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港に着いた豪華客船から降りてくるのは、外国からやってきた金持ち客ばかりだ。カモメの鳴き声と、波の音に混じって上品な笑い声が聞こえる。
整備された海岸沿いの表道から、細い路地をひとつ入ると、うらぶれた小さなバーがある。もちろんいくつも賞を獲っている有名なシェフの直営レストランや、新しく開店した清潔なベーカリー・ショップの前を通るセレブ連中は見向きもしない。そんな店だが、くたびれたシャツを着て澱んだ目付きをした中年男には余程相応しいと、国崎康介は自分の身を省みて考えた。店内に客は国崎ひとりきりだ。
「あそこも開けたもんだねぇ。昔は寂れた田舎町だったのによ」
打ちっぱなしのコンクリート壁に嵌まっている窓ガラスの向こうには、夕暮れの光に照らされた赤い海と、対岸に浮かぶネオ童実野シティが見えた。かつて童実野町と呼ばれていた頃の牧歌的な名残はどこにも見えない。
「もう地方からの修学旅行生なんか、いねぇんだろうな。きっと」
「そう、ここも変わっていくだろうね」
店主が、客もろくに来ないのに、グラスを柔らかい布で丁寧に拭きながら言った。 「観光客向けに綺麗なショッピング・センターを造るらしいよ。昼間も立ち退き交渉のお役人が来た。こっちからはシティの陰に隠れて海の向こうのサテライトが見えないから」
サテライトは、<現代のアルカトラズ島>と呼ばれている。犯罪者と浮浪者が押し込められた不潔な島だと聞くが、数年前に大規模な地殻変動が起こるまで、サテライトとシティは地続きだった。
「知ってるかい、国崎さん。昔はサテライトの方が活気があったんだ。今は<B.A.Dエリア>なんて罰当たりな名前で呼ばれちゃいるが、あそこにオフィス街があってね、昔はうちもそこに店を出してたんだけど、入院した実家の母親の所へ見舞いに行ってるうちに<ゼロ・リバース>で店がぶっ飛んじまってたんだよ。あの頃のお客さんの顔は良く覚えてる。毎週水曜日は日替わり定食のメニューがエビフライで、昼時にはKCとI2の社員さんの間で抗争が起こるくらい人気だったんだ。あそこで勤めてた常連さん、みんな亡くなってしまったと思うと今でもやりきれないよ。立ち退きでここを離れたら、地元でまた細々と定食屋でも始めようかと思うんだけど、歳だしねえ」
「人生なんざ、くたばる五分前からでもやり直せるさ。新しい店が開いたら呼んでくれよ。もっとも俺は腕利きの情報屋がいなくなって随分不便になるだろうがね」
「ああ……そうだった。思い出したよ。国崎さんに言おうと思ってたんだ」
店主がグラス磨きの手を止めた。
「ここに良く来てた矢薙の兄さん、捕まっちまったそうだよ」 矢薙は国崎と同じように、麻薬の流通ルートを探っていた知り合いだ。身分は明かさなかったが、酒を呑みながら『やんごとなきお方が後ろに付いている』と冗談混じりに話していた。真実は分からない。ただ確実なのは、情報源になる人間が一人消えた分だけ不便になったということだ。
「へえ。あの男、どんなへまをやらかしたんだか」 「シティへの不法侵入と要人の暗殺未遂の罪でね。これは想像だけど、矢薙の兄さん、<やんごとなきお方>にさっさと結果を出せってせっつかれたんだよ。それで先走ってしまったんだろう」
ネオ童実野シティはまるで自治国家のように振舞っている完全都市だ。いくつか取り決められた正式な手続きをパスしなければ、外部の人間は中へ入ることすらできない。
それなりの場数を踏んだ運び屋や情報屋にとって、検査を掻い潜って内部への侵入を行うのはそれほど難しいことではない。ただ、不法侵入が発覚すれば、セキュリティのD・ホイールに追い回された末に、病的に秩序を愛する治安維持局の意向で収容所に送られ、最低でも一月の再教育プログラムと半年間のシティ拡張工事に従事させられる。
