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小さな足が乱暴に床を踏み鳴らす音がして、兄弟が慌しく広間へ駆け込んできた。なりは小さいが、ひとつ上の双子の姉と兄だ。
こいつら双子は<雪の女王>の<ゲルダ>と<カイ>の名前をあだ名に付けてもらっている。本人達も結構気に入っているみたいだ。少なくとも、俺と同じ名前の女主人公が、地の底に堕ちてもがき苦しみ続けるだけの陰気な物語よりは、余程美しい話に決まっている。
「なんだよお前達。うるさいな、王子様が起きちゃうだろ」
玩具の人形の代わりにして遊んでいたチョコレート色の頭を抱いて、文句を言ってやった。だけど、いつものような憎まれ口が返ってこない。二人共が顔を真っ青にして、子供っぽい仕草で俺の背中の後ろに隠れた。
「あいつが来るよ」
双子がひそひそ声で囁いた。
この双子は、デュエルの腕前が兄弟の中でも頭一つ分飛び抜けている。特にタッグ・デュエルじゃ負け知らずだ。そいつらが脅えきっているなんて只事じゃない。俺はすぐに学園支給品のデュエル・ディスクを起動して、ナチュル・デッキを押し込んだ。
―― 程なく地震が来た。
足元が揺れ、石の壁が崩れて、照明が床の上に落下して粉々に砕け散った。地下は一瞬灯りを失って真っ暗闇になったが、すぐに天井に開いた大穴から自然光が射し込んできた。大量の土埃が雨のように降り注いでくる。
ぽっかりと開いた丸い空の上から、光と共に少女が舞い降りた。白い髪が太陽に照らされて銀色に輝いている。天使みたいに神々しい姿だったが、神の使いには蝙蝠の翼なんて生えていない。
上階のオペラ・ホールから客席ごと落ちてきたシャンデリアの上に、龍可が、止まり木で休む鳥のような格好で立っている。幼い顔立ちに、敵意がはっきりと顕れた眼が光っていた。悪魔の子がベルベットの翼を折り畳んで、カードをディスクに押し付けた。
「<エレメンタルヒーロー・ネオス>……ママを助けて!」
銀色の巨人が、龍可の召喚に応じて出現した。ネオス。知っている。何年も昔に本校で行われた各校交流戦で、ヨハン相手にカーレンが使っていたエース・モンスターだ。嫌な汗が浮いて顎を伝っていく。
ヒーローを廃業したとカーレンは言っていた。娘がその正義の志を受け継いだというのだろうか?
だけど悪魔の娘は、みんなの為に戦う正義のヒーローには見えなかった。ネオスがカーレンを縛る枷に何度も攻撃を加える。
「……正義の味方が悪の怪獣の手先なんていいのかよ?」
「大好きな人を守りたいっていう気持ちを、正義だとか悪だとか、大人が勝手に言わないで」
龍可が橙の穏やかな少女の眼と、エメラルドのあどけない少年の眼をちぐはぐに輝かせ、噛みつくように断定した。その傲慢は、確実に両親から譲り受けた性格だ。
悪魔の瞳に覗き込まれると、俺の自我と心の闇に同化した龍可との間に存在する境界が無くなって、内臓をひとつずつ台の上に並べられて、プレートを付けられて陳列されているみたいな気分になった。
「あなた、本当はパパのことが好きなのね。本当はママに憧れてたのね」
龍可が言った。
屈辱で顔が熱くなった。一瞬の間に、俺の心も記憶も全部読まれてしまったんだと分かった。意識も無意識も、思い出やものの感じ方や憧れの人の顔までが、デパートの地下でショーケースに並べられた色とりどりのケーキみたいに物色されたのだ。
俺の生まれてから今までの人生は、実にろくでもないことばかりだった。俺は子供の頃から、恵まれた子供に俺自身のみじめな暮らしぶりを知られて笑われることがひどく恐ろしかった。何が何でも嫌だった。それを、俺の心の闇を覗いた龍可はもう知っている。
『悪魔族の力を得た人間』なんかじゃない。この子供は本物の悪魔だ。龍可は口に慣れた歌でも唄うように言った。
「でもパパはママを愛してる。ママはパパを愛してる。パパもママも龍亞と私を愛してる」
