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 降り止まない雨は、やがて雷雲を呼び寄せた。夜の生き物達が、今夜はやけに賑やかだ。蝙蝠は木の枝に逆さまにぶら下がって賛美歌でも歌うように叫んでいる。合いの手に野犬が遠吠えを入れ、からすは鐘のように騒ぎ、虫達はガラス窓に全身を叩き付けて、卵の殻が割れるような音を立てていた。
 稲妻が、黒い森の遥か上できらきらと煌いては、轟音と共に大地を刺した。脅える子供達を宥めて寝かし付けていると、玄関のドアを叩く、泥のように鈍い音がした。
 夜更けの来訪者は、この大雨の中を文字通り『飛んで』きたらしく、全身が遠泳でも済ませてきたかのように濡れていた。黒いフードを目深に被って顔を隠しているが、背中の、折り畳まれた竜の翼は隠しようがない。
 扉を開いて、闇としばらく向かい合っていた。
「けじめはつける」
 フードから覗いている、薄青色に塗られた唇がかすかに動いた。凍えきった声だった。もしも水死体が起き上がって口を利いたら、こんなふうな声なのかもしれない。
「悪は滅びる。だけどその時、子供達は誰が守ってくれる? 周りの大人は保身で精一杯だ。皆死ぬ」
「キミを含めた大人達の、つまらない都合でね」
 夜空が白く輝き、すさまじい音と共に異形の姿を眩く暴き出した。太い指の先には、人類を傷付ける為に肉厚の爪が生えている。柔らかい喉笛を掻き切るために、異様に長い犬歯が唇の隙間から零れて見えていた。硬い鱗に覆われて、獲物の抵抗をものともしない力強い腕には、かつての脆くしなやかな人の皮膚の面影すらなかった。
「悪いけれど、悪事の片棒は担がないよ。手は貸さない。共犯者にはならない。傍観者にもならない。断罪者では絶対にない」
「龍亞を、龍可を、青を、せめて大人になるまで――
「守るよ」
 濁った黄土色の爪が、握り込まれた赤銅色の手のひらに食い込んだ。多くの人間を壊した忌まわしい手だ。呪われている。他人ばかりじゃない、自分すらも深く傷付ける。
「キミが撒き散らした血も拭おう。傷が無かったことにはならないけれど、悪意には善意を補えばいい」
「ぜんい」
「久しく聞かなかった言葉だって顔だね。まさかこの世界の全てが悪意でできていると信じるほど子供じゃないだろう?」
「そんなふうに考える人間ばかりだったら、良かった」
「ご存知の通り、ボクは恋する者みんなの味方だ。いつでも中立の立場で応援するよ。だからたとえこの世界を見捨てた人食い怪獣くんだろうと、恋に狂ったキミの力になりたい」
 それから、彼方からの来訪者にひとつだけ頼み事をした。
「顔を見せてくれないかな。これで最後になるかもしれない」
 フードを指で摘んだ。抵抗は無かった。露になったのは、土着的な宗教のまじないを思わせる刺青に飾られた顔だ。額の上で黄ばんだ三つ目の眼球がぎょろぎょろと蠢いていた。虹彩異色性の双眸は、焦点を失っていた。疲れ切っていた。これ程までにこの人の生気のない表情を見たのは、実に十二年ぶりのことだった。
「知ってるかい? 恋をすると人は誰でも綺麗になるんだ」
 その人は、水死した幽霊の恨み言じみた不気味な声で「うそだ」と呟いた。
「何が嘘なものか」
 目の前で、力強く拳を握り込んでみせた。
「キミはこんなに美しい」

 * * * * *

「ええと、なんだったかなぁ。彼の二つ名は」
 そう言いながらしばらく宙を見詰めた後で、両方の手のひらを軽く打ち合わせた。
「そうそう、<消えた団地妻>」
 いかがわしい上に、どことなく事件の匂いがするあだ名だった。もちろん間違っている。ヨハンは、向かいの席から訂正した。
「<幻の決闘王>です、吹雪さん」
「ああ良かった。似たようなものだったね」
「よくわかんないですけど。吹雪さんは、あいつのことを覚えているんですね」
「忘れるわけがないよ。ボクらの青春そのものだったじゃないか、彼は」
 仲間達は当たり前のように遊城十代を忘れていた。しかし吹雪は、昨日の天気模様のように良く覚えている。
