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「またあ?」
 精霊研究機関<NEX>のラボへ定期検査に出掛ける双子に、ついでに頼み事をしたら、龍可が嫌そうな顔をした。まだ三歳の少女には不似合いなくらいに大人びたオレンジ色の瞳が、妖しくかちりと光っている。
 十代はわざと鈍感なふりをして、メモに短く連絡を書き付けた。『ヨハンへ。昼飯だ。三人分』。
「忘れ物をさ。ヨハンに弁当届けてやってくんねぇかな」
「パパ、わざと忘れて行ったんじゃない? ママ、おにぎりしか作れないんだから。それに、お店で買ったほうがおいしい」
「そう言われるとそうなんだけどな」
「パパも子供じゃないんだから、お弁当くらい買えるんじゃない?」
 右手を腰に当てて、ませたことを言う。娘に口で勝てたためしが無いのが、最近の十代の自慢のひとつになりつつあった。左隣から双子の兄の龍亞が庇ってくれる。
「オレね、ママのおにぎり好きだよ。仕事してるパパも。龍可がいらないならオレが食ってやる!」
「いらないとは言ってないでしょ!」
 また喧嘩を始める。この二人は仲が悪くて喧嘩をする訳じゃない。仲が良いからこそ喧嘩をする。そういう喧嘩の仕方もある。十代自身も、ヨハンとの長い付き合いの中で、いつの間にか馴染んでしまっている。
「まあまあ。いいか、龍可。外食ばっかじゃ栄養が偏っちまう」
 いくらかそれらしい事を言ってみたが、龍可に冷たい目を返された。
「お米と鮭だけ。これ以上栄養が偏った外食っていうの、見てみたいかも」
「確かに」
 納得して、一度は頷いてしまうが、「まあついでなんだし」と食い下がった。
「愛情弁当なんだぜ、龍可。今ならもれなく、今晩は二人の好きな物を作ってやるよ」
「無理しなくていいよママ」
 龍可はそっけない。この間十代が不注意で料理の教本を焦がしたことを、まだ忘れていないらしい。龍亞の方は、濃いグリーンの瞳を素直に輝かせた。
「エビフライ!」
「よし!」
「龍亞、あんまりママ、甘やかしちゃダメ」
 龍可が溜息をついた。
「どうせ炭みたいなものしか出てこないんだから」
 双子の子供達を乗せた車椅子が、すべらかに回転する。ダイニングテーブルの前で停まって、龍亞が取っ手付きのバスケットを膝に置いた。
「ママ、ハズレ有り?」
「有りだぜ」
「ちぇ。なんでかわかんないけど、いっつもオレだけハズレ引いちゃうんだよなぁ」
 バスケットの蓋を開けようとした龍亞の手を、龍可が叩いて落とす。
「龍亞、今食べたらダメ」
「分かってるよぉ」
 腰のところで一繋がりになった身体を持った双子だが、龍亞と龍可の性格は正反対だった。左側が龍亞で、右側が龍可だ。左半身が男性体で、右半身が女性体の母親の特徴を、そのまま受け継いでしまったかのようなシャム双生児だった。
「お前達、検査がヤだからって前みたいに逃げるなよ。気持ちは分かるけどさ」
「ママ、それ龍亞のせい。採血が怖いの」
「こ、怖くなんてないやい!」
「龍亞が逃げると、私まで逃げたみたいに言われる。心外なんだから」
「この車椅子が悪いんだよ! 急に途中で止まって、壊れちゃったんだ」
「はいはい、言い訳言い訳」
「ほんとなんだからなー!」
 仔犬のじゃれ合いのような遣り取りをする双子の肩を抱いて、笑った顔のまま、「わりぃな」と謝った。
「不便をさせちまってすまない。そのうちヨハンがきっとお前達を二人の身体にしてくれる。そしたら、自分の足で立って走れるようになるからな」
「なんで? オレは別に今のままでもいいのに。ママとおんなじだしね。な、龍可」
「龍亞がうるさいからイヤかも」
「オレは龍可と一緒にいられるからいいよ。いつもそばで守ってやれるからさ。ママ、ありがとう、いつも龍可と一緒の身体にしてくれて」
 龍亞が笑った。
 二人でひとつの肉体は不自由なものだろうが、龍亞と龍可の表情に影はない。自分達の身体と運命を嫌ってはいない。その事が十代にとっての救いでもあった。
「龍亞は大人になったらすっげーいい男になるよ。よし、行ってこい二人共!」
 幼い頬にキスをして、父親譲りのエメラルド色の髪を撫でてやると、機嫌を良くして龍亞は笑う。龍可は「また恰好つけてパパの真似しようとする」と恥ずかしそうに目を逸らす。正反対の反応が返って来る。
「えへへ。じゃ、行ってきまーす!」
「料理は期待してないから、家燃やさないでね」
「ああ、ヨハンによろしくな。本当に二人だけで構わないんだな?」
 いくら普通の人間の子供と比べて成長が異常に早くても、さすがに心配は拭いきれない。今の十代の心配性と子煩悩を見たら旧友たちはどんな顔をするのだろう。似合わないと笑うかもしれないし、呆れるかもしれない。
