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 どこかの馬鹿がビルに火を付けた。火災報知機のベルが鳴り止まない。黒い煙が頭の上で雨雲のように停滞し、細かい煤を降らしていた。目が染みる。息苦しくて仕方がない。
 口を押さえながら壁伝いに進んでいくと、先走った相棒をようやく見付けた。隣には、派手な赤い服を着た卑猥な姿もあった。十代は妖しい色に眼を輝かせ、倒れたエドを覗き込んでいる。
「エドに何をした!」
 十代は肩に羽織っていた白衣を畳んでエドの頭の下に敷き、見下すような、憐れむような、おおよそドロップアウト・ボーイが万丈目サンダーに向けてはいけない顔をした。
「おジャ万丈目こそ、何しに来たんだよ。お前、人を殺せるような奴じゃないだろ」
「殺すとか殺さないとか、そういういかがわしいことをオレの前で気安く口にするな」
 十代はきょとんとして首を傾げ、変な顔で笑って頷いた。
「……うん。わりぃ」
「分かればいい」
 鼻を鳴らし、万丈目は指折り数えながら十代を詰ってやった。この男には気に食わない所が多過ぎる。言ってやりたいことが沢山ある。もう何年分もある。
「どこから文句を付けたらいいのか、多過ぎて分からん」
「万丈目らしいや」
「黙れ。二桁の足し算もできんようなお前が科学者だと? <カーレン>? ふざけるな。お前はどこからどう見ても生粋の日本人だろうが。そんなものは知らん。オレはただ昔のデュエル世界大会で貴様に恥をかかされた借りを返しにきただけだ。貴様がシティに引き篭もって自堕落な暮らしを続けているというから、このオレ自らわざわざ出向いてやったのだ。ありがたく思え」
 しけた顔に指を突き付けてやった。日和見で楽天家の十代がするはずのない、悟ったような、複雑そうな表情をしている。そこにあるはずのないもの、たとえば幽霊なんかを見ているようだ。不気味で鳥肌が立ちそうだ。
「なんだ、その自分が世界で一番不幸だとでもいうような顔は。お前のような能天気な馬鹿が落ち込むような理由などたかが知れている。たとえ何があったとしても、可哀想だなどと思ってはやらんぞ。心配など絶対にしてやるもんか」
 それから「お前にはどうせ何を言っても分からんだろうがな」と言い置いて、続けた。
「優秀な兄貴達の下に生まれたオレは、十五年間自分は一族の中でどうしようもない落ちこぼれなんだという劣等感を背負って生きてきた。自分よりも劣っている者に力をひけらかして、なけなしのプライドを保っていた。だがオレはどうしようもない落第生のお前に負け、地獄の底の底の方まで落ちぶれ、そこから這い上がってくることでようやく本当の自信というものを見付けた。何ものにも頼らないオレ自身の力。オレはお前が憎かった。生ぬるい楽園を壊した十代、お前が大嫌いだった。だがお前と出会わなければ、オレは今でもひとりじゃ何も出来ない裸の大将だったろう。お前がいたからオレはオレに誇れる生き方を選び取ることができた。オレは万丈目サンダーだ。オレは誰にも負けない。どんな強い相手でも、たとえそれが長年オレを落ちこぼれだと馬鹿にしていた兄さん達にでもだ。
 そのはずなのに何故だ。何故オレはお前にだけは一度も勝てない? 落ち零れの、下の下の下の、ドロップアウト・ボーイだったお前に勝てない。いい加減でヘラヘラしてるお前に勝てない。デュエルでも勝てない。恋した女性はいつもお前の方ばかり向いている。
 ―― なんだその顔は。不満か? 友達の心配をしてなにが悪い。友達を救いたいと思ってなにが悪い。お前はオレの友達だ。確かにオレはお前を救ってやれるようなことは何もできない。ヨハンの奴みたいにキザなことを言って、いつの間にか笑わなくなったお前を笑わせてやることも、そばにいるだけでお前を癒してやれるような器用な男でもない。あいつのようにお前の心の隅から隅までおジャマどもみたいに居座ってやることはできない。
 でもオレだってお前のことを救いたいんだ。お前に恩返しをしたいんだ。オレがお前にどれだけ恩を感じているのかお前は知らないだろう。知りも、知ろうともしなかったろう。兄さん達にコケにされた時、万丈目グループの権力などものともせずに突っ掛かっていったお前に。取巻きどもに見捨てられて孤立していたオレに、色眼鏡も遠慮もなく話し掛けてきたお前に。光の結社に洗脳されていたオレを救ってくれたのもお前、オレがプロ・デュエリストとしてやっていけたのもお前のおかげだ」