 この山の上の洋館は、童話が生まれそうな森の中に埋れるようにして建っている。建物自体はまだ新しいが、周りを囲むようにして生えているブナの木々が死角になっていて、湿地の上に吊られた遊歩道から小路をひとつ曲るとあまりにも唐突に現れるから、どこか現実味が無かった。吹雪の話では、シティからやって来る避暑組の間では幽霊屋敷だと噂をされていて、毎夏肝試しにやってくる子供が後を絶たないそうだ。
 天上院吹雪は、時折芸能界からもデュエル界からも失踪し、創作意欲と気の赴くままに旅に出ることがある。偶然訪れた避暑地を特に気に入って、今では別荘を構えて年のいくらかをこの地で過ごしている。優雅な話だが、吹雪は自分一人の楽しみのために何かを始めるということがまずあり得ない人間だった。別荘を孤児院として解放し、身寄りが無く病気に苦しんでいる子供達を引き取って面倒を見ている。
 ―― 表向きには、そういうことになっている。
 明日香は、ふもとの複合商店で車のトランク一杯の買い物を済ませて、キッチンに立って夕食の準備をしている。クリームスープを温めている鍋から、湯気に溶けた甘いコーンの匂いが応接間まで漂ってきていた。龍亞は庭で白髪の孤児とどんぐりを拾っている。龍可は赤いブランケットを膝に掛けて、庭の真ん中に立っている大きな楠の下に座って、文庫本を読んでいる。
「ヨハンくんと最後に会った時よりも、大分子供達の数が減ったんだ。皆成長してここを出て行ったからね」
 吹雪が言った。
 モザイク張りの廊下を駆けていく子供の、白い、特徴的な髪色は、ある薬物に汚染されていることを示している。
 かつてネオ童実野シティでは、精神的異能児を人為的に造り出そうとする実験が行なわれていた。今はもう解体されてしまったが、<旧NEX>と呼ばれた部署の負の遺産のひとつだ。十代がヨハンとの結婚を機に海馬コーポレーションを退社してから、新しいトップとスポンサーを得た<NEX>は、本物の悪魔の棲み家に変わり果ててしまったと聞いている。
 往々にして、ある種の大人は理想の子供を創造しようとする。それはいつの時代でも変わらないし、そう都合良く研究が進まないことにも変わりがない。完全を追い求めた結果、完璧だったはずの子供は、何もかもがままならない大人に成長する。それが顛末だ。
 白髪は、ヨハンが生まれ持った、忌々しい、白夜の森の青と同質だ。夢見がちな大人が描いた歪な<パーフェクト>の成れの果ての証だ。
「前にも言ったかな? 最初は、ひどいものだったんだ。目は空っぽの洞窟みたいだった。口も利けない、耳は聞こえても何も分からない。ベッドから起き上がる意思もなくて、天井を見詰めているだけなんだ。ずっとね。ただ絵本を読んでもらうのは好きだった。頭を撫でて笑い掛けられるのもね。澱んだ悪夢が身体の中から抜けていくのを、辛抱強く我慢して待っていた。偉いよ、みんな」
「……記憶は、心は帰ってくるかな?」
 ヨハンは吹雪に尋ねてみた。吹雪は肩を竦めて、紅茶を一口飲んだ。
「心はどこへも行かないよ。ずっと胸の中にある。ただ認識が無くなってしまうだけだ。自分と他人の心の境界線が消えてしまう。一にして全、全にして一、<唯一>と<無限>、そんなふうな感覚のようだね。幸いにもボクは経験したことがないから、彼らのように詳しくは知らない。推測だ。魂を蝕んでいた異物が薄まって『神様の感覚』が消えると、戻ってくるのは自我だ。だけど皆が皆、嫌がるね」
「自分が自分であることを?」
「皆最初は自分の足で立つことが怖いんだ。だけど結局は意地でもひとりで歩き出すよ。昔もそうだったじゃない」
「ああ……」
 ダークネスによって世界中の人々の心が虚無に捕われた時のことを思い出した。全人類は気持ちが良さそうに黒い海に浸かっていた。しかし結局は大切な未来へ向かう力を信じて、ぬるま湯のように心地良い統合を拒絶した。
 あの時、ヨハンは十代が示してくれた人類の可能性に希望を抱いていた。今はどうだろうか。
