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役目を失って、乱雑に積み重なっている鏡の盾は、空っぽの棺桶の群れのように見えた。昏睡している警備員の背中をヒールで踏み付けて、十代はオサムに向かって腕を伸ばした。懐かしい仕草だ。子供の頃は、玄関の扉が開くなり、相手をしに訪れてくれたオサムにこうして飛び付いていった。
オサムは決まって「やあこんにちは、お留守番ご苦労様」と笑い、十代を抱き上げて「いつも一人で偉いな、十代くんは」と誉めてくれた。今は笑っていなかった。昔馴染みの友人が凍り付いている姿を見ていると、また十代の中に不安定な感情の波が押し寄せてくる。どんなに大切にされていても人に嫌われるのは一瞬だという、諦めと、寂しさと、達観だ。
「いつも休みの日は、朝からずっと家で待ってた」
十代は言った。
「オサムお兄さんがオレの相手をしに家へ来てくれるのをさ。恩がある。だから傷付けたくはない。あの時と同じように、永遠に眠り続けるだけだ。苦しみも悲しみも痛みもない」
「……君はやっぱり人じゃない。化物だ」
「おやすみ、お兄さん。楽しい夢を見てくれ」
兄のように慕っていた男の腕を取って、硬く強張っている手のひらに指を絡ませると、背の高い身体が傾いた。倒れ込んできたオサムを抱き止める。強い既視感があった。年長の友人が、できれば悪魔が出てこない穏やかな夢を見てくれることを祈る。
冷たい靴の音がした。振り仰ぐと、死体のように折り重なっている警備員達の向こうで、立ち尽くしている男がいた。ろくに顔も覚えていなかったから、良く知っている人間のはずだが、全然知らない人間に見えた。記憶はおぼろげなのに存在感だけは重い。厄介な人種だ。血の繋がりさえ無ければ簡単に忘れられたのかもしれないが、今更生まれ付きの絆を呪っても仕方がない。
十代は、不自然な作り笑いを顔に貼り付けた。その人と顔を合わせた時には、いつもその表情を浮かべていたと思う。変な癖だ。
「―― 父さん」
黒々とした鋭い目が十代を射た。どんな強敵と対峙した時とも全く違う、胃の据わりが悪くなる種類の威圧感を覚えた。息ができない。
「来たか、覇王よ」
冷徹な声が、雹のように降り掛かってきた。十代は俯いて苦笑した。
「……もう名前でも呼んでくれないか」
肩に羽織っていたコートを畳んでオサムの頭の下に敷き、立ち上がる。
父は、遊城世界は、十代が知る限り誰よりも尊大で傲慢だった。まるで名前が示す通り世界の王のように。
『僕は君のお父さんに頼まれて、これから十代くんの面倒を見ることになったオサムだよ。よろしく』―― 初めて会ったオサムに掛けられた言葉だ。
オサムの父親は、十代の父の忠実な部下だった。年齢が近いオサムが十代のお目付け役をやるのは自然なことだったのかもしれない。父が何の変哲も無い、どこにでもいるサラリーマンだと信じていた頃の十代は、オサムの申し出を素直に喜んだ。良く可愛がってもらったと思う。ユベルの力がオサムを長い昏睡に陥れるまでは。
気が遠くなる程の昔、歴史の流れの中に埋没したどこかの王国で、優しき闇を統べる覇王の力を宿した王子が子供から大人へ成長するまで、自らの魂と人の肉体を捧げて守り続けた従者のように、オサムは幼い頃から自分が歩む運命を知っていたのだろう。それを使命だと思い込んでいたのだろう。
十代は、父に恨みがましい目を向けた。
「あんたはいつもそうだ。オレが繋いできた絆を勝手に使って、オレの大切な友達の運命を狂わせる」
「この世界を守る為だ。彼も覚悟の上だ」
「何が覚悟だ。他の選択肢なんか初めからあんたに奪われてた。だから、選ばなきゃしょうがなかっただけじゃないか。ユベルをあんな姿に変えたのだって……」
