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段ボールを頭から被ってトラックの荷台に乗り込んだ後も、国崎の頭の中には、あの目の見えない少女を施設から連れ出してやるべきだったろうかという考えが浮かんでいた。何年も昔にデュエル・アカデミアへ忍び込んで、あのヒーロー使いの少年に出会ってからというものの、こういうふうに悪い影響を受け続けている。
不可能に違いない。国崎は荷物を抱えて動き回れる程器用な男ではない。それでも腹の据わりが悪かった。デッキに入れているヒーロー達のカードに責められているような気分になった。
胸の奥から湧き起こる正義の衝動に突き動かされそうになる度に、立場を考えろと自分を諌めたものだった。あの少年は塵を漁って社会の日陰をうろつく国崎とは人種が違うのだ。<幻の決闘王>と<三流ジャーナリスト>だ。まるで太陽と鼠だ。
皮肉に考えながら胸元のロケットペンダントを開いた。段ボール箱の隙間から射し込んでくる光に照らされて、写真の中の彼は、家族と一緒にこちらを見つめ返してきている。相変わらず幸せそうだ。
トラックは緩やかにサテライトのでこぼこ道を過ぎ、フェリーに乗り込んで、シティの道路を滑るように走っていく。やがて震動が止まり、身体が浮く感覚があった。段ボールが運び出されたのだ。倉庫の中へ放り込まれる時に、硬い地面の上に乱雑に投げ捨てられた衝撃が、しばらく腰の辺りに佇んでいた。
辺りに人の気配が無くなるのを見計らって、箱の中から顔を出した時には、折り畳んでいた手足は完全に痺れていた。まったく息が詰まるし、最低の気分だ。周囲には埃っぽい電灯に照らし出された白い壁と、自分と同じ境遇の段ボール箱が積み重ねられた山がある。中を覗くと、わけのわからないジャンク品が無造作に詰め込まれていた。特に興味をそそられるものはない。
段ボール箱の山を足場にして、天井の蓋を外して奥に潜り込んだ。携帯ライトを点けて格子状の鉄板の上を這い進んでいく。
下から明かりが漏れている穴を見付けて覗き込むと、眼下に清潔な白い廊下と、廊下を行き交う白衣姿の人間が見えた。彼らは白衣の下にきちんとスーツを着込んでいて、襟に海馬コーポレーションの社章を付けている。
更に奥へ進むと、<薬品開発室>というプレートが嵌められた扉の内側で、防護服姿の人間が訳の分からない機械を弄っているのが見えた。まるで宇宙船の修復作業を行っているような光景だ。
透明なケースの中に固定されている、拳程の大きさで、金平糖に似た形をした奇妙な物体には見覚えがあった。情報屋から買った<ライトイレイザー>原石の写真と一致する。
レーザーカッターが球体の原石を切断していき、中にある輝く核を取り出して、金属製の小さなカプセルの中に閉じ込めた。残った表層の部分はプレス機に掛けられ、粉々に砕かれて、ガラスのボトルに詰め込まれていく。
この表層の部分こそが<ライトイレイザー>という名前で出回っている麻薬のはずだが、どうも扱いがぞんざいだ。蓋をされて無造作に並べられたガラスボトルには<卵殻>と記されたラベルが貼り付けられている。
―― 卵?
ここへ来る前に、運び屋が卵の話をしていた。『何の卵だ』、『こんな訳の分からない卵を産む動物がいたか?』―― 確かにその通りだ。何の卵だ?
