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ダイダロス・ブリッジに近い開発途中のビルの屋上で、空野が退屈そうにして、夜空を突き刺す鉄骨を見上げていた。相変わらずのサングラス姿だ。視界に不自由しているようには見えなかったから、夜間用のサングラスを掛けているのだろう。糊のきいたシャツも、きちんと結ばれた青いネクタイも、その几帳面な性格を反映している。かつての彼の先輩のように服を着崩したりはしない。海馬コーポレーション社員の模範のような恰好だった。
ヨハンが螺旋階段を上りきったところで、空野はかじっていたポッキーの箱をジュラルミン・ケースの上に放って、まるでデュエルにおいて驚くべきコンボが決まった瞬間に立ち会ったような反応をくれた。
「すごいな! 博士には先輩の居場所が目を閉じていても分かるっていうの、あれ本当だったんですね。酔った十代先輩の妄想だと思ってました」
「生まれつきそういうふうに作られているからな。平均台の上を進むような感じだ」
「こんばんは、アンデルセン博士。今夜は冷えますね。僕の上着は取られてしまいまして」
空野が視線で示したのは、鉄骨にもたれてうずくまっている十代だった。意識は無いようだ。黒いジャケットを肩に掛けられている。
「少々寒いですが」
空野が右手に握った鎖を引き上げると、先に繋がっている赤い首輪が十代の柔らかい喉に食い込んだ。首が絞まって飛び起き、空気を求めて喘いでいる。虹彩異色症の双眸に涙が滲んでいた。
「やめろ!」
「決着をつけませんか、博士」
十代の腰を抱いて、空野が言った。異存があるはずがない。
ここへ来て、後戻りのできない分岐点に立っているという気がした。自分は今まで、右へ行っても左へ行ってもどちらかが振り切れる状況に立たされて、秤の中心でおろおろしていたのだと思った。
ヨハンにとっては妻も子供達もかけがえのない存在だ。失いたくない。どちらも守りたい。大切なものをどちらか一つだけ『選ぶ』なんて間違っている。それがヨハンが今まで保ち続けてきたスタンスだ。
これからもそうだろう。犠牲を許容できない。リアリストの空野は幼稚だと言って笑うかもしれない。十代はきっと笑わない。正義の味方が笑うはずがない。
双子の龍亞と龍可は、明日香に頼み込んで本校へ留学をさせれば、三年間はあの孤島で守られる。卒業を迎える頃には大人になっているはずだ。幼い所が目に付いてばかりだった無邪気な十代が、思慮深い大人に成長したように。
このまま一生理由を作られ続け、利用されて終わるのか。リスクが大きいが自由を得るか。選択の時だ。十代の身体と子供達の薬の事が心配だったが、昔の自分と十代なら既に答えは決まっている。
ならそれだ。子供達に手出しはさせない。ヨハンは十代を連れて世界中を飛び回る。どちらもやれるはずだ。
デュエル・ディスクを展開する。空野もサングラスを菓子箱の上に投げ捨てて、デッキをディスクに挿入した。
「俺が勝ったら、もう十代から奪うな」
「僕が勝ったら、博士はこれ以上先輩を貶めないで下さい」
奇妙な物言いをする。
「貶めているのはお前の方だろ? 何を企んでいようが俺が連れては行かせない。十代は俺の夢だ」
「おこがましい限りです。十代先輩はそんな実体の無い蜃気楼じゃない」
空野の目付きをどこかで見た事がある。記憶を辿ると、過去に同じ目をした人間が幾人かいたのだと思い出した。あの目だ。神を崇める宗教者の目だ。絶対の正義を信じる人間の目だ。
気に食わないが、ヨハン自身も他人が見れば同じ目をしているのだろう。
「―― っぐ……! あ、あー……!」
空野の腕の中で、十代が苦しげに顔を歪めて暴れ出した。下腹を両腕で抱え込んで、身体を二つに折り曲げている。思い当たる症状がひとつあった。
「空野! お前まさか十代にデュエル・エナジーを与えたのか!?」
