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血が飛び散っていくさまは、赤い花びらが風の中を舞うようだと思った。パパの宝石みたいなエメラルド色の眼が、細く眇められて、眉間に皺が寄った。焦げ臭いにおいがする。ママが料理を失敗した時や、余所見をしていてアイロンでシャツを焼いた時とは違う、癖のある嫌な臭い。パパがいつも着ているお医者さんみたいな白衣が、鮮やかな赤に染まっていた。
「大丈夫か、龍亞。大丈夫か、龍可?」
眉を下げたパパが、私と、兄の龍亞の顔に飛んだ温かい血の染みを、長い指で拭ってくれた。額には脂汗が浮いているけれど、私の左隣で怖がって泣き出してしまった龍亞を優しくあやしてくれた。
「本当にいい子達なんだ」
パパが言った。肩から背中にかけて、カードを撃ち込まれた皮膚が焼け爛れている。大切な人が傷付いた姿を見て私は、初めて怖いという気持ちを知った。
ほんの数分前のことだ。窓ガラスを割って、急に家の中に押し入ってきた男の人が、カードを選んでデッキを組んでいた私と龍亞にガンタイプのデュエル・ディスクを向けた。人が人を殺す為に造られたディスクなんて見たことがなくて、まるでテレビの中にいるみたいにリアリティがなかった。
私達を襲ったのは、パパと同じ外人さんだ。この国の人じゃない。チョコレートみたいな肌の色をしていて、目つきが鋭くて怖い。トリガーを引く指に躊躇いはなかった。パパが私と龍亞を抱き締めて守ってくれなかったら、きっと私は死んでいたし、一心同体の龍亞も一緒に『そう』なっていただろうと思う。
私には、死ぬっていうのがどういうことなのか分からない。生まれてから三年が経つけど、私はまだ死んでしまったことがないから知らない。庭の草木が枯れたり、真夏に沢山鳴いていた蝉がある日急にいなくなったりすること、つまり消えてなくなってしまうことだとは知ってる。それは全部、季節が冬に向かい始めると一斉に起こることだから、死は耳が痛くなるくらいに冷たくて寒いことなのかもしれない。
でもやっぱりまだよく分からない。ただパパが怪我をして、龍亞がいつも怖がって逃げ回る注射よりもずっと痛い思いをしている。それは、いろんなことをまだまだ知らない私にもわかった。
「そりゃ人とはちょっと違うところがあるかもしれないけど、それでも俺のかけがえのない子供たちなんだ」
パパはそう言って、床に手を付いて頭を下げた。時代劇で、困っている街の人や、悪いお侍さん達が一番偉い人にそうするように。頭が良くて何でもできるパパのそんな姿を見るのは、何だか嫌だった。
「頼む、殺さないでくれ」
黒いおじさんは無表情で、探るような目をしてパパと私と龍亞を見た。
私は、私達のことでパパが格好悪い真似までして命乞いをするのを見ていると、胸が締め付けられるような気持ちになる。龍亞が女の子とひとつに繋がった生き物なんてちゃんとした男の子じゃないと馬鹿にされたり、私と龍亞がこんなふうに生まれてきたのはママが奇形なのが悪いんだって悪口を言われた時のように、私の胸の中を、憎悪と敵意が真っ黒に染める。
「パパに怪我させた。龍亞を泣かせた!」
私は家族を傷付ける人を絶対に許せない。腕を突き出して、生まれ持った悪魔の力を解放する。
「<ナイトメア・ペイン>!」
「―― 駄目だ龍可!」
パパの腕が素早く伸びてきて、私の頭を抱き締めて目隠しをした。
「人に力を使っちゃいけない。傷付けちゃいけない。お前達は精霊と人間の架け橋なんだ。十代も強大な力を持ってる。でも、力を正しいことに使うことができる。だからみんなに愛されてる。たとえ化物と呼ばれようと、絶対にあいつを見捨てない仲間がいる。俺の誇りだ。俺は、お前達も十代みたいに優しい子になって欲しいと思ってる」
頭に血が上りきっている私を諭すパパの声は、落ち付いていて穏やかだった。でも濃密な血の匂いは、パパが私の目を塞いでも隠しようがない。それが怖くて、すごく喉が乾いてくる。冷たい水が飲みたいと思った。