「平気平気! もう子供じゃないんだし!」
「前みたいにユベルに後をつけさせるのはやめてよね。信用ないんだから、もう」
 龍可が頬を膨らませた。
 龍可の何かにつけて斜めからものを見る癖は、自分を振り返るようで、思わず苦笑が漏れてしまう。玄関先まで見送って、エレベーターが降りて行くまで龍亞が手を振り続けるのに応えていた。
 それから、空っぽになった家の中へ戻って、自室の机の奥から<常備薬>の小瓶を引っ張り出した。中には仄かに発光する橙色の液体を閉じ込めたカプセルが詰まっている。この濃縮されたデュエル・エナジーは、十代にとっての排卵剤のようなものだ。一粒を摘んで飲み込むと、いつもの言いようのない感覚が訪れた。頭痛と高揚が混ざり合った奇妙な心地がする。
「あー……きくー……」
 ひどく目が回る。ベッドに寝転がって、気を紛らわせる為に近所のスーパーの電子広告を呼び出してみる。ぼんやりと目で追っていると、国際通信が入った。頭を上げる気力もない。だらしない恰好のまま回線を開くと、見慣れた後輩の姿が中空に映り込んだ。
『お疲れ様です、十代先輩。お休みのところすみません』
「空野か。いいって、ずーっとお休みなんだから。このまま主婦になんのオレ」
『先輩が家の中でおとなしくしていられるような人ですか』
 空野は笑うが、十代は冗談のつもりもない。永劫の生の中で、百年くらいは、こうして家族のいる家の中で静かに過ごしてもいいと半ば本気で思っていた。
 空野の背後にはアメリカ<NEX>の部室と、何故か出入り口の前に立っている武装警備員の姿が見えた。いつもとは違う、ぴりぴりした緊張感が、モニター越しに伝わってくるようだ。
「やけに後ろが物々しいな」
『日本でMIDSの第一号モーメント実験が行われるんですよ、今日。本社に反対派による爆破テロの予告状が何通か届いたとかで、各国の海馬コーポレーション所有のビルはみんなこういう感じみたいですね』
「へえ。不動んとこの実験の日って今日だったのか。ま、あの夫婦だと心配はいらないだろ」
 同期の夫婦の顔を思い浮かべる。初対面から既視感を覚えていたが、先日息子が一人生まれたそうだ。名前はもちろん<遊星>と言うらしい。
『先輩の好きそうな人種でしたもんね』
「ただ、この間のデュエル以来あそこの双子の助手に嫌われてんだよ」
『年末パーティーの後にやったやつですね。各部対抗予算争奪デュエルでしたっけ。また人の道を外れたような仕打ちを? 悪い人だなあ先輩は』
「お前はオレを何だと思ってんだ。正々堂々としたもんさ」
『知ってますよ、僕の先輩ですから』
 和やかに微笑んだ後で、この後輩らしく、一言付け加えるのを忘れない。
『ただハイヒールの一点集中攻撃はまずかったですね』
「場外乱闘はデュエルには入らない」
 十代は素っ気無く返した。
「で、用事があるんだろ?」
『ああそうだ、忘れるところでした。例の分離実験の結果報告です。早く知りたいかと思って。先輩が作ったこちらの新薬、少々問題がありまして。結晶状になった核以外の部分、卵の殻に融け込んだデュエル・エナジーを再利用できないかという実験だったんですけど、現時点ではまず無理ですね。濃縮される過程で、全然別のものに作り替えられているんですよ。投与した実験体が二体とも発狂しました』
「聞くが、何に与えた?」
『ナメクジとミミズです。各一体ずつ。先輩と同じ雌雄同体ということでサンプルに選んだんですが……』
「………」
『いやあ、発狂するナメクジというものを先輩にも是非見ていただきたかったですよ。ミミズは比較的おとなしいものでしたが、二時間掛けてアルビノのワーム・ルクイエに進化しました。あ、見ます? 結構恰好良くなってますけど』
「いや、いい」
『いいんですか? 二メートルはあるのになぁ』
 空野が残念そうに視線を横にやった。その先に何があるのかは、あまり考えたくなかった。
『改良の余地有りです。まだしばらく実験動物でいるしかないようですね。先輩』
「サンキュ、空野。考え直してみるわ」
『はい。あれ、先輩、教本なんか広げてどうしたんですか。料理ですか?』
「エビフライだってさ」
『あ、お子さんのリクエストですか。顔が緩んでますよ。……羨ましいな』
「ならお前も食いにくりゃいい」
『遠慮しておきます』
「なんでだよ」
『僕はアンデルセン博士のように、愛が味覚を超越する高みにはまだ達してないんですよ。更なるレベルアップが必要なようです』
「てめー、覚えてろ」
 空野は見た目こそ爽やかな好青年に見えたが、ただの<いい人>では済まない。彼のデュエルにおける姿勢を見ていれば、それはすぐに分かる。狡猾さと紙一重の慎重さと、排他的な自尊心を腹に隠している。大らかなようで気難しい男だが、決して悪人ではない。ただの潔癖症だ。