ヨハンは叫んだ。空野は、慣れた手つきでゴム製の手袋を装着し、十代の両腕を一纏めにして縛り上げている。
「母親とは、精子を受け渡して終わる父親よりも随分と多くのものを子に与えると思ったことはありませんか? 体内で長い間育み、激痛の中で我が子を産んで、それでもまだ身体の中で子供に分け与える母乳を作っている。身を削り続けているんですよ。先輩は、今も。無責任な博士と違って」
「何故今こんな場所で! もしも拒絶反応が出たら、」
ヨハンは蒼白になって言葉を切った。拒絶反応が出たら、ヨハンは十代を研究所へ連れ帰らざるを得ない。見殺しにする事ができるはずがない。空野はそれを知っている。
「親竜は、第二次性徴を迎えるまでは自身でデュエル・エナジーを生成できない仔竜達の為に、吸収したエナジーを、体内で仔竜の身体に馴染むように固体状に造り変える。いやあ、面白い生態だ。ただし親竜が人間界で自然に仔竜の<餌>を生み出そうとするなら、まあ大変な事になるでしょう。仔竜が成体に育つまでに、数万の人間の尊い犠牲が必要だという予測データもある位です。この世界で生きられる生物じゃない。ただ先輩と博士は、人の命を糧に育つ怪物だとしても、可愛い双子を見殺しにする事ができなかった。膨大な量のデュエル・エナジーがどうしても必要だった。だから博士、貴方は<人と精霊の融合体>、稀少な研究対象として十代先輩の身体を売った。―― 知ってのとおり、現在生産されているデュエル・ディスクには、使用するごとにデュエリストからデュエル・エナジーを収集する装置が組み込まれています。十代先輩の献身への見返りとしてね。誰にも気付かれないように、ほんの微量ずつ。最近ではエナジーの収集が第一目的の<デビルバスター>というゲームもできました。手前味噌です、尊敬する先輩の為に僕が作りました。言わば世界中が牧場だ。先輩と可愛い双子の為の人間牧場」
十代の泥塗れのシャツを捲り上げ、ジーンズを下着ごと膝まで下げる。もどかしそうに擦り合わされる太腿の間に、ゴムに覆われた指が入り込むと、雌雄同体の肢体が悶えた。
「んぁあっ、あぁ、あああっ……!」
痛みと息苦しさと恍惚に、十代の頬が染まっていた。額に浮いた汗が、身を捩った拍子に弾ける。ちぐはぐ色の双眸が、焦点をぼかしながらも、必死にヨハンを追っていた。
「十代っ……」
「あぁああっ! うう、うぐっ、あううう……!」
「十代!!」
陰嚢の縁が裂けて、女性器が捲れ上がる。骨を思わせる白い塊が、膣から押し出されるようにして露出した。
「博士も誰よりも良くご存知ですよね。集められた高濃度のデュエル・エナジーを与えると、先輩の身体は子宮を使ってエナジーの結晶を精製する。雌鶏が無精卵を産むように。この、金平糖みたいな無精卵の核が――」
永遠に孵化することのない卵を手で受けて、脱力した十代を抱き止める。
「あうう……ふ、あ、あっ……」
「双子の怪物の命を存えさせる、<ライトイレイザー>だ。デュエル・エナジーの注入に人間の半身が耐えられずに頭が飛んでしまうという悲劇的な問題点もありますけど、これはこれで良かったんですよ。本物の獣なら、獣みたいに扱われて人間としての自尊心が傷付く事もない」
「んっ……んんーっ!」
卵を産み落とした十代の右胸はひどく張っていて、絞られると勢い良く母乳が吹き出した。剥き出しのコンクリートの上に、白い水溜まりを作っていく。
「お疲れ様です、先輩。良く頑張りましたね」
空野がいつもの邪気のない微笑を浮かべながら、ジュラルミン・ケースを開けて新品のタオルを出し、未だに痙攣を続けている、汚れた十代の裸身を拭いてやっている。
ヨハンの中に、怒りは湧いていたのだろうが、良く分からなかった。目の前で最愛の妻を辱められたのだ。途方もない殺意が訪れて、全ての感情を覆い隠していた。
「この野郎。絶対……絶対に、赦さねぇ。ブッ殺してやる」