パパが血染めの白衣の上から、左腕にデュエル・ディスクを装着する。デッキがオートシャッフルされて、カードが引き出された。
「その為に俺が傷付くことなんて何でもないのさ。オブライエン、本当にこの子達を殺すつもりなら俺が相手だ。俺は俺の夢を命に換えても守ってみせる」
宝玉獣が私達を守るように取り囲んでくれる。オブライエンと呼ばれた黒いおじさんは、少し間を置いて、ガンディスクを下げた。
「オレは傭兵だ。金さえ貰えば何でもする。怪物を倒すのがオレの仕事だ。……だがどこにも怪物はいなかった。聞いていた話と違う」
オブライエンが頭を振る。パパの肩から力が抜けた。
「……ありがとうオブライエン」
「オレは傭兵だが、命を賭けるに値しない依頼は受けない主義だ。戦友の子供を消せという依頼を受けたのは、これは間違ったことだ。だが間違っていても、どうしても確める必要があった」
ガンディスクをリロードしながら私達の方を見るオブライエンの目はまるで、今は見逃してやるけど、本当は私達双子がこの世界から消えるほうが正しいって言っているみたいだった。龍亞がまだ泣いているから、私は龍亞の肩を抱いてあげた。
「怪物が『再び』現れた時に、それと対峙するのはオレの使命だ。それがオレなりのあいつへの敬意の表し方だ。オレがやらなければならない。この任務、オレ以外にも雇われた兵士が何人もいた。奴らは皆依頼を受けて間もなく死んだ。この意味が理解できるか?」
「どういうことだよ」
「……分からなければそれでいい。だが理解しようとしまいと、ヨハン、お前達が世界を敵に回したのと同じように、世界は確実にお前達に牙を剥いている。お前達は多くの者にとって悪だ。かつてコブラがやろうとしていたことを、そっくりそのままトレースしている」
「それでもいいさ。悪で構わない。俺さ、ずっと分かんなかったけど、最近やっと分かったんだ。子供を持つ親になるって、家族を手に入れるってのがどういうことなのか。もしも子供を亡くしてしまった時に、父親はどういう気持ちになって、どう動くのかっていうのも想像できてしまう。確かにコブラは間違ってた。でもそうせずにはいられなかったんだ。親は、子供を救うためならそれが正義だって悪だって関係ないんだ。神にだってユベルにだって、いくらでも魂を大安売りしちまうんだ」
パパの声は、血を失い過ぎて気だるげなものに変わってきた。瞼を閉じると、ママの悲しそうな顔が見える気がした。私達のせいでパパが酷い目に遭っているんだから、あとでママは私達を悪い子だって怒るべきだ。
「……十代を大切にしてやってくれ。奴はお前という光が傍にある限りは、闇に染まりきらない」
オブライエンはそう言い残すと、ガンディスクを腰に差して、身軽に窓枠を乗り越えて姿を消した。すぐにパパが、身を寄せ合っている私達を抱いてくれた。いつも龍亞がデュエルで負けて泣き出した時にしてくれるように、「よしよし」と能天気にあやしてくれる。
「ごめんな、二人共。怖い目に遭わせた。もう大丈夫だ」
パパの背中は、いつも私と龍亞とママを守って傷だらけだ。
私達は普通の人とは大分違っていて、決して人間世界に歓迎されていなかった。外の世界に住んでいる、私と同じくらいの子供達は、まるでお化けに出会った時みたいな目で私と龍亞を見る。愛してくれる大人はパパとママと、あとはほんの少しの変わった人達だけ。皆の輪の中に馴染めない。
時々私はこの人間世界にいて息をしているのが、すごく悪いことのように思える時がある。今みたいに。
「パパ」
私は、いたわりと慈しみに満ちたパパの目を覗き込んで、悪魔の力を使って心の闇を伝っていった。パパの心は精霊に守られているけれど、私はパパの心の闇が何なのかを、わざわざ心を覗かなくても知っている。ママと私と龍亞を守る為に、パパは強くもなれるし脆くもなる。家族への愛情こそがパパの心の闇だった。
