞を抱いているヨハンが短く叫んだ。ガッチャが「あー!」と泣きそうな声を上げる。
 しかし、鞭が再び振るわれる事は無かった。飛来したカードが手袋を貫通し、ジェリーの手の甲に突き刺さる。低いうめき声が漏れた。忌々しげに、投げ付けられた<おジャマ・ブラック>のカードを足元に叩き付けている。
「貴様天上院くんに何をする!? ただで済むと思うな!」
「セキュリティのくせに、女性に鞭を振るうなんて赦されないッス! 死をもって償うがいい!」
 騒ぎを聞き付けてやって来たのだろう。黒いスーツ姿の男性が二人、駆け寄ってくる。
「彼女への無礼はこの万丈目サンダーへの無礼だ。そして未来の親族である万丈目グループそのものへの無礼だと思え! とりあえず名を名乗れ、貴様!」
 黒髪の目付きの悪い男性が、ジェリーに掴み掛かっていった。どこかで見た事がある顔だと思っていたら、雑誌やテレビに着ぐるみ姿で良く出演しているプロ・デュエリストの万丈目だ。
 もう一人、眼鏡を掛けた男性が、先程飛び込んできた明日香というらしい女性とガッチャを守って、小柄な身体で立ちはだかっている。
 ジェリーは、人数が増えて不利だと判断したのだろう。あっさりと引き下がる仕草を見せた。
 濡れたコンクリートに発光弾を撃ち込んで、こちらが怯んだ隙にエンジンをふかして逃走する。去り際に、ヨハンへ捨て台詞を残して行った。
「光ばかり目指して、闇の中に何を落っことしてきたのかさえ覚えていない。俺みたいな小悪党よりも、よっぽど悪人だよ。お前は」
 静寂が戻ってきた。
 龍可は泥だらけだ。他の人間も、そう差はないひどい格好だった。雨の音だけは夜の始まりと変わらない。お気に入りのピンクの傘は、逆さまになって雨を受け止め続けていた。中に水溜まりができている。
 まず、万丈目が動いた。明日香の前に、高級そうなスーツが泥で汚れるのも構わずに座り込んで、心配そうに覗き込んでいる。
「天上院くん! 無事だったかい。無茶をしないでくれ、君に何かあったらオレは……!」
「あなたも無事ッスか?」
 もう一人の小柄な男性が、ガッチャの方を覗っている。万丈目の知り合いのようだったから、彼もプロ・リーグの関係者なのかもしれない。こちらもどこかで見た顔だと思ったら、アカデミア本校で会った十代の弟分の少年にそっくりだ。もしかすると近親者なのかもしれない。
 ヨハンがガッチャへ駆け寄って、膝をつき、縋るように抱き締めた。
「無事か!? 怪我はないか?」
 ガッチャが返事をするように「あー」と鳴いた。ヨハンは眉を寄せて、泣き出しそうな顔になった。
 いつもどこか怒ったような表情でいた父親のそんな顔を見るのは、初めてのことだった。
「良かった。本当に……。また怖い目に遭わせてしまって、ごめん。ごめんな……」
「あぁー」
 ガッチャがヨハンの頭を、龍可や龍亞にするのと同じように撫でている。やがて立ち上がって、心配そうな顔をして龍可の方へやってきた。手を伸ばされた時に、自分の身体が大きく震えたように思う。
 龍可は反射的に腕を突き出していた。ガッチャを突き飛ばしていた。その人が転んだ拍子に首に掛かっていたヘッドホンが外れ、地面に叩き付けられて割れる。壊れた部品と一緒にメモリーチップのようなものが転がり出るのが、視界にぶれて映った。
「そんなの、嘘よ」
 龍可は呆然としていた。声が震えている。身体が震えている。
 怖かった。怖くてどうしようもなかった。恐怖が全身に回って死んでしまいそうだった。
 ヨハンはガッチャを妻だと言った。
 ジェリーは龍亞と龍可を、化物の腹から生まれた危険生物だと言った。
 全部嘘だ。そうに決まっている。悪意にまみれた冗談に違いない。
「認めない。だって、化物の子は。化物の子は、化物じゃない……!」
 龍可は逃げ出した。