「わからない人だなぁ! いつも博士がやっている、ただの作業じゃないですか。素が出てますよ。いいんですか、十代先輩の前でそんな顔をして」
空野がどこか楽しそうに言った。目論みが成功した者の、してやったりという表情だ。ヨハンの悪意を十代の前に並べ立てる事が、この男にとっては、とても重要な意味を持っているようだった。
「<トパーズ・タイガー>!」
呼び掛けに応じて一角の白虎がカードから現れた。ヨハンの家族の一匹だ。人間世界において実体化している証に、四肢は固く地面を踏み締めている。
自我を無くした十代は上手く力を抑える事ができない。虹彩異色症の悪魔の瞳に映る精霊達を、片っ端から実体化させてしまう。
「力を貸すぜヨハン!」
トパーズの雄叫びが空気を震わせた。
「頼む。奴から十代を取り戻せ!」
空野がデッキからカードをドローするのが見えた。優雅に右腕を振り上げると、彼のフェイバリット・カードもまた、十代の存在によって実体化する。鋼鉄のブロイラーのような姿をした<ホルスの黒炎竜>の幼鳥が、魔法カードの力を得て<レベルアップ>した。雛から成鳥へ。
「怒りに任せた低レベルモンスターの突撃なんて、僕のホルスの足元にも及びませんよ。博士は感情表現が素直だ。龍亞くんはきっと父親似なんですね」
背中がいやにざわつく感じがした。
「……龍亞と話したのか?」
「実は今、僕の仕事を少々手伝ってもらってます」
確か空野は今、<テーブルトーク・ロール・プレイング・ゲーム>と<ソリッド・ビジョン>を融合させたような、<デビルバスター>というゲームの企画と製作をやっていたはずだ。デュエル・エナジーが効率良く収集できる画期的なシステムなのだと、プレゼンテーションで聴いた憶えがある。得体の知れないゲームに息子の龍亞が巻き込まれているのだと考えるとぞっとした。
「あの子を利用してどうするつもりだ? 俺と妻の命と引き換えに、二人は助けてくれるんじゃなかったのか!? それがお前達の正義か!」
光輪を背負った銀色の怪鳥が、トパーズへ滑空する。空野がホルスを幼態のまま扱う所はまず見た事が無かったから、レベル六以上の形態で攻めてくるのは読めていた。残念ながら宝玉獣達が真正面から遣り合って勝てる相手ではない。
足元に伏せていた罠を発動する。<激流葬>。その場に存在する全てのモンスターを破壊するカードだ。空野のホルスは破壊されるが、ヨハンの<トパーズ・タイガー>は宝玉獣の特性で結晶となって傍に残る。
「俺が怒りで我を忘れる事を期待したんだろう。残念だったな。これ以上ホルスのレベルアップはさせない」
傍らの、原石となった家族の表面を手のひらで撫でる。
「すまない、トパーズ」
「なんの!」
水流に押し流されて砕けたホルスが、だが再び宙空で再構成されていく。巨体の中心に札のように<リビングデッドの呼び声>の魔法カードが貼り付いていた。空野が床にカードを二枚伏せている。
「らしくないですね。博士が自らモンスターを破壊して、僕の可能性を奪うような真似をするなんて」
「お前をリスペクトする気は全く無いし、楽しいデュエルをするつもりもねぇんだよ」
「充分怒りで我を忘れているように見えますよ。なるほど、正義ですか。博士の正義の定義とはどんなものですか?」
問いを問いで返す声は、憎悪が増す程にいつも通りだった。デッキからカードを引く。<宝玉の樹>だ。発動すると、コンクリートを突き破って、美しい燐光を撒きながら宝石でできた小さな木が生えてきた。
「来てくれ、<サファイア・ペガサス>」
<サファイア・ペガサス>が、<アンバー・マンモス>の原石を引き連れて姿を現した。<宝玉の樹>に琥珀色の実が一つなる。
この宝玉獣達のリーダー格は、辱めを受けて、今は鉄柱にもたれかかってぐったりと伏せっている十代を見て痛ましそうに嘶き、ヨハンの敵を怒りの視線で射た。
「我々の家族への惨い仕打ちを、断じて赦す訳にはいかない!」