私には、人の心に巣食う闇を見て、その弱さや後ろめたさにつけ込んで相手を支配して、好きに動かすことができる力がある。私は自分の腕を動かすように、パパの腕を動かした。大きくて優しい手が、私の首を掴むように。そして強く絞めて、息を止めるように。もしくは、簡単に骨を折るように。
「龍可!? 何をしてるんだ、やめろ!」
パパが驚いて叫んだ。怪我のせいで青くなっていた顔色が、もっと真っ白になる。私はパパを見上げて、「もういいの」と言った。
「私がいたらまたパパが傷付けられる。パパもママも悪者にされちゃう。知ってるの。私達を育てる為に、沢山の人が傷付いてる。私、パパとママに好きでいてもらえる優しい子でいたい。だったら、これ以上誰かの命を奪って生きるのは変よ」
意識が残っている人を操るのは、随分骨が折れた。私の力はまだ弱くて、ママがやるみたいには上手くいかない。
ゆっくりと首を絞められて、呼吸ができなくなっていくのは、想像していたよりもずっと苦しいことだった。でもそれは最初だけで、少しすると頭の中がぼんやりしてきて、目の前にある今にも泣き出しそうなパパの顔や、壊れた窓や、飛び散ったガラスの欠片、何もかもがまるで夢みたいに思えてくる。
私の世界が真っ暗になった。これが<死ぬ>っていうことなのかもしれない。
そう思ったけど違った。龍亞が私の目を塞いだせいだ。龍亞の手は柔らかくて、同じ身体なのに私の手よりも温かい気がする。
「やだよ! オレまだ死にたくない、龍可が死んだらオレだって寂しくて死んじゃうよ!」
龍亞の涙声が、目隠しをされたままの私の耳の傍で聞こえた。
「わかんないの? そうなったらオレ達、もうパパとママに会えなくなるんだよ。もうぎゅってしてもらえなくなるし、抱っこもなくなるんだ。ママのおにぎりだって食べらんなくなるんだよ。龍可だってほんとはもっと遊びたいし、いつか友達を作ったりもしたいんだ。オレには分かるんだからな!」
パパは自由になると、片手で龍亞の手を握り込んで、もう片方の手で私の頬をぶった。パパに叩かれるのは初めてで、もちろんママにだって叩かれたことはないけど、びっくりして涙が溢れてきた。
でもパパの方が、たぶん私よりも、それから泣き過ぎて目が赤くなっている龍亞よりもずっとひどい顔をしている。喉に詰まったような声で、「ばかやろう」と言った。震え声だった。
「まだ三歳なのに、俺より先に死ぬな!」
パパが怒鳴った。そうやって本気の顔のパパに叱られると、私はまるで世界中から祝福されて生まれてきた普通の子供みたいだと思った。少し嬉しくなって、私はやっぱり、ちょっと変なんだと思う。
私は普通の子供じゃない。私は卵の中から生まれた。
その時のことは今でもぼんやりと覚えてる。硬くて分厚い殻から外へ出て一週間で、私は『ママ』と『パパ』という言葉を手に入れた。隣の龍亞よりもずっと早く一人でおにぎりを食べられるようになったし、テレビのチャンネルだって変えることができるようになった。
時々、兄妹の身体がくっついていることで、ママは私達に謝ることがあった。でもママは、本当は私達の事が羨ましかったのを知ってる。
パパとママはすごく愛し合っている。パパはいつもそう言っている。ともかく、大好きな人と身体がひとつだったら離れ離れになんてならないのに、みんなが別々に生活をしている方が、外の世界では当たり前みたい。つくづく世の中は不便にできていると思う。
物心ついた頃から、沢山の兵隊が、人の心の闇を食べて育つ悪魔―― 私達をやっつけようとやってきた。その度にパパとママは私達の代わりに傷付いた。
龍亞にはまだ誰かに嫌われるということがよく分からないみたいだけど、私はもう大体のところを理解できた。つまり私は自分が沢山の人間に望まれない生物だっていうことを、生まれてすぐに知ってしまったっていうこと。