 万丈目の高尚な考え方は、頭が悪い十代には理解出来ないだろう。馬鹿だから悩むべきことを悩まず、悩まなくて良いところで思い詰める愚か者だ。
 炎が壁を食い荒らし、煤で黒く染めていく。天井の塗料が薄皮が剥がれるようにして落ちてきた。剥き出しになった鉄骨は高温で焼かれて歪み、赤く光っている。熱された空気を吸い込んだせいで喉が焼け、激しく咳込みながら、十代を睨み付けた。十二年前から歳を取ることを忘れたような姿だ。炎に取り囲まれても何も感じていない様子だった。まるでこの世界とはどこかずれた空間に佇んでいるようだ。
 その姿を見ていると悔しくて目が熱くなった。その男が何も知らないことが赦されないように思えた。唇がわななき、眉間が寄って、頬が強張り、鼻水まで出て来た。十代があまりにも馬鹿だからだ。分からず屋だからだ。馬鹿は考えるだけ無駄だから、大人しくこちらの言う事を聞いていればいいのに、その男はいつだって話もまともに聞いていない。
「何度救われたと思ってる。オレがひとつも恩を返せず……どれだけみじめな思いをしたと思ってる?」
「万丈目」
「さん、だ。なんでヨハンなんだ。オレのほうが先にお前に会ったんだ。二年も先に会ったんだ。なのに、なにがダメなんだ。オレがお前の一番の友達に何故なれないんだ。どうしてヨハンを大切にするくらい、オレのことも大事にしない?」
 十代はひどく驚いた顔になった。万丈目にとっては、そこで驚いた顔をする方が驚くべきことだった。
「わかるに決まってるだろう。お前が目の色を変えるのはいつもあいつ絡みだ。お前のようないい加減でお気楽な奴が、心の底から動揺して、焦って周りが見えなくなるのは、ヨハンに何かがあった時だけだ。そんなにあいつといて楽しいのか。デュエルして面白いのか。オレの一番の友達はお前なのに、何故お前の一番はオレじゃないんだ、ばかやろう! 十代のばかやろう!!」
 十代はどうすれば怒った万丈目を宥めることができるのか、何を言えば良いのか分からないような顔になった。異世界で自分勝手さを仲間達に詰られた時に見せた顔と同じだった。いくら心の闇を食らう悪魔だと嘯いても、友達に怒られた時、憎まれた時、悲しませた時、苦しませた時、疑われた時に、見限られて捨てられることを怖がって泣きそうな顔になっていれば世話がない。相変わらず恰好のつかない男だった。
 遊城十代は人間だ。良く食って良く寝るただの間抜けなドロップアウト・ボーイだ。精霊のように燃費の良い存在ではない。いくら分不相応な飾りを付けても彼の本質は変えられない。
 炎は更に勢いを増した。稲妻のような素早さで天井に亀裂が入り、万丈目が気が付いた時には、もう崩落が始まっていた。逃れられない。降ってきた天井に押し潰される衝撃を予感して目を閉じた。
 しかし、一向に痛みはやってこなかった。恐る恐る目を開けると、ばらばらになった瓦礫の中に立っている。
 まるで透明な障壁に守られたように傷ひとつ負っていない。駆け寄って来た十代が、ちぐはぐ色のいかがわしい目で真剣に万丈目を覗き込んで、肩を強く掴んだ。
「大丈夫か万丈目!」
 今更人の心配をするくらいなら、もっと早くしろと言ってやりたい。十代はかすかに怖れを含んだ手付きで万丈目の頬に触れ、怪我が無いと知ると安堵の表情になった。
 あの異世界での一連の出来事から、十代は他人が、特に友人が人知を超えた事件に巻き込まれることを極端に恐れるようになった。薄暗い部屋の中に引き篭もり、自分が傍にいればまた誰かが傷付くことになると悲観していた。馬鹿馬鹿しい話だ。闇の中で一人きりで思い悩むから悪い思考ばかりに取り付かれてしまうのだ。太陽の下にいて、清潔で気持ちの良い光を浴びていれば、どんなに弱虫の子供でも笑ってしまうような思い付きだ。
 友達が傷付くことが自分が死ぬよりも怖い奴が、ろくな悪事など働けるはずがない。遊城十代が世界の敵だというのなら、この男の敵に回った世界とは、一体どれだけ正しいものだというのだ?
 十代は、我に返るとすぐに万丈目から離れた。その恐ろしい怪物に触れるような仕草も気に食わなかった。手を掴んでやると肩が跳ねた。
「は、離せよ」