ネオスが殴り付けた錠前が砕けて弾け飛んだ。鋼鉄の鎖が引き千切られ、鬱血して痣だらけになったカーレンの身体が露になった。
「あなた、入れてあげる隙間はないみたい」
龍可は憐れむような目をしていた。
枷が外れて自由を得たカーレンは、かぼそくて優美な腕を伸ばして娘の身体を掻き抱いた。震えている母親の背中を、龍可の小さな手のひらが、なだめるように何度も撫でた。
「龍可……」
「大丈夫、ママ」
龍可が言った。
「私はママとずっと一緒よ」
燻っていた火種がベンチに散って、弾けた。火は無垢材のベンチを焼いて、瞬く間に育ち、隣のベンチへ燃え移って、すぐに部屋中に広がった。ゲルダがデッキからカードを抜いて、ディスクに触れさせた。
「<暗黒界の武神ゴルド>を召喚!」
召喚されたモンスターは、カーレンの傍にいるせいで実体を伴っている。ゲルダのエースが攻撃指示に従って斧を振り上げた。
カーレンは恵まれた子供時代を過ごして、美しく成長して子供を産んだ。その子供もまた、少し不便な身体を生まれ持ったが、それを補って余りある程に、子供が玩具よりもお菓子よりも何よりも求めてやまないもの―― 肉親の愛情を注がれている。
カーレンが羨ましい。龍可が羨ましい。妬ましい。憎い。
姉は分かりやすいくらいに嫉妬をしていた。その心は俺の心でもある。人形師の操り人形は、どれもが皆同じことばかり考えているんだろう。恵まれた怪物親子を身動きが出来なくなるまで痛め付けてやろうじゃないかと。
金色の悪魔の斧の切っ先が届こうとした時、抗いがたい透明な障壁が、抱き合っている親子を包み込んだ。それは二人に牙を剥いたゴルドを、触れた瞬間に跡形もなく分解した。まるで与えようとした敵意が、そのまま返されたかのように。
隣で水風船を地面に叩き付けるような音がした。振り向くと横にいたはずのゲルダがいなくなっている。背後の壁が、一面中、熟れきったトマトの山を力いっぱいぶつけたみたいに真っ赤になっている。
「姉さん?」
壁を見上げて、ゲルダと双子のカイが首を傾げた。意味が分からないという顔だ。俺だって分からない。
背後から強烈な圧迫感を覚えて、背中が焼け付くような感じがした。
おかしな話だ。恐れるようなものは何もないはずだ。抱き合って震えている、無力な母子がそこにいるだけだ。俺達の言いなりになって、娘の名前を呼ぶことしかできないふがいない母親と、性悪だがまだ幼い娘だ。泣いていることしかできない、みじめな二人だ。それなのに、身体が動かない。恐ろしくて振り向くことができない。闇を直視できない。
「誰か! 誰か中にいるのか!」
声が聞こえて、俺は我に返って顔を上げた。天井の大穴の縁にアークティック校の教師連中が集まっている。轟音と火事に気が付いて様子を見に来たんだろう。
さっき生徒手帳で通信したばかりのうちの担任教師も、その顔ぶれの中にいた。口煩い禿頭だが、生徒をとても大切に想っていることは知っている。俺と目が合うと、ためらいなく穴倉の中へ足を踏み入れた。
「ドロップアウト・レディ! 何をしているんですか! 早く外へ出なさい!」
ドロップアウトの俺のことまで気に掛けるような心の広い先生だ。だから、放っておけなかったんだろう。
「先生、来ちゃダメだ!」
柱が折れて、天井が崩壊を始めた。瓦礫の山が落ちてくる。
「あんたみたいな人は、こんな闇の中なんて覗いちゃいけない……!」
先生は俺の言うことなんて聞いちゃいなかった。まったく皆どうかしている。ばかみたいだ。
母親ってやつは、先生ってやつは、なんで他人なんかの為に、ためらいなく自分を犠牲にすることができるんだろう。なんで自分以外のことで、自分のこと以上に一生懸命になれるんだろう。俺には全然理解出来ない。
―― アカデミアを卒業した後で、いつか未来に先生になって、子供を産んで母親になったら、俺にもそれが分かるようになるんだろうか?