 雨音に混じって、名前を呼ぶ龍亞とヨハンの声が聞こえた気がした。


 シティの開発途中に放棄された建物群の一角、龍可は廃屋のトタン屋根の下で、明かりの消えた自販機にもたれ掛かって座り込んでいた。泣いていたように思うが、冷えきっていて、感覚もない。よく分からなかった。
 追ってきてくれたのは兄の龍亞ではなかった。父親のヨハンでもなかった。
 泥まみれの革靴が、膝を抱えてうずくまっている龍可の視界に映った。見覚えがある。昨晩裸足でペントハウスを飛び出したガッチャが、今朝マーサハウスで借りた靴だ。
「来ないで」
 純粋で無垢で、無条件に愛してくれる怪物を、確かに龍可は少し前まで大好きだった。
 今は拒絶以外の感情が湧いて来ない。
「あぁー……」
 空気が漏れるような意志のないうめき声を、聞きたくなかった。「来ないで」と繰り返す。
「私は化物じゃない。人間の子。あなたの子供じゃない」
「あぁ、あうぅ……」
「あなたがママなんて嫌。絶対に嫌! あなたみたいになりたくない!!」
 肉体を持った精霊を家族だと言えたのは、血の繋がりが無かったからだろう。自分と関わりのないこの怪物が可哀想だった。生まれてから十五年間、とても遠い所にいて、もう顔も思い出せない母親が、研究施設で作り出された人造の精霊だなんて信じたくなかった。
 二目と見られない醜い竜の身体を持ち、言葉も話せず、自由を奪われたこの哀れな怪物と同じものになりたくなかった。ヨハンの気まぐれで生まれた実験動物にはなりたくなかった。龍亞さえいれば良いとずっと自分に言い聞かせ続けてきても、両親に愛された普通の子供でいたいという夢は捨てきれなかった。
 化物は人間の世界には受け入れられない。異形の力を持った怪物は、やがて正義の味方を気取った人間に倒されてしまう。そんな末路は耐えられない。ただの人間の女の子でいたい。
 目を閉じて耳を塞いだ龍可の頭を、まるで人のような形の繊細な指が撫でた。冷えた身体を抱き締められた。  ガッチャは優しい性質をしていたから、ただ温めてやろうとしたのだろう。今の龍可にはそれすら耐えられなかった。
「やめて! 触らないで!」
 力任せに振り解かれて、ガッチャは途方に暮れた顔になった。どうしたら良いのか分からない様子だ。やがて、悪意に鈍いその人でもさすがに理解した様子で、静かに立ち上がる。
 ようやく、龍可に受け入れてはもらえないことを悟ったのだ。
「龍可! ガッチャ!」
 水溜まりを踏み、飛沫を跳ね散らかして、兄の龍亞が追い付いてきた。去ろうとするガッチャを掴まえて、その棄てられた大きな子供の顔を見上げる。
「どこ行くんだよ。お前、帰る所なんか無いだろ? ここにいなよ。お前がママだなんて、オレにはまだ良く分からないけど。だってオレにはガッチャみたいな羽根も眼も無いからさ。あったらカッコいいと思うけど――
「龍亞、やめて。その人に構わないで」
「龍可」
 龍亞を押し退けて、二人の間に割って入った。龍亞は困った顔で龍可とガッチャを見比べて、結局龍可の手を握ってくれた。いつも兄は龍可の味方をしてくれる。
「二度と私達の前に現れないで」
 その人を、龍亞のように見上げる事はできなかった。純粋な赤ん坊の目を見ることになる。自分が世界で一番薄汚れた生き物に堕ちてしまう気がする。『ママになってあげる』、『守ってあげる』、『ここが今日からあなたの家』、『ずっと一緒だからね』―― 無垢な精霊に嘘を吐き、約束を破る人間は、果たしてジェリーとどちらがましなのだろう。
 それでも世界中から嫌われ、蔑まれる化物になるのは嫌だった。
「私達のママは人間。きっと……死んじゃった。もういない!」
 龍可は俯いたままガッチャに宣告した。雨は止まない。汚れた革靴が泥を踏み付け、粘ついた音を立てた。
「あ、ガッチャ!」
