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**月**日 ――
今日、日本から来たおじさんに、箱入りのチョコレート菓子をもらった。チョコレートなんて初めて食べた。甘くて美味しい。もっと食べたかったな。
このお菓子は元々おじさんの息子へのおみやげなんだそうだ。おじさんはこの家に俺みたいな子供がいるとは思っていなかったらしい。おじさんの息子ってのは、いつもこんなに美味しいものを食べているんだろうか。そう思ったら、とても羨ましくなった。優しい父親がいていいなあ。
**月**日 ――
どんなに優しくされても、どんなに甘いものを食べられても、父親に殺される運命の子供は可哀想だ。俺より可哀想だ。俺でさえ可哀想だと思える子供がいる。下には下がいる。
安心した。俺なんてまだましだ。
**月**日 ――
さもひとりぼっちですっていう顔をしているしけた子供だった。家に来るかもしれない。ホームステイだって。
友達になってやるって嘘を言ったら、単純な奴だから信じて、きっと素直に喜ぶ。馬鹿みたいだ。デュエルをした相手を昏睡状態にしてしまう子供なんて、そんな奴と本当に仲良くなれる奴なんかいないっての。
自分がやったひどいことを棚に上げて、まだ友達ができるかもしれないなんて本気で思ってるなら、まるで悪魔みたいに傲慢だ。こんな奴、みんなに嫌われて、ずっとひとりぼっちで泣いていればいい。俺は一生こいつが嫌いだ。絶対に。
**月**日 ――
あいつは機械に掛けられて馬鹿になった。全部忘れてしまった。落第した。もうあんな奴のことを考えるべきじゃない。
**月**日 ――
この間のあいつの手術のことを思い出す度に怖くなる。俺もあんなふうに頭を弄られて、いつかあいつを好きになってくんだろうか。
あんな奴を好きになった俺の心はもう俺じゃない。消えたほうがましだ。
**月**日 ――
たとえばちょっと優しくしてやったら、ひとりぼっちで寂しがりな正直者を気取っているあいつは、俺のことを好きになるんだろう。きっと。
救われたっていう顔をする。俺しか見るものがないから俺のことばかり見てる。後をついて回るかもしれない。その時に立ち止まって振り向いて、全部嘘だって教えてやりたい。お前を好きになる奴なんかこの世界中どこ探してもいないって。
それが俺の復讐だ。呪いだ。あいつさえいなければ、こんな世界に生まれて来なくて済んだのに。
大嫌いだ。悪魔め。
* * * * *
清潔な石鹸の匂いが鼻先をくすぐった。龍亞が、洗濯機を回しているヨハンのシャツに頭を埋めて、額を擦り付けている。
「パパ、いい匂いがするー」
「それに引き換え、ママはだらしないったら」
龍可に軽蔑の眼差しを向けられて、付けっぱなしのテレビの前でカーペットに寝転がり、煎餅をかじりながらカードカタログを眺めていた十代は、慌てて起き上がって背筋を伸ばした。
「わ、わかってるよ。なんかするってオレも。手伝うぜ」
「よしよし。いい心掛けだぜ。じゃあこいつを頼む」
正座の格好の十代に、ヨハンは機嫌を良くして洗いたてのシーツが入った洗濯籠を押し付け、自分は中庭に降りて、水撒きホースを使って花壇の水やりを始める。そう言えば今週はうちが水やりの当番だった。双子も車椅子を器用に操って、ヨハンの後ろについていく。日当たりの良い中庭は、遠出をすることができない双子のお気に入りの場所だった。
「白くて小さくて、かわいい。パパ、この花の名前はなに?」
「鈴蘭さ。綺麗だけど無闇に触っちゃいけないぜ。強い毒があるんだ」
「毒?」
「とても怖いものだよ」
「ねー。花なんて見てたってつまんない。もっとカッコ良い話をしようよ」
