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 ホテルのロビーに並べてあるソファの上で、ママは背中を丸めて拗ねている。
 部屋に戻るなり、ママはちょっと用事があるとか言い出して、私を置いてまた外へ出て行ってしまった。ママは私が帰ってきてからお酒も煙草もやめた。だからたぶん大好きなコンビニでも探しに行くんだろうと思っていたけど、昼間トムにカードを突き返されてから元気がなくて、心配になって後を追い駆けてみたらこれだ。一人になって拗ねるのは用事って言うんだろうか?
 ママは宙を見つめて、<ジェリー・ビーンズマン>の精霊に話し掛けている。
「ヨハンはきっと、ちゃんとお前をトムの所へ届けてやってたんだな。一度は」
 <ジェリー・ビーンズマン>は悲しそうにママを見つめていた。
 ママとトムの話を聞いていたら、この<ジェリー・ビーンズマン>の身に何が起こったのかは、なんとなく想像がついた。この小さな豆の精霊は、何かの事情があって、子供の頃のトムと離れ離れになってしまった。その時はトムと<ジェリー・ビーンズマン>はとても仲良しの友達だったけれど、離れ離れでいるうちに何年もの時間が経ってしまって、トムは普通の大人に成長した。普通の大人は、子供だった頃に見た夢や不思議な感覚を忘れてしまっていて、もう精霊の存在なんか信じていない。御伽噺や漫画を読まなくなって、難しい新聞をいかめしい顔をして読む。トムもそうなってしまった。
 でも<ジェリー・ビーンズマン>は精霊だから、成長しない代わりに、昔と同じようにトムのことを大切な友達だと思っている。
 ママが落ち込んでいるわけもわかった。ママは半人半精霊で、<ジェリー・ビーンズマン>と同じ変化しない心と、トムと同じ成長する心を持っている。人と精霊がすれ違っている世界では、ママの存在理由はあやふやになってしまう。
 だからママは本当は変われない精霊のことも、移り変わる人の心も怖がっている。ママの心は闇だらけで、人の心の闇が見える私には、とても心地が良い揺り篭だ。だけど、どんなにいい匂いがしても、落ち込んでいるママの顔はあまり見ていたくない。
 空野さんが隣のソファに着いてママを慰めている。この人はママよりもひとつ歳下だって聞いたことがある。でも二人が並ぶと、空野さんが学校の先生で、若作り過ぎるママは生徒みたいに見えた。
「先輩、元気出して下さい。別に先輩がへこむことじゃないですよ。アンデルセン博士の人を見る目が無かったんですって。博士の目の節穴さは先輩だって良く知ってるじゃないですか」
「お前はオレを慰めたいのか貶めたいのかどっちなんだよ」
 ママがさっきよりもっと拗ねた。
 ソファの隣の柱には、スーツをだらしなく着崩しているおじさんが腕を組んでもたれている。ママを横目で睨んで、馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「これで分かったろう、遊城十代。人間なんてそんなもんなんだよ。絆だなんだと言ったって、いつか飽きちまうんだ。忘れちまうんだ。そうしないと生きていけないからな。融通の利かない精霊みたいに全部を覚えてるなんて無理なんだよ。古いものは棄てちまわなきゃ、新しいことがなにも頭に入ってこない」
 この人は昔悪い事をして精霊に罰を与えられてから、精霊恐怖症になってしまっているらしい。でも罪を償うために、困っている精霊達を助けてあげないと、普通の人間に戻れないっていう。今は<ジェリー・ビーンズマン>の精霊と一心同体で、いつも肩に乗せて一緒にいる。
 おじさんはママの奴隷になる代わりに命を助けてもらったそうだ。重い機材を運ばされたり、トイレ掃除をさせられたりしている。目付きが悪くて変な顎鬚をしている。意地が悪くて、人に親切にする方法を知らないのかもしれない。この間私が転んだ時も、無視してそのまま通り過ぎて行った。
「ヨハンだってトムの野郎と同じに決まってる。あいつも人間だ。偉そうなことを言っちゃいたが、価値もないカードのことなんざ忘れちまったさ。莫大な金になる宝玉獣のことは一生覚えてるだろうがな。普通はそうだ」