ヨハンも頷き、魔法カードを続けて発動する。ホルスはレベルアップを繰り返して完全体になると、魔法を封じる効果を手に入れる。そうなる前に決着をつけてしまいたかった。
「<手札断殺>だ。手札を二枚墓地へ送り、そして二枚ドローする。お前もさっさと墓地へ送ってドローしろ」
「まいったなぁ。どれにしよう」
「ぐずぐずするな」
空野が肩を竦めてヨハンに従う。渋々と言った顔つきだが、彼は子供向けの販促イベントでもそんな顔をしていた。サービス精神に溢れた男なのだ。ヨハンの宝玉獣達に自慢のホルスが敗北する未来の事は、欠片も考えていないはずだ。ヨハンも同じく、自身の敗北の未来が全く見えない。
<宝玉の導き>が、人間世界に家族をまた一体呼び出した。実を付けた<宝玉の樹>を解き放つ。結晶体として現れた宝玉獣達が、それぞれ呼応し合いながら眩く輝いた。
エースがこの世界に現れるための条件が全て揃ったのだ。
「正義とは、力を振りかざすことじゃない」
ヨハンは、静かにそう応えた。
「敵を倒すことじゃない。たとえ傷付いたってどんな障害があったって、かけがえのないひとを守り抜くことが、俺の正義だ」
「博士。貴方は何も分かっていない。だからこそ十代先輩は貴方を、」
「何だよ。お前が十代の名を気安く呼ぶんじゃねぇよ……」
「―― ええ、止めておきましょう。貴方には何を言っても無駄なようだ」
宝玉の光が収束されていく。白銀の体躯をしならせて、究極宝玉神が光臨した。<レインボー・ドラゴン>。ヨハンのエースにして、十代との架け橋となるモンスター。
「攻撃力ばかり高くて守備力ゼロ。まるで貴方みたいですね、博士」
空野が言った。ヨハンは取り合わず、脱力した身体で、虚ろに床に視線を投げ掛けている十代に向かって叫んだ。
「十代! もうちょっと待っててくれよ。すぐにこいつをぶちのめして、お前を助ける!」
「よ……は……」
その人が緩慢に顔を上げる。<レインボー・ドラゴン>が放つ虹色の光に照らされた顔は、ひどく整っていて美しい。それなのに、どこまでも純粋な双眸だった。
「よはん……よは、よはんっ……!」
膝をつき、ヨハンへ向かって手を伸ばす。あどけない赤ん坊の心がそこにあった。
少しでもヨハンから離れると、今の十代は不安そうな顔をする。泣く事もしょっちゅうだ。全てを失ってしまったあの日の事を思い出す。『どこにもいかないで』と十代は言った。
「……ああ。ここにいるよ。愛してる」
ヨハンは頷いて、十代に笑い掛けた。
「龍亞がお前をカッコいいってさ。そんで、心配してた。自分達を産んだことを、お前が後悔してるんじゃないかって」
「うう……あううう……!」
十代が、そんな馬鹿な事があるはずがないというふうに、激しく頭を振った。その仕草が何よりも愛しい人らしいと思った。
「だよな〜? 後悔なんてするはずがない。お前の口から聞かせてやってくれ。すぐに家族で暮らせる日が来るさ。お前が無くしたものもきっと取り戻してみせる」
空野へ向き直り、ヨハンは宣言した。
「返してもらうぜ。俺の十代」
「この人は、お前の所有物なんかじゃない」
空野が待ち構えていたように、足下に伏せていたカードを開いた。罠だ。張られていた<セキュリティー・ボール>が、<レインボー・ドラゴン>の攻守を強制的に入れ換えてしまう。空野がホルスを使う事をヨハンが知っていたように、相手もまたヨハンの<レインボー・ドラゴン>が召喚される事を警戒し、研究をしていた。
「お前のせいで壊れてしまったこの人の哀しみなんて、これっぽっちも知りもしないくせに。この人がどんなにお前の幼稚な正義感を怖がっていたか、その事を知ろうともしなかったくせに。自分の理想を押し付けてばかりで、この人の闇を認めないお前なんかに、僕は負けたくない。僕達の憧れを穢しておいて、どうして……どうしてお前が選ばれたのかが、僕には全然分からない!」
血を吐くような叫びだった。少なくともヨハンは、この胡散臭い紳士然とした空野のそんな声を初めて聞いた。
