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「うえええ〜!!」
ジェットコースターは一回転し、レールを上りきってまた落下した。右隣で<ヨハン>が安全バーを握って奇声を上げている。降り場へ着いた時には、潰れた雨蛙のようにぐったりとしていた。後ろから肩を叩いてやる。
「もしかして苦手なのか? こういうの」
するといきなり立ち上がって十代の手を握った。頬は紅潮し、エメラルドの瞳は子供のように輝いている。
「すっげぇ、すっげぇ! なんだこれ!?」
「いや、ジェットコースター」
「もう一回乗ろうぜ!? スリル満点だ! かっこいー!」
「乗ってる最中は怖がってたくせに」
平日の遊園地は人が少なく、学校をさぼって遊びに来ていると見える若いカップルや老夫婦、遠足にやってきた小学生らの姿がまばらに見えた。<ヨハン>は、行楽施設に遊びにやって来たのは本当に初めてらしい。目に余るくらいに興奮している。おかげで十代は、犬の散歩中にリードを無茶苦茶に引っ張られている飼主のような風体になっていた。腕を掴まれて引き回されているのだ。
「ここ、身寄りのない子供はみんなタダって書いてあるぜ。身寄りって、なんだぁ?」
「親だ」
「へー! 海馬さんって太っ腹だなぁ!」
「恰好良いんだよ、うちの社長は」
ジェットコースターの次に<ヨハン>が興味を示したのはミラーハウスだった。館の中に足を踏み入れた途端、隣で歓声が上がる。
「すげー! 全部鏡だぜ! な、十代?」
子供向けのアトラクションに、あまりにも嬉しそうな顔をしているものだから、居合わせた小学生に指を差されて笑われている。それでも当人は気付いた様子もない。勇んで迷路に挑み、鏡に頭をぶつけている。「いてぇ!」と悲鳴が上がった。
十代はポケットに両手を突っ込んだまま、<ヨハン>の後をゆっくりとついていく。エメラルド色の頭が先へ行って見えなくなった辺りで、自然に足を止めた。嫌な感じがする。敵意が、首の後ろの皮膚を針のように刺した。
すぐに、後ろからロングコートの客が、足音もなく近付いてくる。十代の背後に密着する程傍へ来て立ち止まり、頭の後ろで囁いた。
「―― お楽しみの所、申し訳ありません。失礼ですが同行願えますか。遊城博士」
背中に硬い感触が当たる。黒い筒のような物が押し当てられているのが、鏡の迷路中に映り込んでいる。
海馬コーポレーションに入社してからというものの、こう言ったことが少なくない。つまり、ライバル会社の刺客に命を狙われるのだ。新入社員向けの研修では、まず銃の扱い方を教わった。社会という戦場で生き抜く為にはそれなりの火力が必要なのだ。
はじめの内は『はぁ? なんだそれ。無茶苦茶だろ』と文句を言っていた記憶があるが、今ではすっかり慣れてしまった。
「悪いけど、知らない人にはついてかない。親がまず実践しなきゃ子供に教えてやれない」
「その親御さんが貴方との面会を望んでいます。しかし、このネオ童実野シティでは具合が悪い。貴方は優秀な科学者として、ネオ童実野シティ治安維持局の保護下にある」
予想は外れた。少なくとも競争会社の社員ではないようだし、ネオ童実野シティの人間でもない。シティ内部ではほとんど見掛けない型の銃は、九ミリ拳銃、軍の支給品だ。
「うちの両親は普通の会社員のはずだけど」
「ポケットから両手を出して下さい。できますね?」
幼児の着替えを見守る保父のような口調だ。十代は言われた通りに両手を上げて、宙でひらひらと振ってやった。
「ああ、確かに遊園地に来てポケットに手を突っ込んで歩くなんて、大人のすることじゃないよな。小さな子供が真似をしたら困る」
「貴方が<ライトイレイザー>の製造に関与している事は分かっているんだ。それを元に莫大な利益を貴方の会社が得ていることも、治安維持局が不正献金の見返りにあの麻薬の流通を黙認していることもね」
「めんどりが卵を産むじゃないか。あ、無精卵な。温めても孵らない卵なんてめんどりはいらないんだよ。目玉焼きにしてパンに挟むなり、ホットケーキを焼くなり、好きにしてもらっていいんだ。めんどりは卵が誰にいくらで売れたかなんて気にしない」