「花を侮るなよな、龍亞。植物族モンスターの効果は結構馬鹿にできないんだぜ。たとえば十代の<ダンディライオン>なんて、倒されても種を残して、あいつのエースを呼ぶ鍵になるんだ。踏まれても立ち上がってくる姿がすごくカッコ良いじゃないか」
「そういう話ならオレも嫌いじゃないよ。でもやっぱりヒーローが一番だけどね!」
ベランダの十代の元まで笑い声が聞こえてくる。洗濯籠が空になった辺りで、ヨハンが戻ってきた。
「ちゃんと干せたな。よーし、偉いぞ」
風を受けて気持ち良くはためいているシーツを見上げ、子供にするように頭を撫でられて、さすがに頬が熱くなった。これでもアカデミア時代は寮暮らしをしていたし、自炊だって問題ない。そう文句を言い掛けたが、あの頃は弟分達が甲斐甲斐しく身の回りの世話を焼いてくれていたし、料理と言えばコンビニ弁当の温め方に関してはちょっとうるさい程度だ。墓穴を掘りそうなので黙っておくことにした。
中庭で、二人でルールを作ってゲームをしている双子を見下ろして、十代は少し羨ましいような、安心したような気持ちになった。ヨハンのように優しくて頼り甲斐があって、身近に感じることができる父親なんて、ただの幻想だと思っていた。それを当たり前だと思っている子供達が羨ましくて、それを子供達が当たり前だと思っていることが嬉しかった。
「なんでヨハンがオレの父さんじゃなかったんだろう?」
しみじみ言うと、思った通りヨハンは変な顔をしている。
「なんだよ。その言葉、そっくりそのままお前に返すぜ。なんで十代が俺の……」
「ん?」
「いや」
ヨハンは照れ臭そうになって、干したばかりのシーツに十代の顔を押し付けた。濡れていて冷たい。「なんなんだよ、もう」と文句を言うと、腕の中に抱き締められた。
「今日も俺の奥さんは美人だ」
噛み締めるようにヨハンが言うから、おかしくなって、十代は笑った。
「ばかじゃねーの」
「本当に、俺は幸せ者だなぁ」
ヨハンに大切にされると、いつも泣きたいような気持ちになる。どうしてヨハンはこんなふうに、ただ純粋に人を愛せるのか、十代には良く分からない。
昔十代を大事にしてくれていた仲間は、おぞましく変わり果てた姿を見て怒り、憎悪し、疑念を持って、悲しみ、苦しいような顔をして、十代を見捨てた。ユベルによる集団昏睡事件以来、両親は十代を抱き締めてくれなくなった。誰かを好きになって、その気持ちを好意で返されたとしても、人に嫌われるのは一瞬だ。もう身に染みて知っている。
十代は自分の本当の心と姿を、ヨハンにだけは絶対に見せたくなかった。しかし、それこそが人に化けて人を騙す悪魔のようで、ずっと後ろめたい気持ちがしていた。
もしかするとヨハンは、十代の真実を知っても変わらず愛してくれるかもしれない。醜い竜に変わり果てた姿を見ても、頭を撫でて「ばかだなぁ」と笑ってくれるのかもしれない。
それでも、あの異形の姿を受け入れてくれる人間が、果たして存在するのだろうか。十代ですら、かつて自身が行った虐殺や蹂躙を赦せないのに、十代と良く似ているヨハンがそれを知ったらどうするだろう。
もしもヨハンに拒絶されたら―― どんなに巨大な怪物になっても、十代はそれが怖かった。しかしヨハンが十代を受け入れ、全てを愛してくれて、そのせいで人間達の中で孤立してしまうことも、同じ位に怖かった。
子供の頃は、大人になったら怖いものなんて無くなるんだと思っていた。そんなことは無かった。今の十代はヨハンが何より愛しくて、恐ろしくてたまらない。
昔は並んでいた身長が、今はヨハンだけ背丈が伸びて、簡単に抱き締められるのが怖い。ヨハンが歳を取るのが怖い。いつか失うのが怖い。その時のことを想像すると、かつて異世界で過ごした絶望の日々と空虚な闇が、手の届きそうな程傍へ戻ってくる。またあの時のように自分が自分じゃなくなる気がした。
だからこそヨハンを好きになるのが怖い。それでも心はどんどんヨハンへ傾いていく。好きになっていく。