「勤め上げたら、親戚の爺さんみたいに浪漫を求めて世界中を飛び回るのが夢だって言ってたのに、もう一生出られないねあれは」
「怖いな。次は俺か」
「国崎さんもそろそろ手を引いた方が良いと思うけどね」
国崎は鞄の中から幼い少女を模った人形を取り出し、黙ってカウンターに置いた。気乗りがしない顔だった店主が、一瞬で鬼の形相に変わる。
「これは生産数が少ないのに関係者が買い占めたせいで滅多に姿が拝めないカードエクスクルーダーちゃんのフィギュア! しかも幻の帽子稼働タイプじゃないか!」
店主は人形に頬擦りをして矯めつ眇めつした後で、興奮し過ぎたせいでずり落ちた眼鏡の位置を直しながら、声を潜めて言った。
「海馬コーポレーションに関しては今更説明もいらないだろう。あそこの<NEX>って部署が、この前話した<ライトイレイザー>って麻薬の製造に関与しているって情報がある」
<ライトイレイザー>は強い依存性を持った薬物だ。デュエルが強くなる薬と謳われて、プロ・デュエリストの間で密かに出回っているものが多い。最近ではアマチュアやアカデミア生の中にも手出しをする輩が現れ始めているという。
「ヤクで強くなれたら世話ねーよ」
「それが本当に強くなるらしいよ。気迫が増して、勘が冴え渡り、引きたいカードが手札にやってくる。まるでデュエルの神様が味方してくれるみたいに」
「馬鹿馬鹿しい」
そんなものに頼らなくてもデュエルの神に愛された人間はいた。いつも首から下げているロケットの蓋を指で弾くと、中には小さな写真が貼り付けられている。若い夫婦と双子の子供を写したものだ。店主が首を伸ばして、覗き込むなり、深い皺が刻まれた口許を嬉しそうに綻ばせた。
「おや、こんな所で見るとは思わなかった。昔の常連さんじゃないか。懐かしい顔だ。国崎さんの娘夫婦かい?」
「よせ、そんな歳じゃねぇ。友達だよ」
「じゃあ片想いのご夫人てとこか」
「よせよせ。あれは本当に<友達>だった」 この一組の家族の写真は、以前国崎がI2社主催のパーティーに紛れ込んだ時に、偶然再会した友達を撮ってやったものだ。
暑苦しくて野暮ったかったデュエル小僧は、初めて国崎が見掛けた時から六年の歳月を経て、半陰陽の美しい花嫁に成長した。かつて青臭いひたむきさで国崎を立ち直らせてくれた子供は、どれだけ時を越えても友達の位置にいた。雌雄同体の半身がはっきりとした女性の特徴を顕すようになっても、<そいつ>にだけは、年中ゴシップを追い掛けている商売柄女を前にした時にまず覚える値踏みをするような感覚が沸き起こってこなかった。 多くの人を惹き付ける魅力を持った少年にとって、国崎は、知り合った数多くの人間の中のひとりだったかもしれない。しかし嘘と虚栄の海を泳いで生きる国崎にとっては、その少年はたったひとりの大切な友達だった。
「あー、今はそんな話はどうでもいいんだ。<ねっくす>? なんだい、そりゃあ」
「<ナイトメアエクステント>、通称<NEX>。<次元融合開発部>とも呼ばれてるらしいね。海馬コーポレーションの研究機関のひとつだよ。デュエル中に発生する<デュエル・エナジー>って物質の収集実験なんかを行っているんだってさ」
「<デュエル・エナジー>ねぇ」
「<デュエル・エナジー>は医療用に、たとえば傷の治癒促進などにも使われている……って言うんだけど、<NEX>の研究内容はいまいち難しくて一般人には分かりにくいんだ」
「つまり何をやってるのか分からない、ってか」