 龍亞が心配そうに叫んだ。釣られるようにして視線を上げると、力なく肩を落として闇の中へ消えていく後姿が見えた。
 まるで世界からいなくなろうとしているような、寂しい背中だった。

 * * * * *

 セキュリティの制服姿の男が、生徒を傷付け誘拐まがいの事を仕出かして逃走した旨を伝えると、ネオ童実野校の校長は、すぐに知り合いの捜査官にリストの照会を頼むと引き受けてくれた。
『<ジェリー・ビーンズマン>と名乗ったんですな? その男は』
「はい。龍亞くんに聞きました。本物のセキュリティだという確証はありませんが、本物だったら、少々困ったことになりますね」
『また報道記者が山ほど詰め掛けてきそうじゃな。天上院先生、貴女も充分お気を付けて』
「ええ、頼りになるボディ・ガードがいますから」
 通信を切ってから、これは皮肉だろうかと明日香は考えた。万丈目と翔は、ソファの上で毛布を被って震えている。『頼りになるボディ・ガード』は、雨に打たれて身体を冷やしたらしい。
「十代とは、誰だったかな。どこかで名前を聞いたような気もするんだが、思い出そうとすると頭が痛くなってくる」
 万丈目が、ホットミルクの入ったマグカップを吹いて冷ましながら呟いた。隣で翔も頷きながら、ミルクの中へ蜂蜜の瓶を傾けている。
「誰だっけ。アカデミアは人数が多かったからね。明日香さんの友達なら女の子でしょ。たぶん。お兄さんは……知らないんだよね、ごめん」
「ああ」
 亮はシンクの前に立ち、いつにも増してそっけない返事をしながら、ミルクを温めた鍋を洗っている。
 丸藤邸は男二人の兄弟が暮らすには少々広い。所有している会場に寝泊まりをする事も多い兄弟が帰る事は少なかった。客を迎えるのは久し振りだ。
 亮の脳裏に、ふと美しく成長した後輩の姿が浮かんだ。『美しい』という言葉が何よりも悪口になる人間を他に知らない。皮肉な気持ちになる。考え事をしていると、横からエプロンを引かれた。
 どんぐりのような丸い目が亮を見上げていた。ひととき、かつて素朴だった思い出の中の少年と重なる。しかしそれは過去の幻影だ。
「えーと、ヘルカイザー」
 龍亞という名前の少年だった。歳は十五になるという。初めて出会った時の彼の母親と、偶然にも同じ年齢だった。
「どうした」
 昔、その人にしたように頭を撫でてやると、龍亞は物怖じしない様子で、「機械のことって分かる?」と言い出した。
「龍可は、あ、妹ね。もう寝ちゃったんだ。ガッチャの事を考えたくないんだって。だから龍可が起きてる間は何となく言い出せなかったんだけど、これ、ガッチャのヘッドホンに入ってた。メモリーカードだよね? 昔の」
 龍亞がポケットから、旧式の記録媒体を取り出した。
「拾って持ってたんだけど、どうやって再生すればいいか分からないんだ」
「翔。お前は機械に詳しいだろう」
「あ、うん」
 翔がソファから身体を起こして、部屋の隅に押しやられている段ボールから、再生装置を引っ張り出してきた。龍亞のメモリーカードを挿入し、スピーカーに繋げている。
「随分旧いものだね。音なんかは飛んじゃってるかもしれないけど、一応聞けるはずだよ」
 翔が再生ボタンを押すと、音声データを読み込んで、装置はゆるやかに緑色のランプを灯した。ノイズが零れる。壊れているのかもしれない。
 しばらく経って、ある一点を境にして雑音が途切れた。
『あー。あー?』
 意志のない空洞のような声が再生される。耳慣れたものだった。あの少年の声だ。
「ガッチャだ」
 龍亞が言った。過去のその人は、どこか疑わしそうに続けた。
『あー、ヨハン? 届いてっかな……録音ってこのボタンでいいのか?』
「へ?」
 龍亞の目が丸く見開かれた。