 十代よりも一年後に学年首席でアカデミアを卒業した空野は、何故か今も落ち零れの十代を尊敬して、何かと世話を焼いてくれる。弟分と三年間を過ごしたアカデミア時代が思い出されて、悪い気はしなかった。
『ああそうだ。十代先輩、剣山が遊びに来たら僕は元気でやっていると伝えてやって下さい。しばらく日本に帰れそうになくて』
「大変だな。空野部長」
『勘弁して下さいよ。子育てが落ち着いたら早く戻ってきてください。僕には先輩の代役は荷が重いです』
「お前はオレとは比べものになんねぇくらい上手くやってるさ。じゃあな」
 通信回線を切って、枕に顔を押し付けた。下腹が重い。今日はやけに精霊達がさざめいていて、背筋の辺りに電気がはしるような感覚が続いていた。嫌な感じだ。


 テーブルの上の仕度が済んで、時計を見ると、ちょうど良い時間になっていた。
「うん、うめェ。よな?」
 夕飯の味見をしながら、十代が台所に立った時から心配そうに頭の上を飛び回っていたハネクリボーに同意を求めると、相棒は不思議そうに身体を傾けた。
『クリクリ?』
「……まぁ、トメさんには全然及ばないけどな」
『クリー……』
 ハネクリボーが励ますように十代の肩を叩いた。そうされると、何となく落ち着かない気持ちになる。龍可には毎日のように味覚が信用できないと言われ、ヨハンには彼をも圧倒するゲテモノ食いだと評されているが、今十代の目の前にあるものはどこからどう見てもエビフライだ。間違いはない。
「あいつら遅いな」
 夜が訪れて、窓の向こうの空は綺麗な紺色に染まっていた。いつもの帰宅時間が過ぎても三人はまだ帰ってこない。時計の針の音がやけに気になった。ストライプ地のソファに背中を預けて、空っぽの家はどんな荒野よりも寂しい場所だと、十代は思った。欠けているパズルのようだ。
 ふと、身体がぐらついた。また眩暈でも起こしたのかもしれない。そう思っていると、テレビボードの上に飾ってある家族写真のフレームが床に落っこちて、薄いガラスが粉々に割れて飛び散った。
 地震だ。ソファから腰を浮かしたところで、まともに立っていられない程の強い揺れが来た。テーブルが倒れて皿が割れ、料理はことごとく床にぶちまけられた。ガラス扉付きの棚が飛び回り、向かいの壁に衝突する。十代も転倒して冷蔵庫に頭をぶつけた。仰向けになった視界に、天井が罅割れ、砕けて落ちてくる様が見えた。
「やっべ……ネオス!」
 すぐにカードから実体化した銀色の巨人が、十代を抱きかかえた。降り注ぐコンクリートの塊を、額から発した光線で蒸発させ、崩れゆく床を蹴って跳んだ。外気が頬に触れる。気が付くと、ひととき前までは帰るべき家だった瓦礫の山に立っていた。
 夜空は乳白色を帯びて、突然市街の中心に出現した光の柱が、不気味に夜を照らし出し、雲を貫き、大地を抉って、空と地上を繋いでいる。
 同期の夫妻が実験に立ち会っていた<MIDS>の第一号モーメント、<I2-NEX>のラボラトリー・ビル、より天に近付こうと競い合うオフィス街の建物郡。行き付けの美味い定食屋とカードショップ。年末にパーティー会場になったホテル。釣り竿を持って家族で出掛けた海岸。双子が気に入っていた緑地公園。すべてがその柱の中にあった。
 大気は停滞していた。辺りは時間が切り取られたようになっている。まるで、永遠がそこにあるような錯覚を抱かせる風景だ。
 しかし人の世界に永遠は無い。だからこそ十代はこの世界に受け入れられない。
 天と地の間を繋ぐ光の柱が、強い輝きを放ち始めた。一瞬後には眩しくて何も見えなくなった。視界は白一色に染まり、網膜を蹂躙する。世界から音が消えた。あるいは耳が馬鹿になったのかもしれない。穏やかな街は、楽しい夢が残酷に途切れるようにして破壊し尽くされ、地獄に姿を変えた。
 昔は、そんな夢を毎晩見ていた。
 怖い夢を見て、目が覚めたら清潔なベッドの中にいる。寝惚けたまま、怖い夢見た、と呟く。三段ベッドの上段から「覚めて良かった」と友達が慰めてくれる。楽しいデュエルをして、良く分からない授業を聴いて、きちんとテーブルに着いて食事をする。人に会えば笑い掛けてもらえる。そういう緩やかな日常の風景が突然ぶつ切れになって、闇の中で焼け焦げた建物と死体の臭いを運んでくる風に身を切られて、これこそが現実だったのだと思い知る。
 そういうことが、よくあった。
「ヨハン」
 今朝ヨハンがいつものように出掛けていった<I2-NEX>が、定期検査を受けている双子が中にいるはずのビルが、他の一切の建物と一緒に、光の向こうへ消失していた。
「龍亞……龍可……」