「オレに命令するな」
「沢山殺したんだ。こんな血に汚れた手で、お前はいい奴だから、みんなに好かれてるから、今更オレなんかが触れるわけ、ないだろ」
「なんだと? もう一度言ってみろ。触れないだと!」
 強引に腕を引き、肩を掴んで、生意気を言うチョコレート色の頭を抱き締めてやった。
「じゃあこれで満足か、ばかやろう!」
 何度罵っても言い足りない。「十代のばかやろう!」と繰り返す。腕の中から上擦った悲鳴が零れた。
「ちょっ……どこ触ってんだ!」
 手のひらに柔らかいものが触れた。水風船よりも柔らかくて、実体化したマシュマロンよりも弾力があって温かい。頼りない手触りの正体に気付くと、意識が白みそうになった。女の子の胸になんて生まれて初めて触ったのだ。
 全身の血液が頭に集まってきた。デュエルをしている時の高揚とは全く別次元のものだ。相手にダイレクト・アタックが決まった時の興奮とも違う。ただの、死に至りそうな程の羞恥心だ。
 だが腕は引っ込めなかった。手を離してしまえば、この男女に心の底まで負けたような気がして悔しかったのだ。
「ばかやろう、このオレ様にこんな恥ずかしい真似をさせやがって、一番好きな女の子じゃない胸なんか触らせやがって! このアバズレ、痴女、雌雄モザイクのオカマ野郎! 恥を知れ! もう天上院くんの顔をまともに見れないではないか!? 責任取れ大馬鹿者! なんで殺したとか、血に汚れたとか、そんなことを簡単に言えるようになっちまったんだ。お前はどうして、ただの馬鹿なのに。大馬鹿なのに。ずっと締まりのない顔でいい加減なこと言ってヘラヘラしてれば良かったんだ。オレの手がいつでも届く底辺にいれば、そしたらオレが守ってやれたのに!!」
 十代は喧嘩に負けて泣き出した子供をあやす母親のような顔をした。おずおずと、珍しい様子で、生意気にも口を挟んでくる。
「……あのさ、オレ、もう夫も子供もいるんだけど」
「ならその夫も子供も一緒にオレがもらってやる! だから十代、帰るぞ馬鹿者。お前の居場所なんていくらでも作ってやる。過ちを受け入れてくれるアカデミアなら、お前はまた昔のように笑えるはずだ。お前が戻ってくれば天上院君もきっと……」
 明日香が十代を大切に想っていると気が付いたのは、いつのことだっただろうか。デュエル・アカデミアを卒業して少し経った頃だったように覚えている。死ぬ程悔しかった。万丈目の前では、明日香はいつも高潔な女王で、彼女が十代へ向けるような少女の眼差しをもらったことはない。十代の他の誰もない。
 女神の注目に気付かず、知らない顔をしてやり過ごす十代が信じられなかった。おこがましい。羨ましい。妬ましい。勿体無い。赦せない。
 今もまた他人の心の動きなどさっぱり読めないような顔をして、十代は首を傾げて微笑んでいた。
「もう忘れてくんねぇ? オレのこと。全部」
 万丈目の中で何かが壊れる音がした。頭の血管が切れたのかもしれない。
「……ふざけるなああっ!!」
 十代の胸倉を掴んで絶叫した。ちぐはぐ色の瞳をありったけの邪心を込めて睨み付けると、苦笑いをされた。双眸が宝石のように輝く。冷たくて妖しい光を孕んだ瞳の中に、ひどい泣き顔を見せている自分の姿が映り込んでいた。悔しさと羞恥で、十代を思いきりぶん殴ってやりたくなった。
 大きな波に飲み込まれるような感覚が全身に染み渡っていき、頭の芯が弛緩する。意識が薄れていく。
 十代はいかがわしい悪魔の力を使って万丈目から逃げる気だ。全部をうやむやにするつもりだ。『何故オレと向き合わない』、そう言ってやろうとしたが口が痺れて動かない。
「あんまり無茶すんなよ、万丈目」
 十代が言った。
「もうオレが守ってやれないんだからさ」
 ―― その傲慢な言い方は何だ。一体何様のつもりだ。なんで最期みたいに言うんだ。
 口の中でまた『ばかやろう』と繰り返した。声にはならなかった。煙が目に染みるせいで涙が止まらなくなり、頬が濡れていて、べたべたして気持ちが悪かった。
 遊城十代なんて大嫌いだ。顔も見たくない。声も聞きたくない。名前も聞きたくない。ずっとそうだった。
 大嫌いだ。
 だが―― この万丈目サンダーは、海のように心が広い男の中の男で、鍵を掛けた部屋でひとりぼっちで泣いているような世界一の弱虫を放っておける程腐った男じゃないのだ。