「狂人の檻だって陰口を叩いてる連中もいるよ。人工的にサイコ・デュエリストを製造する研究をしているらしいとか、極端なところじゃ、異次元世界への架け橋を造ろうとしてるとか、不老不死の薬を完成させたなんて噂もある。この<NEX>の最高責任者ってのが若い天才科学者らしいんだけど、<ゼロ・リバース>前は遊星粒子を発見してモーメントって永久の動力源を開発した不動博士と二人で、KC研究開発部の双璧と言われてたそうだよ。こないだ捕まった矢薙の兄さんも、<やんごとなきお方>からその科学者を極秘裏に引き抜いてくるように命令されていたんだ。相手の意志はともかく」
「拉致ってことだな」
「それ程利用価値のある頭脳ってことだろう。なにせ今は亡き不動博士が、モーメント開発でシティを一気に世界の中心都市にのし上げちまったんだからね。この<NEX>の名も無き天才、本人の身の安全の為だろうが、KC倫理委員会の方に組み込まれてる。あそこは公正を期すためにメンバーリストが作られていないんだ。そのせいで名前も公表されてない」
「とてもサラリーマンだとは思えないな」
「それで<秘密結社<NEX>>って揶揄されたりもしてる。この名無しの天才さん、随分もてるらしくてね、今じゃ政府とシティが身柄を奪い合って内戦勃発寸前だって話。内輪揉めが始まったら、きっと外国なんかもモーメントと<NEX>の頭脳欲しさに構ってくるね。最悪世界大戦の引鉄になりかねない。たった一人の人間が原因でだよ。まったく冗談にもならない。今表道を歩いているセレブの中にも、何人かきな臭い連中がいるね」
ウイスキーをオン・ザ・ロックで注文する。酒を呑みながらでもないとやっていられない気分だった。
「事実を突き止めて公表したら俺は一躍有名人だな。金も名声も思いのままだ」
「ここからはほとんど都市伝説だけど、続きを聞くかい?」
「まあ何も分からないよりましだ。少なくとも心構えができる」
「女神みたいな美女らしい。しかも男狂いの人妻だ。一言頼めば上司にも部下にも平等に脚を開いてくれる。痴女だな。旦那がアメリカへ出張してるのを良いことに毎晩違う男を取っかえ引っかえベッドに連れ込んでるそうだ。羨ましいね。男なら、そんな国家に尻を追っ掛けられている程の美人と、一度でいいから一晩過ごしてみたいもんだ。まあ、死んだうちのかみさんの方が美人に違いないが。かと言えば、冷酷非道で切れ者のイケメンだって噂もある。声を聞いているだけでたまらなくなってきて、どんなにプライドの高い女でも自分から服を脱ぎ出す程のいい男らしい。自分が作った<ライトイレイザー>に浸けて廃人にした幼女を何十人も囲っていて、マグロをつまみ食いするのが趣味の変質者だ。もてる変態なんて死ぬべきだよ、ほんとに」
「誰か、そいつと寝たって奴と接触できれば、金でも握らせて話を聞きたいな」
「それが実際に寝たって奴は誰もいない。言ったろ、都市伝説だって。他にもあるが、どんどん未確認生物じみてくる。<ゼロ・リバース>当時、震源地で亀裂に呑まれたのに無傷だったとか、いつも老人の生首を抱えていてそっちが本体だとか、両目から怪光線を発しているのを見ただとか」
「そんな妖怪と双璧だと言われてた不動博士はさぞやりきれなかっただろうな」
「ともかく情報をくれる相手によって、言ってる事が違うんだ。女は理想の男って言うし、男は最高の女って言う。まるで悪魔の目撃談を聞いてる気分になる」
「そいつらは狐にでも化かされたんだろうよ」
入口の扉に取り付けられた鈴が、グラスの中で氷が転がるような音を立てて鳴った。新しい客だ。ぼさぼさの頭と、国崎と似たり寄ったりの薄汚れた恰好の男で、顔見知りだ。この店を訪れる客の顔は自然と覚えてしまった。名前は確か猪爪と言ったはずだ。サイバー流リーグを経営する丸藤プロが、不法に開催される地下デュエルを撲滅する為に放った刺客だという噂を聞いたことがあるが、深追いする用事もないから真実は知らない。カウンター席に着くと、麻袋を大事そうに脇へ置いた。
「おやっさん、酒だ」
「あいよ! 調子はどうだい?」