『少なくとももうママよりは頭がいい』私は、小さい頃のパパにそっくりの天才児だとパパ本人が言っていた。頭が良いっていうのは、得をすることばかりじゃない。パパはそうとも言っていた。答えがわからなければ傷付かないこともある。知ってしまうから苦しいことがある。確かに龍亞みたいにママに似たら、きっと私はもう少し自分の人生に対して前向きになれた気がする。
私は龍亞みたいにはなれない。羨ましいのは確かにそうだけど、能天気過ぎて、たまに一緒にいると恥ずかしくなる時があるから、あんなふうにならなくて良かったとも思う。
* * * * *
まずはじめに、頼りない浮遊感があった。空を飛んでいる感じがした。陽だまりの中にいるように温かい。
それから私は、少しずつものを考える力を取り戻した。
―― 私は誰? 遊城龍可。
―― 私はいくつ? 三歳。
パパの名前はヨハン、ママの名前は十代、双子の兄の名前は龍亞。
目を開くと橙色の光に包まれていた。足元から立ち上る泡がいくつもいくつも弾けて、水に融けて消えていく。海の中に浮かんでいるみたいだ。
私は大きな水槽の中にいて、ガラスを一枚隔ててすぐそばに、すごく不細工なママの顔があった。涙と鼻水で見ていられないくらいにぐちゃぐちゃになっている。水抜きがされてガラスケースが開くと、ママはすぐに私を抱き止めて、痛い位に強く胸に押し付けた。
「龍可……龍可ぁあ……!」
ママの綺麗な服は、水槽の中にいた私を抱いたせいでぐしょ濡れになってしまったけど、ママにとってはそんなことはどうだって良いみたいだった。変に格好をつけて肩に掛けている白衣は、所々が焼け焦げていた。私が見ていない間にまた小火でも起こしたのかもしれない。
胸に抱かれていると、汗の匂いが気になった。ママはパパと違ってお風呂が好きだけど、何かひとつに夢中になると、それ以外を、たとえばお風呂や食事や眠ることなんかを綺麗に忘れてしまう。
「……きたない。顔、きもちわるい。汗臭いっていうか、すっぱい臭いがする。しばらくお風呂に入ってないでしょ」
私が注意しても、ママはわけの分からない言葉を捲し立てながら泣きじゃくっている。いつもの龍亞みたいに。
何がそんなに怖いのか分からないけれど、ママの身体は震えていた。ママを慰めてくれるパパは傍にいなかった。私がなだめてあげないとしょうがない状況だ。
「もう泣き止めば、ママ。いい大人なのに……恥ずかしくないの?」
「龍可……龍可、るか、るかぁ……」
「もう……。龍亞の泣虫は絶対ママ譲りね。私、似なくて良かった」
溜息を吐く。
見た事がない部屋だったけど、沢山ヘンテコな機械が置いてあるのを見ると、ここはママのお仕事場みたいだ。ママを遠巻きにして、私の視線に気がついて手を振ってくれる空野さんや、部下の白衣の人達、笑いを堪えるように身体を折り曲げている知らないおじさんがいる。
私は裸だし、ママは<世界一情けない泣き顔選手権>がもしもあったら龍亞と優勝争いができるぐらいのおかしな顔をしている。人に見られているのが恥ずかしくなってきて、ママの腕の中から抜け出そうともがいているうちに、変なことに気が付いた。
私は半分だ。隣に龍亞がいない。
ママが言うには、人間としての私は死んでしまったらしい。 あの日、<ゼロ・リバース>という実験事故が起こったせいで、街全部が爆発で吹き飛んで、瓦礫でできた廃墟に変わってしまった。私達が住んでいた家も、パパの会社も、今は<B.A.Dエリア>と呼ばれていて、立入禁止の無法地帯になっているっていう。
私は、死んだ日のことを何も覚えていない。前の日の晩にお気に入りのピンクのパジャマを着て、歯を磨いてベッドに入って、パパとママと龍亞に「おやすみ」を言ったところで、私の記憶は途切れている。
「きっと怖くて忘れちまったんだよ。自分が死ぬ記憶なんて、思い出さないでいい」
ママは私の背中を撫でながら、優しい声でそう言った。
私はママから受け継いだ風変わりな血のおかげで、人としての身体が壊れても死を迎えることはなかった。