前世の記憶を呼び起こすと、声は更に非難めいたものになった。しかし、『普通』の父は前世の記憶など持っていない。死んで、忘れ果て、生まれ変わって、知らない顔をして同じ悲劇を何度も繰り返す。人間の身勝手さを具現化したような存在だった。
何を言っても無駄だ。口を噤んだ。
「覇王。貴様に友を語る資格などあると思うか。ユベルの力を悪用し、友人だったはずの人々の昏睡を望んだのは貴様だ。精霊は主の望み通りに振舞う。ユベルは主の意志に従ったに過ぎない」
父が十代を見ている。そこには悲しみも憎しみも無かった。愛情も無かった。いかめしくて冷たい、仕事用の顔だった。
「ただこれだけは、さすがに私も、予想はしていなかった。宇宙創世の時代から永劫に転生を繰り返し、<破滅の光>と宇宙の覇権を奪い合う<優しき闇>が、きたるべき覇王がまさか―― 貴様を利用するか。殺すか。そう考えていた私のもとへ……」
「……父さん」
「よりによって我が息子として現世に転生するとは」
父の怨みが全身に突き刺さった。一瞥だけで手足をもぎ取られ、ばらばらにされたような心地がした。
努めて考えないようにはしていたものの、次に父と顔を合わせた時にはこういうことになると、十代はもう知っていたはずだ。生まれてから何十年もの間、まともに顔を合わせずにいた父親との間に家族の絆が存在すると信じてもいなかった。
いても知らないし、いなくても構わない。関係ない。そういうスタンスを貫けば何も感じない。
そう思い込もうとして、それは成功していたはずだ。
「我が息子の姿と言えども、この世界にとって悪となるなら殺す覚悟はとうに決めている」
しかし、いざ目の前で父親の殺意を真正面からぶつけられると、頬がだらしなく緩むのが分かった。顔は、変な半笑いになっているだろう。身体が震えて目が潤んだ。ひどく憐れっぽい姿に違いなかった。「父さん」と喉の奥で呼び掛けたが、意味のない唸り声にしかならなかった。
「オレは、十代だよ……」
「この後に及んで、まだ息子の皮を被るというのか。悪魔め。どれだけ私を苛めば気が済む?」
子供の頃、学校が長休みに入って、遊ぶ友達もいないからひとりで机に向かって絵を描いていたら、出張中の父から珍しく国際電話が掛かってきた。受話器の向こうから、不器用に近況を尋ねる声が聞こえた。「ぼくは元気だよ」と努めて明るい声を出したら、『そうか』とだけ言って、電話は切れた。
両親は仕事が忙しいせいで十代に構うことができないのであって、本当は遠く離れていても大切に想われ、愛されているのだと信じたかった。
お土産をくれた時の顔。転んで泣いていたら抱き起こしてくれて、頭を撫でられた時の手のひらの温度。そういうものがあったはずなのだが、優しくしてくれた姿が思い出せなくなった。ただの幻想だったのかもしれない。夢と現実が混ぜこぜになってしまっているのかもしれない。
「……なんで、オレのことを本当の息子だと思ってくれなかったなら、オレが覇王だって分かってたなら、初めて人を傷付けた時にすぐに殺さなかった? 毎晩炎に焼かれて苦しむユベルの夢を見て、眠れなくなったオレから記憶を消したのは何故だ? 心配してくれたんだって思ってた。オレはあんた達の子供でいてもいいくらいには愛されてたんだと思ってた。オレは間違ってたのか?」
「私も人間だ。たとえ生まれる前に覇王に寄生され、魂を食い殺され、肉体を乗っ取られた不幸な抜け殻だったとしても、生まれた息子の肉体が日毎に成長していく姿をこの目で見られるのなら、仇の貴様を生かしもしよう。感謝すらしよう。我が息子十代が成長し、大人になった姿を見せてくれた、覇王、貴様に。お前の中から精霊の記憶を切除した時、息子がこれから一人の人間として生きていけるのかもしれないと期待した。だが、分かっていたことだ。選択は済んでいる。人とは決して相容れない覇王が再び目覚めた時、それを手に掛けるのは私の役目だ」