 手を伸ばした。何も掴めるものはない。
 スリッパをつっかけた足の裏に、積み上がった石の感触がある。不安定で今にも崩れそうだ。象徴的だった。
 ―― そう、日常は一瞬で崩れ去る。

 後に<ゼロ・リバース>と呼ばれることになる、第一号モーメントの作動事故が起こった瞬間だった。

 * * * * *

 空野大悟が事故の報せを聞いて日本へ戻り、第一号モーメントの隠蔽工作を兼ねた調査団の一人として、ようやく封鎖されているこの地に降りる許可を得たのは、発生から丸一日が過ぎた頃だった。火の勢いはいまだに衰えない。上空を救援のヘリが鳥の群れのように飛んでいたが、上手く着陸地点を見付けることができないようだ。爆心地へ近付くにつれて、街の残骸は遠目で見たものよりもずっとひどい様相を呈していた。
 地獄そのものだ。ビルの群れは爆風によって半ばで折れていた。上半分が熱で融けてしまったものもある。瓦礫の隙間からは白い煙が立ち昇り、奇妙なかたちに曲がりくねった鉄骨はまだ熱を持ち、赤い光を放っている。
 天変地異が起こり、世界が滅びてしまったような光景が広がっていた。
 探し人は、間もなく見つかった。
 空野のアカデミア時代からの先輩で、今は<元>上司でもある遊城十代は、<I2-NEX>ラボラトリー・ビルの崩壊跡で生きていた。この人ならたとえ世界が滅びても、人類最後の一人になって生きている。前例もある。信じていた通りだったが、彼はこの地獄から離れる意志は全く無い様子だった。
 十代を安全なエリアへ護送しようと駆け寄った調査員は、差し伸べた手を振り払われ、今も熱い瓦礫を掘り返し、折れたパイプを引き千切り、家族の名前を呼び続けているその人に、掛けるべき言葉を見付けられないでいる。
 石くれを掻き分けていく細い手は焼け焦げていた。皮膚が捲れ上がっている。それでも、当人、十代はそのことに気付いてもいないようだった。
 室内履きのスリッパのままで自宅から飛び出してきたのだろう。つっかけた薄い生地はすでに摺り切れていて、ほとんど裸足と変わらない。傷だらけになっても狂ったように家族を呼び、探し求めている。
 見てはいられなかった。後ろから羽交い締めにするように抱き止めると、虹彩異色症の眼が、焦点を失ったまま空野を射る。
「離せ! 邪魔をするなぁっ!!」
「もうやめて下さい先輩!」
「離せって言ってんだろぉ!!」
 右頬を手加減無しに殴られて、気が付くと瓦礫の山に頭から突っ込んでいた。痛みと、それ以外の感情で、涙が滲んだ。十代がまた、悲鳴のような叫びを上げた。
「ヨハアアアン!! 龍亞!! 龍可アアアアッ!!!!」
 十代がかざしたカードから、<グラン・ネオス>が実体化した。この世界にあるべきではない巨人が、土煙を巻き上げながら瓦礫の山を穿つ。
 十代は、普通の人間の目の前で異能を発動することを何よりも嫌っていたはずだ。常に冷静で、どんな状況にあっても楽しむことを忘れない程の余裕を見せ付けてくれた人が、完全に理性を失っていた。
「カードのモンスターが現実世界に実体化しているだと? あの人、サイコ・デュエリストか」
「最近あんな手合いが増えてきたよな。あんな力があれば便利だとは思うが、やっぱりちょっと不気味だよ」
 調査団のメンバーも、人間世界に現れたモンスターに驚きの声を上げている。十代をただのサイコ・デュエリストだと認識してくれていればいいが、それ以上に踏み込もうとする者がいるのなら、また面倒な事になりそうだった。
 十代の異能によって口を開けた空洞の中に、焼け焦げた壁が見えた。部屋だ。
 亡霊のような影が、闇の中で炎に照らし出されて浮かび上がっている。十代は迷いなく足を進めて行った。
「ヨハン……」
 機材はかろうじて形を残していたが、煤けて黒くなっている。十代の後を追った空野は、壁際で立ち尽くしているその人の足元に、変形した鉄板を見付けて拾い上げた。歪んではいたが、<I2-NEX>と刻印されている。ほんの一日前までは、誇らしげに銀色に輝いていたプレートだ。何度も目にした事がある。
「龍亞……龍可……みんな……」
 罅割れた壁にもたれかかるようにして、焼け焦げた<何か>の残骸があった。
 ふたつ分がひと繋がりになっている、小さな、炭のような塊がそこに存在した。大人程の丈の黒ずんだ塊が、それを覆うようにして被さっていた。損傷がひどく、触れただけで崩れてしまいそうだ。
 空野にはそれが何なのか分からなかった。
 しかし、十代には分かったのだろう。理解できてしまっていた。どうしてなのかは分からない。ただ、それはその人にとっては確かに完全なる世界の終わりだった。
 「うそだ」と呟いた声は裏返っていた。