「そうだったらよかったのにな」
 ママは溜息をついた。
「あいつは気が違ってるんだろ、たぶん。狂人の考えなんか、普通の人間のお前には理解できるわけがないさ。ギース・ハント」
「……ひ、ひでえ言い様だな。夫婦じゃねえのか、あいつと」
「わからないのか? まともな人間はオレみたいな人でなしを好きになったりしないんだよ」
 ママは顔を上げていた。片方だけ目を眇めて、すごく意地悪に唇の端を上げる。私の前では絶対にしない顔だ。そういう顔をしている時のママは、すごく圧倒的で、上手く言葉が出てこなくなるくらいに綺麗に見えた。
「頭が、おかしい」
 ママはくたびれた様子で、抱いた膝に顔を埋めて、喉の奥で不気味に笑った。おじさんが、多分無意識に、一歩分後ろへ下がる。人間のおじさんや空野さんにとって、心の闇を食べるママや私は天敵だ。蛙だって蛇が怖いし、鼠も猫が怖い。いつもは普通に話をしていても、食べられる動物は心の底ではそのことを忘れていない。相手が、本当は自分を食べ散らかす生き物だってこと。
「お前の言ってることは、間違ってはいない。確かに精霊と人間が分かり合えることはない。人間は飽きる。刹那の生を精一杯味わうためにな。精霊は忘れない。切り取られた一瞬が永遠に続いているだけだ。変化しない。まるでカードの表裏だ。共生しようとすれば世界は破綻する」
「お前はそこまでこの俺に同調しているのに、何故ヨハンの手助けなんかする」
 おじさんは、心の底から不思議そうだった。ママがゆっくり頭を振りながら、穏やかに答えた。間違った答えを訂正するように。
「分かってねぇな、おっさん。精霊と人間が手を取り合って生きられる世界が、見てみたいからに決まってるだろ」
「いきなり言葉が薄っぺらくなったな。本心じゃねぇだろうが」
「さぁな。いらないならそのカードくれよ。<ジェリー・ビーンズマン>?」
「何に使うんだ? こんな弱小精霊」
「火炙りにでもして、そいつの苦しみもがく姿を酒のあてにでもするかな」
『むみみ〜!』
 <ジェリー・ビーンズマン>の精霊が、ママの頭の上で目を剥いて慌てふためいている。おじさんは渋い表情をして、小さな精霊を掴んで背中の後ろへやった。ママが、悪魔の顔をしておじさんを見上げている。たまにママはこういうふうに、人が隠している心を暴き出すために、意地悪な演技をする。
「なんだよ。弱い精霊が苦しみもがく姿が好きなんだろ」
「……スプラッタはそんなに趣味じゃないんだよ。それに、今こいつは俺の半身でもあるんだぞ」
「いつか大切な精霊を奪われた時の記憶でも思い出したのか? 棄てられた精霊を救ってやれば、色褪せた思い出が昇華されるって? それはどうかな。惨めな者同士、傷の舐め合いだ」
「……なんでだ。宝玉獣のヨハンは、俺のやり口は散々貶しやがったくせに、なんでドス黒いお前みたいな奴と組んだんだ」
 ママは消え掛けのチェシャ猫みたいなニヤニヤ笑いを浮かべたまま、立ち上がって、おじさんの肩を気安く叩いた。ちょっと機嫌が良くなっている。おじさんをいじめて気が晴れたみたい。
「自分を生き直すにはいい機会だぜ。ミスター・ジェリー・ビーンズマン。空野ォ、コンビニってどこだっけ?」
「ホテルの角を右です、先輩」
 左右ちぐはぐな高さの赤いブーツが、大理石の床を叩きながら遠ざかっていく。ママの足音はすごく特徴がある。かつん、べたっ、ていう感じ。ホテルマンのお兄さんが、扉の前でママに恭しく敬礼をした。
「世界一いい女でしょう? 僕ら男にとっての運命の女ですよ。惚れたら破滅しますけどね」
 空野さんが言った。
 『ジェリーおじさん』は眉間に皺を寄せて険悪な顔になっている。すごく嫌そうなブルドッグに似ていた。
「……お前、何か弱みでも握られてるんだろう?」
「貴方と一緒にしないで下さい。僕のは純粋かつ無鉄砲な一目惚れですよ」
「救いようがないな」
「本当にそうですよ。アンデルセン博士より、僕の方があの人の価値を見出したのは早かったのに。剣山や丸藤先輩の気持ち、分かるなぁ」
 空野さんはそう言って、残念そうに肩を竦めた。