滅ぼすべき敵として覇王と対峙した時に、遊城十代の肉体に刻み込まれた人としての本能―― 家族や友人に愛されたいという願いが、成り代わった覇王に一瞬の躊躇をもたらせばそれでいい。それが父の切り札だ。
十代が幼い頃から夢を抱いていた家族の絆は、父にとってはその程度のものだった。
最悪だ。うわごとのように、十代は零した。
「……なんで、あんたが、オレの父さんなんだろ。なんで優しいヨハンが、オレの父さんじゃなかったんだろう」
「何を言っている?」
父が怪訝な顔をした。自分でも馬鹿なことを言っているという自覚があった。十代は顔を上げた。
「あんたの手じゃ死なない。あんたを英雄になんてしてやらない。オレの魂は最後のピースだ。あんたの為のものじゃない。やるわけにはいかない」
十代は虫を払うように腕を振って、最後の通告を行った。
「見逃してくれ父さん。家に帰してくれ。オレはあんたを殺したくない。たとえ愛してくれなくても、オレにとってあんたは父親なんだ。だからせめて自分の父親の血で手を染めることはしたくない。人類の存続も宇宙の覇権も正義も大義も知ったことじゃない。世界なんてどうでもいい。どうにでもなってしまえばいい。オレはそんなものより大切なものがある」
喉から、死に至るほどの渇望にまみれた声を絞り出して、「ヨハンに会いたい」と囁いた。その名を唇に上らせるだけで、血を吐くような痛みが胸を突いた。
「ヨハン?」
父は一瞬の間、理解ができない様子でいた。
「……<ゼロ・リバース>で命を落とした、アンデルセンの十二号か?」
「数字なんかであいつを呼ぶな。遊城・ヨハン・アンデルセン。オレの夫だ」
鉄面皮に初めて驚きの表情が浮かんだ。
「死んだ人間を現世へ再び呼び戻そうというのか? 不可能だ。まさか、十二次元宇宙に干渉し、十一の生贄を得て、今世界を組み替えようとしているお前の力は……」
父は信じられないようだった。
頭を振り、疑惑の目で十代を射た。心の闇がぶつけられた。不思議と、悪魔に成り果て、それを糧とするようになったのに、味や匂いが何も分からず、普通の人間が感じるように痛くて苦しかった。
「<チェーン・マテリアル>はその為に組まれたというのか? お前には十二次元宇宙をひとつに統合し、新世界の神となる力があるはずだ。それをまさか、たった一人の人間を蘇らせるために、覇王が自らの身を神に捧げるとでもいうのか?」
「あんたには、関係ない」
「どうなるか分かっているのか? お前もこの世界もただでは済まない。一人の人間の命と世界の危機が、等価になどなるはずがない。お前は、何という、馬鹿なことを……」
「―― 馬鹿だって、あんたが言うなよ!」
十代は叫んだ。
父の困惑混じりの侮蔑は、十代の中で燻ったようになっていた反発心に火を着けた。長い間押し込めてきた感情が間欠泉のように噴き出してくる。それは様々な記憶をも呼び覚ました。
父の顔がおぼろげな思い出だったのは、いつもいかめしい表情をしていて、それが怖くてまっすぐに見つめることができなかったせいだ。大きな背中を見上げた時に感じていた不安と畏れ、クラスメイトは皆家に優しい両親が待っているのに、自分はいつも無人の家へ帰って孤独な時間を過ごさなければならない不満、両親がテストの答案を見ようともしないこと、どうしようもない成績表に怒りもせず、誉めもしてくれず、参観日や運動会の日付も知らない両親に、自分は本当にこの家の子供なのだろうかという疑惑を抱いた。俯いて、たった一言が欲しくて涙を零すようになった。
愛していると言われてみたかった。
昔は、何も分からず、素直に父に愛されたがった。頭の出来に関してはどうにもならなかったが、良い子でいようと努めた。父の言葉には注意深く耳を傾けたつもりだったし、たまに家に帰って来た時は笑顔で出迎えて、楽しい学園生活の話をした。それはでっち上げだったり作り話でもあった。悪魔憑きの子供と遊んでくれる友人なんてどこにもいなかったからだ。十代はいつも一人ぼっちだった。