卵があるからには、卵を産む親がいる。形状は爬虫類の卵に似ているが、蛇やワニの卵に角はない。得体の知れない、嫌な感じがした。『卵』というのが形式上の呼び名であることを祈る。
麻薬の製造工程を余さずデジタルカメラに収めてしまうと、興奮の波が押し寄せてきた。
これは文句無しの特ダネだ。明日のニュース番組は大賑わいに違いない。研究所にはセキュリティの捜査が入り、実験動物にされていたリハビリセンターの患者は解放される。海馬コーポレーションの株価は暴落し、<NEX>も大弱りだ。上手く行けば、国崎は巨悪を壊滅させた正義の味方になれる。祝杯にウイスキーをストレートで呑むのも悪くない。想像すると、帰りがけにバーへ立ち寄るのが楽しみになってきた。
「サテライトはどうでした?」
涼しい声が聞こえた。目を落とすと、人望のない工場長と、サングラスを掛けた研究員が二人で話し込んでいる。工場長は透明なビニールパックを段ボール箱に詰めながら、唾でも吐きそうな顔になった。
「いかれたマッド・サイエンティストなんざ、今すぐ消えた方が世の中のためだ」
「本人、聞こえてますよきっと。地獄耳ですから。さすが<NEX>最高責任者。みんなができることは何もできないけど、みんなができないことは何でもできる」
「……冗談はよせ。本当に思えるから始末が悪いぜ。ふん、化物が怖くて精霊が狩れるか」
工場長は憮然としている。<精霊>とは何かのメタファーだろうか。センターで覗いたデータの内容を思い返してみたが、該当する言葉は無かったはずだ。
「躁鬱病だ、あれは。ガキみてぇにはしゃいでるかと思えば、塞ぎ込んで一言も喋らなくなる。扱いに困る手合いだ。言ってることも全然分からねぇ。頭がおかしいんだな。凡人とはやっぱり違うってことだ。ああいう怪獣を見てると、自分の善人ぶりを再確認するね」
「貴方みたいな人種が大嫌いなはずの先輩が、なんでわざわざ貴方を助けたのか、分かった気がするなぁ」
「なんだ、それは。ふん、大方俺様の知恵が喉から手が出る程欲しかったんだろうよ。奴は頭が悪いからな」
「あはは、面白いですねそれ」
「……まあお偉いさんと言っても、犯罪者になりゃ話は別だ。あの高慢ちきな男女が収容所に繋がれて、全身に電流流されて泣き叫ぶ姿を想像するだけですっとする」
「そんなことさせませんよ。僕の命にかえても」
実直に言う研究員の前で、工場長は、あからさまに嫌そうな顔になっている。
「お前も病気だ。俺の周りは病気ばっかりだ。……と、最高責任者殿はどうした。あの狂人は」
「多分屋上でしょうね。ここは館内禁煙ですから」
「またさぼってんのか。誰か奴をクビにしろよ。まったく、日本は腐ってる」
二人は頭の上にいる不法侵入者には気付きもせずに話を続けている。
<NEX>最高責任者本人がこの建物の中にいるらしいと聞いて、息が詰まりそうな心地になったが、海馬コーポレーションの研究開発部の責任者が社内にいるというのは、何ら不思議な所は無いのかもしれない。
どんな怪物だかは知らないが、機会があるうちに素顔を拝んでおくべきだろう。デジタルカメラのバッテリーはまだ残っている。アポイント無しの取材は得意なのだ。
ぐるぐると螺旋のように回り、果てがないようだった非常用階段もやがて終わりを迎えた。届いた先はトップスの上層階だ。普通の人間は立ち入ることすら許されない、一部の特権階級が独自の生態系を築き上げたテーブルマウンテンだ。
件の天才科学者は、高い塔の上のお姫様なのか、<失われた世界>の恐竜なのか。
その姿は、国崎が屋上へ辿り着いた時にはすでに無かった。一服を終えて研究室へ戻ったのかもしれない。残念に思う反面、どこか安堵した心地で、諦めて引き返そうとした時だった。
どこからともなく、かすかに人の話し声が聞こえてきた。
明るい陽射しの中で、別棟の窓が開け放たれ、カーテンがはためいているのが見えた。声はそこから聞こえてくる。なんだか懐かしい感じのする声だ。誘われるように近付いていくと、唄うように紡がれているのは子供向けの物語のようだった。