 十代は微笑んでいるようにも見えた。双眸からは透明な涙が溢れ続けていた。肩が引き攣り、白痴めいた笑い声を聞いた。この世界が悪質な冗談ばかりでできているというように。
 無惨な焼死体に縋りついて慟哭するその人の叫びは、まるでこの世界の終わりを告げるかのように、虚しく、絶望にまみれた悲痛なものだった。
 この声を聞いた人間は、きっと一生忘れないだろう。胸を抉るような哀しい絶叫だ。


 エリアの封鎖が完了し、この地区は放棄されたという通信を受けた。表向きには、天変地異によって不幸にも消滅してしまった市街の復興の目処は立たないといった旨の報道が流されているようだ。知らない方が幸せなこともある。焚火を囲みながら、空野はそう考えた。
 十代は家族の遺体の傍を離れようとはしない。
 このまま一緒に朽ち果てる気なのだろうか。まさかとは思うが、否定もしきれない。仲間がクレーターの奥へ向かう準備を整えて首を振った。
「あの人はもう駄目だよ。気が触れてる。家族を亡くしたのが余程堪えたようだな」
 いつもは皮肉めいたところが目に付く同僚も、さすがに気の利いた台詞を見つけることができない様子で、言葉にいつもの鋭さがない。彼は確か<NEX>発足当初からのメンバーだ。物事を突き詰めずにはいられない研究者気質のくせに、出世欲を持て余している面倒臭い性格の男だった。一年後輩の空野が、十代の代わりに<KC-NEX>の最高責任者の座に着いた時には、随分とやっかまれたように思う。
「ああなると<幻の決闘王>もただの人だ。どうする空野」
「先に行ってくれ。僕はあの人が満足するまで待っている」
「いつまでも満足するとは思えないが」
 空野は頷いた。
「それでもいいんだ。十代さんの気が済むようにさせてやりたい」
「お前はイタチみたいな、何を考えているのかわからない小賢しい男だと思ってたけど」
「失礼だな。僕は素直さが取り柄だ」
「案外一途な男なんだな。一番損をする役回りだ」
「知ってる」
 相手は憔悴の表情で、くすんだ金髪を掻き毟っている。肩を竦めて、無理矢理笑顔を作り、空野の背中を叩いた。
「傷心の未亡人ってのは、お前みたいな尽くす男に弱いもんさ」
「本当かなぁ」
「結婚式には呼んでくれ」
「いや、まいったな……」
 頭を掻きながらも、あの人が足を止めて自分に振り向くことはないのだと、空野には良く分かっていた。それを望むのは、走り続けていなければ息ができない遊城十代という人に死ねと言うのと同じことだ。そう思いながら、仲間が爆心地へ去っていく背中を見送っていた。
 瓦礫の奥の空洞へ目をやる。火はようやく消えている。闇に閉ざされていて、家族と死に別れたあの人の姿は見えない。


 異変が起こったのはそれから数時間後の、夜更けを過ぎた頃だった。
 焚火の番をしていた空野は、曖昧な夜の闇の中に動くものを見た。クレーター調査に出掛けていた仲間が帰ってきたようだ。やけに早く済んだなと考えていたら、傍へ来て、様子がおかしいことに気が付いた。
 戻ったのは記録係をやっていた男が一人きりだ。向かった先で何があったのか、防護服の下の皮膚が、ほんの数時間で皺だらけになっている。生命力を吸い尽くされたような無惨な風貌だ。そのあとに続いてきたのは仲間の調査団ではなく、闇の中に蠢く得体の知れない<何か>だった。
「おぉい!」
 相手が叫んだ。火の横で、空野も立ち上がって叫び返した。
「後ろの奴らは何なんだ?」
「亡霊だ! 第一号モーメントから湧き出してきやがった、いや、そんなこっちゃどうでもいいんだ。見ろ!」
 僅かな間に随分歳を食った仲間が、カードを引いてディスクに触れた。モンスターが召喚される。<切り込み隊長>だ。死霊におどりかかっていく。
 振り下ろした剣が、人の姿をした捉え所のない影と、焼けた岩を切り裂いた。<ソリッド・ビジョン>によって真っ二つになった岩は、すべらかな断面を晒している。すぐに何が起こっているのかを悟った。
「俺達のモンスターが実体化しちまうんだ。他の奴らも同じだ。デュエルを挑んで――
 枯れ木のような指がさした先に、小山ほどもある大きな虫のようなものが蠢く姿が見えた。近付いてくる。焚火が照らし出した正体を目にした途端に、胃が引き絞られるような感覚に陥った。
「助けてくれ……」
 爆心地へ向かった仲間の一人だ。同僚だった。今は随分と巨体になって、くすんだ金髪は見えない。
「空野ぉ……遊城さん……助けて……」
 モンスターの胸部に、仮面のようになった顔だけが貼り付いている。焚火の傍まで逃げ込んできた仲間が唾を飲み込んだ。
「デュエルを挑んで、負けたらああだ。自分のモンスターと、モーメントの中から湧き出してきた化物とで混ぜこぜの化物になっちまう」
「うん。あれは、人と精霊と死霊の融合体だね」