「無駄話はシティの外で聞きます。女性に手荒な真似はしたくない。来てくれますね」
横目で鏡を確認する。相手の男の顔は黒い中折れ帽とマスクに覆われていて良く分からない。露出している目の部分を見る限りでは日本人のようだった。
「あのさ、訳の分からない茶番で邪魔をされたくないんだ。オレを好きにしたきゃ―― シティから引き摺り出したきゃ力ずくでやり通せばいいさ。あんたに好きにされる気はどうもしないけどな。会いたいと望むならいくらでも望んでくれ」
「親御さんの方から会いに来いという事ですか」
「どうかな。特に会いたいとも思わないし。ただ一つ言っておくが、オレは一日二十四時間、三百六十五日、雨の日も風の日も有休休暇中も、養鶏業者もといKC倫理委員会に監視されてるぞ。そしてここは海馬ランドだ」
無限に広がる鏡の壁には慈愛に満ちた自分の笑顔が映っていた。盗聴器付きのネクタイピンを見せびらかしながら「迂闊だよなぁ〜」と注意してやると、男の実直そうな目が驚愕に見開かれる。血の気が引いて、マスクの紐が掛かっている耳が白くなっているように見えた。
間もなくスピーカーから、落ち着いた女性の声でアナウンスが流れてくる。
『今日も海馬ランドへお越し下さりまして、誠にありがとうございます。インフォメーション・センターよりお知らせ致します。<ミラーハウス>内にて体調不良を訴えられたお客様がいらっしゃいますので、現在アトラクションを休止させていただいております――』
さすがに仕事が早い。出入り口がチェーンで封鎖される音が聞こえた。見慣れた黒服のサングラス姿が次々と踏み込んでくる。十代は更に言葉を続けた。
「高濃度のデュエル・エナジーの定期的な供給。子供達の保護。必要な機材の調達。餌を貰った見返りにめんどりは卵を産むんだ。卵は……どうなってんだろうな。食卓にでも届けられてんのかな? さて、ここまで知っちまったからには、きっとあんたもうシティの外には出られないぜ」
身体をくるりと一回転させて、男と向き合った。相変わらず顔は見えない。特に興味も覚えなかったから、後は黒服に任せて先へ進んだ。鏡の迷宮はまともに歩くだけでも随分骨が折れる。何度か頭をぶつけた。
「遊城博士。ご無事ですか」
出口の前で、パンダの着ぐるみが話し掛けてきた。可愛い顔をしているのに声はいやに渋い。お守役に派遣された警備社員という所だろうが、周囲に紛れ込む為とは言え、その努力は涙ぐましいと言ってやっても良い。楽しそうだ。十代は頭を振って、大げさに腕を広げた。
「無事じゃねぇ。暴行されて肋骨全部折れた。内臓破裂。瀕死の重傷」
「それは大変だ。ご安心下さい。凶悪犯は正しくセキュリティに裁かれます」
「ああ、頼むぜ正義の味方。一般市民はこれからデートの続きがあるから」
「それは羨ましい。良い休日を」
パンダが恭しく敬礼する。出口に張られたチェーンを跨ぎながら、ふと十代は振り返って、パンダに確認を取ってみた。
「社長にばれたら、オレ達全員一列に並べられて腹斬る羽目になるんだろうなぁ」
「嬉しそうに言わないで下さい」
「すっげー! た、けー!!」
観覧車に乗ると<ヨハン>は後ろを向いて膝を座席に立て、早速身体を揺すっている。ゴンドラが揺れに揺れた。
「落ち着け」
「なんで君ははしゃがないんだよ。昔の映像じゃ沢山笑ってたのに。君って、いつもヨハンにもそんなにつれないのか?」
「つれないっていうか、オレは元々こう」
「ふーん。日本人ってクールだよな」
「お前がはしゃぎ過ぎなんだよ」
「つまんなかった?」
振り返って勢い良く席に着いた。また揺れる。十代は静かに頭を振って、目を外の景色にやった。
「……いや。ただ、子供達を連れてきてやりたかったとは思うな」
「あ、君と兄さん……いや、俺の、子か〜?」
たどたどしく言い直したのがおかしくて、少し口の端を上げた。純粋少年は、納得がいかないふうに首を傾げている。
「なんで君って、そんなふうに意地悪な笑い方しかしないのかな」
「それはな、意地が悪いからだよ。龍亞と龍可ってんだ」
「あ、子供」
「うん。……結合双生児って、わかるか?」
