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わけあって、蝙蝠傘と革鞄だけを持って船に飛び乗り、長い旅に出た。
巡り巡って東の果ての小さな島国に辿り着いたのは、この国の年号が変わってすぐの頃だった。
大正五年秋、二年前に勃発した欧州大戦の影響で、外国からの物資の輸出入が滞り、身内のお古のインバネスコートが下宿先の教会に届いたのは、つい先日のことだった。まだぶかぶかだが、立て襟の洋シャツの上に羽織ると暖かくて重宝している。戦争の最中にあって、故郷はいまだに中立を貫いているそうだ。
庭先のクヌギの木に、英国製のトライアンフが激突するのが見えた。ヨハンが読みかけの詩集をベンチへ置いて駆け付けると、洋装の少女が煉瓦道の上に仰向けの恰好で倒れている。自分の身に何が起こったのかをまだ理解していないらしく、驚いたように目をまるく開けている。
「君、大丈夫か?」
手を差し伸べると、その人は木漏れ日が眩しそうに瞳を眇めて、まずはじめに、「オレの自転車、どう?」と口にした。耳に心地の良い、柔らかい声だ。
ヨハンは少女の横で倒れている満身創痍のトライアンフを観察した。骨幹部分が捻じ曲がっていて、特にハンドル部分の損傷がひどい。針金が飛び出していて、どこか異郷の地の墓標のようにも見える。これで乗っていた人間の方に怪我らしい怪我もない様子なのは、ほとんど奇跡に近い。
「何とも言えないな」
「やっちまったなぁ。今年の誕生日プレゼントなんだよこれ。前のも半年で壊れちゃってさ」
少女は喋り口調も、両手を髪の中に突っ込んで乱雑に掻き回すのも、まるで<お嬢さん>らしくない。あぐらをかいているから、柔らかそうな肌が太腿まで剥き出しになっている。目の毒だ。起き上がると少女は片足立ちになって顔を顰めた。転んだ時に靴の踵が壊れてしまったようだ。
「あーあ、靴も駄目になってる。気に入ってたのに」
「自転車は自信無いけど、靴ならすぐに直せるぜ。中へ入れよ」
「本当か? ちょっと待って。靴脱ぐから」
「裸足じゃまずいな。足を傷付けるかもしれない。おぶされ」
少女は異国人に気後れするでもなく、気安い仕草で、健康そうな腕を後ろからヨハンの首に回した。両腿を抱えて背負うと、羽根でも詰まっているかのように軽い身体だった。背中に柔らかい胸が当たって、心臓が停まりそうになる。努めて平静を装っているヨハンの耳の傍で、少女が無邪気に「ありがとう」と囁いた。
「お前、いい奴だな」
「いやあ、それほどでもあるかも」
「異人さん教会に住んでんの?」
「居候みたいなもんかな」
「イソーロー?」
「ああ」
「日本語上手いよな」
「旅をしてる途中だったんだけど、この国が大好きになって、日本語を勉強するために留まったのさ」
それが、その人と交わした最初の会話だった。
古本屋街に出向いた帰りに、またその人に出会った。駄菓子屋の店先にしゃがみこんで、色とりどりのめんこを物色している姿は、やはり少年のようだが、振り向いて見上げてくる目は栗鼠のように愛くるしい。
「おトヨさん」
「あ、<鐘突き教会>の異人さん。『おトヨさん』って、江戸時代じゃあるまいし」
少女が、澄んだ音を立てる鈴のように笑った。
<鐘突き教会>とは、ヨハンが下宿をしているテテュス教会の通称だ。ヨハンの故郷にある地母神信仰のアイリス教会よりもずっと大きく、毎日正午と夕方に一度ずつ鐘を鳴らして、街中に時間を知らせている。
「お嬢さん、甘いものでもどうかなぁ?」
「喜んでご一緒するぜ」