「『神様が遣わした天使は、地上に愛を運ぶのが仕事でした。仕事が終わったら、天使は神様のもとへ帰らなければなりません。天使に恋をしたわるい王様は、天使が助けてあげようとする人間がいなくならないように、いつもみんなを困らせておくことにしました』」
心地良いトーンだ。ページを捲る紙擦れの音が鳴った。
「『みんな王様がきらいになって、やがて力を合わせて殺してしまいました』」
昼下がりの眩い光が、建物に白と黒のコントラストをくっきりと刻み付けていた。物騒な朗読はまるで子守唄のようで、耳に柔らかく馴染んで、眠くなってくる。部屋の扉は開いていた。気持ちの良い風が通り抜けていき、通路を挟んで四つずつ並んだベッドの上に横たわった白痴達の髪を撫で、朗読者の長衣を翻らせた。
「『でも優しい天使だけは、わるい王様をきらわずに、ひとつだけ王様の願いを聞いてくれたのです。王様は言いました、天使と一緒に』――」
そこで声は途切れた。少しの間を置いて、ひどく後ろめたい望みを口にするように、「『神様のもとへ』」と付け加える。
はじめはそれが、白いドレスを着た女だと思った。現実味のない幻のようだった。
傍へ来て見ると、白衣を羽織った会社員だった。金色の社章も襟にきちんと付けている。男でもあって女でもあるし、男でもないし女でもない。
<ライトイレイザー>という麻薬を製造し、数多くの人体実験に手を染め、その天才的な頭脳ゆえに世界に不安と混乱を撒き散らす。<NEX>最高責任者の天才科学者は、そんなふうに絵に描いたような悪人であるはずだった。
心を壊された子供達に読み聞かせていた絵本を閉じて、国崎が胸にいつも下げているロケットの中の<正義の味方>と同じ顔が―― 遊城十代が、目が合うと少し微笑んだように見えた。
双眸は橙と緑の虹彩異色症で、光が灯っていない。まるで遊城十代に似せて造られた魂のない人形のようだ。白痴の子供達に囲まれている方が余程空っぽに見える。
十代の生命力に溢れた表情を知っている。野暮ったくて垢抜けないが、くるくると面白いくらいに変化して、不思議と見ている人間を惹き付ける印象があった。
あの顔がどうしてここまで絶望に染まるのか、理解が追い付かない。
「原典なんだってさ。こっちの方が好きだ」
十代が言った。
「救いがなくていい。新訳版を知ってるか? 嫌われ者の王様が天使のおかげで皆に好かれるようになって、死んだ時は国中の人に悲しんでもらえるんだ。ありえないだろ。悪い奴の最期はもっと惨めで寂しい結末であるべきだ。そうじゃなきゃ、悪い奴が救われても、ひどい目に遭わされた奴らに救いがない」
空中に通信パネルが開いた。サングラスを掛けた警備員が映り込んでいる。
『ご無事ですか、遊城博士。警備部の配置が完了しました』
「いい。来るな。下げさせろ」
面倒臭そうに十代が腕を振る。椅子に座ったまま、国崎の方へ顔を向けた。
「<NEX>最高責任者……遊城十代、か?」
十代が頷いた。悪い夢を見ているような気がした。
国崎は、首に下げたロケット・ペンダントを十代に投げてやった。繊細な長い指が銀色のチェーンを絡め取って、ペンダントの蓋を開ける。「まあ見てくれ」と国崎は言った。
「俺の友達の写真さ。そんな写真持ち歩いてるなんざ変だろうとは自分でも思うんだが、俺には友達と呼べるのはそいつしかいなかったからな」
写真の中にいる過去の十代は、今の幽鬼のような姿からは想像がつかないくらいに優しい表情で、外国人の夫と一緒に双子の子供達の肩を抱いていた。
注意深く十代の表情を探ってみたが、家族の写真を見ても眉一つ動かさない。もしかすると十代は記憶を無くしているのかもしれないし、誰かに催眠術でも掛けられたのかもしれない。少なくともそちらの方が、あの太陽のような少年が狂人に変わり果ててしまったというよりも、いくらか現実味があった。
「そいつはアカデミア時代からヒーロー使いで、大人になったら世界大会の王者になった。子供達のヒーローさ。本物だ。結局、決闘王を名乗るにはどうしても超えなきゃならない人がいるとかで新決闘王の称号は辞退しちまったが、そりゃいいデュエルをやった。あの頃はそいつのデュエルを世界中に知らしめてやるのが、ジャーナリストの端くれとして誇らしくてしょうがなかった。正義の心がくじけそうになった時は、そいつのデュエル記録を見て踏ん張った。そいつが結婚した時も、幸せそうな顔をしてるのが嬉しくてしょうがなくてよ。家族の写真も撮ってやったんだ。それが、その写真だ」