 まるでその声が、意志を持って紡がれることが意外な様子だ。その声が、まさか<ヨハン>の名前を呼ぶとは思わなかったという様子だ。メモリーカードの中のその人の声は、驚いている龍亞にお構い無しに、ノイズを引き摺りながらもすべらかに流れていく。
『何だかさっきまでずっと一緒で変な感じだけど』
「ガッチャ、喋ってんの?」
『こいつを聞いてるお前のそばにまともなオレはいないだろう。だから、久し振り。ってことになるのかな?』
 少しの間、音が途切れる。沈黙の中に、照れ臭そうに頬を掻くその人の姿が見えたような気がした。
 明日香の長い髪が揺れた。気が付くと龍亞の肩に後ろから手を置いて、スピーカーを真剣な顔で覗き込んでいる。
「翔くん。音量、上げられる?」
「え? あ、うん」
 翔がボリュームを弄ると、音声は先程よりも少しだけ聞き取りやすくなった。
『最近昔の夢ばかり見るんだ。オレが馬鹿なガキでさ、お前もオレよりは賢いけど、能天気な子供だった頃の夢さ。出会ったばかりの頃のアカデミアの夢だ。オレはオレじゃなくなる前に、お前の手で終わらせて欲しいって思った事もあったんだけど―― やっぱり、綺麗なお前の手を汚すことはできそうにない』
 大人びていて落ち着いた口調だった。まるで老人がかつての栄光を懐かしむように、思い出への隠しようのない愛情を孕んでいる。
『えーと、龍亞、龍可。ヨハンが守ってくれてるだろうから、未来のお前達ももちろんそこにいるよな。二人の父さんはちょっとカッコつけ過ぎて、自分の事なんてぜんっぜん考えねぇ野郎だからさ……そのせいでオレがどれだけ、何度、心配させられたことか! だから……父さんの事を頼む。無理させないでやってくれ。家族で仲良くな。……できれば』
 苦しげに声が途切れる。笑ったのかもしれない。あの何もかもがちぐはぐな少年は、ひどい天邪鬼でもあった。苦しい時に笑い、嬉しい時に泣く。
『できればいつか、母さんもその中に帰ってきたいよ。でもそればっかりはもうダメなんだ。そばにいてもやれねぇダメな母さんでさ、ごめんな。元気でいろよ。デュエルを楽しんでくれ。友達を大事にな』
 ノイズが再びざわめき始める。
『じゃあな。ヨハン、龍亞、龍可。オレ家族と過ごした時間が、生まれてから今まででいっちばん楽しかったぜ。オレに家族をくれてありがとう。ほんとに、ありがとう。……さよなら。大好きだ。あいしてる』
 甲高い耳鳴りのような音が鳴り、傍で誰かが小声で囁いたようだった。何を言ったのかは上手く聞き取れない。『うん』とその人が頷いた。
『サンキュ、空野。もういい』
 唐突に、引き千切られるようにして音声が途切れた。
 遺言のようだった。
 いや、遺言なのだろう。あの少年はもう世界のどこにもいないのだ。ただ空虚な亡骸だけが、まだ世界をさまよっているというだけの事なのかもしれない。もう何年間も、そうだったのかもしれない。
「ど、どうしたの?」
 龍亞が戸惑った声を上げた。明日香も驚いたようだ。
「万丈目くん」
「え? あ、いや。……なんだ、これは」
 毛布に包まって、ぼんやりと音声データに耳を澄ませていた万丈目が、龍亞と明日香に覗き込まれてようやく気が付いたという顔になった。泣いていた。当人も気付かないうちに、冷えきった頬を伝って涙が流れていた。
「わけが、わからんがっ、何だか無性に腹が立って、腹が立って、腹が立って、だなぁ……!」
「だ、大丈夫? 万丈目くん」
 翔が困惑顔で差し出したティッシュ箱をひったくるように奪って、不器用に顔を拭っている。あの日もこんなふうに、ぐしゃぐしゃに歪んだ泣き顔を見せていたのかもしれないと、ふと思った。
「きっと疲れてるんだよ。えっとこれは、龍亞くんのお母さんの遺言になるのかな。ごめんね。何の関係もないボクらが聞いちゃって。辛いだろうに」
 何も分からず、翔が龍亞を気遣っている。龍亞が頭を振った。