小さな足を包んでいる赤い洋靴の踵が、石畳を叩く度に軽快な音を立てている。先日ヨハンが踵の修理をやった靴だ。隣に並んだ少女が、感心した様子でヨハンを見上げてくる。
「この靴、あんたに直してもらってからすっげぇ調子が良いみたいなんだ。異人さん、器用なんだなぁ」
「靴屋の息子なんだ。壊れたらまたいつでも呼んでくれ。それにしても、この辺で洋靴を履いてるお嬢さんなんてレアだぜ」
「子供の頃からいつも洋装だったんだ。母様が好きだったんだろうな。オレが女学校に入りたての頃は袴だったけど、去年から洋装制服に切り替わったんだよ。こっちの方が馴染んでるし動きやすい」
「へぇ。良く似合ってる。君の母上は趣味が良いな」
「うん、きっとな。母様は、肺を悪くしちまうまでは良く夜会服を着て、麹町の社交クラブに出掛けてた。きらきらしたものが好きだったんだよ。オレには良くわかんないけどさ。異人さんはどこから来たの? 英吉利? 仏蘭西?」
「もっと北の方からさ」
少女は、この街の海沿いにある女学校に進むまでは、毎年夏が来ると山の手の洋館へ避暑にやってくる<お嬢さん>だった。
ヨハンは、いつも少女が坂道を自転車で風のように降りてくる姿を、教会の窓から見ていた。銀色の車輪が陽射しを反射して白く輝く。颯爽とした姿が恰好良いなと思っていた。往々にして自転車は代替わりをした。理由は、危なっかしい余所見運転を見ていればおのずと知れた。
少女の父親は地元でも有名な名士で、今は童実野鎮守府へ司令長官として出向いているということを知っている。貧しい風来坊には高嶺の花に過ぎる女性だ。許婚もいるそうだ。叶わない恋だったが、姿を見ているだけで幸せだった。
だから今その人と二人で甘味処ののれんを潜るのが、まるで夢みたいだと感じていた。
席に着いて二人分のみつまめを注文すると、給仕の娘がヨハンの青い頭を不思議そうにして見つめていた。居留地界隈から離れると、外国人はまだ珍しいようだ。
「それ、なに?」
少女が身を乗り出して、ヨハンが横に積んでいる本の束を覗き込んでくる。中でもとりわけ色の鮮やかな絵本に目を惹かれたようだった。
表紙には<人魚姫>と題名が入っている。この国ではほとんど見掛けることがない故郷の言葉で書かれていて、懐かしさについ手に取ってしまった絵本だ。差し出すと、どんぐりのような瞳が瞬きをして、少女らしい手が頁を繰っていく。
「綺麗な絵だな。字は読めないけど。えっと、女の子が虹色の泡になって、それから広い海とひとつになれて、最後は嬉しくて泣いちゃう話?」
「そう思うか?」
「だって、絵本なんだろ。主人公はどんなに辛い目に遭っても、最後は幸せにならなきゃ」
「……ああ。そうだよな」
その人が言うなら、きっとそうなのだろう。少女は穢れを知らないまま、春先の柔らかい夜のように優しい世界で生きていて、まだ子供らしさを残した指が触れるのに、悲劇的な結末は似合わない。人魚姫は陸の生物には見向きもせずに、美しい海の中で幸せな完結を迎えたのだろう。それでいい。
「異人さんは沢山勉強して牧師さんになんの?」
「いや、実は学者になりたいんだな。昆虫学者」
「へえ、虫が好きなのか。オレも虫捕りが好きだぜ。なぁ、今度一緒に山へ行かないか? かぶと虫とか、珍しい蝶を探すんだよ。女学校じゃ誰も相手になってくんないんだもん。そういうのは服が汚れるし、淑女のやる遊びじゃないってさ。みんな楽器の演奏ができたり、花を生けたりするのが偉いと思ってるんだ。息ができなくなりそうだぜ」
確かに奔放で少々おてんばが過ぎるその人の存在は、女学校の中では浮き上がって見えるのかもしれない。