<レインボー・ドラゴン>は、喩えるなら絶対的な剣だ。その正義で悪を裁く為に、全ての力を切っ先に変えた。空野が嘲ったように皮膚はひどく柔らかく脆い。<ホルスの黒炎竜>の爪が、守りに入った<レインボー・ドラゴン>を易々と引き裂いた。強敵を倒して経験値を得たホルスが、ここで完全体へと成長する。
こうなると魔法は全て封じられる。それは、銀色の竜だった。鳥のような印象は薄くなり、怪獣めいた姿で黒炎の吐息を吹き出している。
<レインボー・ドラゴン>を呼び戻そうと開いた<虹の引力>も、繋がった<王宮のお触れ>に破壊されてしまう。罠も駄目だ。昔十代がこの忌々しいロック・デッキを『中々面白い』と評していた事を思い出した。
「几帳面で丁寧なデュエルだ。準備を万全に整えて、イレギュラーを赦さない。料理番組みたいだぜ。相手の可能性を叩き潰してから攻めるやり方だ。俺とは正反対の姿勢だが」
「……お褒めに預かり、光栄です」
「でも十代には勝てなかったんだろ?」
空野が一瞬鼻白んだ。
「……ええ。一度も勝てませんでした」
空野は、いつのまにか常の彼に戻っていた。ヨハンの結晶化した家族達を、軽蔑するように見つめている。
「見守ってくれているだけの家族は沢山いるんですね。博士が傷付いても見ているだけの家族が」
完全体となったホルスの黒炎竜が、正面からヨハンを睨み付けていた。ヨハンの家族達はほぼ出払ってしまっている。彼らを再び呼ぶための魔法も罠も使えない。
空野は勝利を確信しただろう。宝玉獣を一掃し、ヨハンへのダイレクト・アタックが決まる未来を見たかもしれない。
「そろそろ、諦めてくれましたか?」
「まさか」
ヨハンは、レベル1のモンスターを召喚した。宝玉獣ではない。攻守はゼロだ。
「攻撃だ。<ストラグル・クロウ>!」
蝙蝠のような羽根を背中に生やした哀れなミイラ男が、自滅覚悟で完全体のホルスに特攻していく。
「そんな無力なモンスターで攻撃なんて、一体何を考えているのやら。自棄にでもなったんですか? 迎撃しろホルスよ―― <ブラック・メガフレイム>!!」
銀色の巨体の背に輝く紅の光輪が、一際眩く煌いた。くちばしから迸った闇色の炎が、ヨハンのモンスターを焼き尽くす。炎に肉体を焼かれながら、悪戯が成功した子供の気持ちを久し振りに思い出していた。
「へっへ、<グレイブ・スクワーマー>の効果発動!」
この星ひとつの悪魔族モンスターの効果はこうだ。戦闘によって破壊された時、その場にあるカードを一枚破壊する。壊すカードなど、初めから決まっている。
「<ホルスの黒炎竜 LV8>を破壊!」
墓場から蠢くものの腕が突き出し、ホルスを絡め取った。巨躯が沼に沈むようにして、闇の中へ引きずり込まれていく。空野は呆けていた。
「宝玉獣のヨハンが、宝玉獣以外のカードを使っていいんですか?」
「妻からの結婚記念さ。プレゼントに悪魔族デッキを贈られた。死人に口有り、だそうだ」
「……もっとましなデッキだったら良かったですね」
空野が神経質そうな仕草で頭を乱雑に掻いた。十代に目をやる。かつては彼の上司で、ことあるごとに突拍子も無い事を言い出して周りを困らせていた、精霊研究機関<NEX>における最高責任者の一人へ。
「博士、傷だらけになってもどんな障害があっても守ると貴方は言いました。―― 確かに障害はあった。貴方は文字通り『傷だらけに』なった。二目と見られない程にね。あの時、僕には誰だか分からなかった。だからあの人が『それ』に縋って泣き叫ぶ姿がなんだか滑稽にさえ見えたんです。あの人には分かった。僕にはどうしてなのかは分からないが、分かってしまった。貴方との距離がどんなに隔てられてしまったのか。もう想いを交し合うことはできないのだと。二度と触れることはできないのだと」
「何を言っている? それは、俺の記憶じゃないか」