初めてヨハンの恋慕を知った時も、畏れて触れられることを拒絶していた。混乱していた。目を閉じて耳を塞いで部屋に閉じ篭り、嵐が過ぎ去っていくのをじっと待っている子供のように。それでもヨハンは強い風や大雨のように過ぎ去ってはくれなかった。十代を見捨てず、ずっと一緒にいてくれた。そのこともまた恐ろしかった。
ヨハンの傍にいると日毎に彼の存在が大きくなっていって、ずっと幻のように思っていた家族こそが十代の中で世界そのものに変化した。世界が終わる時のことを想像すると、眠れなくなって、頭からシーツを被り、悪夢を怖がる幼子のように震えていた。
ヨハンはいい歳をした十代の醜態にも、呆れずに付き合ってくれた。大きなマグカップを二つ用意して、二人分の温かいココアを煎れて、十代が眠れるまで抱き締めて髪を撫でてくれた。そうやって甘やかされていると、十代も、まるで龍亞や龍可のようにヨハンの大切な子供になったような気がした。
「……ヨハン」
ヨハンの腰に腕を回して、龍亞がやっていたように胸に額を押し付けた。洗濯物のいい匂いがする。
「どうしたんだ、甘えて。龍亞や龍可みたいだぜ」
ヨハンが笑って十代の髪を梳いた。この人に相応しい位に綺麗な生き物になりたいと思った。力強い人間に、優しい精霊に。ヨハンが誇れる精霊と人間の架け橋になりたい。
「ヨハン、好きだよ」
ヨハンは、宥めるように優しく十代の背中を撫でてくれた。キスをした。柔らかい舌で唇を舐められると、頭がぼうっとなって、怖れも心配事もどこかへ飛んで行ってしまうような気がした。
「震えてるのか? ばかだな、十代。俺達に怖いものなんか何があるって言うんだ」
手のひらが温かい。泣きたい。嬉しい。幸せだ。
まるで天国にいるみたいだ。
* * * * *
十代の両腕には精霊の力を抑制する枷が嵌められていたが、本人は特に気にする様子もなく、監禁されている特別室の長テーブルに着いて、昼下がりのお茶会を決め込んでいる。赤い服は部下の徹夜の努力も虚しくまた破かれていたが、継ぎ直される度に小細工が増えて派手になっていく。今回は裾にチャイナ・ドレスのようにスリットが入れられた。完全に空野の趣味だ。
部屋の中央には大きなテーブルが置かれ、レースのテーブルクロスが敷かれた上に、三段並べられた茶器が乗っている。上段にはクリーム付きのスコーンとヘーゼルナッツのクッキーとダックワーズが乗せられ、中段には林檎入りのバターケーキにアンズジャムを塗ったものと、コンポートが並んでいる。下段はタマゴとキュウリのサンドイッチとサーモンのカナッペが交互に並び、その隣でハーブティーのポットが湯気を立てている。
まるで気違いどものティーパーティーに、ことあるごとに首を刎ねたがるハートの女王が同席しているような図だ。このろくでなしの半陰陽は、今でこそ気取ったなりをしているが、十年前は泥臭い田舎小僧だったことをギースは知っている。
「お前食わないのか? ミスター・ガルバンゾー」
「ギースだ! 甘ったるい匂いをさせるな。気分が悪くなってくる」
「うぇ。これ、オレちょっと苦手だわ」
「ハーブティーですか?」
「うん。風邪引いた時にヨハンに飲まされた奴だ。薬みたいな味がする」
そう言いながら胸焼けがしそうな位のミルクと砂糖を加え、蜂蜜までたっぷりと入れている。
首の爺は丁重に銀の盆に乗せられて、どこかへ運ばれて行った。龍可と青は子供用の椅子に着いて、携帯ゲーム機で通信対戦をしている。精霊と人間の精神体が融合した存在の龍可は、食事を取る必要がないし、できない。青も食が細く、カモミールティーをちびちびと飲んでいた。胃を悪くしているらしい。悪魔に魅入られた不幸な少年が空野に胃薬をもらっているのを、十代が首を傾げて覗き込んでいる。
「空野も胃薬なんか飲んでんの? なんかうちの会社のやつ、みんな同じの持ってるよな。それ」