 * * * * *

 武装ヘリの回転翼が、白み始めた空の上で黒い蚊柱のように唸りを上げていた。ネオ童実野シティ治安維持局もセキュリティも、全てが一枚岩ではない。<MIDS>が開発した永久機関と、<NEX>が発見した永遠の生命。対を成す栄光を巡って引き起こされる世界大戦を回避したい者達が、混乱に乗じて<カーレン>を抹殺しようとしているのだ。
 十代は火の手が回った上層階に見切りを付けて、意識のない友人を二人抱えて窓から飛び降りた。翼を広げ、ヒールの踵で瓦礫の山を踏み付けて地表に降りると、ちょうど知り合いの顔を見付けた。
 ウェーブがかった濃い紫色のロングヘアの女性だ。前髪を横に分けて陶器のような額を見せている。艶のある瞳と、鋭く描かれた細い眉、真っ赤なリップが唇に引かれている。これ程歳が分からない人も珍しい。タイトなインナーの上にピンクのジャケットを羽織っている。千里眼グループのエメラルダがいた。
「あなたは……?」
 相変わらず、気だるげなのに鋭くて生真面目で厳しい喋り方をする。昔と違うのは彼女が十代へ向ける視線だ。存在するはずのない化け物を見る目だった。
 そりゃそうだ、と十代は思い当たった。蝙蝠に似た大きな翼に蜥蜴の手足を持ち、額には黄ばんだ眼球が嵌まっていて、ぎょろぎょろと蠢いている。まるっきり怪獣だ。仕方がない。
 エドと万丈目を放り投げるようにして彼女に託すと、頭をぶつけた衝撃で、彼らは目を覚ました。少し前なら、まず乱暴に取り扱ったことへの文句を並べてから、十代の欠点をあげつらって、長々と説教をされていただろう。昔馴染みの二人は、十代にとって大人になっても叱ってくれる貴重な存在だった。
 エドも万丈目も、十代を叱り付けてくれることはもうない。エメラルダと同じ目をしていた。
「何者だ、お前は!」
 エドが敵意を隠しもせずに怒鳴った。隣で、脅えきったおジャマ三兄弟が主にしがみついている。
「万丈目のアニキ、あの精霊、最高レベルの悪魔族よ!」
「逆らっても無駄無駄。アニキはどうなってもいいから」
「オレ達の命ばかりはお助けを〜!」
「な、なんでお前達は実体化してるんだ! 消えろっ、この、ザコ共が!」
 思い出に生きる少年の姿は、仲間達の心の中から完全に消え去っていた。かつて好きだった人も苦手だった人も、好きになってくれた人も嫌われた人も、その時、<世界の敵>の敵になった。
 悪魔、怪獣と罵声を浴びせられても覚悟の上だ。何もかもを手に入れようとは思っていない。向けた好意を、皆に好意で返されたいとも思っていない。
 <カーレン>を殺すべく、迷彩柄のヘリがビルに向かってミサイルを撃ち込んだ。鏡のように設えられた窓が破れ、激しい衝撃と共に黒い煙が吹き上がった。上層階が半ばから叩き折られる形で倒れてくる。十代は指先でカードをくるくると回し、変形してデュエル・ディスクを形作った左腕に叩き付けた。骨格が肥大し、皮膚が盛り上がり、肉体が進化する。
 究極の悪夢の竜へと成り果てた十代は、六つの首を巡らし、焼け付く息を吐き零す口を大きく開け、咆哮した。不可視の暴力を伴った絶叫が、降り落ちてくる巨大なモノリスのようなビルの残骸を消し飛ばした。
 <ゼロ・リバース>のようにはならない。異世界へ飛ばされた時のようにもならない。十代は決めていた。ヨハンは、たとえこの身と引き換えにしても、今度こそ守り抜いてみせる。光の中に家族を失った記憶を辿ると、あの日に感じていた憎しみが蘇ってきた。
「みんな、お前達のせいだ」
 利己的で、愚かで醜く、死を怖れるくせに自ら滅びを望む人間共が憎い。
 トップスを中心にして円形に広がり、銀色の光沢を放つ墓場のようなネオ童実野シティを十五の眼で見下ろすと、そこにあるのは、自らが造り上げた永久機関を振り翳した傲慢が報われて、罪ごと焼き尽くされてもなお、色欲と暴食を美徳として、強欲に繁栄を追い求めるおぞましい人々の姿だった。彼らは悪魔の力に嫉妬し、薄汚い言葉で罵りながら、正義の皮を被った憤怒に支配されて拳を振り上げる。大切な人を失っても口先で嘆き悲しむだけで、やがて忘れ去ってしまう怠惰な存在だ。