「兄貴の使いっ走りでレア物の仕入れさ。今年の祭りも物騒だったな。あっちの土地じゃ戦利品狙いの強盗団が出るんだ」
猪爪が指で示した麻袋の隙間から、パッケージに護られたポリ塩化ビニル製のかぼそい脚が覗いている。思わず横から口を出していた。
「いや、たかがフィギュアだろ。強盗は大げさ過ぎやしないか」
「おっさん、舐めちゃいけないぜ。マニアの間じゃレアカード並の価値がある」
「そうだよ国崎さん。見てみなよ、あんたが持ってきてくれたカードエクスクルーダーちゃんのこの細かい造型。一級の芸術品だ。国崎さんも何か始めてみるといいよ。そうだね、初心者向けの奴を何か用意しようか」
「いやいい。お人形遊びをするような歳でもない」
「子供には早いよ。大人の玩具だよこれは。ああそうだ、さっきの話の続きだけどね」
店主が猪爪に焼酎を出して、棚に瓶を片付けながら言う。
「<ライトイレイザー>の中毒者を収容してるリハビリテーションセンターがサテライトにあるんだよ。社会貢献のために無償で患者の救済をやってるらしい。悪い噂は特に聞かないけど、ただその施設、海馬コーポレーションの系列なんだ。おかしな話だよね。麻薬の製造に関わってるって情報があるのも、中毒患者の社会復帰の手助けをしてるのも、同じ会社なんだから」
『タダほど高いものは無い』が信条の国崎には、『社会貢献』や『無償』と言った言葉が肌に合わない。これまでの経験でも、大会社の無償奉仕には何かしらの陰湿な影が付き纏っていた。周囲を海に囲まれ、外部からの不法侵入も内部からの脱出も不可能とされているサテライトの中という立地も気に食わない。あそこは『人種の塵捨て場』とも呼ばれ、一度送られた人間は二度とシティへ戻ることが叶わない。
「その親切なリハビリセンターから社会復帰できたって奴はいるのかい?」
「いるけど、サテライトで人生をやり直せる喜びを噛み締めながら労働に従事してるってことになってるね」
店主がグラス拭きを再開しながら答えた。
目的地の薬物リハビリテーションセンターは白亜の城のような佇まいで、倒壊した建造物群に地表を埋め尽くされ、灰色の砂漠然としたサテライトの中にあると、突如として別の次元から現れたかのようだった。 受付には清潔な受付嬢が座っていて、目が合うと天使の微笑みを向けてくれた。
「お見舞いの方ですか?」
「ああそうだ」
国崎は頷いた。
一人で受付を任されているのは、まだ若い女で、美人ではないが健康そうに見える。治安最悪を謳われる監獄島にあると、ガードマンも付けずに不特定多数の来客を笑顔で迎えてくれる受付嬢は、妙に不安になってくる位に浮いている。リアリティがない。 シティから特別に派遣されたのか、施設に雇われている地元民なのかは判断がつかなかった。
「どなたにご面会ですか?」
「どなただって?」
「当センターは特定薬物の依存症の治療を目的としておりますので、性質上患者様に危険が及ばないよう、ご来院は完全予約制を取っております」
「それもそうだ。いや、実を言うとこういう者でね」
古ぼけて歪んだ名刺ケースから、『サテライトでローカル紙を発行している』架空の新聞会社のロゴと偽名が記されている名刺を差し出した。
「<ライトイレイザー>の危険性を啓発する目的の取材をしたいんだが」
「失礼ですが、ご予約の無い方は基本的に入館をお断りしております。お引取り下さい」
「分かったよ。確かに不躾だった。日を改めてまた」
国崎はあっさりと引き下がった。ここまでは予想通りだ。
「ま、筋は通ってるわな」
独り言を言って、あの受付嬢はせっかく刷った名刺をろくに見もしなかったなと考えながら、病院の裏へ回ってブロック塀に足を掛けた。こういうふうに、アポイント無しに『ちょっとお邪魔をする』のは得意中の得意なのだ。コンクリート・ブロックの窪みを使ってヤモリのように壁を這い上がり、窓を抉じ開ける。侵入はまるで普通の病院のように簡単だった。