俺と兄の腕を掴んで、先生は、俺達の背後の闇の中に蠢いているものを見てしまった。
「女性と……子供……? いや……」
俺も、恐る恐る振り向いた。そして、先生の言葉がひどく間の抜けたものだと思った。女も子供もどこにもいない。巨大な蝙蝠の翼を広げ、蜥蜴の四肢を持った人間なんているわけない。
その人の美しい顔は、二目と見られないくらい醜悪に崩れていた。顎が盛り上がり、口が裂けて不揃いの牙が露になっている。顔面にはびっしりと隙間なく、赤紫色の鱗が生えていた。眼窩が窪み、不気味な赤い光を放ち始める。
胸の真ん中に、頭ほどの大きさがある肉の瘤ができていた。薄皮が剥けると、巨大な目玉が現れる。首の付け根からもうひとつ顔面が生え出していた。余分の頭を誇らしそうに掲げて、異常に長い首が蛇のように揺れていた。
「ば、化物か……!」
先生がディスクを構えた。他の先生達も後に続いて、俺と、俺より小さな兄を庇って、今やもう人間の姿を取り繕ってすらいない怪物の前に立ちはだかった。
「行きなさい、ミス・アンデルセン」
先生が言った。
「人間には、誰でも光を目指す資格がある。子供達には未来を夢見る権利がある。彼らの無限の可能性を断ち切ろうとする者は私が許さない。悪魔よ、大切な生徒には指一本触れさせはしない!」
闇の中で、巨大な赤い目玉が蜥蜴のようにぎょろぎょろと蠢きながら、俺達の方を向いた。
『―― クロノス先生』
ひととき、時間が止まったようだった。
「……アカデミア本校の、クロノス教頭か?」
先生達は不可解そうな表情を浮かべている。おぞましい姿をした怪物が、どうしてその名前を口にするんだろうと考えたんだろう。
みんな何も知らない。その怪物が、かつてはデュエル・アカデミアで学んだ普通の人間の生徒が変わり果てた姿だなんて知らない。
『オレは……最悪のドロップアウト・ボーイで……あんたの志に恥じない生徒になりたかったけど、先生――』
完全に人を棄てたその人が言った。
『ごめんな。今のオレの姿は、あんたには見せらんないぜ』
* * * * *
<NEX>最高責任者の遊城十代博士が、北ヨーロッパへの出張の最中に娘と共に行方不明になって、今日でもう一週間が経つ。それはそれとして、本社の倫理委員会からきっかり三十分置きに掛かってくる国際通信に、僕は正直を言ってうんざりしていた。
「はい、空野です。ええ、まだ戻りませんけど、大丈夫ですよ。先輩なら。たとえどんなにピンチに陥ろうと、最後には結局ひとりで何とかして帰って来るような人ですから。僕らが守ってやらないと何もできないような無能なら、僕はこんなにあの人に対して本気にはなれなかった。心配? そりゃしてますよ、もちろん」
しばらく前から黒煙が空に向かって立ち昇っていた。遠くに見えるデュエル・アカデミア・アークティック校の校舎が崩れ、中から押し出されるようにして闇が吹き出してくる。
「あの人の機嫌を損ねて、世界が滅びはしないかって」
蜥蜴の卵が孵化し、幼体が殻を割って顔を覗かせるように、丸い屋根を破って双頭の竜が這い出てきた。竜は太い脚で人が造った建造物を蹂躙し、空へ向かって吼えた。大分離れているが、空気の震動と地響きが伝わってきた。間近で見られなかったのが残念だ。
「ああ、今見付けました。十代先輩です」
オペラグラスを覗きながら報告をすると、先方は何が気に食わないのか、受話器の向こうでがなっている。
「テレビを見れば分かるって? あはは、そうですよね。いや、冬休みに入っていたのが救いですよ。アカデミアの生徒から犠牲者なんて出ちゃ一大事ですから」
放送局のヘリが、蚊を潰すような仕草で叩き落とされていた。実在した怪獣をビデオカメラに収めてやろうとしたのだろうが、あの人は破天荒過ぎて、テレビ放映には向かない性格なのだ。何年も昔に、あの人を生放送のデュエルで使おうとしたテレビ局があったそうだが、果てしなく無謀な所業に違いない。
怪獣映画を見ている時のような高揚感を覚えて、理性ある一サラリーマンとしては不謹慎だなと反省をした。それでもわくわくするような気持ちは簡単には消えない。本当にあの人は、僕の想像の遥かに上をいく。