 悪意の塊に成り下がった人間達は、人知を超えた十代よりも余程化け物に見えた。
 やり場のない絶望に支配されて、制御が効かなくなった<ナイトメア・ペイン>が何もかもを壊していく。誰にも愛してもらえなくなった竜は、世界に終わりの呪いを掛けた。
「オレから家族を奪った人間達も、あいつらを守ってくれなかった精霊達もみんな、全部―― 滅びてしまええぇえっ!!」
 叫んだ瞬間、一筋の光が背後から十代の心臓を貫いた。
 エドの<最後のD>、万丈目の<アームド・ドラゴン>。<サイバー・エンド・ドラゴン>―― 忘却の眠りから目を覚ました翔も駆け付けたようだ。大切な仲間達のエースカードの輝きだ。それこそが、生前の父が、遊城世界が用意していた覇王を倒す世界の切り札だった。
「お前はまだ寝てろエド!」
「お前こそ、万丈目」
「二人共、無茶はダメっスよ。無茶と無謀は違うんだから」
 どんなに大切にされていても、見限られるのは一瞬だ。良く身に染みている。だが、たとえ嫌われても、楽しかった昔の思い出がある限り、どうあがいても彼らのことが大好きだった。仲間が傷付くことが、自分が消し飛ぶよりも怖かった。失われた日々がいつかまた還ってくるはずだと期待をして、向けられた悪意に愛を返してしまう。
 絆の力が、悪魔を殺す。
 思い出を奪われた仲間達は<世界の敵>に牙を剥き、少し前までのような労わりや躊躇いが無かった。それでこそ、悪の怪獣を倒す正義の味方の一撃だった。
 薄紫色の空へ向かって飛翔する身体が頼りなく傾く。ぐらつく視界に知った顔が沢山映る。知らない顔も見える。皆が敵意と恐怖を向けてくる。翼を空打ちして、ビルにせり出した階層に止まり木をする鳥のように止まった。美しい花々が咲き誇る空中庭園だ。穏やかな楽園に、巨大怪獣の姿はひどく不釣合いで滑稽だ。
 幼い子供と目が合った。逃げ遅れ、庭園の花壇のへりに腰掛けている小さな子供だ。市民への避難の呼び掛けが、上空を旋回するヘリのスピーカーから繰り返し流れていたが、手を貸してくれそうな大人はさっさと姿を消していた。
 そもそも、その子供に逃げるという概念が存在するのかどうかさえ定かではない。<ライトイレイザー>に浸蝕され、髪は雪のように白く染まっていた。<NEX>の実験動物にされて、言葉も未来も何もかもが剥ぎ取られていた。何も分からないせいで略奪者の十代に向かって微笑み掛けた。絵本を読み聞かせてやりに病室を訪れた時に見せる安らかな表情だった。
 絵本のページを繰って物語を読み上げる作業は、十代にとっては、ただの自分への慰めだっただろう。心を殺しても拭いきれなかった分の罪悪感と、折り合いを付ける為の儀式だったかもしれない。それでも自我を白一色で塗り潰された幼い子供達には何も分からない。彼らは無知で無垢だ。
 時折、そんな姿がひどく羨ましく思えたことを覚えている。
 十代自身も無害な存在になりたかったのだろうか? 馬鹿馬鹿しい。
「ママ」
 白痴の声が十代をそう呼んだ。あどけない顔が、どこか龍亞と龍可に重なった。腕を伸ばそうとした。抱き締めてやろうとしたのかもしれない。
 しかし、象は蟻を抱けない。頭を撫でてやろうとした前肢は蟻の小さな身体を踏み潰す。
 もう知っていた。猛禽の爪を生やし、蜥蜴の鱗に覆われた手は、子供を抱けないものに変わり果てていた。
 それでも構わないと決めたはずだった。大切な人達に、再び未来へ続く道を示すことができるのなら、鬼になろうが悪魔と罵られようが知ったことじゃないと。
「その子から離れろ」
 とても透明な声が聞こえた。
「やめるんだ。誰も傷付けるな」
 顔を上げると、永い眠りから覚めて一目でも振り向いてくれたら、走り続ける足を止めてもいいとさえ思っていた男がそこにいた。
 ヨハンが、エメラルド色の澄んだ瞳で十代を見ていた。