 分からない。
 吹雪は今でも人の行く先を信じているのだろうか。十代はまだなお人を見捨てていないのだろうか。
「……そうですね」
 ヨハンも紅茶に砂糖とミルクを入れて、一口飲んだ。吹雪は、今日はまともそうだった。何よりだ。安心する。
「巣立って行った子供達も元気でやっているよ。たまに外の世界に排斥されて、生きる気力を失って帰ってくる時もあるけれど。しばらく前に流行ったじゃないか。<アルカディアムーブメント>? 普通じゃない人達で集まって理想郷を作るっていう、今で言う<コクーン>みたいなあれ。結構深刻な依存症になっちゃう宗教だったらしくて、はまっちゃった子は抜けるのが大変だったみたいだね」
「その<コクーン>に行ってみようかと思ってるんです。あそこは異能者たちにとって優しい場所だと聞いてるから」
 ヨハンは探る目で、注意深く吹雪を見た。
 十代を連れて世界中を逃げ回るつもりでいた。ネオ童実野シティを去り、この国を去り、風の吹くまま気の赴くまま、誰にも追い付けない速さで巡る。足の速さにかけては昔から自信があった。
 故郷のデュエル・アカデミア・アークティック校付属研究所は壊滅し、提携していた日本の政府機関も、ネオ童実野シティと対立していたのは世界長官の存命時代だけで、今は繁栄を謳歌するシティのお零れに預かる犬に成り下がってしまった。あてにはならない。
 吹雪は不思議そうにまばたきをしている。
「子供達はどうするんだい? まだ学生だろう」
「デュエル・アカデミア本校に留学をさせようと思っています」
「うん、妥当な判断だ。お茶のおかわりはどうだい?」
「いただきます」


 今から半年前、寄る辺を無くした<アルカディアムーブメント>の残党が集結してサテライト島に上陸し、サイコデュエリストの利権を求めて不法占拠事件を起こした。主導者を失い、組織は瓦解し、行き場を失って放浪を続け、ごく普通の人間達に怖れられて差別を受けてきた異能者達の、存在を掲げた抗議行動だった。
 治安維持局はすぐにセキュリティを派遣し、権利要求運動に参加したサイコデュエリストをもれなく逮捕した。抗議行動はほんの数日で鎮圧された。このシティ側の武力と権力に任せた傲慢な対応は、諸外国の顰蹙を買った。無責任な著名人や文化人達はこぞって治安維持局を非難して、稀少動物の保護を呼び掛けるように、収容所送りになったサイコデュエリストの解放を求めて叫んだ。
 そんな中で、闇が支配する深海で眠り込んでいた鯨が目覚めて浮上するように、ある機関が歴史の表舞台に現れる。<コクーン>。当時誰も名前を聞いたことすらなかったその存在は、捕われたサイコデュエリストを救出するために凄腕の兵隊を派遣したわけでもない。セキュリティに巨額の賄賂をちらつかせたわけでもない。ただ獄中の哀れな羊の群れに一言くれただけだ。
 『力こそ全て。力こそ正義。何故弱い者たちにその手を振りかざさないのか?』と。
 捕われのサイコデュエリスト達は、まるで天啓を受けたかのように迅速に行動に移った。カードを実体化させ、人知を超えた力を、ただの人に振りかざした。<精神同調波>で看守の精神を破壊した者がいる。<緊急テレポート>で脱出した平和主義者もいた。<アシッドレイン>が天井を溶かし、<草薙剣>が檻を切断した。
 彼らは悠々と監獄を後にして、異能者達の約束の場所、<コクーン>へ向かったとされている。
 この一連の脱獄物語は、皮肉にもプラカードを掲げたサテライト島の占拠事件よりも、何の力も持たない人々にサイコデュエリストの未来の可能性を思い知らせる結果になった。今や新たな約束の地として、<コクーン>を探し求める者が絶えない。
 この国に、<コクーン>や消えた異能者達と何らかの接点を有している人物は三名いる。
 一人目はサテライト島不法占拠事件発生当時、議会において、唯一抗議運動参加者の肩を持った十六夜英雄議員。逮捕された占拠メンバーへの面会を求めて収容所まで足を運び、いくらか会話を交わしたことがある。