私の魂の半分は人間で、もう半分は精霊だ。精霊は歳を取らないし、死ぬこともない。大きな力が作用して魂が消滅することはあるけれど、それは余程のことだっていう。
魂の半分だけを人間世界へ呼び戻された今の私は、人間の幽霊でもあるし、実体のない精霊でもある。ソリッド・ビジョンのモンスターとあまり変わらない。
人よりも精霊の力が強く出ていた私とは違って、人間に近かった龍亞は、私の左側でまだ眠ったままだ。すぐ近くにいるはずなのに、呼び掛けても目を覚まさない。
私達兄妹は前よりずっと一心同体になって、半分男の子で半分女の子っていうひとつの肉体を共有することになったけれど、そんなだから意識の表層にいるのはいつも私の方だった。
「ね、ママ。龍亞はいつ目を覚ますの?」
プラネタリウムの人工の星の下で、私は芝生に座って、隣のママにそう尋ねた。ママは私の頭を撫でて、心配することなんて何もないというふうに、にっこりと微笑んだ。
「すぐにヨハンと一緒に帰ってくるさ」
「すぐっていつ?」
「すぐはすぐだぜ」
「だから、それっていつよ」
私はちょっと苛立って、言葉尻を強くした。私達と一緒に<ゼロ・リバース>の光に焼き尽くされてしまったパパも、まだ帰って来ない。ママをとても愛していて、ママの為ならあの世からでも飛んで帰ってきそうなパパだったのに、今回は上手くいかなかったらしい。
「死んだ人を生き返らせるなんて、神様が怒るんじゃないかしら?」
私が思い付いて言うと、ママは不機嫌そうに顎を上向けて空を睨み付けた。
「神様なんていないさ。少なくとも今はどこにもいない」
ママはパパと私と龍亞を守ってくれなかった神様を、随分恨んでいるみたいだった。<神様>と名前のついた精霊達が、しおらしい格好で、すごすごと闇の中へ隠れてしまう姿が見えた気がした。ママは目付きが悪いから、たまに周りにいる精霊達を怖がらせてしまうことがある。
ママは芝生の上についていた腕を使って、跳ねるように上半身を起こした。白衣のポケットから、自分の角を折った欠片に革紐を通したものを取り出して、私の首から掛けてくれた。
「こいつを持ってな龍可。いつも身に付けて、手放しちゃいけない。お前とこの世界を繋ぐお守りさ」
ママは精霊でも人間でもない不思議な力を持っていて、幽霊と精霊の間にいる今の私は、ママの傍にいる限り、昔のように人と変わらない姿でいられる。人に触れるし、人に触られることもできる。
これは<精霊の実体化>と言って、結構すごい能力らしい。少なくともひとりの力でこういうことができる人を、私はママしか知らない。
私は首に掛けられたママの欠片を注意して観察した。これがあれば、私はママがお仕事をしたり、トイレに立ったり、お風呂に入っている間も、いつもと変わらずに過ごすことができる。本のページをめくったり、ゲームの電源を入れてコントローラーを握ったりできるってこと。
角はママの肩から生えていた時の形状そのままで、いつも首から下げているものにしては大きくて重い。断面はデコボコしているから、力任せに叩き折られたことが分かる。見ているだけで痛そうだ。私は自分の角をトンカチで砕かれているところを想像してしまって、胃が重たくなってきた。
人には角は生えていないから、私がママの角を首から下げていても良く分からないだろうけど、ママと同じ私にとっては、ペンチで引っこ抜かれた歯や爪を胸飾りにしているみたいなものだ。悪趣味過ぎると思う。
私はすぐに首から紐の輪っかを外して、ママに突き返した。
「可愛くないから、いや」
「すぐに可愛くしろ空野」
「はい、十代先輩!」
空野さんが小気味良く頷いた。この人はママと私を、まるで女王様とお姫様のように扱ってくれる。それは他のママの部下の人達も同じだ。ママも、今の私も、半分は男の子なんだけど。