そんな影は心の隅の方へ押しやって、再び長い出張へ出掛ける両親を笑って見送った。演技性人格障害だと評されるくらいに、明るく能天気に振舞った。やがて本当に能天気な子供になるまでそうしていた。
「父親のくせに愛してくれなかったあんたが、オレ、やっと人を好きになって、特別を作れるようになったのに、馬鹿だなんてどうして言えるんだよ?」
黙殺されていたいくつもの感情は、年月を経て恐ろしい程に積み上がり、腐り果て、溢れて流れ出すと、抑圧という厚い殻を破って十代の理性を飲み込んだ。眩暈がした。錯乱がやってきた。自分でも何を口走っているのか分からないまま父を詰っていた。
「ヨハンは愛してくれた。オレを殺すために生まれたヨハンは、オレにひとに愛される喜びを、幸せを教えてくれた。かけがえのない家族の大切さを教えてくれた。生まれた子供を誰より愛して。あんたなんか父親じゃない。家族じゃない。一度もオレを見てくれなかった。愛してくれなかった。脅えていた。化物だって人を愛せるって、なんで父親のあんたがオレに教えてくれなかった。なんで甘えさせてくれなかった。オレはあんたとは違う。見捨てない。殺さない。諦めない。あんたはオレを犠牲に世界を守ろうとした。オレは世界を犠牲にしても、大切な家族を守る。あんたとは違う。オレみたいな寂しい思いを、オレの子供には絶対にさせない」
父は片眉を跳ね上げて、「子供?」と反芻した。さすがの鉄面皮も唖然としていた。
精霊研究機関<NEX>において最高責任者と実験動物を兼ねるようになってから、十代は存在自体がネオ童実野シティ治安維持局の極秘機密事項になった。実の父親と言っても、この男はやはり十代を何も知らないのだ。知ろうともしないし、知らせるつもりもなかった。的外れに畏れ、脅え、警戒している。
馬鹿みたいだ。
意地の悪い気持ちになったが、大声を上げて泣き出したくもあった。頬を引き攣らせ、唇の端を無理矢理引き上げて、嘲るように吐き棄てた。
「双子だよ。あんたは知らないだろ。オレが、相手が男でも女でも子供を作れる悪魔の身体になったことは知ってたかもしれない。でも、自分が爺ちゃんになったことも、オレが誰を好きになって、結婚して、子供ができて、そういうの興味もなかったよな。あんたはオレを、息子の肉を乗っ取って奪った化物だと思ってたもんなずっと。 オレは取り戻したい。運命から、神からオレの家族を。大切なひとに、かけがえのないヨハンに、もう一度会いたい。龍可と龍亞を会わせてやりたい。一目でもいい。オレは足を止めない。たとえオレの命と引き換えにしても」
父は、黙って十代を見下ろしていた。憐れむような、いたましいものを見るような目だった。
「ヨハン・アンデルセンはお前を愛してなどいない」
父が言った。
「刷り込みによる錯覚だ。ただの幻想だ。お前を効率良く利用する為に、殺す為に―― 強い絆と愛情は、糧となる敵意や憎悪を突き抜けて確実に悪魔の心臓を貫く。ヨハンはお前を愛によって破滅させる為に仕立てられた銀の弾丸だ。生まれ付いたあの子供の心は、誰よりもお前を憎んでいた」
「知ってるさ。でも違う。ヨハンは自分の頭でものを考えて、自分の意志で人を好きになる」
「人の心がどれだけ脆いのか。それは良く知っているだろう」
父は十代の不安を見透かすように言った。その通りだ。人の心の闇は、それを食いものにする悪魔が一番知っている。
十代が女としての第二次性徴を迎えた姿を見た瞬間に、ヨハンの心の深層に仕掛けられていたスイッチが入った。そうなのかもしれない。想像したことが無かった訳じゃない。不自然だと思えるところもいくつかあった。