早速持ち込んだ白衣を羽織って、さも偉そうな顔をして歩き出す―― どんな場所でも恰好さえ一流を装ってしまえば誰も素性を疑わない。人間は見た目と口の上手さが全てだ。国崎は常々そう考えている。
日当たりの良い長廊下は光沢のあるリノリウム製で、タイルを敷き詰めた手洗い場の横には観葉植物の鉢が置かれている。監視装置の類は見当たらない。
窓の向かいにある横開きの扉を開くと、壁をぶち抜かれた部屋に、カプセル状の簡易ベッドが無数に並ぶ、巨大な蜂の巣のような光景が目に飛び込んできた。ここが<ライトイレイザー>汚染患者を収容した病室らしい。
知らない顔の国崎を見て患者が騒ぎ出すかもしれないと心配していたが、もう騒ぐ頭も無いようだ。カプセルの中で横になっている人間は、中空を意味もなく見つめたまま、ぴくりとも動かない。どれも白髪頭で目に生気が無い。ただ、肌は瑞々しく、栄養状態も良いようだ。カプセル内部の天井から吊るされた点滴を腕に刺している。チューブを遡った先にある無色透明の液体パックは、栄養剤だろうか? 正体は分からない。
室内はとても静かだったが、そのせいで余計にモルグじみていた。歩き回りながらメモを付けていく。患者の状態、部屋の印象。館内の見取り図。
大部屋を突き当たると、先はナースステーションになっている。今は窓口に仕切り用のカーテンが降りて、電気が落とされ、人の姿は見えない。机の上にリングファイルが平積みになっていた。捲ってみたが、意味の分からない外国語が書き殴られているばかりだ。
壁際のテーブル上に設置された共有のパソコンを覗くと、収容されている患者の名前がリスト化されて連なっていた。中にはいくつか覚えのあるものもある。シティにおいて薬物に汚染され、重度の中毒症状を起こして、搬送された先の病院で死亡したとされる人間だ。
シティの住人がサテライトへ降りる為には、治安維持局の特別な許可が必要だ。反対に、サテライトの人間がシティへ上がるようなことはまず無いと言って良い。二つの世界は完全に隔絶されている。お互いがお互いの身の回りのものしか見えていない。 例えばシティで死亡届けが出された人間が、まだサテライトで生かされ、奴隷同然に扱われていようと、正当な市民権を持った家族や知り合いが事実を知ることはほぼ無い。彼らがサテライトへの一方通行の扉を開いて、シティから弾き出されてしまわなければ。
そんなふうに意図的に社会から抹消された人間を使った実験記録が、コンピューターの中で、番号を振られて整理されていた。どれもひどいものだ。人間の仕業だとは思えない。
データを小型の記録媒体にコピーしながら、国崎は考えた。一面記事を飾るにはこれで充分だろう。しかし、国崎が突き止めたのは廃人にされた被害者の無惨な姿だけだ。カメラに収めたデータが公になっても、大企業は『管理を全面的に委託会社に任せていた』この施設を蜥蜴の尻尾のように切り捨てるだけで事が済む。悪の源と言ってもいい存在は、まだ雲の上にいて顔も見えない。
収容所送りになった矢薙の二の舞いはごめんだが、国崎にもフリーのジャーナリストとして長年やってきた経験から来る自信と自尊心があった。見切りを付けて海岸に隠した小型ボートの元へ戻るにはまだ早いだろう。
作業が済んだ頃に、窓から、表の駐車場にトラックが乗り付けるのが見えた。作業服姿の男が数人降りてきて、荷台に乗せてきた段ボール箱を大事そうに運んでいく。
「もたもたするな。さっさと運べ!」
「工場長、こいつはどこに運べば良いんですか?」
「知るか! とにかくさっさと運べ!」
横柄な態度で宣言し、『工場長』は休憩に行くと言い残して裏口に消えた。残された部下は辟易した様子で突っ立っている。
「何だあの親父。無茶苦茶だな……」
「本当、かなわないよな。でも何なんだろう。これは?」