二人で過ごしていると時間を忘れる程に楽しくて、気が付くと日が暮れ掛けていた。
「さてと、そろそろ出よう。送るよ。お嬢さんは夜遊びなんかしちゃいけない」
「気にすんなよ。うちに帰っても怒るような人はいないって。母様はオレが小さい頃に肺の病気で死んじまった。結核だったんだよ。父様は年号が変わってすぐ童実野の方に出て行って、あれから会わないし」
「そりゃ寂しいな」
「いや、ちょっとほっとしてる。うちの父様、なんか大きくて怖いんだよな」
「熊でも見たような感想だな」
「うん、髭がもじゃもじゃで熊みたいだ。無口な人だから、何を喋れば良いのかわかんないんだよ」
「その熊みたいな君の父上に、俺は悪い奴だと思われたくないんだ。また声を掛けてくれ。俺はいつでも教会にいるから」
「約束だぞ? 次は虫捕りな」
少女は念を押すように言った。
ただ、指切りまでしたのに、その約束が守られることは無かった。
少女は間もなく母親と同じように肺を患って、住んでいる屋敷の離れに隔離されることになる。
庭の片隅に控えめに建っている平屋の小さな離れは、蔵を改装したものらしく、どことなくいかめしい印象があった。扉には白い花束が飾られている。窓枠の上にはガラスの花瓶が置かれていて、赤い花が生けられていた。今日もヨハンが訪れて窓を開けるまで、部屋は閉め切られていた。空気が篭っている。
ベッドの上で退屈そうに剣玉を弄っていた少女は、顔色の悪い頭を気だるげに上げ、ヨハンを一瞥すると頭からシーツを被ってしまった。
「うつるからもう帰れ。こっち来んな」
「感染はしないさ。今までいろんな所へ旅をして来たんだ。疫病が流行ってるところも通ったし、鼠だらけの不潔な船倉で寝泊まりしていたこともある。でも生きてる。きっと神様に嫌われてるんだ、俺は。花、綺麗だな。家の人が?」
「ああ……それ、あすか、ええっと、オレの元許婚からお見舞いだって。あいつ良い所のお坊ちゃんだからさ、ここへは来れないんだ。周りがうるさいんだろうな。今朝お医者さんが持ってきてくれた」
「元?」
「一応許婚だったんだけど、オレが病気になったから破談になったんだよ。そいつ、幼馴染なんだけど、両方とも親に勝手に婚約者を決められて、かなわないよなっていつも話してたんだ。ことあるごとにがさつだとか、お嬢さんらしくしろとか、うるさい奴でさ。あいつもオレみたいなのと結婚しなくて済んで、今頃ほっとしてると思うぜ。でもいい友達だったんだ」
「そっか。良かったぜ」
「なんでヨハンが嬉しそうな顔をするんだよ」
「じゃあ君は俺と結婚できるじゃないか」
その人は、驚いたようだった。シーツから頭を上半分だけ出して、しかし、すぐに引っ込めてしまうと、寝返りを打ってヨハンから身体を背けた。
「駄目だ。それじゃヨハン、すぐにひとりになっちまう」
ヨハンは肩を竦めて、木製の椅子を引いてベッドの脇に座った。シーツの上から少女の背中を撫でて、手を握ると、安心した様子で肩から力が抜けていく。
「きっと治るから諦めるな。そばにいるから」
「……うん」
その人は振り向かないまま、ヨハンの手を強く握り返してくれた。髪の間から覗く耳が赤くなっている。
「オレ、また元気になったらヨハンの奥さんになる。なったら、沢山子供を産むんだ」
少女が言った。窓の下には、その人のお気に入りの赤い靴が置かれている。持ち主に早く外へ連れ出してくれるようにせがんでいるようにも見えた。
ふとヨハンは、世話になっている教会の礼拝堂で、木製のベンチに少女を座らせて、壊れた靴を直していた時のことを思い出した。
―― 君の名前は、『ユウキジュウダイ』?