 聞き覚えのない声がして、振り向くと、背後にまた得体の知れない生物が立っていた。
 シルエットだけを見たなら、かろうじて人間だと認識したかもしれない。イルカが、もちろんハクジラ亜目のあのイルカが―― 気の遠くなるような長い年月を経て、やがて人類が滅びた後の未来に世界の支配者として君臨したとしたら、それのような姿をしているのだろう。人のような姿をしたイルカだった。腕を組み、穏やかな顔をして佇んでいる。
「この地には負のエネルギーが満ちている。死霊がうようよしているだろう。僕達精霊を取り込んで闇に染め、生きている人間からは肉体を奪おうとしている。死霊たちは生にひどく執着しているんだ」
「デュエルでみんなをもとに戻してやらないと。今は哀しんでいる場合じゃないぞ、十代」
 イルカ男の横へ、今度は空洞の中から鳥人間が現れた。穴の中の闇へ向かって声を掛けている。
 そこでやっとまともな思考能力が戻ってきた。彼らは十代のヒーロー・デッキのモンスター達だ。<アクア・ドルフィン>、<エア・ハミングバード>。十代を研究し続けてきた空野は嫌という程知っている。
「十代。泣き止んで。君の不安定さが次元に歪みを与えている。ここにあるべきじゃないものを、あるものに変えてしまっているんだ」
 同僚の研究員を巻き込んだ不恰好な融合体が、橙色の甲殻に覆われた大きな腕で瓦礫を薙ぎ払った。天井が崩れ去り、剥き出しになった空洞の中で、その人は先刻見た時から何も変わらない恰好でうずくまっていた。炭になった我が子を夫の亡骸と一緒に抱いている。目を閉じている。
 顔を上げる気配もない。もう死んでもいいと思ったのだろうか。皺だらけになった調査団の仲間が、動かない十代に苛立ち、罵声を浴びせた。
「いい加減に立てよ! オカマ野郎! 死にたいのか!」
 <切り込み隊長>を使役し、無限に湧いてくる亡者を振り払おうとして、伸びてきた腕に足首を掴まれ、膝まで地中へ引き摺り込まれていく。絶望の表情を浮かべ、「冗談じゃない」と毒づいている。仲間の有様を目の当たりにして、死よりも、人以外の異形に変貌することに脅えているのだろう。諦めは早かった。
「俺はあんな化物になるなんてごめんだ……!」
 懐から抜いたリボルバーの銃口をこめかみに当て、迷いなくトリガーを引いた。飛散したぬるい血液が浴びせ掛けられた途端に、十代のデッキ・ケースが金色の輝きを放ち始める。
 はじめて、死んだようだった十代の顔に、生きた表情が浮かんだ。錆びた廃棄ロボットじみた動きで、ぎこちなく頭が上向く。「先輩」と呼びかけて、そのどことも知れない場所へ向けられた眼差しに言葉を失った。
 その人が見つめる世界へと振り向く。金色の光のその先へ。
 一瞬だったが、空野にも十代の世界が見えたような気がした。巨大な門。薄く開かれた門扉は、今にも閉じようとしている。叱られるのを待っているような顔をしている幼い双子の肩を抱いて、静かに十代を見つめる男が立っていた。彼らは言葉もなくそこにいたが、やがて呼び声を聞いたように背を向けて、去って行った。扉の奥へ。光の中へ。
 そこで幻視の風景は消え去った。
「冥界の門がもう一度開けば……」
 十代の、呆然とした声が聞こえた。
「……みんな……もう一度……」
 いつのまにか虹彩異色症の瞳には、僅かだが光が戻っていた。
 かぼそい声が「会えるかもしれない」と呟いた。
 異形の怪物と、それに付き従う亡者達が群れをなして迫ってくる。ヒーロー達の叱責が飛んだ。
「何をぼんやりしているんだ十代。<融合解除>だ! あのカードを使えば、人間と精霊と死霊をそれぞれのあるべき姿に分離させて救うことができる。十代にしかできないんだ」
「あ、ああ」
 十代が反射的に頷いた。しかし、震えている。子供じみた仕草で頭を振る。
「わかってる……わかってるけど。でも犠牲があれば……選ぶことができれば……」
 言うべき言葉が分かっているのに、どうしても言い出せない。そんなふうに見えた。もどかしく口を開けたり閉じたりしている。
 悪の心を持たないヒーロー達に慈悲の心はない。超人に甘えは赦されない。自分の望みのために正義のヒーローの力を使うことができないのが、十代という人だった。
 何故十代は、今になってもかたくなにヒーロー・デッキを使うのだろう。
 その理由に心当たりはある。だからこそやりきれなかった。
「先輩!」
 十代が緩慢に頭を上げる。その目は、どこか脅えているようにも見えて、彼こそがヒーローの救いを待ち続ける弱き者であるようだった。空野は自分の胸を叩いて頷いた。
「<僕は人間です>。貴方の望みが、分かります」
 華奢な肩がびくりと跳ねる。その人は、気付いてくれただろうか?