 * * * * *

 とても長い夢を見ていた気がする。知らない部屋の知らないベッドの上で目が覚めると、夢はおぼろげに形を失って崩れた。楽しかった幻の余韻だけが残っていた。誰もいないビルの中をさまよいながら、懐かしい感覚に導かれて防火扉を開け放つと、眼下に銀色の高層ビル郡を臨む空中庭園が現れた。
 朝焼けを背景にして、白髪頭の幼い子供と、今にも子供に襲いかかろうとしている醜悪な竜が、悪趣味な絵画の中の光景のようにヨハンの視界に飛び込んできた。唐突で、非現実的で、説明の付けようがない事態だった。
 そういうわけの分からない事態が起こるのは、これが初めてではなかった。学生時代に妻と出会ってからというものの、世界の危機を救う為に、何度もそういった具体的な非現実を相手にして共に戦ってきたのだ。ヨハンはデュエル・ディスクを展開して、怪物の前へ立ちはだかった。背中越しに子供へ頷いてみせた。
 手負いの怪物は、ヨハンと目が合うとひととき動きを止めた。じっとこちらを見つめてくる無数の目には知性があった。上手く言葉にできない種類の感情を、白目が無い瞳に宿していた。
 この怪物は口が利けるだろうかとヨハンは期待した。人間の言葉を理解することができるだろうか。もしも話し合いができれば、傷付けなくて良い精霊を傷付けずに済むかもしれない。
 ふと、遠い悲鳴に気が付いた。景色の中に、ひどい渋滞に巻き込まれ、車を捨てて避難する人々の姿が蟻のように小さく見えた。向かいのビルの屋上で、カメラを向けられたテレビ局のリポーターが、野次馬に揉まれながら悲痛な表情で叫んでいた。
「突如現れた怪物は、依然海馬コーポレーション研究開発ビルに留まっています。炎上するビルの中にはまだ沢山の社員の皆さんが残っています。どんな兵器も無敵の怪物の皮膚を傷付けることができず、セキュリティも全く歯が立たないようです―― ああ、このままネオ童実野シティは、世界は終わってしまうのでしょうか!」
「こういう時の為のセキュリティでしょ! あの中にはまだうちの子供がいるのよ。早く何とかしないと、あの怪物に食い殺されてしまう!」
「あんな化物がこの世界にいていいのかよ。冗談じゃない、誰かいないのか、怪獣をやっつけてくれるヒーローは!」
「ネオ童実野シティ、トップス上空を飛ぶヘリより中継しています。画面中央に見えますのが謎の巨大怪獣です。その傍に……何ということでしょう、逃げ遅れた人がいます! 小さな子供です。それからこの男性は……あっ、<ヨハン>です。この男性は<宝玉獣のヨハン>です、元ヨーロッパ・チャンピオン! 勇敢にも恐ろしい怪物から子供を助けようとしています!」
 沢山の人が、沢山の精霊が、脅えた顔でヨハンと子供と怪物を注視している。無数の視線が全身に突き刺さった。
 怪物は街中の眺めを見渡すように首を巡らせると、急に世界の敵でも気取るように荒々しく翼を広げた。理知的な仕草が消え、眼は人を拒絶する狂暴な色に輝き、あぎとに炎をくすぶらせて襲いかかってくる。
 説得の余地は無さそうだ。咄嗟にヨハンは叫んでいた。
「迎撃しろ、<レインボー・ドラゴン>!」
 カードを翳してエース・モンスターを召喚し、この世界に実体化しているおぞましい怪物への攻撃命令を下した。<闇のデュエル>の決まりごとに従って、血肉を持った怪物と向かい合っているヨハンの精霊も、実体を伴って人間世界に呼び出される。
「<オーバー・ザ・レインボー>!!」
 <究極宝玉神>が、純白の翼を広げて七色に煌く光を解き放った。虹の光が、二目と見られない程に醜い姿の怪物へ向かって、揺るぎのない正義の剣のように繰り出された。