 この男はサイコデュエリストの娘を持っていた。以前I2社に招待され、精霊研究機関の社員向けに、異能に目覚めてしまった家族と向き合う姿勢についての講演を行なったことがある。内容は、ひどく耳が痛い話が続いたせいであまり思い出したくもないが、配られた名刺はまだ持っている。連絡は付くが、相手は多忙な政治家だ。あまり気は進まなかった。
 二人目は齢二百近くになる、ほぼ妖怪のような人物だった。デュエル・アカデミアの理事長をやっている影丸という男だ。
 非常にいい歳をした老人ではあるが、若返りの秘術を手に入れたと嘯き、その言葉通りの外見をしている。筋骨逞しい大男で、髪は黒々とした長髪だった。彼は富と権力の上にあぐらをかいた<異能者の成功例>とされ、<コクーン>に莫大な出資をしていると噂されている。
 そして三人目が、この天上院吹雪だ。彼は、抗議運動参加者のリーダーが育った孤児院を経営していた。
 この三人の中で、吹雪は最も気のおけない人間だった。そしてこの人は言い難いことをはぐらかさない。気分によっては嘘も吐かない。趣味でもあり存在理由そのものである<恋する者の味方の真似事>以外では、いたって信用ができる大人だった。
 吹雪は取り皿にクッキーを盛って、庭で歓声を上げている子供達を眺めた。泥だらけのボールを引っ張り出してきて、サッカーをやっている。運動嫌いの龍可は点数係を押し付けられて、得点板の下に座っている。パネルを入れ替えているが、面倒臭そうな手付きだった。少し前まで読んでいた小説の続きが気になっているのだろう。龍亞が入った方のチームが劣勢だった。
「ある所に、人が考え出したり、造ったりしたもの……お金や名誉なんかね、たとえば。そんなものには一切興味を示さない、人ならざる者達の国がありました」
 吹雪が一本立てた人差し指でくるくると宙を掻き混ぜながら、絵本でも読み聞かせるような口調で語り出した。
「そこじゃ人の価値観や常識はなんにも通用しないんだ。立ち上がろうと思ったら座っていたり、明日を迎えようとベッドに寝転んだら昨日になっている。あべこべのちぐはぐの、でも幸せな国なんだ」
「その国は、どこにあるんですか?」
「虹の向こうさ」
 少し楽しそうに言った。
「まあ急がず聞いてくれ。そこは精霊世界と人間世界の中間にある、二つの世界を隅々まで見渡すことができる、とっても眺めの良い場所だ。神様の世界だ。ある人知を超えた天才科学者が、人知を超えた者達のために、人知を超えた十三番目の宇宙に作った世界だ」
「そんなすごいこと、神様でもなきゃできるわけがないじゃないか」
「それができちゃったんだよね。その科学者くん、生命の来し方行く末を決める程度には天才だった。この十二次元宇宙は神様が見ている夢だ、怠け者の神様にできるのなら自分にだってできる。そう言って理想の世界を構築したのさ。その名も<プロジェクト・コクーン>」
 ヨハンは、しばらく口を開けて吹雪を見ていた。
「十六年前、セキュリティが人命救助の名目で、火事になった<旧NEX>、KC社の<ナイトメアエクステント>の研究開発ビルへ立ち入った。そこで焼け残っていた数々の悪行の証明が発見されて、もちろん<旧NEX>は倫理委員会に蜥蜴の尻尾よろしく粛清を受けた。押し付けられたり、でっち上げられたりした闇まで徹底的に暴かれた。比較的まともだった精霊に関する研究や何やかやは―― <愛すべき怪獣>も含めて、ヨハンくんが主導する<もう片方>に引き継がれた。クリーンで夢と希望と若い熱意に溢れている<I2−NEX>だ。<KC−NEX>は再編されたけれど、大幅に方向転換をして、最近じゃゲームの製作部門の色が濃い」
 吹雪は大企業の極秘機密をすらすらと口にした。背中に鳥肌が立った。この人は世界の仕組みが何だって分かっているんじゃないだろうかという気分になる。