 私には色々分からないところで、ママの周りの大人の間には色々な事情があるらしい。私はエントランスに背中を向けて、部屋に帰ることにした。戻ってきたママを、何も知らない顔で出迎えてあげるつもり。

 * * * * *

 海岸の人魚像を見上げて、私は期待が裏切られたことを知った。ここは観光名所として有名で、みんなが知っているくらいなんだから、きっとすごく大きくて、夜になったら七色にライトアップされて、夢みたいに綺麗なものだと思っていたのに、無造作にぽつんと置かれている。雨晒しで特別な看板も出ていないし、予想よりもずっと小さかった。背丈も私と同じくらいしかない。
「なんか思ってたより普通……ていうか、地味よね」
「期待に胸を膨らませた日本人観光客を失望させる<世界三大がっかり>のひとつだそうで」
 空野さんがコートのポケットに片手を突っ込んで、食べ歩き用の新聞紙に包まれたホットドッグをかじりながら言った。この人はそんなふうにお行儀の悪いことをしていても、まるでナイフとフォークを使って高級レストランで食事を取っているみたいに、妙にきちんとして見えた。ママもつまらなさそうに鼻を鳴らして、赤いコートの袖を広げて、干上がった護岸の上で身体をくるりと回転させた。
「ほんとひっでぇ国だな。昔からこの国は好きじゃないんだ。寒いし、天気は悪いし、すぐに暗くなるし、陰気で嫌になる」
「そうね、ママ。がっかりだわ」
「ああ、がっかりだぜ龍可」
 私とママは、沈痛な顔をして頷き合った。
「……とか言いながら、お前達母子が買い込んだこの土産物の量は何だ」
 ジェリーおじさんがうんざりと言った。レンタカーのトランクの中は、私とママのお買い物の荷物でもう一杯になっていて、後部座席の方にまではみ出している。
 白熊のブランケット、ブランケットとお揃いの絵柄のスリッパ、アラビア社製のマグカップとボウル、クリボーの子供用ミトン、地図の柄が入ったペーパー・ナプキン、妖精の像、人魚の文鎮、デュエル世界大会開催記念に発行されたアンティークの切手のコレクション、ボールペンセット、モンスターのマグネット、イッタラのガラス食器、着せ替え人形、キャラクターものの便箋とポストカード、ビーズの髪止めとリボン、ミズガルズ王国の国旗の木製模型、胸の部分が光るロボットの玩具、昆虫採集キット、カーテンと私のトートバッグとペンケース、これはマリメッコのもの、それから私の服と私がママに選んであげた服がスーツケース二つ分、鍵付きの日記帳、お揃いのガウン、ルビー・カーバンクルのクッキーが焼ける焼き型、ウエハースを沢山とサルミアッキとニシンの缶詰、クリスマスツリー、段ボールに入ったままの英語表記のデュエルモンスターズのカードパック、武藤遊戯のフィギュアと千年パズルのレプリカキーホルダー、赤と青のソファを一つずつと、椅子が四つ付いたテーブルは大き過ぎて持ち運べないから、お店の人にお願いして家に送ってもらった。
 中身は大体、こんな感じ。他にも何かあったかもしれないけど、家に帰って確認をしてみないと分からない。倹約家のパパと買い回りに途中で飽きてしまう龍亞がいないから、観光とショッピングに夢中になっているママと私を止める人は誰もいなくて、ちょっとやり過ぎてしまった。パパにばれたら叱られて、世の中には小さい頃のパパみたいに、お菓子も満足に食べられない子供がいるんだってお説教をされるに違いない。
 そう思ってママの顔を見上げてみると、頬が赤くなってそわそわしていた。たぶん、早くホテルに帰って武藤遊戯のフィギュアのパッケージを開けたり、カードパックの中身を確認したくてしょうがないんだと思う。
「この物欲の山が崩れたら、人一人くらいは軽く圧死するぞ」
 ジェリーおじさんが言った。空野さんも、感心したような呆れたような顔をしている。
「先輩、『いつも手ぶら』が信条の仙人っぽい生活が嘘みたいですね」
「ほとんど龍可のだけどな」
「心外。家具とかは、私が選ばないと、ママはファングッズばかり買うじゃない。壁にポスターを貼ろうとするし、揃え直した公式DVDを並べる為に棚まで新調しちゃうし、家の中が目も当てられないことになっちゃうわ。そんなに武藤遊戯が好きなら武藤遊戯と再婚すればいいのに」