 光の中に立っていた。全ての騒音が消え、人々の姿が消えた。
 気が付くとヨハンは朝焼けの空の下で、最愛の妻、遊城十代と向かい合っていた。
「ヨハンってさ、自分のことよりもみんなを大切にする。父さんと同じだ。でも、父さんと違って、オレにも優しくしてくれちゃってさ」
 十代が背中の後ろで手を組んで、とっておきの失敗談を始めるように、いたましく眼を閉じた。疲れ切っているように見えた。
「だから恋をしたのかもしれない。オレを好きになってくれなかった父さんの代わりに、家族になって欲しくて好きになったのかもしれない」
 夜の終わりを迎え、星の裏側へ姿を消そうとしている白い月のように、ひどく透明な眼差しをしていた。ドレスのような赤い服が、夜明けの澄んだ風に煽られて翻った。
「……ばかみたい、だよなぁ?」
 不思議な色の瞳から涙が溢れた。透き通った滴が零れ、十代は自分が泣いていることに少し驚いたような顔をして、ばつが悪そうに、眉を下げてはかなく笑う。
「十代?」
 ひとりで泣いている姿が、いやに寂しそうに見えた。


 ―― その人を抱き締めてやろうと腕を伸ばしたところで、幻視は終わった。白昼夢は掻き消えて、現実が戻ってくる。
 肉の焼ける嫌な臭いがした。光に貫かれ、圧倒的な熱量で全身を焼かれた怪物の皮膚は焦げて捲れ上がり、白っぽい煙を上げていた。濁った色の血液が蒸発し、白い骨が露出して天を突いていた。
 絶命の間際、怪物は、ふと顎を上げた。人が空を見上げて見えない神に祈りを捧げる仕草に似ていた。ガーネットのような双眸が不思議な光を灯して、やがて消えた。
 爬虫類めいたおぞましい異形の姿が、その時、何故かひどく崇高なものに見えた。向けられた敵意は、いやに薄っぺらい偽悪だと感じた。
 怪物が大きく口を開ける。何かを叫ぼうとしたのかもしれない。しかし、結局声は出せないまま、ゆっくりと仰向けに倒れていった。巨大な体躯がトップスの空中庭園から転落し、周囲のビルを押し潰し、歩道橋を巻き込んで舗装道路に叩き付けられた。その衝撃で地盤が割れ、泥が混じった地下水が吹き上がって汚れた水溜りを作った。
 怪物の死骸は、地面に大きく口を開いた奈落の穴に吸い込まれていった。崩れた建造物群がその上に覆い被さって、瞬く間に墓標のような瓦礫の山ができた。
 ヨハンは捻じ曲がった手摺りが突き出している庭園のへりから、抉れたコンクリート越しに遥か地表を見下ろした。
「……あいつ、撃たなかった」
 呆然と呟いた。
 涼しい風が、植物の葉と葉を擦り合わせる音がした。振り返ると、色とりどりの花が、朝の暖かな光の中で鮮やかに咲き誇っていた。
 大きなひまわりは太陽を探して首を巡らせるような恰好で、八重のダリアが白い花弁を華やかに広げている。マリーゴールドの快活なイエローが目を楽しませてくれる。夏椿の木も可憐な丸い蕾を開き始めていた。いい匂いがする。見惚れるくらいに美しい庭だった。
 あんまり綺麗だから、十代にも見せてやりたいと思った。
 花には興味もない妻だったが、隣に座って一緒に見たいと、そう思った。

 * * * * *

 ある老人は、怪物の訃報を聞いて目を伏せ、苦い面持ちで零した。
「……悪者は、ヒーローに倒される宿命か」

 * * * * *

 ある所に、親を亡くした子供達を預かっている小さな孤児院があった。この施設にいる子供達は、皆が皆あつらえたような白髪頭で、デュエル・モンスターズのカードに宿る精霊の声を聞いて、姿を見ることができる不思議な力を持っていた。
『<宝玉獣のヨハン>、奴ならこのくらいできて当然だ。なにせ、この万丈目サンダーのライバルなのだからな』
 今朝のテレビのニュースには、子供達のアイドルの<おジャ万丈目>が出演していた。焼けて壊れた建物を後ろにして立っていて、いつものように得意そうに腕を組んでいる。服はあちこち焦げて穴が開いていて、髪の毛の先が縮れていた。それでも怪我はひとつもないようだった。
 テレビの中にいる人達はみんな嬉しそうだった。正義のヒーロー<宝玉獣のヨハン>が、悪い怪獣をやっつけて世界を救ったそうだ。先生達の幼馴染の<黒いお客さん>が何も言わずにテレビを消したのを、<ゆーすけ先生>がまた付けた。子供の一人がテレビの画面を指差して、悲しそうに言った。
「ねぇぶっきー先生。<神様>、しんじゃったの?」
 <ぶっきー先生>は小さな頭を撫でて、困ったように笑って首を傾けた。
「うん、<神様>はね……もう天国に帰る時間なんだ」
「おやすみの時間だから?」
「そうさ。だけどひとりぼっちの帰り道って結構寂しいものだからね。見送ってあげよう。みんなで、お祈りをしてあげようか」
「うん」
 空に向かって手を組んだ。昔、ママみたいに優しい声で絵本を読んでくれた、あの<真っ赤な神様>が迷子になりませんように。