「<旧NEX>の遺産はすべて、焼失するか廃棄されるか、それともセキュリティに没収されてしまった。そうだよね? でも<コクーン>のお家芸は、その失われた根幹と言っていいシステムを受け継いで、さらに発展させたものだったんだ。たとえばだけど、自分を愛し過ぎてしまった人の何割かは、未来ある子供達を犠牲にしたり、精霊達から生命力を吸い上げたりして、沢山の人々に迷惑を掛けながら<不老不死>っていう壮大な夢を見ることがある。ずっと若くて綺麗でいたい、その気持ちは良く分かるよ。美しいままの姿を未来の人々にも見せてあげられるのは素晴らしいだろうね。だけど<コクーン>はその逆を行く。<不死>を<可死>にするっていうひどい矛盾に大真面目に取り組んでいた。神を殺す力を求めているんだ。その人は」
「そいつ、何者なんだ?」
 ヨハンはもうひとつ、疑問に思ったことを吹雪に尋ねてみた。
「吹雪さん、なんでそんなに詳しいんだ?」
「ボクの孤児院で育ったんだよ。そのアイドル」
 吹雪が何でもないように答えた。
「ここでのびのびとね。愛くるしい子供が美しい大人に成長するまでの間、この<繭>の中にいたんだ」
―― ここが、<コクーン>なのか?」
 ヨハンは驚いて、椅子に膝立ちになる格好でテーブルの上へ身を乗り出した。ティーカップが跳ねて大きな音を立てた。吹雪はヨハンの目の前で手のひらを振って、「違う違う」と軽く言った。
「残念ながら。その子、もう巣立ってしまったからね。彼女がいる場所が<コクーン>だ」
「<彼女>」
「そう、女の子だよ。それもとびきりの美女だ。彼女は進化した人類だ。ヒトの先を歩くものだ。あの子は<繭>で、<悪夢を覆うもの>だ。彼女こそが<コクーン>さ」
「……そんな夢物語ってないぜ」
「何を言ってるんだい? キミの口癖だったじゃないか」
「俺の口癖」
「そう。そこは精霊と人間の架け橋達が住む世界だ。キミの夢そのものだ」
 ヨハンは眩暈を覚えた。この価値観がひっくり返りそうな感覚は久し振りだ。吹雪と『まともに』話していると、いつもこういう感覚に陥ってくる。心に黒い靄を吹き掛けられているような、嫌な感じがする。困惑する。混乱する。何が本当のことで、何が嘘なのか、何が冗談で何が真面目な話なのか、判断がつかなくなってくる。親にこっぴどく叱られて、下を向いて上手い言い訳を探している子供の気分になる。
「ところでヨハンくん、ひとつ聞かせて欲しい。―― キミは、本当は人間が嫌いなんじゃないかい?」
「ああ。大嫌いだ。だけど……」
「だけど」
「だけど……俺は人間だ」
「じゃあキミは、キミ自身が大嫌いなわけだ」
 吹雪が、どこか楽しそうに手を擦り合わせながら言った。
「キミが大嫌いなキミの身体を引き摺ってどこへ行っても、どこへ行っても、どこへ行っても……世界中のどこにも理想郷なんか存在しないよ。大切なものを鞄に隠して逃げ続けるのもいい。だけどそれをボクらの女神が望んでいたかどうか」
 テーブルの上に優雅に頬杖をつき、カード枠の中からはみだしてこちらを伺ってきている十代へ、興味深そうな目を向けた。
「やあ、十六年ぶり。構わないよ、出ておいで」
「あうー」
 十代は赦しを貰うと、実体を伴ってカードの中から抜け出してきた。ヨハンの隣の椅子に座って嬉しそうに足を揺らしている。話の邪魔をしないように気を遣っていたのだろうか。おかしなところまで子供返りをしてしまっている。大人に気を遣う十代の姿は、かつて旧い記録媒体の中でだけ見た事があった。
 吹雪が不思議そうに―― 芝居がかった仕草で、不思議そうに首を傾げている。ヨハンは無意識に腹に力を込めて身構えた。
「そう言えば、ユベルはどこへ行ったんだろうね?」
「十代の中にいますよ、もちろん。相変わらず俺の前には出てこないけど……」
「姿を見ていないんだろう。ファラオは? もう寿命かな? 確かボクの恩師が、あの猫を使って不老不死の実験をしていたんだけれど。いつも十代くんの傍にいた―― らしい、ボクには見えなかったけどね―― あの二人と一匹は、十代くんを置いてどこへ消えてしまったんだろう。他にも、キミの周りは噛み合わないことばかりじゃないかな」