空野さんがルーターを使って削り出してくれたのは、羽根の形をしていて、銀のチェーンで首から下げると、ちょっと大人っぽくなったように思えた。ママの角は綺麗に磨かれて、光にかざすと虹色にきらめく。宝石みたいだ。その黒色は夜と同じで、沢山の色がごちゃ混ぜになって黒く見えていたんだと気が付いた。
「こんなのはどうですか? <チッキーの羽根>。折角だから先輩のモンスターにちなんでみようと思って、コクーン・シリーズをイメージしてみました」
「へぇ。お前は何かにつけて手先が器用だな。オレの服も縫えるし」
「実はですね、アカデミア時代に剣山と知り合った切っ掛けなんですよ。僕ら手芸部仲間で」
「ああ。あいつも器用だったよな。オレの顔のアップリケ作ったりしてさ」
「あの先輩アップリケ、剣山が結成した先輩の応援団がいつもシャツの背中に付けてたんですよ。制服の下に着てるから、ぱっと見では気付かないんですけど、着替えの時に一目で分かるんです。十代先輩のファンクラブの人」
「勘弁してくれ」
「余った分はどうします?」
「貴重なサンプルだ。大事に使えよ」
「役得ですね」
空野さんが言った。
「お前、それをどうするんだ」
知らないおじさんが、欠けた角を不気味そうに見ながら言った。この人は、豆みたいな姿をした小さな精霊を肩に乗せている。
ママは私がネックレスを気に入ったのを見て安心したようだった。少し困った顔をして、私と額をくっつけあった。
「今はそんな身体で不便をさせちまうけど、もう少しだけ我慢してくれよな」
「べつに、不便じゃないから。ママとお揃いってことでしょ」
私はそう言ってママから顔を背けた。
いつもこうだ。私は龍亞みたいに素直になれない。そっけないことばかり言ってしまうのに、ママは気を悪くもしないで、嬉しそうににこにこしている。
本当は私は、ママに心配された時に自分が愛されている子供だって実感できて嬉しくなったことや、ひとりぼっちの家で何年もの時間を過ごしてきたママに、「どんなに寂しかった?」って訊いてあげて、ママの悲しい話に耳を傾けてあげたりしたかった。
大好きだって言ってあげたら、ママはどんなに喜ぶかな?
そういうふうに、何度も優しいことを言ってあげようと思ったけれど、その度にデリカシーのないママは、絶妙のタイミングで余計なことを言う。だから、腹が立って言えなくなる。ママは本当に龍亞みたい。
この前なんて、私が気に入っている髪型を『虫の触覚みたいで超格好良い』と言った。ママは誉めているつもりだったのかもしれないけど、虫みたいだと言われて喜ぶ女の子はいない。
ママは半分は女の人の身体だけど、心はきっと全部男の人に違いない。最近、一緒にお風呂に入るのが少し嫌になってきた。
私はママのいる人間世界へ帰ってきてから、ママが仕事をしている間に、サテライトのリハビリ病院で歩く練習を始めた。
私は生まれてから一度も一人で歩いたことがない。いつも隣にいる龍亞と身体がくっついていて、立ち上がる時は二人で息を合わせなければならなかった。パパは、いつか私と龍亞が『一人ずつ』で歩けるように研究をしてくれていたけれど、変な形ではあっても今それが実現すると、人が一人で歩くというのは思っていたよりもずっと大変なことだと知った。
まず二本の足を使って立つ所から始めて、次に普通の人みたいに歩き出す。でも、慣れた車椅子の方が余程早いし、この言うことを聞かない棒みたいな足で走るなんて想像もできない。まっすぐに立っていることも上手くできなくて、少し歩き出せたと思ったら転ぶ。歩いて転ぶ、私はそれを病院へ行って一日中、何度も繰り返している。
壁の手摺りに掴まって起き上がった時に、鏡にお婆さんみたいな白髪頭が映る。私はそれを見る度にどきっとする。鏡の中の小さなお婆さんは、私だ。
この病院には、私と同じ白髪の患者さんが沢山いるけれど、私の白髪は他の皆とは違って、とても怖い思いをしたせいだっていう。
よく覚えていないけれど、死んでいる時に夢を見た気がする。きっとあの世を見たんだと思う。どんな所なのかは覚えていないけれど、そこで私は意地悪な神様に会って、呪いを掛けられたのかもしれない。頭が真っ白になって、龍亞とお喋りができなくなる呪い。私は最近、神様の自分勝手さにそろそろ嫌気がさしてきた。