国崎康介というデュエリストは、死に物狂いで努力をしても、結局本物にはなれなかった。なけなしの自尊心を保つために、デュエルをたかがカード・ゲームだと馬鹿にして、プロ・リーグから逃げたかつての国崎を、十代の学園代表選出デュエルは救ってくれた。自分なりの正義を追及しようという熱い心を呼び戻してくれた。
歳は取ったが、デュエルの腕はまだ錆び付いていない。腰のデッキケースを開いて、デュエル・ディスクを腕に装着する。
「俺とデュエルしろ、遊城十代」
国崎は言った。
デュエルで人の心を動かすことができると証明してくれたのは、他ならない十代だった。あの頃の純粋少年がそうしたように、デュエルを楽しむ心を呼び戻してやれればいい。
闘う相手が遊城十代ならそれができると国崎は思った。
デッキからカードを引き、<スカイスクレイパー>を発動する。乾いた白い壁を紺色の絵の具で塗り潰すようにして、真夜中の摩天楼が出現した。十代も、一際背の高いビルの天辺で、満月を背にして尖塔に立っていた<フレイム・ウィングマン>を覚えているはずだ。忘れるはずがない。十代自身の魂のフェイバリットだ。あれは格好良かった。
しかし、偽物の月明かりの下で見る十代の眼は、言葉にできない程の深い闇を孕んだものだった。踏み込んではならない深淵がそこにある。
人間じゃない。人間はこんな目をしない。
背筋が冷たくなり、両手が痺れて、口のなかがいやに粘ついた。恐怖がそれをもたらしたのだと気付いて、国崎はやりきれなくなった。遊城十代を、心の中にある揺るぎのない芯のように思っていた自分が、十代当人を化物のように恐れているなど、とびきり性質の悪い冗談だ。悪夢だ。
「あんなに楽しそうにヒーローを召喚してたお前に一体何があった。家族はどうした。麻薬と金と血で汚れた手で自分の子供を抱くのか。家に帰れるのか。人間を玩具みたいに弄びながら、家族に愛してるって言うのか。お前の旦那は、双子達は……」
「死体は、喰っちまった」
十代が言った。それは、かつてのヒーローの中にはまだ正義の心の欠片が燻っているに違いないという希望を打ち砕くには充分なくらい、冷酷で、世界を拒絶する悪魔の声だった。国崎は叫んだ。
「遊城十代、オレを救ったお前がどうしてこんなことになった!」
「国崎さん」
十代が名前を呼んだ。
「……覚えてたのか」
国崎は驚いた。沢山の人間を魅了してきた十代が、国崎の名前をまだ記憶に残していたらしい。
風になぶられて、白衣の裾が翻る。科学者にはおおよそ不似合いな赤い服が覗いた。十代が座り心地の良さそうな無垢材の椅子に腰を掛けたまま、トランプを弄ぶようにデッキを繰っている。デュエルが楽しいものだと説くのが気恥ずかしくなってくる位に気だるげだ。
「見られたからには、生かして帰さない」
それは、絵本の続きを朗読するような調子だった。十代がカードを一枚引き抜いた途端に、周囲の空気が変質する。相対していると、呼吸が上手くできなくなった。
それが本能的な恐怖によるものだと、国崎はすぐに気が付いた。
昔、サバンナへ野生動物の撮影に出掛けたことがある。月のない夜中に、捕食動物がいつ現れるのかも知れない草原に寝転び、完全な闇の中で息を潜めていたあの感覚にとても良く似ていた。
いくら相手が<幻の決闘王>だと言っても、びびり過ぎだろう。自嘲する。相手は痩せた男女だ。いざとなれば人質にして、力ずくでシティを脱出することもできる。
十代は引いたカードを確認もしないで、無造作に国崎に向かって突き付けた。
「何でもいいや。攻撃表示で召喚」
たとえ十代でも元プロ・デュエリストを舐め過ぎだ。怒りが湧いてきたが、窓から金属製の巨大な腕が突き出してきて、子供が人形遊びをするように国崎の全身を壁に押し付けた時には、すでに何も言えなくなっていた。
―― これは何だ?
―― 巨大ロボットか?
―― こんなに馬鹿に大きな怪物が、今までどこに格納されていた?