 吹雪の言う通りに、日常の些細な場面で―― それは新聞の記事に目を通した時だったり、社内会議に出た所だったりまちまちだが、世界がどこかずれていると感じることがある。何かがおかしい。おかしいとは思うのだが、違和感の正体は分からない。思い当たらない。そんな感覚は、日々の生活の中でありふれていて、もう馴染んでしまった。
「噛み合わないながら幸福だ。キミは最愛の妻といつでも一緒だったし、子供達は二人でお互いを補い合って、『寂しさ』は知っても『孤独』を知らないまま、まっすぐに成長した。世の中には運命に完全に食い潰されてしまう者だっているんだ、知っての通りね。不幸せの中にいながらも、キミ達には救いが用意されている。愛する人の変わり果てた姿を見て胸が痛んでも、相手がこの世に存在しないよりもずっといい。ヨハンくんは世界を救ったヒーローとして持て囃されたし、双子くん達は監視されながらもアカデミアで楽しい学園生活を満喫している。いつでも最低限の幸福は約束されている。
 こう考えたことはないかな? たとえばキミ達が感じている不幸や不満は、もっと奥のほう、闇の深淵に潜む大いなる悲しみから目を背けさせるために用意されたものかもしれない。親に抱いてもらえなくて寂しい子供、ただし親は生きている。言葉と知識と人格を奪われて人間扱いも赦されない妻、ただし笑うことができる。とても楽しそうに、幸せそうに。ねぇ?」
「あー?」
 水を向けられて、十代が笑った。とても楽しそうに、幸せそうに。
「天には星がまたたいているべきだ。地には花が咲き誇り、人には愛がなければならない。愛し合う夫婦の絆は素晴らしい」
「武者小路実篤でしたっけ」
「ボクは中等の頃にゲーテで読んだんだけどね」
「はぁ」
「キミ達は幸せだ。その幸福は、もしかするとキミ達をとても大切に想う人からの精一杯の贈り物なのかもしれないね。パーフェクトなハッピー・エンドは、血に汚れた不器用な指では組み立てることができないパズルだったんだろう。だけど誰一人欠けずに、『どんな形でもいい』『一緒に生きたい』とさえ望んだら、望んでしまったら……いびつながら、今キミ達は家族四人でこの世界に共に暮らしている。
 ねえ、無くしたものは目に見えないんだよ。それが大切なものだったのか、たとえば光り輝く七色の宝玉だったのか、それとも棄てようと思っていたレシートの束やちり紙だったのかは分からないんだ。闇の中をさまよっていたキミは、せっかく道標になる一筋の光を見付けたのに、形のないものを追い駆けて、また闇へ戻って道に迷う―― その光は、迷子のキミを救うために自分の身体に火をつけて燃え上がった大切な人の最期の輝きだったかもしれない。でも、キミには遠過ぎて見えない。分からない。闇の中にはもっと大切な、たとえば磨きさえすればあの炎よりもずっと綺麗に輝く石があるかもしれないと期待している。
 やがて夜が明けたら、キミは大切な人の燃え滓を見付けるだろう。でもキミにはそれが何なのか分からない。焼け焦げて灰になったそれが何だったのか、人だったのか、誰だったのかなんて。
 ……どうだって、いいのかもしれない。
 朝の光の下では、そんなことは何も大事じゃなくて、やがて忘れられてしまうのかもしれない。
 はじめは追い駆けて抱き締めたかった。でも、気が付いたら追い駆けることそのものが目的になっていた。抱き締めたかった人は、目の前を走っていると思っていたのに、本当はずっと後ろの方で、倒れて、動けなくなって、君の背中に見惚れながら死んでしまったのかもしれない。
 無駄死にだね。そんなものは」
 声は、厳しいようでも諦めているようでも安心しているようでもある。苦しみが濃く滲んでいる。吹雪は苦笑して、手を広げた。
「ボクはね、記憶がある限り<苦しみ>という邪心と一生付き合っていかなければならないんだ。大切な友人からの贈り物でね」
「ろくでもない友達ですね」