―― 『ゆうじょう、とよ』だよ。
―― 日本語は不思議だな。ひとつの言葉がいくつもの可能性を持ってる。
―― 可能性か。良い言葉だぜ。好きだな。
あの時の少女の健康的で伸びやかな手足は、野生の小鹿を思わせた。今はもう存在しないものだ。目を逸らしても無駄だった。少女の肉体は、死に糸を絡められて、ゆっくりと手繰り寄せられている。
もちろんヨハンは口にしなかった。少女自身も気が付かないふりを続けながら、そうやって残り少ない命をすり減らし続けていた。
それから、貧しい靴屋の息子の異邦人と、人々に忘れ去られた少女は、もう誰に口を出されることもなく、まるで夫婦のように親密に僅かな時間を過ごした。
ある冬の朝に、その人が言った。
「百年くらい、待っててくんねえ? きっと生まれ変わって、もう一度会おうぜ」
ヨハンはすぐに頷いた。
「どれだけ時間が掛かろうと、もう一度巡り会おう。待ってる」
* * * * *
外の世界は今日もひどい吹雪だ。黒々とした針葉樹の森の向こうからやってきた旅人が、礼拝堂のベンチに座って、文字通り凍り付いた身体をストーブの前で暖めている。
もう少し見付けるのが遅ければ、その人はひっそりと雪に埋れて凍死していただろう。そう考えてから、あり得ないことだと気付いた。
その人は今や人知を超えて、誰にも傷付けられない不死身の竜の肉体を手に入れた存在だ。春になって雪が融ければ、また何事も無かったかのように起き上がって教会の扉を叩いたのかもしれない。
化物じみているが、不思議と恐ろしくは無かった。遠い過去の思い出達がそうさせたのだろう。
このアイリス教会は、年月の重みを感じさせる重厚な石造りで、祭壇の真上に嵌まっているステンドグラスには七色の虹が描かれている。母なる大地と天空に架かる虹を繋ぐ者であるアイリス神は、虹の女神であるともされ、この辺りでは古くから存在する土着の信仰だ。
ただ、その都会育ちの<闇を統べる覇王>にとって、神々は絵本の中に綴られる御伽噺と大して変わらないのかもしれない。遠い昔から人々に崇拝されてきた女神の下にあって、悪魔が何食わぬ顔をしてくつろぎ、あくびまでしているのは、やはりおかしな光景だった。
両性具有の悪魔の足は、右と左でちぐはぐだ。柔らかい女性の特徴を持った右足には、ヒールの高いブーツを履いている。反対側の左足は関節の骨が目立ち、右足よりも少し大きい。こちらは平らなゴム底だ。左右の身体の釣り合いがいびつなその人の為に、特別にあつらえられた物のようだ。
その赤いブーツのヒールが、この教会への道中、おそらく雪山を登ってきた時に折れてしまったらしい。薪ストーブの火に当たっている暇に、修理をやっているのを、虹彩異色症の眼が興味深そうに見つめていた。
「器用だな」
その人は元通りになった靴の裏を感心した様子で見つめて、口笛を吹いた。
「靴屋の息子ですから。『ユウジョウトヨ』さん?」
「『ゆうき、じゅうだい』だよ」
その人が笑った。つられて笑うと、ひどく懐かしい心地になった。まだ少年だった頃の思い出が鮮やかに蘇ってきて、あれから過ごしたとてつもなく長い年月が、まるで一晩の間に過ぎて行った儚い夢のような気分にさえなった。
「日本語は不思議です。ひとつの言葉がいくつもの可能性を持っている」
「可能性か。いい言葉だぜ。好きだな」
チョコレート色の頭が傾いた。その人は俯いて、喉の奥で意地悪く笑ったようだった。
「―― 茶番だ」
「そうですね」
『ヨハン』は、頷いた。
「私の愛した人は、もういない。それを理解するまでにこんなにも掛かってしまった」
その人は遊城十代という。
かつての面影を残しながら、まったくの別物に生まれ変わってしまった存在を前にすると、あの頃と変わらない愛しさと、置き去りにされた寂しさが込み上げてきた。
「なぁ『お義父さん』」
十代が、面白がるように異形の瞳を眇めて首を傾げた。
「あんた、前世のヨハンだよな」
「ええ。ちょうど、百年ぶりです」
『ヨハン』は溜息を吐いて、頭を振った。
「私は、こんなに歳を取ってしまったけれど、君はあの頃と変わらず美しい」
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