ヨハンの心は大きな力によって無理に捻じ曲げられて、醜い怪物に恋をするように仕向けられたのかもしれない。
「……仮にそうだとしても、それはそれでいい」
十代は項垂れ、力無く肩を落とした。喉から、暗い路地を吹き抜けていく虚ろな風のような溜息が零れた。
「人の心は変わる。想いは風化して、愛は幻になる。空に架かる虹が消えてしまうように。たとえあいつが夢から覚めて、オレに見向きもしなくなったとしても、オレは変わらずヨハンを愛してる。オレはもう人間じゃないから、ずっと愛してる。悪魔の愛はちょっと人間には重いかもしれないけど……」
泣き言を垂れ流すような湿った声だった。父は厳しい顔つきで、明らかに十代を咎めていた。
「あれを人として生き返らせるというのか? 愚かだ十代。目覚めたヨハンは心のままに、人生を狂わせたお前を憎む。怒り、その力に嫉妬する。無意味に過ぎた年月を悲しみ、心にもない愛情をお前に注いだ事実に苦しむ。お前は最大の敵を自ら作り上げようとしているのだ」
「構わない。ヨハンが目を覚ましてもう一度オレを見てくれるなら、それが悪意だって構わない。オレを突き放したっていい。みんなと一緒に化物だと罵ったっていい。ヨハンはオレに夢を見せてくれた。願いを叶えてくれた。家族をくれた。オレは確かに愛されてたんだ。嘘になっても幸せだった。一生分にしても充分過ぎる。だから、オレはあいつに借りを返さなきゃならない」
十代は、拳を強く握りこんだ。人よりも随分鋭くなった爪が、手のひらに食い込んで血が流れた。痛みは感覚を研ぎ澄ませてくれて、今は心地良いくらいだった。
闇の中を走り続け、ようやく出口の光が見えてきたところなのだ。ここで足を止めるわけにはいかない。赤い靴を踊るように跳ね上げ、転がるように走り、前だけを見て進み、どこまでもまっすぐ駆けて、駆けて、駆け抜けていかなければ―― 。
少しだけ未来、ゴールの先で、笑い掛けてくれるヨハンの幻が見えた気がした。
「悪魔には人間を幸せにすることはできない。だけどこの身と引き換えに、途切れてしまったあいつの道をもう一度繋ぐことはできる。ヨハンが夢を追い掛けてまたまっすぐ走っていけるなら、オレは喜んで架け橋になる。踏み砕かれたってかまうものか!」
人に嫌われるのは一瞬だ。また同じことを繰り返すのかもしれない。ヨハンに一瞬で嫌われてしまうところを想像した。それでも構わない。そして、ヨハンが全てを知っても抱き締めて、馬鹿だと叱ってくれる所を想像した。怖い。きっとその時自分は恐ろしくて、嬉し過ぎて、泣いてしまうだろうと思った。
父が、ダブルアクションのリボルバーを十代に向けるのが見えた。指はトリガーに掛かっている。人を殺す道具を見ても、怖いとは思わなかった。銀の弾丸がどれだけ悪魔の身体にめり込んでも、赤い靴を履いて踊り続ける足は止まらない。
小さな踵が滑る音が聞こえた。十代は振り向いて、凍り付いた。
廊下の真ん中に白髪頭の少女が立っていた。母親を探してやってきた龍可が、両手で口を押さえて叫んだ。
「―― ママ!」
「る、龍可」
龍可は銃を向けられている十代を見ると、恐怖で潤んだちぐはぐ色の瞳を見開いて間に割って入ってきた。
「やめて! おじさん、ママをいじめないで!」
銀の銃口を見上げ、母親を守ろうと柔らかい手を鳥のように大きく広げた。咄嗟に十代は娘の背中を抱き込んでいた。
父の感情が死んだ黒い目には、世にも情けなくて惨めな顔つきをした滑稽な自分が映り込んでいた。それでも形振りを構っていられなかった。懇願し、祈り、哀願した。
「やめてくれ……! 娘だけは……!」
父が初めて顔を歪めた。諦め、悼むように目を閉じた。その表情は何を示すものだったろう。息子の姿をしたものと、抜け殻から生まれた孫娘を殺すために、覚悟を決める瞬間だったろうか。
「父さん……!」
引鉄が引かれた。