「そりゃもう。医薬品部門が作った胃薬ですよ。結構効くんです。我が社で胃薬を必要としないのは、社長と十代先輩くらいなものですよ。強面ばかりだけどみんな繊細なんです。ほんとは」
船を降りて連行された先は、アーチ屋根を持ち、博物館のような印象の赤煉瓦建築だった。これまでにも要人の幽閉によく使われていたらしい特別室は、華美な装飾が施されて、天井には宇宙創世から続く光と闇の戦いが描かれている。絢爛だが前時代の匂いがする建造物だった。その封印された扉を、もう何度目かになるが、諦めずに叩いて叫ぶ。
「おい……おい! 俺は化物どもとは関係ないだろ! 開けろ! ここから出せ!」
「黙れ。騒ぐな。頭が痛い」
十代が赤い服のスリットを翻らせて、ギースの頭に回し蹴りを叩き込んだ。この悪魔は何かにつけて人の頭に靴の底をぶつけてくる癖があるらしい。青が脅えて空野のスーツの裾を掴んだ。
「何だってんだ……ちくしょう、癇癪持ちめ」
空野が、例のイタチみたいな微笑を浮かべて首を振った。
「生理中ですよ。しょうがないです」
「どっちつかずのくせに、そういう所は一人前なんだねぇ」
口の中で文句を言っていると、龍可がやってきて、ギースが扉に叩き付けられた時に擦り剥いた手の甲にキャラクターもののハンカチを巻き付けた。
「大丈夫? おじさん。ママは乱暴すぎる」
娘が母親に非難の目を向けた。
「パパが言ってた。やさしいママが好きだって。パパはおしとやかな人が好きなのよ。嫌われても知らないから」
「う……わ、わかったよ。悪かった」
さすがに化物の子は化物だ。龍可はおとなしい顔をして、的確に十代の心を抉る技を知っている。
しばらくすると、十代の旧い馴染みだという軟弱そうな男が部屋へやってきた。オサムという名前らしい。
「不自由をさせて悪いね」
男はそう言って、十代の両腕の枷をすまなさそうに見つめた。十代は気にしたふうもなく頭を振って、「結構快適だぜ」と返している。これだけ好きに飲み食いをしておいて、まさか不満は無いだろう。オサムが審議に掛ける為に十代を連れ出しに来たと知ると、本人は大皿を傾けて啜るように焼き菓子を平らげた。見ているだけで胃もたれがしそうだった。
「空野、子供達を頼んだ」
「はい、先輩」
「あ、待って。ママ」
部屋を出ようとする十代を、龍可が呼び止める。
「はい、これ。返すわ」
ヒーロー・デッキを、元々の持ち主である十代へ差し出した。十代は床に膝をつき、龍可の頭を撫でながら顔を覗き込んだ。
「龍可が持ってろ。みんなお前を守ってくれる」
「でも、ヒーロー使いのママが好きなの。私」
「じゃあオレがいつかまた龍可のヒーローに戻れる日が来たら、その時に龍可がオレに返してくれ」
十代は優しく微笑んで、そう言った。
「大人ってずるい生き物だよな」
警備員に先導されて廊下を歩きながら、十代が言った。ギースはこの忌々しい男女の尻を睨み付けながら、言っても無駄だろうとは思いつつも、文句を言わずにはいられない。
「なんで俺がお前のお目付け役なんざ」
「だってお前、子供の前で煙草吸いそう」
「知ったことか。大人じゃなくて、お前がずるいんだよ。そんな日は来ねえよ。んな事、分かりきってるんだろうが?」
ギースはぼやいた。
「あの嬢ちゃんも可哀想にな。お前みたいな頭のおかしい親を持って、将来が心配だ」
クリボン柄のハンカチに目を落とし、龍可の顔を思い浮かべた。両親共にいかれたろくでなしだ。まともな大人に育つはずがない。十代は意外そうな顔をして首を傾げている。
「なぁ。ミスター・サヤエンドウ」
「ギースだ」
「お前って、意外といいやつだよなぁ」
何を言い出すかと思えば、そんなことを言われたのは初めてだ。いや、何十年ぶりだろうか。自然と肩に乗っている<ジェリー・ビーンズマン>へ目が行った。らしくもない。すぐに、ぶっきらぼうに視線を逸らした。