「……わかんない。だって、ガッチャはまだ生きてるし。ただ、ちゃんと喋れてて、普通の人間みたいだなって、そこはびっくりしてる。どうしてあんなふうになっちゃったのかな?」
「お前達を救うためさ」
 龍亞が首を巡らせた。
「パパ」
 いつのまにか、ヨハンがくたびれた顔で玄関に立っていた。その後ろには、相変わらず面倒そうな顔をしたエドが立っている。醒めた目をしていたが、龍亞を見るとにっこりと人好きのする顔で笑った。彼は子供の前ではどんな時でも愛想がいい。
 ただ、片方の腕がまだしっかりとヨハンの襟に掛かっていた。これでは逃げ出しようもなかっただろう。呼び付ける相手は我ながら良い人選だったと亮は考えた。
「龍亞、お前と龍可が生まれる前の話だ。人間だったあいつは、傷付いた精霊を助ける為にその身を差し出した。融合する事によって、世界と迷える魂を救ったんだ。精霊でも人間でもない、世界でたったひとりきりの身体になっても後悔はしなかった。あいつはヒーローなんだから。泣いている奴を助けることにためらいなんて無かったんだ」
 ヨハンは溜息を吐いて、靴を脱ぎ、テーブルの上に錠剤の入ったシートの束を置いた。
「あ、オレ達の飲んでる薬」
 龍亞が身を乗り出す。
「そう。お前達が大人になるまでは、こいつを飲まなければ命に関わる。とても貴重なものなんだ。金を積めば手に入るような代物じゃない。龍亞と龍可の命と引き換えに、あいつは喜んで実験体に志願したよ。俺に二人を任せて。だけど約束なんて守られなかった。あいつら、精霊の血を引く子供達まで観察対象にしたんだ。俺が妙な気を起こさないように、子供達に会わせないようにした。双子に接触すれば母親をもっとひどい実験に使うって言ってさ。もしも連れて逃げれば、今度は子供達がどうなるか分からない」
 長年押し込めていた澱が暴発するような感じだった。疲れきったようにソファに沈んで、そうやって一気に吐き出した。澄ましているエドを見遣ると、何気ない顔つきで、執拗に破壊された機材をテーブルの上に放り出す。
「こいつ、盗聴機を付けられていた。ざまあないな。ネクタイピンだ。携帯電話にも。眼鏡は発信機だ。この分じゃ家捜しをしたらもっと面白い事になりそうだ」
「面白くない! エドはプロ・デュエリストだろ? なんでそんなスパイみたいな真似が得意なんだよ」
「ダークヒーローなんだよ僕は。それにしてもその遊城夫人は、ヨハン、お前のような情けない男にはもったいない女性だな。命を投げ出すなんて、並の覚悟じゃできない」
 明日香が弾かれたように顔を上げた。
「変よ。あいつよ? エドまで忘れてしまったの?」
「どうしてみんな忘れる事なんてできるんだ。俺達のヒーローなのに」
 ヨハンが顔を顰めて、抑えた声を吐き出した。そこには人間への不信が混じっている。この能天気な博愛主義者の信頼すら失ってしまった人類が、本当にどうしようもないものに思えた。

 * * * * *

 光輪を背負い、翼を広げる怪鳥めいた姿態の竜だった。全身が金属めいた光沢を持ち、銀に煌いている。腕に白髪の竜を掴んでいた。
「傷を付けないでくれよ、ホルスの黒炎竜。先輩の効果でもれなくお前が破壊されてしまうからな」
 ホルスは恭しい仕草で、主の足元に哀れな獲物を捧げた。それは、かつて遊城十代と呼ばれたヒーローの抜け殻だ。その人はデュエル・アカデミア本校において、空野大悟の一年年上の先輩だった。気高く咲き誇る孤高の花だったのだ。今はもう見る影もない。
「貴方のお家はここじゃありません。棄てられたんでしょう? 行く所が無いんでしょう? この世界に貴方の居場所なんてどこにもありませんよ」
 その人は絶望していた。頬は涙と泥で汚れている。虹彩異色症の双眸は虚ろで、焦点がぼやけていた。犬のように首輪と鎖を付けてやっても、ぴくりとも動かない。