「ば、ばか。あの遊戯さんがオレみたいなのを相手にしてくれるかよ」
「私もママみたいなオタクは嫌かも」
「いいじゃん。格好良いんだよ遊戯さんは。龍可もオレの娘なんだから、いつかきっと分かるさ」
 ママは各国の海馬ランドの記念スタンプ帳に、またひとつスタンプが増えたのを嬉しそうに確認しながら言った。これは昔、私達家族が四人で過ごしていた家が壊れる前に、全ページコンプリートしたものを二人分見たことがある。パパとママが新婚旅行で<世界中の海馬ランド一周旅行>へ行った時のものだ。
 パパとママのお仕事場は、その間一番偉い二人がいなくてまともに立ち行かなくなって、空野さん達がすごく苦労したと聞いたことがある。本当に他人に迷惑ばかり掛けている二人だと思う。
 その時にスタンプ帳は一度一杯になったから、ママが今持っているのは二冊目だ。ママはパパよりも多くのスタンプを持っていることになるけど、それは何だか寂しいことだと思った。
「今晩オーロラ見えるかなぁ。まだ早いかな。初めて本物見た時はすげぇ感動したんだよなぁ」
「ママがレインボー・ドラゴンを実体化させたら、あんなのいつでも見れるでしょ」
「龍可、子供が夢のないこと言うなよ」
 ママは大げさに肩を竦めてみせた。
「おい化物、この邪魔な荷物はもう全部日本に送っちまってもいいんだろう」
 ジェリーおじさんが半開きのトランクを無理に押さえ付けて閉めた。ママは真剣な顔をして、「待て、カメラがいる」と言った。
「人魚像の写真を撮りたい」
 色々言うけれど、ママがパパの生まれ故郷を本当に嫌いなわけがなかった。
 ジェリーおじさんは、観光ブックを広げている私達を置いたまま、もう何も言わずに運転席に座って車を出した。ホテルに戻って、受付で荷物を送ってもらうんだろう。おじさんの方が、なんだか普通の『お父さん』みたいだと思う。くたびれているし、煙草臭くて髭が生えている。
 私は今日街を歩いていた時に、ベビーカーを押していた『綺麗なママ』は何度か見たことがあったけれど、『綺麗なパパ』は見ていない。私のパパは他の子達のパパとは違って、女の人みたいな顔立ちをしている。
 でも体つきは逞しくて、お腹だって割れている。腕力もすごくて、ママは昔ユベルと超融合する前は、パパと取っ組み合いの喧嘩をすることがたまにあって、その時に上から押さえ付けられると振り解けなくて悔しかったそうだ。
 パパとママはたまに果てしなくどうでも良いことで喧嘩をする。例えばパンダは鳴くのかとか、卵焼きに入れるのは塩が正しいのか、それとも砂糖が正しいのかなんてことで。
 二人は喧嘩をすることも楽しんでいた。ママは一人ぼっちでいる間、ホテルに部屋を借りて生活をしていたらしい。食事を作るのも面倒がって、コンビニのお弁当ばかり食べていたんだろうと思う。
 パパや私達がいない時のママは、卵焼きに塩が入っていても、砂糖が入っていても、それとも両方が入っていても、きっと気にも留めない。
「じゃあ僕もお先に失礼します。アークティック校で明日の講義の準備があるんですよ」
 空野さんが言った。
 一応ママもお仕事でこの国に来ているはずだけど、ママは気の抜けた感じで頷いている。
「へえ、頑張れよ。講義って日本語で?」
「英語ですよ、もちろん」
「ふーん、すげーな」
「次世代ソリッド・ビジョン・システムの公開講座です。あちらから講義用に色々機材を借してくれまして、今夜はその調整をするんですよ」
「お前は色々大変なんだなぁ」
 ママが感心したふうに頷いた。だめだ、この人は。ママこそ空野さんの講義を聞いて勉強をした方が良いと思う。
 ママは龍亞と同じで頭を使うことが得意じゃないように見えるけど、色々な人から<天才科学者>だなんて呼ばれている。口だけは上手いママだから、みんな上手く丸め込まれて騙されているに違いない。
 空野さんがこの国のデュエル・アカデミアへ行ってしまってから、私達は観光を再開した。ママが私の手を引いてくれるけど、ママはこの国の言葉が喋れない。頼りないにも程があるのに、ママは心配いらないと言って笑う。