悪人だと罵られることには慣れている。気分が良いくらいだ。だが、こういうのは居心地が悪かった。
「な、なんだ、急に。誰がいい奴だ。馬鹿にするのも大概に……ああ、いや。お前みたいな怪獣と比べたら、誰だっていい奴だ。俺なんか聖人君子だよ。確かに」
「照れるなよ、ミスター・ダイズ」
「ギースだ」
十代は人の悪い顔で笑っている。さすがに魂の半分が悪魔族の精霊だというだけはあって、性質が悪い。
<ミスター・ジェリー・ビーンズマン>という名前は、元の持ち主に忘れ去られ、棄てられて、行き場を無くした<ジェリー・ビーンズマン>の精霊と無理矢理融合させられた時に、この性悪な女狐に付けられた名前だ。塵同士の融合合体だ。皮肉が過ぎる。加えて物覚えが悪い十代が、自分で名付けたものを忘れて、毎回ちぐはぐな名前で呼ぶことも気に入らない。
名前を変えて生き直す。そんな殊勝なことを真顔で言えるほど若くはないし、純粋でもない。ただ、今は本名を気安く名乗れなくなった。<ギース・ハント>が、今まで虐げてきた精霊から仕返しの続きを受けることが恐ろしいのだ。
昔は精霊と心を通わせたいと思っていた頃もあった。精霊をいたぶって苦しめ、金儲けの道具に仕込んでやろうと思っていた頃もあった。今は、ただ恐ろしいだけだ。生理的に受け付けない。
あの日、ヨハンにデュエルで負けた直後に、放棄されたSAL研究所の次元が歪み、ギースの周囲の時空が切り取られたようになった。気が付くと身体が動かない。精霊よりも透明な存在になり、勝者のヨハンが十代と共に去っていく姿を見た。その場には誰もいなくなった。
『誰か助けてくれ』と何度も叫んだ。こんな姿は勘弁してくれ、ひどすぎる。罪の報いにしてもあんまりだ。これが精霊の怒りに触れた人間の末路か。はっきりとした意識を残したままで、誰にも声が届かず、何にも触れず、せっかく集めた金の使い道もなく、永遠に薄暗い洞窟の中に取り残されるのか。
絶望の日々が続いた。ようやくそこへ光が射したと思ったら、やってきたのは悪魔だった。
これだけは間違いなく言える。ギースの災難は、みんなヨハン・アンデルセンのせいだ。奴が元凶だ。勝手な夢ばかり語り、勝手な悪魔を骨抜きにして、勝手にくたばったヨハンが悪い。宝玉獣欲しさにあの男に関わったのがけちの付き始めだ。
ヨハンがあの世でもいまだに精霊と人が手を繋いで生きられる世界とやらを夢見ているとしたら、ぶん殴って現実を見せてやりたいと思った。あの男は、精霊は恐ろしい存在だということを理解するべきだ。
精霊とは、寝て起きたら怒っていたことを忘れている間抜けな人間よりも恨みが根深く、純粋なまでに醜悪で、魂を持ったものが触れてはいけない領域の存在だ。絶対に人間とは相容れないものだ。精霊と人間の架け橋なんていうものが本当に存在するとしたら、それは人類にとってかつてない災厄となる。
その証明が、通された待合室で退屈そうに欠伸をしている精霊と人間の混ざり物だ。冷酷非道で人の心を文字通り食い物にする化物だ。
だが今はその異能を、精霊の力を抑える手枷を嵌められて封じられている。構造自体は良く知っているもので、精霊を封印し、使役する為のカードと似たような造りをしている。シンプルな魔除けのようなものだが、精霊世界の存在に対しては非常に効果的だ。
今だけは癪に触る国家権力とやらを信奉したい気分だった。いやらしい力さえ無ければ、悪魔もただの女だ。十代の手首を縛る鎖を引いて、アンティークのソファに押し倒してやった。
この高慢ちきな男女は一度痛い目を見るべきだ。
「今のお前はあのいかがわしい眼を使えない。良くも今まで散々こけにしてくれたなぁ」
女なんていうものはどれだけ偉ぶっていても、男が犯せばしおらしくなる生き物だ。小生意気な十代も、人を舐めきった口を利くのに懲りるだろう。ヨハンへの恨みも一度で晴らせるチャンスだ。女側の胸を鷲掴みにしてほくそ笑んだ。