「十代、みんなを助けよう。ヨハンもきっとそうするよ」
「君を哀しませたいなんて、家族達は思っていない。君が自分の正義を貫くことを望んでいるはずだ。さあ顔を上げて。みんなのために戦おう」
 空野はただの人間だ。だからこそ、綺麗ごとばかり言うヒーロー達の言葉を聞いていると、致命的なまでのずれを感じて胸が悪くなった。
 彼らは善と悪が二つに分かれた漫画の中で、己の正義を果たし、頼られていたのだろう。それは決して人間世界とは相容れない存在だ。正も邪も愛情も憎しみも、すべてを内包する人間が住む次元において、彼らの正義感はあまりに一面的過ぎた。稚拙で、薄っぺらい、子供の夢のようなものに思えた。
 彼らの語る正義とはただの暴力だ。美しく気高い主の傷付いた心を、まだ殴り付け、破壊しようとする。
 <みんな>じゃない。今、誰よりも助けるべきは<その人>だ。
 そんなことも分からないのか?
「命令して下さい。何でも命じてください、十代先輩。僕は貴方の部下です。貴方の命令だけを聞きます」
 空野は叫んだ。十代が、異形となり果てたかつての部下たちに細い指を突き付けた。瞳は大きく見開かれている。焦点がぼやけていて、白痴のようにも見えた。
「そいつらを……」
 恐ろしく静かな心地だった。
 神の託宣を待ち侘びる神官のように。王の裁きを受ける罪人のように。
 十代の唇が動いた。そして―― 空野が望んでいた言葉が、無慈悲に、残酷に、ひどく心地良く紡がれた。
「殺せ」
 虚ろで、乾いていて、それこそが遊城十代という人間の本当の言葉だ。
 それを待っていた。
―― 了解しました!」
「十代ッ!?」
 ヒーロー達が十代の選択にざわめいた。正しい者の視線がその人を非難する。だが、彼らに十代を貶める権利はどこにもない。止めることはできない。忌々しい正義の味方達は、ただ主の傍でおろおろとするだけだ。
「斬り裂け。焼き尽くせ、僕のホルスよ!」
 背に光輪を掲げたホルスの黒炎竜が、主の呼び声に応えて、実体を伴って出現した。喉から迸る黒炎を、憐れな亡者達へ向かって激しく吐き付ける。猛禽の爪で腹を裂き、臓物をほじくり返す。鋼のくちばしが、モンスターに融け込んだ同期の頭を食い千切ると、滴る血がやがて光の奔流へと変わった。
 捧げられた異形の命が十代のもとへ収束し、一枚のカードの中へ吸い込まれていく。金色の燐光に包まれて、その人が少し安堵したように笑った。慈愛に満ちた女神の表情で。
 その顔が見られるのなら、自分はこれからも何だってするだろうと思った。


 小型軍用車両の中は、往路よりも随分と人数が減っていた。運転手と客が一人だけ。シティタクシーと変わらない。カーラジオを入れてみたが、ノイズばかりでまともに繋がらない。諦めてスイッチを切った。
 バックミラーには、後部座席でぼんやりと魔法カードを見つめる十代の姿が映っていた。唇は炭で汚れている。あんなものを食べて腹を壊さなければ良いがと考えてみたが、悪食に慣れているその人には余計な心配かもしれない。空野の鏡越しの視線に気付くと、息が詰まったように顔を歪めた。
「……すまない。面倒を掛けた」
「謝らないで下さい」
 空野は快活に答えた。
「先輩は、アンデルセン博士にはこんなことを望まない。あの人の手を血で汚すくらいなら、自分が死んだ方がましだって、先輩言うでしょう? きっと。博士には望まない。だから僕は、嬉しいです」
 異形の返り血で得体の知れない色に染まった腕を、ひらひらと振ってみせる。
「この血も僕の誇りです」
 分厚い強化ガラスの窓の向こうには何もない。一面の荒野だ。ビルの群れも人の営みも地上から消え去った。夜明けがやってきて、地平線に柔らかい光のラインを刻んでいる。
「先輩。どうぞ狂って下さい。正気じゃやれないなら、まともじゃ届かないなら……いらないものを切り棄てることに躊躇わないで下さい。走り続けて下さい。僕はどこまでもついていきますから」
 でこぼこ道の上を走っているせいで、車体はひどく揺れた。ハンドルを切って地割れを避け、他愛もない世間話をするように続ける。
「アンデルセン博士にはできないやり方で貴方を守ります。僕には分かる。先輩は正しい心を持ったアンデルセン博士に好きになってもらいたくて、優しくて自己犠牲精神溢れるヒーローを演じていた。本当は貴方はやはり、人の心を食らう、圧倒的で、抗いようもない、大きな存在―― 悪魔なんだ」