 * * * * *

 ヨハン・アンデルセンを賞賛する声がシティ中に響き渡っていた。空野は表情を分厚いサングラスの中に隠したまま、拳を握り締めていた。空に浮かぶ美しい虹の化身に向かって、<赤い悪魔>に<ミスター・ジェリー・ビーンズマン>という名前を付けられた男が、唾と一緒に「悪魔はどっちだ」と吐き棄てた。
 龍可はニュース番組を流しているカーテレビの前で、頭を抱えて何度も振った。
「龍可」
 青が心配そうに龍可の肩を抱いてくれた。朝焼けの光の下で、この時、龍可には<完全なる世界の終わり>が見えていた。
 人々は熱狂し、腕を振り上げ、龍可の母親の死を大いに祝福した。皆はヨハンが、とても難しくて、誇り高くて、立派な仕事を成し遂げた偉い人みたいに褒め称えた。
 そうじゃない。何も立派なんかじゃない。龍可の虹彩異色症の眼に映ったのは、父が<怪物達>と一緒になって<人間>を―― 誰よりもヨハンのことが大好きだった母を焼き殺した光景だった。
『愛してる。龍可。ありがとう……オレの家族に生まれてくれて、ありがとう』
 十代がはかなく微笑んでそう言ったのをよく覚えている。それはどこも嘘じゃなかった。母は全てをかけて龍可を愛してくれていた。
『これからもずっと、いつでも、母さんと一緒にいてくれよな』
 嘘の無かった十代の心を、ヨハンが汚して嘘にした。龍可が大好きだったヨハンが大好きな十代を殺した。正義の味方が悪を裁くように。光が闇を打ち砕くように。
「嘘よ。嘘だッ……!」
 『本当にいい子達なんだ』、そう言って、ヨハンの大きな手が龍可を抱いてくれたのは、いつのことだっただろう?
 普通の子供とは違って、ひとつにくっついて生まれてきた龍亞と龍可の身体を『俺の誇りだ』と胸を張ってくれた。『お前達も十代みたいに優しい子になって欲しい』と言い聞かせてくれた。
 ヨハンが家族にくれたいたわりの声も与えてくれた愛情も、本当は嘘を固めて作った偽物だったのだろうか。
 あの人もまた愛を知っている<人間>ではなくて、大切な家族を傷付ける<怪物>だったのだろうか――
「嫌ぁあああああ……!!」
 龍可は絶叫した。

 * * * * *

 詰め掛けてくる報道関係者を押し退けて、ヨハンはすれ違う者の顔をひとつずつ確めながら、ごった返す人の群れに逆らって歩き続けていた。
「十代……どこへ行ったんだ? 十代!」
 知らない街の知らない部屋で目が覚めた時、そばには誰もいなかった。いつも隣にあるはずの姿が無かった。痕跡すら消えてしまっていた。まるであの人の存在そのものが楽しかった夢のようで、ひどく恐ろしい心地がした。
 時折、誰にも抱き締めてもらえなかった子供の頃のことを夢に見て、真夜中に目が覚めることがあった。そんな時、大人げない不安を持て余しているヨハンに、十代は冷たい水を汲んだコップを差し出してくれた。母親のないヨハンを、まるで母親のように慰めてくれた十代の優しい手が、もう取り返しのつかない位に遠いところへ去ってしまったような気がした。
「誰か、妻を知りませんか」
 人間も、精霊も、ヨハンの問い掛けには答えずに、ただ無意味にわけの分からない賞賛をした。そんなことはどうでもいい。今は知ったことじゃない。
「妻を……十代を……どこにもいないんです。赤い服で、髪と目はチョコレート色で、日本人の。誰か見掛けた人はいませんか――



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<ファム・ファタール(完)>

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arcen>安住裕吏 10.03.11-10.03.12 −