「お前の運も尽きたな、十代。お前はこのまま奴らの実験体にでもされるんだろうが、その前に積もり積もった俺の恨みを晴らさせてもらうぜ。あの薄気味悪いフリル付きの亭主の顔を、二度とまともに見れねぇ身体にしてやる」
「薄気味悪い?」
十代は機嫌を損ねたように眉を顰め、勢い良くブーツを跳ね上げた。ギースの股間を容赦なく蹴り上げる。ヒールが突き刺さって、金玉が潰れるかと思った。この雌雄同体は足癖が悪すぎる。
「力が使えないから何だって言うんだ? 海馬コーポレーションの社員を舐めんな」
<ジェリー・ビーンズマン>が、何かを言いたそうに頭の上を飛び回っているのが恨めしい。十代は蹲って激痛に悶えているギースへ塵でも見るような醒めた目を向け、つまらなさそうに鼻を鳴らしている。鍵を掛けられている扉の前で、凝った肩をほぐすように背伸びをしてから、赤い袖を無造作に伸ばしてドアノブを握り潰した。
ギースは信じられない光景を前にして、目を見開いた。そんなことがあり得るはずがない。手枷はどこにも不備が見当たらなかった。十代は確実に精霊の力を抑えられているのだ。今は痩せていて非力な普通の人間に過ぎない。
それでも十代が繊細そうな手を開くと、ひしゃげてねじくれた鉄の塊が、鈍い音を立てて床に落下する。現実を思い知らされるような気がして嫌な汗が噴き出してきた。
「……お前本当に『半分は』人間か?」
「ただのサラリーマンだよ。三沢直伝のドロー体操、毎朝欠かさなくて良かったぜ」
当たり前のように言う。
扉が開くなり警報が鳴り響いた。警備隊の規則正しい足音が近付いてくる。十代は手枷を苦もなく力任せに引き千切り、スクラップにして、床に向かって高密度のエネルギー弾を撃ち込んだ。焦げ臭い白煙が視界を覆う。驚くことにも飽きてきて、ギースは半目でチョコレート色の頭を眺めながら、埃っぽい煙を手で払った。
「おっさん、泥棒のプロなんだから鍵開けとか得意だろ。シティに帰りたいから車を用意してくれ」
十代が、壊した壁を顎で示して平然と言う。その為にギースを連れてきたのだと悟って、痛んできたこめかみを押さえた。
「これ以上お前に関わったら、俺は国際指名手配犯じゃねーか。おちおち金も使えなくなる」
「何を今更」
「俺はな、小悪党くらいがちょうど良いんだよ。ガキ相手にアンティを仕掛けてカツアゲしたり、普通の人間には見えない精霊を小突き回したりするのが性に合ってるんだ。冗談じゃない。これ以上付き合えるか」
吐き棄てて、逃げるように踵を返した。人が集まりつつあるが、十代目当ての警備はギースには目もくれない。このまま姿を晦ますのは、そう難しくないだろう。
だが、途中で足を止める。ハンカチを巻かれた手へ目を落とす。龍可の顔が思い浮かんだ。
あの少女にはひとつ借りがあった。
『むみっ、むみみ』
「……勘違いするなよ。あの怪物親子が売り物になるっていうだけの話だ」
<ジェリー・ビーンズマン>に向かって歯を剥き出して凄んで、自分に言い訳をするみたいに、ギースは言った。
* * * * *
「おとなしくしていて欲しい、十代くん。必要以上に君を傷付けたくはないんだ」
警備隊を連れてやってきたオサムが、部屋から逃げ出した十代を宥めるように言った。デュエルのルールについて教えてくれたり、戦術のミスを指摘したりする時もこんな声だった。あれからもう何十年も経っているが、良く覚えている。
「君は変わった。昔の君は、少なくとも友達を思いやる心を持っていたよ」
「今もそう変わらないさ。お兄さんのことは好きだよ」
「でも誰にも優しい訳じゃない。君は罪のない人を沢山傷付けた。ここにいるのは、そんな人達を大切に思っていた者だ」