「大丈夫、大丈夫だって。言葉なんて分からなくたって、熱い気持ちがあればいいのさ。オレはこれでも若い頃は世界中を飛び回ったことがあるんだぜ」
「その話、何度も聞いた」
 この国で生まれたパパがここにいればとても心強かったのになと私は考えた。でも龍亞と一緒に天国にいるパパは、今頃私よりももっと不安な気持ちで、はらはらしながらママのことを眺めているのかもしれない。
「そんな困った顔をするなよ龍可。あ、ほらあの猫見ろよ。ファラオにそっくり。あっちはワゴンでポップコーン売ってる。行ってみようぜ!」
 ママが子供みたいに落ち付きなく、私を片腕で抱き上げて駆け出した。娘の私と散歩ができるのがものすごく嬉しいみたいだった。「ヨハンがきっとすごく羨ましがってるなぁ」とママは言った。私も龍亞がきっとすごく羨ましがっているだろうなと思う。
 ポップコーン・ワゴンはピンクと白の縦ストライプ柄で、天辺には金色の王冠を被っている。小さな車輪が足元に付けてあって、私と同じくらいの年頃の子供が二人でお店の番をしていた。一人は夜会服みたいな格好でアコーディオンを演奏している男の子だ。もう一人は女の子で、白いドレスを着て風船を売っていた。二人共が古めかしい帽子を被って、顔にはピエロのマスクを付けている。この国ではこんなに小さな子供も働かないといけないらしい。
「チョコレート味のポップコーンとかもあるのか。何味がいい?」
「いらない。どうせ私、おいしいものを食べても吐いちゃうもの。さっきだって」
 私は頬を膨らませて、ママから顔を背けた。私は幽霊と精霊の真ん中の存在で、今ママに触れるのは、ママの力が世界の法則を不自然に捻じ曲げているからだ。ワゴンの近くへ行くとキャラメルと蜂蜜の甘い匂いがした。味を想像することもできるし、お腹だって鳴る。でも今の私の身体はそれを受け付けない。
 ママは眉を下げて、「そっか」と微笑んだ。それから風船売りの女の子の所へ行って、風船を二つ欲しいというジェスチャーをやった。
「まさか、ママも風船が欲しいの? もういい大人でしょ」
「お前は龍可だけど、隣の龍亞が起きたらきっとまた風船の取り合いをして喧嘩をするだろ。ひとつしかない玩具なんて喧嘩の元だ。無い方がいい」
「別に風船なんて。私もうそんな子供じゃない」
 私はママの腕の中から飛び降りて、腕を腰に当てて溜息をついた。そんなのは結局ママが風船を欲しいだけの言い訳だ。龍亞が急に目を覚まして、『あーっ、なんで龍可だけなんだよ! オレのは? ずるいよ!』って大声でわめき出すことなんてあるわけがない。そんなことになった時に風船なんかのことで喧嘩はしない。龍亞が目を覚ましてくれるのなら、私は風船なんて龍亞にあげる。一人占めをしても許してあげる。私が持っているものをあげて龍亞が起きてくれるなら、私の玩具なんて何だってあげる。
「えーと、風船を二つ欲しいんだ。赤がひとつと、青がひとつ。オッケー?」
 ママはしゃがみ込んで、風船売りの女の子に話し掛けている。女の子にとっては、ママは変な外国人にしか見えないと思うけど、紐を纏めていたリボンを解いて、ママが指差した赤色と青色の風船を小さな手のひらに巻き付けた。意思の疎通に成功して、ママは「ありがとう」と嬉しそうに笑った。
 その目の前で、女の子は袖から小さな針を取り出して、赤い方の風船を突いた。軽い破裂音がした途端に、ママの膝から力が抜けて、石畳の上に崩れるように倒れ込んだ。甘い香りに混じってかすかに薬品の臭いがする。それがほんの少し鼻先に触れただけで、頭がくらくらした。すぐに、気化した麻酔剤が風船の中に詰まっていたんだと気付いた。
「ママ!?」
 駆け寄ろうとした私の肩を、革手袋に包まれた手が掴んだ。振り向くと、黒の外套と山高帽姿の影法師みたいな人が不気味に立っている。ワゴンの子供達と同じピエロのマスクを顔の上に嵌めていた。
 倒れたママの方を見ると、ワゴンの店番をしていた子供達がしゃがみ込んで、蟻の観察をするみたいな格好で覗き込んでいる。
「眠った?」
「うん、眠ってると思う」