「わかんない。なんだ、それ?」
「身体の一部がくっついて生まれてきた双子のことさ。起きてても寝ててもずっと二人三脚なんだ。歩くことも難しい。走ることも勿論できない。だから、遊園地に一緒に連れてきてやることもできなかった」
「俺なら、君とくっついて生まれられたら、一生歩けなくたって走れなくたって、全然いいんだけどなぁ」
「不便だぜ、きっと。オレみたいな勝手な奴だと余計に」
「いいって、別に。君が不便をしないように俺が全部やるからさ。髪だってとかしてあげるし、顔だって洗ってやるし、歯磨きも、服の着替えだって。あ〜、惜しいなぁ。くっついて生まれるのがどうして俺と十代じゃなかったのかなぁ! せっかく姉弟なのに!」
聞き咎めて、「姉弟?」と反芻する。<ヨハン>は頷いて、両手で数を数え始めた。
「ああ、カーレン…十代は十番目だから、十七番の俺よりも七つ……いや、今は俺が十二番目のヨハンだから二つ上の姉さんなんだよな。双子だったら、ちょっと順番が遠いかな」
「お前……いや、ちょっと待て、お前」
「男の俺には姉さんで、女の子には兄さんなんだよな。今は。間違ってないだろ?」
「姉さんと結婚したのかよ。子供まで作っちまったのかよ。お前のモラルはどうなってるんだ」
覚えのない所で勝手に妙なあだ名を付けられていることは知っていたが、これは予想もしていなかった。思わず目の前の<ヨハン>に、本物のヨハンへ向けた呆れ声を掛けてしまった。相手は腕組みをして、深刻そうに頷いている。
「うん、ずるいよな。あ、いや今は俺なんだけど」
「ああ……いやまあ、いいんだけどさ」
今更何を言っても些細なことだ。ゴンドラはちょうど頂上に差しかかろうとしていた。<ヨハン>が、ぽっかりと口を開けて、嬉しそうに天辺から他のゴンドラを見下ろしている。
「すげぇ……街が玩具箱みたいだ」
「なぁ<ヨハン>? お前んちって、もしかしてオレにそっくりな顔をした奴もいるのか?」
「まさか。十代は特別じゃないか。庭の桜の木と一緒に、日本のおじさんが家族にくれたんだ。忘れたのか?」
「ああ―― <父さん>?」
探るつもりで言ってみたら、<ヨハン>は「そうそう」と軽く頷いている。おそらく自分はヨハンの実家に、何かしらの対価と引き換えに、<あの人>に売られたのだと悟った。
「あ〜、見ろ十代。隣のゴンドラ、カップルがチューしてる」
「子供が変なものを覗くんじゃない。そういや、頂上でキスすると結ばれるジンクスがあるんだってさ。並んでる時に聞いた」
「ええ〜!? 大変だ、もう頂上は超えちってるぜ! 十代!」
「うん、そうだな」
腕組みをして、特に興味もなく頷くと、<ヨハン>はそれが世界の命運を握る鍵でもあるかのように叫んだ。
「もう一度だ! 今度は頂上で君と」
「一日一回って決まってるんだ、観覧車は」
「え、そうなのか?」
「そうそう」
でまかせを言うと、相手はまた素直に鵜呑みにする。
「じゃあ明日……は、だめかぁ〜。約束だもんなぁ〜……」
「明日も楽しいことがしたきゃ、逃げちまえばいい。オレは追わないぜ。面倒臭いし」
「でも、それじゃ俺が嘘吐きになる。いやだ。明日が来たって君がいないじゃないか」
「嘘ぐらい誰だってつく。オレがいなくても何も変わらない」
「そうじゃないんだ。わかってないな。俺が君に嘘を言うのが嫌なんだよ」
「可愛い悪戯じゃねぇか。命を賭けるようなものだとも思えない。悪いことは言わない。帰れ」
十代は虹彩異色症の眼で、静かに目の前の<ヨハン>を見つめた。彼は似過ぎている。そのものだ。ただ微妙に違う魂が、同じに造られた容れ物の中に入っているのだ。こんな茶番は悪趣味にも程がある。
「『お前は』見逃してやってもいい」
「君って、何でも分かってるのに、やっぱり分かってないぜ。楽しいことも何もなくて、なんとなくで生かされているよりも、この一瞬の幸福を手に入れる方がずっといいに決まってる。君は俺の夢だった。つまり俺の幸せだ」
「良く言うぜ。お前アイス食って、ものすごく幸せそうな顔してただろ」
「顔なんていくらでも作れる。初めて美味しいものを食べた時にする顔とかさ。嬉しそうだったろ?」
十代は呆れ果てて、<ヨハン>の頬を引っ張った。