腹の奥にまで重く響く発砲音を聞いた。龍可が腕の中で小さな身体を強張らせたのが分かった。弾丸が恐ろしい速度で回転しながら、十代の額へ向かって正確に飛んできた。
父は撃った。
―― おそらくその時十代は、笑っていたのだ。
帰宅した父を出迎える時にいつも顔面に貼り付けていた愛想笑いではない。何がおかしい訳でもない。意味も無い。ただ顔中の筋肉が緩んで、表情から感情の一切が死滅してしまった瞬間、自分は確かに笑っていたのだった。
思い出や、しがらみや、感情や習性が魂と共にこの肉体を飛び去ってしまった後で、空っぽになってしまった時、おそらく白痴のようになった自分の抜け殻は、こうして虚ろに笑っているのだろうと思った。
弾丸は十代の眉間に触れようとした瞬間、透明な壁を叩いて円い波紋を描いた。
愛情には愛情を。敵意には敵意を。武器を振り上げた者には死を。
十代の身体は、そういうふうにできている。
返した悪意が、父の頭蓋をあっけなく撃ち抜いた。
手触りが良い銀の髪の上にそっと手のひらを置くと、小さな頭が震えた。きつく閉じられた瞼が開くと、十代を伺うように恐る恐る見上げてくる。
「ママ……」
「龍可……龍可。怖い思いをしたな。大丈夫だ。もう、大丈夫だ……」
十代は、呆然と繰り返した。
「悪い奴はいなくなった」
龍可の頭を胸に抱き締めて、あどけない瞳の中に恐ろしい光景が何も映らないように目隠しをした。壊れた拳銃も、赤い染みで汚れた壁も、ぬるついた温かい血が床の上へ花が開くように広がっていく様も、この娘は何も見なくていい。何も知らなくていい。
頭の中で、鍵が外れて扉が開く音がした。父の命が生贄になり、<チェーン・マテリアル>に最後の火が灯ったのだ。あの男は最後の最後で息子の皮を被った化物の糧になった。どこまでも皮肉な話だ。
「今のおじさん、だれ?」
「怪物だよ」
十代は銀色の髪を梳いて、優しい声で言った。
龍可が愛しい。この娘が生まれてきたことが嬉しい。守りたい。抱き締めたい、愛で満たしてやりたい。たとえ神が呪いを掛けても、悪魔が精一杯の祝福をする。親は子供を愛して、慈しんで、大切に育む生き物だ。子供を殺そうとする親なんていない。
本当に十代と龍可を殺そうとしたその男は、それこそ人間じゃない。父親であるはずがない。悪魔だ。怪物が人に化けていたのかもしれない。
十代の父親は、龍可の祖父は、きっととても遠いところに住んでいて、一度も顔を合わせないでいるうちに何かの事故で亡くなったのだ。それでいい。
龍可が不安そうに十代の袖を握り締めた。
「ママ、泣いてるの?」
「龍可」
小さな両手が、十代の頬を確めるように触った。自分は泣いているのか笑っているのか、どんな表情を浮かべているのか、十代には分からなかった。
自分の顔がどんな造りをしていたのかも上手く思い出せなくなった。まだ人に見えただろうか。もう顔も醜い怪獣だっただろうか。父が幼かった十代を膝に乗せて見ていた<海底軍艦>の、海底帝国の守護竜みたいに。分からない。
ただ、以前ヨハンは龍可がしてくれているように頬を撫でて、綺麗だと言ってくれた。
「怪物さんが死んじゃって悲しいの?」
龍可が心配そうに首を傾げた。気遣わしげな瞳が、今は傍にいないヨハンと良く似ていた。
ヨハン。天使のように美しい男。宝石のような瞳で強がっている十代を覗き込んで、悲しい時だけは泣いていいと言ってくれた。
悲しいのだろうか? 良く分からない。
「ママは優しいから、だから……私も怪物さんが死んじゃって、一緒に悲しい。優しいママが、私、大好き」
龍可が言った。
―― 帰ろう。
龍可と一緒に、家に帰ろう。ヨハンと龍亞が待っている。十代は、娘を腕に抱いて立ち上がった。
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