オサムが視線を巡らせた先で、警備隊が良く磨かれた特殊ガラスの盾を構えて十代を取り囲んでいた。盾の表面は悪魔と眼を合わせずに済むように、鏡のように輝いている。まるで目が合った者を石に変えるメデューサ扱いだ。
「<ライトイレイザー>に子供を廃人にされた父親、君の秘密に近付き過ぎたせいで冤罪を着せられて夫を収容所へ送られた妻。見せしめに両親を殺された青年。君達が引き起こした<ゼロ・リバース>に全てを奪われた者が沢山いる。みんな君に、<NEX>に、海馬コーポレーションに、ネオ童実野シティに深い恨みを持っている」
十代は首を傾げて、「復讐か」と零した。オサムが頷く。
「もちろん。でもそれだけじゃない。十代くん、大切な人を無くすのは人間なら誰だってあることなんだ。僕にだってあるし、君のお父さんにだってある。ここにいる誰もが抱えている悲しみだ。でも絆で繋がっていた存在を先に繋げるために、復讐よりもまずやらなきゃいけないことがある。まだ手の届く場所に残っている人々を守る為に戦うことさ。人類の歴史はそうやって続いてきたんだ。大切な人の死につまずいても、起き上がって、それを乗り越えてこそ人は人だ。君が思っているように、単純な恨みの気持ちじゃない」
オサムの声は真摯だった。おそらく正しいとはこういうことなのだろう。みんなの為に自分を犠牲にして、心の闇なんて正義の心で吹き飛ばしてしまう。それこそヒーローだ。
だが人の心の闇が見える体質になった十代には、ただの理想論にしか響かない。『そうあったら立派だ』という程度のものだ。教訓混じりの童話だ。現実味がなく、薄っぺらい言葉だ。甘ったるくて美味しそうな闇の匂いをぷんぷんさせながら言うことじゃない。
「つまずいて転んで起き上がってまた走り出す。そうなのかもしれない。でも大切な人が自分を転ばせた石ころみたいな考え方は好きじゃない」
声が低くなるのが自分でも分かった。冷ややかで、底の見えない穴を覗き込んでいるような気分になる。闇が血管を通って全身を駆け巡り、皮膚の内側から吹き出してくる。
「誰か大切な人が死んで、落ち込んで、立ち直って、それが成長か? 他人の死を乗り越えることがそんなに偉いのか? 大好きな人を綺麗な思い出に変える事がそんなに立派なのか? 本気でそう思ってるのか? 欺瞞はやめろ。怒り、疑い、悲しみ、苦しみ、憎悪。悪意でオレに立ち向かってこい」
赤い靴に包まれた足を一歩踏み出した。取り囲む人の輪が広がる。怖れ、遠ざかる。彼らは確かに十代に激しい憎しみを抱いている。だが、途方もなく大きな怪物の前で、人はあまりに無力だ。本能に抗うことはできない。
蟻は象に仲間を踏み潰されても、その大きな足の裏をただ哀しげに見上げることしかできない。
「失った人を呼び戻す方法が無ければ、諦めて思い出にするしかない。思い出になるのは相手がもう傍にいないからだ。そして人間って奴は思い出を忘れるように出来ている。だけど、もしも失った魂を取り返す方法があったら? たとえそれがどんな悪魔的な方法でも、オレは実行に躊躇はしない。これは稚拙な精神か? 利己的な欲求か? それこそ欺瞞か? 結構、その通り、何とでも言え。文句があるならオレを殺して止めてみろ。オレは止まらない。全身の骨が砕けようが、肉片になろうが止まらない。そういうふうに出来ている。罪を犯す覚悟も、報いを受ける決意も出来ている。不満か? オレを憎んでいるか? いいさ、じきにオレの夢が叶ったら、その時はオレを好きにするがいい。お望み通り宇宙の果てへ飛ばせばいい。それでも不安なら、内臓を引き千切るなり脳髄をぶちまけるなり子宮を犯し尽くすなり好きなようにすりゃいい」
十代は、謳うように言った。
「今オレは走ってる最中なんだよ。邪魔をするな」
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