「ちょっと頑張り過ぎですね、龍可ちゃん」
夕方になって迎えにきてくれた空野さんは、擦り傷と打ち身だらけになった私を見て、少し困った顔になった。
「いや弱ったな。十代先輩にどう言い訳をしましょうか。あの人今は龍可ちゃんの身に何かがあったらって、そのことに特に敏感ですから」
「でもすぐ歩けるようにならないと困るから。歩けなかったら、ママはまた遠くへお仕事に行く時に私を置いてくわ」
「龍可ちゃんも寂しいんですね、やっぱり。良かった。実は先輩の一方通行かもしれないってちょっと心配してたんですよ」
「今のママが私のいない所へ行って、まともにお仕事できるとは思えない」
「確かに」
空野さんは顎を触って、重々しく頷いた。
「その通りになるでしょう」
「毎晩電話を掛けてきて、元気かとか、怪我も病気もないかって、誰かにいじめられたりしてないかって言い出すわ。その度に私はママの話し相手をしないといけない。ママは余計なことばかり言うからすごく長電話になるし、うるさいじゃない。別に私、ママに置いていかれたくらいでは寂しくならない」
「龍可ちゃんは、とっても十代先輩に似てますね。素直にご両親が大好きだと言えない所とか」
「……そんなの、言えない。ママに似てるのは龍亞の方。私はあんなに、恥ずかしくなるくらい真っ直ぐじゃない」
私がこの身体になってから、ママは気持ちが悪いくらいに優しい。我侭を何でも聞いてくれる。そうしないと私がまたママを置いてどこかへ行ってしまうと思っているのかもしれない。馬鹿みたいだった。私が、パパを失って、龍亞と私を守れなかったことでずっと自分を責め続けて、あんなに弱り切っているママを、二度と放っておけるわけがないのに。
ママは私が学校に興味を持ったら、家にあった古いプラネタリウムを改造して、綺麗な夜空がずっと投影され続けているママの母校の島を造ってくれた。でも誰もいない。ただの無人島だ。
生徒がいない学校なんて、全然学校じゃないと思う。でも私は龍亞みたいに子供じゃないから、ママの気持ちだけは受け取ってあげることにした。「ありがとう」と言うと、ママはまた愛情が報われたみたいな嬉しそうな顔になって私を抱き締める。このちょっと優しくしてあげたらすぐに調子に乗るところは、本当に龍亞そっくりだと思う。
ママは私が喜びそうなことばかり考えて、沢山の空回りも交えながら、いろんなものを与えてくれた。身体だって削って与えてくれる。私は受け取るばかりで、ママに何か与えてあげようとしたことなんてなかった。ママが欲しがりそうなものなんて、考えもつかなかった。
<ママ>っていうのは、そういうものなんだと思ってた。
でも自分のことを削り過ぎて、いつか消えてしまいそうで、時々私は心配になる。
パパと龍亞はまだ家に帰ってこない。でも二人が帰ってくるまでは、ママが一緒に待っているし、ママの部下の人達もとても良くしてくれる。
私の足は半月でしっかりと地面を踏み締めることができるようになって、一月で普通の子供みたいに歩けるようになった。
そんなことがあって、秋の終わり頃に、初めて私はママのお仕事に一緒についていけるようになった。
海外出張で、パパの故郷へ行くそうだ。
* * * * *
暖かい色をした煉瓦の石畳の上に、積み木で作った玩具みたいな家が並んでいる。北ヨーロッパの、絵本の中から飛び出してきたような街並みの中に、白い傘を立てたテーブルがいくつも並んでいるオープン・カフェがある。ママは迷いもせずに、お店の真ん中の席に着いている男の人のところへ歩いて行って、モンスター・カードを差し出した。
その人はママのカードを見て、眠たそうな目を何度かまばたきさせた。
「それ、<ジェリー・ビーンズマン>じゃないか」
「そう、君のだろ」
ママは人懐っこい顔で微笑んだ。