十代は王者然として椅子の上にいる。まるで絵画のモデルのようだ。国崎の混乱など意にも介さない。
「摩天楼のヒーロー達なんて所詮は御伽噺さ。正義の味方は無責任だ。夢が覚めれば消え去ってしまう。現実が帰ってくる。そこでは優しいだけじゃ誰も救えない」
そして、ようやく立ち上がった十代が、標本にされている昆虫のような恰好の国崎の前にやってきて、足元に落ちているカードを拾い上げた。十代自身も所持しているはずの<スカイスクレイパー>だ。細い指で軽く摘んで力を入れると、カードは簡単に歪んだ。十代の意図に気付いて、国崎は叫んだ。
「やめてくれ……返してくれ、俺の宝物を!」
十代は躊躇もせずに<スカイスクレイパー>を破り捨てた。紙が破れる音が、やけに絶望的に聞こえた。
「この世界にヒーローなんていない」
かつてのヒーローが、ばらばらにされて床に棄てられたカードを、赤い靴の底で踏み躙っている。
救いようのない光景だった。
巨大な鋼鉄の腕が軋みを上げて、白くて清潔な壁に罅を入れていく。やがて突き通されるようにして、国崎の身体は空中に放り出されていた。トップスの上層階から遥か下に広がる地上までは何の遮蔽物も無い。
視界がぐるりと一回転し、ビルを覗き込む<ジェネクス・ガイア>の全身像を見た。ソリッド・ビジョンではなく本物の質量を持っている、十代が召喚したモンスターが、墜落していく国崎を不気味に見つめていた。
国崎康介は遊城十代という人間がとても好きだった。親愛を感じていた。良い奴だから幸せになって欲しいと思っていた。他人の幸せを願えるくらいなら、自分もまだ棄てたものじゃないと思えていた。
今は、十代に怒りを感じているのだろうか。悔しいと思っているのだろうか。
分からない。
―― 高層ビルの天辺から落下した自分が何故生きているのか、怪我ひとつ無いのか、国崎には良く分からなかった。そんな不可思議な現象よりも、ただ無性に悲しい。涙が止まらない。
しばらく経ってから、涙が乾くと無感動がやってきて、何も感じなくなった。
ただ、無性に酒が呑みたくなった。
翌日の朝刊の一面は、用意していたものとはまるで別の記事に差し替えられていた。
<NEX>も<ライトイレイザー>も無い。冴えないが、正義を貫くのが信条の新聞社が発行したものだとは思えない。ただの醜聞の寄せ集めだ。
「どういうことですか! 編集長!」
国崎が机を叩いて直談判すると、小太りの編集長は落ち着いた物腰で、ただしはっきりと言い放った。
「うちはもう君とは取引をしない」
「俺のスクープを見ただろう!」
わからず屋の編集長に見せ付けるように記録媒体を呼び出して、絶望的な気分になる。データはすべて下品なゴシップ情報に書き換えられていた。
「そんな低俗でくだらない記事しか書けないジャーナリストに回す仕事はない。もうここへも来ないでくれ」
「待て、本物のデータをどこへやった!?」
「そこにあるだろう。君のものだ」
「ふざけるな! あの<ライトイレイザー>中毒患者を使った人体実験の実態を、麻薬の製造現場を、あんたも見ただろう!」
食い下がっている国崎の肩を、後ろから叩く者がいる。振り向くと、セキュリティの捜査官が二人連れで立っていた。おんぼろビルの入口には、乗り付けたパトカーが停まっている。
「ジャーナリストの国崎康介さんですね。トップスへの不法侵入の疑いで本部へ連行します」
捜査官が言った。すぐに事情を悟って、編集長を睨み付ける。
「あんたが垂れ込んだのか」
この男が、海馬コーポレーションと癒着しているセキュリティ上層部に報告したに違いない。世の中は腐りきっているにも程がある。
「正義はどこにあるんだ!」
セキュリティに強引に引き摺られながら、国崎は叫んだ。
「……馬鹿な男だ」
部屋の扉が閉じる間際に、編集長の声が聞こえた気がした。
「どこからシティへ入り込んだ。身分証も偽造されている。政府のスパイだろう」
セキュリティに尋問を受けながら、『そうであることを証明するのは簡単だが、そうでないことを証明するのは非常に難しい』という有名な比喩を思い出す。この拷問まがいの尋問は自白するまで続けられるはずだ。法治国家が聞いて呆れる。治安維持局の独裁都市だとは聞いていたが、もう少しましだと思っていた。
「何故黙っているんだ、答えろ!」
裁判もそこそこに収容所へ送られて、独房に放り込まれてから、国崎は取り上げられずに済んだロケットペンダントの中の写真の顔を、マジックで黒く塗り潰した。
ヒーローなんかいない。
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