「卵だろ? そう聞いた」
「何の卵だ。こんな訳の分からない卵を産む動物がいたか?」
話し込みながら、彼らも裏口へ姿を消す。抱えている段ボール箱の中身についての話題らしい。 にわかに階段から足音が近付いてきた。休憩にやって来た工場長だ。 国崎は慌ててロッカーの中へ隠れた。人の気配を感じた時に身を隠してしまうのは、既に条件反射のようなものだが、考えてみれば、医師の恰好をしている国崎は、作業着姿の工場長よりも館内で余程自然に振舞えるはずだ。しかし、もう遅い。いきなりロッカーから飛び出す方が余程変質者じみている。おとなしく息を潜めてやり過ごすことにした。
「なんで俺様がこんなこと……」 長方形の鉄の扉に刻まれた細い隙間から、工場長が目の前を気だるそうに歩いていくのが見える。遠ざかる姿を目で追っていると、吹き抜けの中庭を隔てて向かい合った棟に小さな人影を見付けた。
少女だ。壁に取り付けられた銀色の手摺りを掴んで、危なっかしい足取りで歩こうとしている。 確かにこの施設はリハビリセンターと銘打たれていたが、手摺りに体重を預けて足を踏ん張っている少女は、麻薬の中毒症状の完治を目指しているというよりも、どちらかと言えば骨折で入院をして、再び歩き出す為の訓練をしているように見えた。
傍を工場長が通り掛かる。少女が口を開いたのが見えた。遠目だが、おそらく挨拶のような言葉を口にしたのだろう。注意が逸れ、少女は足をもつれさせて転んだ。
幼い身体が、蛙のような恰好で床にへばりついたまま動かなくなる。工場長はそのまま少女を無視して通り過ぎた。姿が見えなくなる。
国崎は音を立てないように気を付けながらロッカーを出て、やりきれなくなって頭を掻いた。世の中にはひどい人間がいるものだ。しかし、不法侵入者の国崎が関わり合いになるような問題でもないし、手を貸してやった子供にいきなり泣き出されても面倒臭い。周りには誰もいないが、放っておいた方が身の為だ。
「……あー。大丈夫かい、お嬢ちゃん」
それでも無視に徹することができなかった自分は、随分人が良いようだ。 倒れている少女に手を貸して助け起こしてやると、彼女は鈴のような声で「ありがとう」と言った。
ふと、<NEX>の最高責任者が幼女を薬漬けにして囲っているという噂を思い出した。本当かどうかは知らないが、少なくとも彼女の白髪頭は<ライトイレイザー>中毒者特有の症状に見える。
肩まで届く長さのストレートの髪で、目を悪くしているらしく、顔の上半分は包帯で覆われている。その姿は、いつか写真を撮ってやった幼い少女を思い起こさせる。 もっともあの友人の娘が、目の前にいる白髪の少女と同じ位の年頃だったのは、何年も前のことだ。あれから随分成長しているだろう。もう小等部に入学しているかもしれない。
「具合はどうだい?」
国崎は、なるだけ医者に似せた口調で尋ねた。リハビリに励んでいた少女が頭を振る。
「大変。身体の半分が無くなっちゃうって」
「半分?」
少女が頷いた。
「そう、半分。おじさんは、わからないよね」
奇妙なことを言うが、<ライトイレイザー>の患者にしては話し方がしっかりしている。頭が白くなる程汚染された人間は、ほとんどが口をきけない。洞窟に吹く隙間風のようなうめき声を上げ続けることしかできない。
「いや、先生はね、新しくこの病院にやってきたんだけど、まだまだ知らないことが沢山あるんだ。君のその髪は……」
「これ、神様の呪い」
少女はあっさりと言い放った。
「起こしてくれて助かっちゃった。もう一人で大丈夫」
「そ、そうかい、うん」
「私が勝手に部屋を出たの、ママには内緒にしてね」
少女はそう言って、また手摺りを掴んで立ち上がった。頼りない足で歩いていく。
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