「随分探した。トム、どれだけ時間が経とうと君のことは大事な友達だって、<ジェリー・ビーンズマン>が言ってるぜ」
トムっていう男の人は、体つきがひょろっとしていて、手足は細くて長い。癖が強いブラウンの髪で、顔立ちはどことなく暢気そうだった。見た目は、アカデミア高等部生の時に歳の取り方を忘れてしまったママよりも年上に見える。
トムはカードとママを見比べてから、胡散臭そうに頭を振った。
「どうして君がそのカードを持ってるのか分からないけど、いいよ、そんなのもう。知らないの? 今はシンクロ・モンスターっていうすごいカードが出てるんだ。あげるよ。いらないなら棄ててくれていいから」
『むみ……むみみ〜……』
「け、結構、強いんだぜ。こいつ。なぁ?」
悲しそうに項垂れている<ジェリー・ビーンズマン>を横目に見ながら、ママは諦めずに食い下がった。トムはしつこいママにうるさそうな顔をしていたけど、ふと気付いたように、ママのちぐはぐ色の不思議な目を興味深そうに見つめた。
「君って、良く見ればすごい美人なのにカードが友達だなんて、ロマンティックなところがあるんだね。僕はカードよりも君に興味があるな。ねぇ、デュエリストの遊城十代によく似てるって言われない?」
「……ま、日本人なんか皆同じような顔をしてるからな」
「僕らがこの国で出会ったのも何かの運命だよ。これから一緒にデュエルでもどう? いいデュエル・スペースを知ってるんだ。そんな弱小モンスターなんて目じゃないカードを見せてあげる」
ママは溜息を吐いて肩を竦めた。この仕草は、失望したものに見切りをつける時によくやる仕草だ。たとえば、何度やっても答えが合わない計算式を諦める時なんかに。
「……邪魔した。じゃあな」
ぶっきらぼうに言って、ママはトムに背中を向けた。
「あ、ねぇ! 待ってよ!」
トムの方はママを諦められないようで、立ち上がってポケットから携帯電話を取り出した。メールアドレスの交換をお願いしようとしたのかもしれない。でも、トムがママを追って肩に触れようとする前に、後ろからトムの肩を、いつもの笑顔の空野さんと、ママの奴隷だっていう目付きの悪いおじさんが叩いた。振り向いたトムの表情が凍り付く。
「龍可、悪い、待たせちまって。他に何か食べたいものは無いか? じゃあ行こうぜ」
ママが、テーブルに着いてオレンジジュースを飲んでいた私の所へ戻ってきて、そう言って椅子の背もたれに掛けていたコートを着込んだ。その後ろを、トムが両側から腕を掴まれて、人気のない路地裏に引き摺られていく。
「お、おじさんはまさか……昔僕にアンティ勝負を挑んできた……!」
「おい、トム君よ。ちょっとツラ貸せや。デュエルしようぜ」
「アンデルセン博士と幼かった君の<ジェリー・ビーンズマン>を巡るちょっといい話はね、先輩の中ではほとんど神話になっていたんだ。君はサンタクロースを信じている子供に、親が枕元にプレゼントを置く所を撮影した写真を見せるような真似をしたんだぞ」
ふと気になって、「トムさん、どうするの?」と尋ねたら、ママは首を傾げて「デュエルじゃないか?」と言った。
「<ジェリー・ビーンズマン>よりもすごいカードを見せてくれるらしいぜ」
「ふーん」
私は頷いて、背の高い椅子から飛び降りた。
ママと話をしていると、誰もが皆ママのことを好きになってしまう。男の人でも女の人でもそうだ。ママは人の心の闇を食べる。だから食べ物を誘って引き寄せられるように、腐りかけの果物みたいな甘い匂いをいつも振り撒いている。私は鼻が良いから分かるけど、普通の人は気付かないみたい。
虫が勝手に口の中に入ってくれるのを待っている食虫植物と同じ。私のママはウツボカズラだ。
トムには悪いと思ったけれど、私はママを変な目で見る人は好きじゃないから、特に何も言わないでおいた。
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