「いや、それにしても<ダス・アプシェリッヒ・リッター>。忌まわしい騎士か。やっぱり格好良いな、先輩は」
回線が切れた。頭にきた本社の幹部が乱暴に受話器を叩き付けたのかもしれないし、電波塔が折れたのかもしれない。
レンタカーに戻ると、影丸会長は生中継がぶつ切れになったカーテレビを未練がましく凝視していた。
「彼の圧倒的な力強さを持った肉体は、実に羨ましい限りだな」
「化物め。正義の味方は一体何をやっている」
小間遣いのミスターは、忌々しそうに爪を噛んでいた。
竜があぎとを大きく開けた。空が白んで、空気が帯電する。咆哮が大地を震わせる。周囲一帯が火の海に変わるまで、そう時間は掛からなかった。
* * * * *
ママは鱗だらけの腕で私を抱いて、ふたつある大きな頭のひとつの上に座らせてくれた。建物が燃える臭いと、悲鳴と泣き声と、人が潰れる時の生々しい音が聞こえる。
でももう怖くはなかった。ママが私に目隠しをして、穏やかな声で子守唄を唄ってくれたから。赤い目玉の蠍、広げた鷲の翼、青い目玉の子犬。星めぐりの歌だ。
ゆっくり身体を揺すられていると、瞼の裏にありありと偽物の夜空を浮かべることができた。冷たい光を放つ本物の夜空よりも、私はママの膝に頭を乗せて見上げるプラネタリウムの方が好きだった。
スイッチを触って魔法のように星を操ると、私はまるで自分が星よりもずっと大きな存在になったように思えた。神様よりもずっと大きくなれた気がした。意地悪な神様から、パパとママと龍亞を私の腕の中に取り戻せるような気がした。
最後にママの<フェロー・サクリファイス>が全部を消してしまうと、ようやく静かになって、私は久し振りに安心した気持ちで眠りの闇へ沈むことができた。
* * * * *
姉さんは潰れて壁に赤い模様を描いた。それじゃペンキの缶と何も変わらない。生まれていたのか、いなかったのかも分からない。
僕は逃げた。早く逃げなければ、僕も姉さんみたいになるって知っていた。崩れた柱が砂になって落ちてきて、目に入って涙が出た。
「ゼーマン!」
隣を走っていた妹が急に足を止めて叫んだ。
「早く逃げなきゃ! 何やってるんだよ!」
僕は足を止めないまま怒鳴った。
「先生の猿が」
妹の、<パンを踏んだインゲル>の担任の先生がいつも肩にのせていた小猿のゼーマンが、エントランスの床の上にうつ伏せになって倒れている。まだかすかに動いていた。生きている。
駆け寄って、猿を助けようとしたインゲルの上で天井が崩れた。妹は傷付いた猿を抱いて、顎を上げた。唇が、「兄さん」っていうかたちに動いたのが分かった。目は僕の方を向いていなかった。僕らは沢山いるから、どの兄さんを呼んだのかはわからない。
地響きがして、白い土煙で目の前が一杯になった。轟音で耳が馬鹿になって、何も聞こえなくなった。身体が投げ出される感覚があった。頭もぶつけたと思う。
一瞬意識を失っていた。気が付いたら僕は外にいて、仰向けの格好で寝転んでいた。空が赤く燃えて、あちこちから黒くて太い煙が立ち昇って、建物が焼ける臭いが空気の中に充満していた。
一瞬前まで僕がそこにいた校舎の一階部分は完全に潰れていた。瓦礫の隙間から、小猿の尻尾を掴んだ白い手が突き出ている。引っ張ったら、千切れた猿の尻尾を掴んだ腕だけが出て来た。肘から先はなくなっていた。肉の中に白い骨が見えた。
猿は尻尾だけだ。妹は腕だけだ。僕は悲鳴を上げて後ずさった。腰が抜けていて、立ち上がることもできない。もう何が何だか分からない。ただ怖かった。
地面が震えて、瓦礫の山がその度にガタガタと鳴った。これは足音だ。怒れる追跡者はすぐ後ろまで来ていた。僕の身体は北極海で水泳をした後みたいに震えている。
僕の後ろには圧倒的に大きな動物がいた。大人も一呑みにできるくらいに大きな口。車だって噛み砕ける牙。喉の奥で赤い炎が踊っているのが見えた。竜の頭は二つともこっちを向いていた。