 流暢な日本語だ。二人は頷き合って、私の後ろに向かって『雪の女王様、つかまえた』と声を揃えた。
 「その白髪の子はどうする?」と男の子が言った。
 「白髪なんてお婆ちゃんみたいだね」と女の子が言った。
 曇り空から白くてちらちらしたものが降ってきた。本物の雪だ。雪は私が生まれた年にも降ったっていうけど、その時私は卵の中にいた。だから知らない。これがはじめて見た雪だ。
 影法師の手が後ろから私の首を掴んで、喉に折り畳み式のナイフを突き付けた。刃は冷たい空気に馴染んでいて、触れるだけで痺れるような痛みがはしった。
「ママ……ママっ!」
 助けを求めて、私は喘ぐように叫んだ。
 すぐに風を切る気配がして、口笛に似た鋭い音を立てて飛んできたカードが、ナイフを握った手袋の甲に突き刺さる。取り落とされたナイフが石畳の上を滑っていった。
 ママが、麻酔をじっと堪えるように頭を押さえて立ち上がって、おぼつかない足で地面を踏み締めていた。ちぐはぐ色の目を鋭くして、私を羽交い締めにしている影法師を睨んでいる。
「……オレの娘に手を出したらただじゃ済まさねぇぞ……!」
 影法師はママの頭から足のつま先までを、標本にされた新種の蝶を観察するように見つめて、マスクの裏側から篭った声で言った。
―― 思っていたよりも小さいんだ、カーレンって」
「………その声、その名前、お前って、もしかしてあいつの」
 ママは驚いたようだった。顔も見えないけれど、この影法師の正体に思い当たるところがあるんだろうか?
「ネオ童実野シティの中にいる限り、あそこの治安維持局に守られてるお前に手出しはできないからな。どうやって<お城>の外へ引き摺り出してやろうか考えてたのに、まさかお前の方からのこのこ出て来てくれるなんて思ってもいなかった。間抜けな真似したもんだ。娘を傷付けられたくなければ抵抗するな。おとなしく俺に従うことだ。そのいやらしい眼もなしだぜ。デッキを寄越せ」
「龍可を離すのが先だ」
 ボタンが外れる音がして、私の首に絡んでいる袖口からもう一本ナイフが滑り出てきた。今度は肉切り包丁みたいな分厚いものだ。刃が私の首を薄く削ぐように動いた。皮膚が引き攣って、怖くなってぎゅっと目を瞑った。
「首の皮を剥ぐくらいなら何ともないよな。命にかかわるってわけじゃなし」
「やめろ!」
 ママはデッキケースを腰のベルトから外して放った。私の耳の横でケースを受け止めた影法師は、器用に片手だけで蓋を開けた。まるでパパが電話をしながら片方の手だけでスクランブル・エッグを作る時みたいに。
「ふーん、ジェネクス・デッキ。お前ってヒーロー使いじゃなかったっけ?」
「廃業したんだよ」
 今のママは融合主体のヒーロー・デッキじゃない。ヒーロー達と喧嘩をしてから、純粋な力を象徴するジェネクス・モンスターを使っている。影法師は、ヒーローを使わないママなんて信じられないというふうに、胡散臭そうに首を傾げた。
「ほんとのデッキを隠してるんじゃないだろうな。服を脱いで見せろよ。そこで全裸になれ」
 私は首にナイフの刃が触れていることも忘れて顔を上げた。
「なっ……何言うの!? ママにそんなことさせられるわけない!」
「やるさ。可愛い娘のためだもんな」
 影法師は、一度見たドラマの再放送を見返す時みたいに、先を知っているんだっていう感じだ。その通りだった。ママは雪が舞い落ちる静かな街の中で、ためらいもなく、赤いコートのボタンを外し始めた。
「ママ! 何やってるの!? やめて!」
 コートの袖から腕を抜いて、無造作に地面に放り捨てると、次はやりにくそうに上着のホックを外して脱ぎ去った。怪我人みたいに包帯が巻かれた、男の人と女の人が混ざり合った胸が現れる。
 それからベルトを外して、下着ごとスラックスを下ろした。ブーツも脱いで、きつく締め付けられた胸の包帯も解いてしまう。
「そうそう、良く見えるように、脱いだら腕は頭の後ろだ」
 生まれたままの姿になったママは、知らない人に半分ずつ性別が違う身体を見られても恥ずかしがることもなくて、裸足で積もり始めた雪の上に立っている。素肌に雪が降り付けて、見ているうちに霜焼けになってしまいそうだった。それでもまっすぐに私の方を見つめて、少し微笑んだ。