「いてて」
「それはお前、本当に嬉しいんだよ。ばか」
ゴンドラは緩やかに下降していき、地上の景色が近付いてくる。視界は狭まり、フレームが軋んだ音を立てた。係員が鉄の扉を開ける。十代は人差し指を立てて、「もう一周お願いします」と言った。<ヨハン>が意外そうに瞬きをする。
「え。二回目は駄目なんじゃないのか」
「今日は特別だ」
「そうなのか。へぇー! 俺、観覧車好きだな! 好きな子と向かい合って、こんな小さなゴンドラの中で、すごく近くて、手を伸ばしたら触れて!」
また騒がしく立ち上がったり座ったりする。ゴンドラがどこかへ飛んで行きそうなくらいに揺れた。十代は脚を組んだまま、この自称<弟>を見上げた。確かに、ヨハンの顔をしたものが昔のように動いて笑っている姿を見て、救われた心地になっていたのだと思う。まったく勝手な話だ。嫌になる。
「お前、本当の名前は何て言うんだ」
「笑うなよ?」
「笑うかよ。たぶん」
「<みにくいアヒルの子>」
恥ずかしそうに目を逸らして、彼は何とも言えない名前を名乗った。耳が赤くなっている。
「って言うんだ。あだ名だけど。でも数字なんかで呼ばれるよりは全然まし」
「あだ名も数字も、両方とも同じ位ろくでもない名前だな」
「へへっ。な、お前が付けてくれないか。俺の名前―― あ、やっぱいいや」
「どっちなんだよ」
「だってさ、最後までヨハンのままでいたいかな。十代が奥さんのままで」
「寝言をほざくな」
「十代はつれない」
口を尖らせて不満そうにしていると思ったら、すぐに機嫌を良くして、「でも楽しかった」と言う。
「十代、俺を殺すんだろ?」
<ヨハン>が、当たり前のようにそれを口にした。
最近良く家族の夢を見る。出て来るのはヨハンだったり、龍亞と龍可だったりと、まちまちだ。自分自身のこともある。ただ向かい合って、相手がこう言う。『追い駆けて来い』、『捕まえろ』。目が覚めた時には、いつもカードが一枚手の中にある。
そうやって自分に呼び掛ける存在を、道を示す存在を、十代は薄々感じ取っている。目の前にいる男はヨハンそのものだった。だからこそ、『そのため』に用意されたもののようにも思えた。忌々しい。
「分かってるって。俺はお前の知らないことでも、何でもお前が分かるんだよ」
<ヨハン>が照れ臭そうに鼻の下を擦った。
「……なんちって。へへ、十代の真似っこ」
一度言ってみたかったらしい。十代は座席の上で、靴を脱いだ脚を抱えて背中を丸めた。
「お前を殺せって頭の中で誰かが叫んでる。さっきからずっとだ。声が聞こえるんだ」
袋小路に追い詰められた気がする。銃を突き付けられて、『観念しろ、もう逃げられないぞ』―― そう言われているようだ。昔友達と見に行った映画にそういうシーンがあったのだ。
あの絶体絶命のピンチを、ヒーローはどうやって切り抜けたんだったか? もう忘れてしまった。空でも飛んだのかもしれないし、仲間が助けに来てくれたのかもしれない。あっさりと撃ち殺されてエンドクレジットが表示されたのかもしれない。
「オレはまっすぐにしか走れない。だけどたまに、目の前に餌をぶら下げられて、いいように進路を取り決められてる気になるんだ。昔のオレなら相手にもしなかったろうけど――」
自分でも頭がおかしくなっているとしか思えない。溜息をついて、顔を膝に伏せた。
「今は。きっと壊れちまってんだ、オレは」
「俺が兄さんの身代わりになれたら、君はこんなに壊れなかったのにな。世の中って上手く行かない」
「そうじゃない。オレが大好きになったから、あいつらは死んだんだ」
<ヨハン>がきちんと座り直して正面に向き合い、気遣わしげに十代の膝に触れる。
「おじさんが言ってた。十代はこの世界をぐちゃぐちゃにするために生まれてきたんだって。君を殺すために生まれた俺達を絶対に許さないって。それってやっぱりそうなのか?」