僕はカードを握って、エース・モンスターの<暗黒界の軍神シルバ>を呼ぼうとした。だけど、思い出した。
僕達双子の姉弟は、タッグを組んでデュエルをしたら負け知らずだ。なのに姉さんは、ゴルドを呼んで攻撃をした途端、壁を塗る赤いペンキになった。デュエルの強さとか、カードの引きとか、その怪獣の前では何の関係もない。
あの時、ばしゃっ、て音がした。肉が千切れたり、骨が砕けたり、『痛い!』って悲鳴を上げたり、そういうのは一切なしだ。カーレンに叩き潰されて、ばしゃっ、それだけ。
あの光景が、目の前に鮮やかに再生された。ディスクにシルバを認識させようとした途端に、僕の目の前には赤く塗られた壁が立ち塞がる。この赤いペンキは、僕と一心同体の姉さんの血だ。僕の血だ。
僕にはできない。モンスターを召喚することが怖い。攻撃命令を下すことが怖い。
きっと僕は、もう二度とデュエルができない。
僕は、生まれて初めて死にたくないと思った。毎日がつまらないとか、生まれてきた意味がないとか、僕らは良く兄弟で話し合ったものだった。でも今はそんなことはどうでも良くて、ただ死にたくなかった。
今、命が助かるなら、僕はもう二度と『生きてても楽しいことなんかない』なんて言わないと誓った。神様に誓った。いや、助けてくれる望みが薄い神様になんかじゃなくて、目の前にいる悪魔に祈った。命乞いをした。
もしも僕を見逃してくれたら、一生何でも言うことを聞いてかしずいて、もう悪口を言ったり失礼なことなんてしない。もしも殺さないでくれるのなら、魔法で鼠の姿に変えられたって構わない。死にたくない。
僕達は間違っていた。僕達はその人の為に造られた人形なんだから、文句を言わずに操られるまま踊っていればよかったんだ。
「殺さないで……まだ死にたくない、ないんです……」
僕は、いつもお守りに持っている、僕が生まれた試験管のコルクを握り締めて叫んだ。
「お願いします、殺さないで下さい……!」
目を閉じて、一心不乱に祈った。僕を抱き締めるところなんて想像もつかない、他の人が見たらただのゴミみたいな僕の母親に祈った。
「助けて、ママ……!」
竜の足音は止まっていた。炎の息が僕を焼く代わりに、鱗がびっしり生えた大きな蜥蜴の脚が僕をぺちゃんこに踏み潰す代わりに、繊細そうな指が僕の頬に触れた。
「これはただのコルク栓だよ。お前の母さんじゃない」
薄目を開けると、ちぐはぐ色の優しい目が僕を見つめていた。人の形で微笑んでいた。信じられないけど、怪獣が僕に向かって微笑んでいた。コルク栓に祈る僕がすごく滑稽だったんだろう。
しなやかな腕が、人じゃないけど人みたいに僕の背中を抱き締めた。誰かに抱かれるなんて初めてだった。パパにもないし、ママは無理だし、年上の兄弟にもない。
「……可哀想にな。そんなに母さんに助けを求めてるのに、きっとすげぇ怖くて、身体中焼かれて、痛かったろうに」
悲しい目だ。僕と誰かを重ね合わせて、その報われなかった子供の幻を僕の中に見ているみたいだった。
「オレがなってやる」
優しい声で、その人が言った。
「分かるか? オレはお前の母さんだから、お前を殺さない」
僕は、よく分からないけれど、笑っていたと思う。泣いていたような気もする。ただ喉が引き攣って、頭の中が真っ白だ。涎もこぼれていたと思うし、失禁もしたかもしれない。
今の僕には、仲良しのゲルダと別れて雪の女王様の手を取ったカイの気持ちが本当に理解できてしまっていた。
僕を食い殺すことも、僕を生かすことも気分一つで自由にできるその人が、まるで本物の雪の女王様みたいに、あんまり美しいから、冷たい手で僕を抱くから―― 。
僕の中で、なにかが壊れたのが分かった。
* * * * *
ママの胸に抱かれて、まどろみの中で私は灰色の大地に穿たれた巨大な穴を夢に見た。穴の縁に螺旋のように刻まれた細い道を、うすぼんやりとした影が無数に蠢きながら、門へと向かって並んで歩いていく。
皆、大きな門の向こうにある世界を目指していく。私も何度か同じ道を通った記憶がある。一度目はパパと龍亞と一緒に門へ向かって。二度目は一人で、ママの泣き声が聞こえてくる方へ耳を澄ませて、虚ろに佇んでいる人影の列を押し退けて、光射す道を目指して細い坂道を駆け上っていった。