「大丈夫だ龍可。心配いらない」
 影法師は感心したふうに口笛を吹いた。
「本当に娘のためなら何でもやっちゃうんだ。じゃあせっかくだし、何でもついでに跪いて靴でも舐めてもらおうかな」
 そう言って、編み上げの軍用ブーツを示した。
「やめて……」
 私はすごく無力だった。化物って呼ばれるのなら、それだけの力が欲しいと思う。人を怖がらせて傷付けられる力が。それでママを救えるのなら、私は半分の人間をやめて全部化物になってしまってもいい。
「やめて。私のママに手を出さないで!」
「龍可、目を閉じてろ。怖いものなんて見なくていい」
 ママはそう言って跪いて、影法師のブーツの甲に、犬が飼主の頬にキスをするみたいに舌を付けた。泥を飲み込んで、ブーツのゴム底にくっついた砂利石を舐めさせられても、すごくみじめな目に遭っているはずのママの顔には、恥ずかしがったり悔しいような様子は無かった。
 影法師はそれを見てつまらなさそうに鼻を鳴らすと、ママの頭をブーツの底で踏み付けた。
「ぐっ……!」
「ママ!」
 ママの頭が、鈍い音を立てて石畳の上に叩き付けられた。そして、投げ煙草の火を消すような乱暴な仕草で踏み躙られていく。私と同じシャンプーの匂いがするチョコレート色の髪が、溶けた雪と土埃が混じった泥水で汚されていく。私は振り向いて叫んだ。私を見下ろしているピエロのマスクは、涙で滲んでぼやけて見えた。
「もうやめて! 何でもするからママを傷付けないで!!」
「まるで美しい親子愛じゃないか。そんなの知らないくせに、知らないものを与えられるわけないのに、なぁ? 拍子抜けだぜ。人知を超えた力に目覚めたなんて言っても、所詮は落ち零れのカーレンか」
 影法師がママをいじめている間に、正装姿の男の子と女の子はワゴンを畳んでしまって、ママが踏み付けにされるところを手持ち無沙汰そうに見ていた。
「もう帰ろうよ」
「雪が降ってきたよ」
 退屈そうにしている二人に、影法師も頷いた。
「そうだな。つまんない。……なにこれ。可愛いネックレスを付けてるじゃないか」
 ふと、私の胸を飾っているネックレス―― <チッキーの羽根>という名前のママの欠片のペンダントを見て、影法師は興味を示したようで、チェーンを引き千切って私から取り上げた。ママが血相を変えて、黒い外套の裾に縋り付いた。
「やめてくれ! 返してやってくれ! そいつがないとその子はこの世界で生きられないんだ。オレだけでいいだろ……何でもする……!」
 ママは凍った地面に手を付いて、頭を下げて、泣き出しそうな顔で私の命乞いをした。
「龍可だけは……お願いだ、助けてくれ……」
 ママにそんなみじめな真似をされると、私は生まれてきたことが恥ずかしくなった。私が今ここにいることが、龍亞が答えを書いた計算ドリルよりも間違ったことみたいに思えた。
「なんか、がっかりだな」
 影法師はママをいじめるのにも飽きてきたみたいだ。ママの腕を掴んで乱暴に立ち上がらせると、被っていた帽子を放り投げてマスクを外した。
 ―― そこにあったのは、私が良く知っている顔だった。
 エメラルド色の柔らかい髪、それとお揃いの目、天使みたいに綺麗な顔立ち。
「……パパ?」
 ただパパと違うのは、パパよりもちょっと若くて輪郭が柔らかい。それから伸びた髪を髪止めでひとつに纏めているところ。見た目はパパにそっくりだけど、でもパパじゃない。別の人だ。私のパパはこんなに意地悪じゃない。
「なにがパパだよ。むかつくんだよ。怪物が仲良しの家族ごっこなんてしやがって」
 唾でも吐きそうに、パパと同じ顔をしたその人が言った。
「龍可……」
 ママが、虚ろな目で私を見た。クロロホルムが全身に回って、意識が朦朧としてきたみたいだ。でも私を安心させるために、何度も何度も「大丈夫さ」と繰り返してくれる。
「怖くないぜ。オレが守る。だから、心配はいらない」
 ママが言った。



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