「この世界なんかどうだっていい。オレは、ヒーローじゃない。絶対悪にもなりきれない。ただの道化だ。……文句なしに正しいヒーローやってる人間が、オレを身動きもできねぇくらいにがんじがらめに縛り付けて、箱の中にずっと閉じ込めてくれたらいいのにさ。そしたらオレは外に出て皆を怖がらせることなんかない。好きになって欲しかった人間が、オレを醜い悪魔だと罵る顔を見なくていい。その時に、できればオレもまたガキの頃みたいに何も分からなくなったら、オレはガキだったオレの正義感に脅えずに済む」
「それが君の幸せ?」
「幸せだな。考えただけで嬉しくて泣けてくる」
「歪んでるなぁ」
「生き物の心なんて元々どこかしら歪んだもんなんだよ。無理にまっすぐ伸ばしてやろうって引っ張ったら千切れちまう。そんだけさ」
「ああ。だから君は千切れちゃったのかな?」
「いいや。オレは伸びきってよれよれにひん曲がってんだ。千切れるまで踏ん張ってるような純粋少年じゃない」
「ヨハンは? あいつは、どうだったのかな」
「あいつはまっすぐで、千切れたりしないままで、ずっと踏ん張ってるんだよ。まだ」
「ヨハンの話をしてる時、君はまるで神様にお祈りをしてるみたいだ」
十代は顔を上げて、頭を揺らし、力なく微笑んだ。
「……馬鹿みてぇ」
本当に馬鹿みたいだ。<ヨハン>は物珍しそうに十代を眺めていたが、恐る恐る手を伸ばしてきた。他人の家の飼い犬に怖々触れるようにして、十代の頭を撫でてくれる。
「君の弱虫の姿って、見てるとすごくいけないことをしてる気分になる。甘えてるのか?」
「死人に口なし。死んだ奴はどんなに甘ったるい泣き言を聞いても、『甘えるな』なんて叱る口もない」
「なるほどォ」
<ヨハン>は、納得した顔で清々しく笑った。物語の結末を迎えた童話の主人公のように、晴れやかで幸福そうだった。
「俺、今日すっげー楽しかった。きっと生まれてからで最高に楽しかった。きっとこれから生きてても、もうこんなに楽しいことはないぜ。約束だからさ、いいよ。俺のちっぽけな命なんかでこんなに楽しい思い出をくれて、十代はやっぱり天使みたいだ」
「よせよ。悪魔なんかに、そんなこと」
「もう一回天辺まで上がりたいなぁ!」
また子供のように後ろ向きに席に上がって、手摺りに肘をつき、夕暮れの空を眺めている。初めて出会った日と変わらない横顔が赤い光に照らし出されていて、むしょうに泣きたい気分になった。
「日が沈む。真っ赤で綺麗だ」
眩しさに目を細めながら、「でも十代の方が綺麗だ」とふざけた台詞を付け加える事も忘れない。振り返って、恐る恐る十代の頬を手の平で撫でた。至高の芸術品に触れるような、それとも、捨てられた子供が母親を求めるような、畏怖と慕情が伝わってくる優しい手だ。
「キスしていいか?」
十代は、そっけなく返事をした。
「ヨハンなんだろ」
<ヨハン>が、十代の額に唇を付けた。清潔なキスだ。子供の挨拶のように純朴で、幼かった心に戻ったような錯覚を覚えた。
同じ顔をして同じ声で喋って十代を愛してくれる。それでも彼はヨハンじゃない。
「……馬鹿みてぇ」
「また泣いてる。十代は本当に泣虫だな」
「泣いてねぇよ」
「子供の頃から、君にずっと憧れてた。君が終わりを持ってくるなら、俺、他は最悪だったけど、始まって良かったよ」
おそらくは、十代の元へヨハンの替わりに宛がわれただろう彼こそは守るという選択肢もあった。始まりから終わりまで十代に人生を狂わされていたヨハンへの罪滅ぼしだという言い訳も充分にできる。今度こそ慈しんで、愛して、また不幸にするという選択もできた。
頭の片隅に思い浮かべた時には、すでに指をその首に掛けていた。ただの妄想だ。選択ですらなかった。彼は違う。犠牲だ。『神じゃない』。
「姉さん、大好きだ」
<ヨハン>が言った。
まだまともなのか、既に狂っているのか、自分では判断がつかなかった。
どちらだって良い。やるべきことをやるだけだ。十代は宣告した。
「オレの望みを叶える為に、お前には死んでもらう」
声は冷酷で無慈悲で、震えもしていない。
一日が終わり、太陽が地平線の彼方へ姿を隠した瞬間―― あの日以来凍り付いていた<チェーン・マテリアル>が、生贄を得て再び起動した。十二の燭台にはじまりの炎がひとつ灯る。
残りは、まだ十一。先は長そうだ。
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