知能と記憶を失って、二目と見られない姿になったその人に縋って泣き叫ぶ記憶は、ヨハンが抱えて生きてきたものだ。
何故か頭がひどく痛んだ。
空野が振り向いた。ひどく不憫そうな目だと思った。
「ヨハン・アンデルセン。貴方はここにはいない人間だ。人の力では到底引き戻し得ない深淵へ、消えていった。可愛い二人のお子さんと仲良くね。さて、その時そこには、貴方と子供達に、家族に置き去りにされた哀れなあの人がいた。あの人は……」
十代を弄んだ男には相応しくない、真摯で、純粋な尊敬に満ちた声だった。まるで宇宙でたった一人の神を崇拝しているようだった。
「十代先輩は貴方と双子を運命の神から取り戻そうとした。血塗られた道へ踏み出すことに一瞬の躊躇もしなかった。潔いまでに真っ直ぐに。僕は……そんなあの人に憧れていた」
「言ってる意味が分からない」
「そりゃそうですよ。そういうふうに、造られているんです。貴方は。分からないように、気付かないように。ただ優しいあの人の思い出だけを追い駆けるように……」
空野が笑った。見た目は年齢よりも随分若いくせに、年齢よりも随分と年老いた苦悩を孕んだ笑顔だった。哀しそうに、白髪の竜を見た。かつての上司の面影を探したのかもしれない。
「ただの抜け殻です、そこにあるものは。いつか先輩であっただけで、それ以上でも以下でもない。本当の十代先輩はもう僕達の手の届かないところまで走って行ってしまったんですよ。いつものように真っ直ぐに。あの人は人間を飛び越え、精霊を飛び越え、その先もその先も飛び越えて……行ってしまった」
空気が不穏に蠢き始めた。
明け方の空を覆い隠すようにして、ずんぐりとした黒い影が上空から舞い降りてくる。シングルローターの回転音が、腹の底まで重く響いた。ヘリだ。海馬コーポレーションのロゴが側面に入っている。
空野は素早かった。デュエルを途中で放棄し、十代を抱き上げ、ヘリが投げ下ろしたアルミ製の梯子に足を掛ける。
「十代! 返せ、この!」
「アンデルセン博士。貴方に先輩は救えない。僕にも救えない。おこがましい。誰も先輩には触れる事さえ赦されない。貴方は知らないでしょう。あの人の夢は――」
そんなものは空野が語らなくても知っている。精霊と人間の架け橋になることだ。十代とヨハンは、いつからか同じ夢を見ていた。愛する人と共に同じ未来を目指す事が嬉しくて仕方がなかった。
しかし空野が告げたのは、全く的外れも良い所の言葉だった。
「十代さんの夢は、世界を終わらせて、精霊と人間を根絶することですよ」
そんなものが真実のわけはない。十代への侮辱ですらあった。
「よはん……よはん、よはぁん、よはんん、よはんっ!」
「先輩、危ないですよ!」
空野の腕の中で十代が身を捩った。ちぐはぐ色の目は潤んでいて、大粒の涙を零していた。またヨハンから引き離されるかもしれないと心配しているのだろう。まるで迷子の子供が必死で親を呼んでいるようだった。呼び声に応えて、腕を大きく広げて叫ぶ。
「十代! 十代、来い!」
十代が、むずかる幼児のように空野の腕を振り解いて、上空から飛び降りた。剥き出しの鉄骨と洗いざらしのコンクリートでできた未完成のビルの屋上へ。薄明るく、仄かな青紫色をした空を落下しながら、夜明けの冷えた大気の中でベルベットの翼を広げ、ヨハンの胸に飛び込んでくる。翼ごと抱き止めると首に腕が回された。震えている。
「何を言われたって信じるものか。十代は……」
床に降ろして、改めて抱き締めた。ヨハンが成長を止めるよりも何年も先に時を停めてしまっていた、華奢で、冷たい身体だ。愛しい妻だ。
ヘリの影は徐々に小さくなり、やがて空に融けるようにして視界から消えた。
「十代は俺の夢だぜ。なぁ。俺の、奥さん?」
抱く腕の力を強くすると、その人はかぼそく、嬉しそうに、「よはん」とまた鳴いた。
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