今、人の世界と冥界の境目に立っている私へ向かって、檻の中で暴れているゴリラみたいに、何度も腕を伸ばしてくる人影があった。両目は落ち窪んでいて空洞だ。それが不気味に赤く輝いて、歯を剥き出しにして私を睨んでいた。
「何よ……何見てるのよ」
死者の腕は私を捕えられない。それがどうしても悔しいような顔をしている。
『お前を倒す……たとえ冥界の王に魂を売ろうと……どれだけ時を隔てようと必ず私は蘇り……殺された生徒達の仇を……』
黒ずんだ影がうなり声を上げている。私は呆れた。この死人は何も分かっていない。
「バカみたい。人間は、それができないから人間なんじゃない」
* * * * *
「人は死んだら終わりだ。来世じゃその人間は全く別の存在になる。飛び去った魂を呼び戻すことは、神にも悪魔にもできないんだ」
雪深い森の中の教会で、修理が終わった靴の踵を満足そうに見つめながら、その人が言った。言葉とは裏腹に瞳は挑戦的に眇められていた。不可能だなどとは思ってもいない顔だった。
「―― 神も悪魔も駆け抜けて、行ってしまうつもりですか」
「オレは走るしか脳がないからな」
ベンチの上であぐらをかいて、意地が悪そうに唇の端を歪めている。最悪をすら楽しもうとする悪魔のように。知らない表情だが、そんな顔も悪くなかった。
「遊城十代。百年待って、貴方に会えて良かった」
素直にそう思った。
「あの時私は、思えばもう死んでいたんでした。あの人の死が耐えられなくて。やっと思い出した。ただの抜け殻だ。本当の私はとっくに生まれ変わって、貴方に出会って恋をしていた」
「オレもいいものを見れたよ。じーさんになったヨハンなんてさ。歳を取っても、やっぱりヨハンは綺麗だ」
その人ははにかむような、面白がるようなちぐはぐな表情を浮かべて、視線が合うとあどけなく微笑んだ。好奇心を映した瞳で、老人の、色が抜けた白髪頭へ珍しそうに手を伸ばす姿は、まるでひとりの少女だった百年前に戻ったようだ。ひどく懐かしくて、目の前がかすんで見えた。
「小さなニッセ、はだかの王様、親指姫マーヤ、善いヨハンネス、マッチ売りの少女、正直者で乱暴な大クラウスとひ弱な詐欺師の小クラウスの双子、パンを踏んだインゲル、雪の女王にカイを攫われたゲルダ、みにくいアヒルの子―― 私の物語の欠片たちは皆いなくなってしまった。私自身も、もう良い頃合でしょう」
靴の修理に使った金槌とワックスを、長年愛用してきた道具箱の中へしまい込んでから、回転式拳銃を取り上げた。柔らかい布で銃身に付いた汚れを拭き取った。鼻先を火薬の匂いがくすぐる。子供達がこの家を去って以来遠ざかっていた、久方ぶりの匂いだ。
虹を描いたステンドグラスを通して、透明な光が射し込んで来た。吹雪が止み、厚い雲に切れ目が入って、太陽が顔を出し、その人の頬を照らした。異形の瞳が金属に似た光沢を孕んで、かちりときらめいた。
人知を超えた美しさにただ見惚れていた。もう老人になってしまった身が、生涯でたったひとり愛した人だった。
「大事に履くよ。靴。直してくれてありがとな、ヨハン」
「どういたしまして、十代」
目の前で赤い靴を履いた両足が揺れている。愛した人がここに生きている。再び巡り会えた。百年ぶりに、幸福な気持ちを思い出した。
「春の訪れは遠い。この国の冬は特に凍て付いている。身体を冷やさないよう、お気を付けて。<優しき闇>よ」
「うん」
その人が頷いた。返事は軽いが、無頓着な癖は何度生まれ変わっても直らないのだろう。それでも隣についていてやるのは、もう自分の役目ではないと知っている。
弾が弾倉に装填されていることを確認してから、撃鉄を指で引き起こした。そして右耳の上に銃口を押し当て、引鉄に指を掛けた。
「ごきげんよう、遊城十代。また来世までお元気で」
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