「恐ろしいか」
「ええ。貴方が恐ろしくて、僕は、いつも貴方に見惚れてばかりいました」
 空野は笑って、頭を振った。
 何年も昔に、学園を去り行く十代に卒業デュエルを挑んだことがあった。学園最強の十代を負かして、オベリスク・ブルーのエースの力を学園中に知らしめたい。そう考えた。その時の空野にとって、十代はまだ踏み台に過ぎなかった。
 空野が、他人に親切に振舞いながらも、心から誰かを尊敬することができなかったのは、自分の能力に絶対の自信を持っていたからだ。気のおけない親友の剣山をすら、十代の腰巾着としか見ることができない。穿った見方をすることに疲れてはいたが、それよりも自らへの信頼の方が大切だった。
 空野の絶対性はあっさりと打ち砕かれた。十代の可能性をすべて封じてもまるで相手にならない。
 悔しかった。何故負けなければならないのかが分からなかった。デュエルが強過ぎる十代を憎んだ。そして同時に、この人のいる高みまで駆け上がりたいと思った。
 それは、憎悪と憧れが交じり合った奇妙な心地だったことを覚えている。今まで感じたことがなかった感情が、恋慕へ変化し、やがて崇拝に至るまでにそう時間は掛からなかった。
「先輩の心が欲しいわけじゃない。人間の僕には、そんなおこがましいことは望めない。博士のような怖いもの知らずじゃない。ただ……この気持ちは、祈りだ」
 朝もやの中で、かすかに射し込んでくる光に包まれている。眩しいような心地がした。
「貴方が幸せになりますように」
 誰よりも美しく、絶対的な存在感を持ったその人は、どこか哀しそうに空野を見ていた。
「貴方が誰かを好きだと思った気持ちが報われますように」
 空野は、自分はきっと、旧い童話の中に生きている道化なのだろうと思った。美しいコロンビーナを崇高なものとして愛していながら、愛する人がアルレッキーノと結婚した日には、誰よりも楽しげに振舞った滑稽なプルチネッラのようだ。最高だ。
 十代は抱いた膝に額を押し付け、「可哀想な奴」と力なく呟いた。
「……お前もヨハンと同じだ。きっと不幸になるぜ」
「僕が知る限り、神に愛された人間はみんな不幸になりました。神話のはなしです。だけど、誰も後悔はなかった。僕もない」
「オレは悪魔だよ。人でなしの神サマなんかじゃない」
「いいえ。貴方は悪魔だけど、やっぱり僕の神なんだ」
 朝の輝きも、十代が纏う夜の匂いを拭い去ることはできない。その人は夜そのものだ。左右で色のちぐはぐな眼が、窓の外へ向けられた。虹彩が太陽の金の光を反射して、宝玉のように煌いている。
 本当にきれいな人だなと思った。

 * * * * *

 とても長い時間を一緒に過ごしたヒーロー・デッキは、もう十代の体の一部のように馴染んでいた。
 デッキをケースごとブリキの缶の中にしまい込んだ時、また自分の身体の中から魂が抜け落ちていくような気がした。それでも生きている。息をしている。動いている。案外感覚というものはあてにならないのかもしれない。
 十代、と呼び声を聞いた。返事はしなかった。今まで何度も勇気付けられてきたヒーローの言葉が、今の自分の中に実体があるものとして響かなくなることが、そしてそれを知るのが、ここへ来てもまだ恐ろしかったのだろうと思う。
「ごめんなみんな。オレ、正義の味方にはなれそうもない」
 数え切れない程の戦いを共に切り抜けてきた仲間達に、十代は、笑い掛けようとした。表情を作ることは、大人になってからは当たり前のように覚えていた。それでも上手く笑えなかった。
「ヒーローを穢すことはできないよ。もうお前達と一緒には戦えないけど、最後の頼みだ。いつかあの子達が帰ってきた時に、オレの子供達を守ってやってくれないか。そして二人が成長して、いつか正しい闇の力に目覚めた時――
 沢山の思い出が詰まった、命よりも大切なデッキを、指先でゆっくり撫でる。
「きっとオレを倒して欲しい。悪いやつはヒーローに滅ぼされる宿命なんだ。失望してくれていい。怒っても、罵ってくれてもいい」
 これで、さよならだ。子供の頃から憧れていたヒーローにはなれなかった。
 十代は缶の蓋を静かに閉じた。
「……今までありがとう。オレのデッキ」



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