 本当に従順な獣になってしまったものだ。昔見た刃物の切っ先のような鋭さは失われていた。張りぼてのようだが、それでもその人はまだ美しかった。
「さ、一緒に行きましょう。居場所は無くても、貴方を求めるものはいます」
 手を伸べても、まだ諦めた顔で項垂れている。ただ、飼主に棄てられて死を待つだけの動物だ。そんな顔を見たくはなかったと思う。
 白衣のポケットから、携帯しているプラスチックのケースを取り出し、注射針を準備する。無抵抗のその人の腕に突き刺した。
 力を失って崩れ落ちる身体を抱き上げると、やはり羽根のように軽かった。

 * * * * *

 眠っている龍可の顔を一目見るなり、ヨハンはまたすぐに丸藤邸を出て行くようだった。ホルダーのカードをチェックして、ブーツに足を突っ込んでいる。いつも掛けていた紺色の縁の眼鏡は、先刻エドに徹底的に破壊されていた。眼鏡を掛けた父親の顔に慣れている龍亞には、裸眼のヨハンはなんだか別の人のように見えた。傍へ寄ると、背中を抱いてくれる。
「お前達に辛い思いばかりさせたのは分かってる。すまない。全て俺の責任だ。母さんは悪くない。あいつも俺のせいで、未来を台無しにされた犠牲者だ」
 ヨハンが出ていく前に、大分言い難いが、尋ねておかなければならない事がある。この父親はこれまで一度出掛けると、本当に長い間家に帰って来なかった。それが身に染み付いていて、『今絶対に聞いておかなければならない』という焦燥感があったのだ。
「パパ。オレ達は、生まれない方が良かったのかな」
 ヨハンが驚いたように、透き通ったエメラルド色の目を見開いた。
「馬鹿な。お前達がいなければ、俺はもうとっくに人間を見限っていたと思う」
「ママは? ママはあんなふうになって、オレ達を産んだことを後悔してるのかな」
「少しの間だけど、あいつといて、そんな素振りを見せたか?」
「……ううん。言葉は話せなかったけどさ……せいいっぱい、大事にしてくれたと思う」
 ヨハンの手が、龍亞の頭を強く撫でる。
「後悔なんか、してるわけない」
 ヨハンが力強く大人の声で言った。
 安心する。それでも、どうしても心配な事があって、胸の中がずっともやもやしていた。
「うん。オレはカッコいいと思うよ。でも、龍可は」
「ああ。そうだな」
「龍可は怖いんだよ。自分も怪物になっちゃうんじゃないかって。オレは、龍可が怪物になっちゃっても今と変わらず守ってあげるけど」
「お前は大人になったらきっとすごくいい男になるぜ。龍可を守ってやっていてくれ。俺はあいつを迎えに行くから」
 ヨハンが立ち上がった。龍亞はふと気になって、普通の両親を持った普通の子供のような事を尋ねてみた。
「パパって、ママが好きなの?」
「俺の半分みたいなものだ。俺の中の良い部分と悪い部分を分けたら、良い部分があいつなんだ。世界で一番大好きな人だ。ずっと昔から、あいつを守るのは俺の役目だった」
「オレも。オレの半分で、良い部分が龍可なんだって思ってた。なんか似てるね。オレとパパって」
「もちろんさ。親子だからな」
 ヨハンが初めて笑った。龍可に良く似た笑い方だと思った。
「大丈夫。すぐに帰るよ。必ずだ。嘘は吐かない」
 龍亞を安心させるように頷いて、夜の中へ消えて行く。ヨハンの姿が見えなくなった頃、龍亞は聞きそびれた質問を思い出して、「あ」と声を上げた。
「ママの名前、聞くの忘れてた」
 母親の名前を知らないというのは、かなり普通じゃないだろう。いくらなんでも<ガッチャ>が本名の訳がない。ヨハンが戻ったら、まず一番に訊こうと思った。



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−「P.W.E」…<
arcen>安住裕吏 09.12.08-10 −