「まあそう言わないであげてくれ。いい子なんだよ、ほんとに。―― 真実を知ればキミは傷付く。子供達も傷付く。それは<彼女>の本意かもしれないけど、十代くんの本意じゃない。どちらの味方をしたって片方の願いは聞いてあげられない」
「彼女……」
「そ、彼女は彼女さ。<プロジェクト・コクーン>を発案した天才科学者。現<KC−NEX>を影から操る最高権利者。<I2−NEX>最高責任者のキミとは真に対になる存在だ。かつての十代くんみたいにね。KC倫理委員会の方に名前を組み込まれているから、社員名簿上では存在しない扱いだけど、<悪魔の赤>という異名で畏れられている。童話の主人公だよ。<赤い靴のカーレン>」
 ヨハンは、ほとんど食って掛かるようにして、吹雪に反論した。
「そんなはずはない。カーレン・アンデルセンは、俺の最愛の姉さんは……十代はここにいるんだから」
「じゃあ違う人だろう」
 吹雪はあっさりと言った。肩透かしを食らった気分になる。
「十代くんを騙っている別の人だ。でも偽者の割には良くやってると思わないかい? まるで十代くんそのもの、いや、それ以上だ。<彼女>は十代くんよりも頭がいい。他ならない十代くんも、それは認めていると思うよ。いないはずの人がいる。さて、これは幻かな?」
 とっておきの手品を披露している最中の奇術師を思わせる問い掛けだ。少し趣味が悪いと思った。吹雪らしくないのか、もっともらしいのかは、彼の腐れ縁の親友たちか妹の明日香でもなければ判断がつけられそうになかった。
「ヒントは?」
「言わないよ」
「どうしてだよ。ヒント位くれたって良いじゃないか。なんだか、フェアじゃない気がする」
「ボクは女性の嫌がることはしたくないし、あの子のこともキミと同じくらいに好きなんだ。そうだね、じゃあひとつだけ」
「なんだよ?」
「彼女は、キミを憎んでいる」
「俺、知らない奴に憎まれるほど有名人じゃないぜ」
「大切なものを壊されたんだ。キミに。十六年前、キミは<世界の敵>を倒して英雄になった。彼女は、あの時キミに殺された竜の信奉者さ」
「竜……」
 十六年前、突如として世界の中心に降り立って人類を敵に回した巨大な竜の姿は、今でも鮮明に覚えている。燃え盛る炎の中へ投げ込まれた、ガーネットの宝玉のような眼をしていた。あぎとを大きく開いて、全ての生命と非生命を呪う絶叫を上げていた。それは空を切り裂き、夜明けの大気の中に悲痛に響き渡っていた。
 孤独な怪獣は、ヨハンが召喚した<レインボー・ドラゴン>に焼かれ、地中に吸い込まれるようにして消えていった。その存在理由も、顛末も、ヨハンには何がなんだかわからず、まるで夢の中の出来事のようだった。
「あの竜は、何だったんだ? 一体何がどうしてこの世界にやってきたんだ? なんで街を壊して人を襲っていたんだ?」
「<彼女>に会えば分かるよ、きっとね」
「<コクーン>にいる偽<カーレン>ってやつか」
「うんそう。行くんだろう? まず言い分を聞いてあげるといい。それから―― キミがするべきことは、わざわざボクから口を出すまでもないな」
「俺には分からないよ、吹雪さん」
「だろうね。うん、分からない。ともかく彼女は<カーレン>を名乗ってる。でも十代くんじゃない。十代くんをもう<カーレン>と呼ぶ者はいなくなった。棄てられた名前だ。そんなもの、いくら名乗っても構わないと思うけどね。ボクは」
 頭の中で、螺旋状に曲がった針金が猥雑に絡まり合っているような気分だった。恨めしい口調で、ヨハンはつい吹雪が期待しているだろう一言をぼやいてしまった。
「吹雪さんは、一体誰の味方なんだよ」
「ふふふ」
「なんだよ。何笑ってんですか」
「ボクは中立さ。<生前>の十代くんとの約束だからね」
「十代との?」
 吹雪が紅茶のカップに、銀のスプーンでブランデーを一さじ入れた。
「始めはストレートだ。そこへスプーン一杯のブランデーを入れたなら、大人好みの紅茶だ」
 それからコルクで栓をしたボトルを傾けて、ティーカップに入れるふりをした。吹雪はあまり強いアルコールを好まない。酒に酔うよりも、酒に酔った人間の奇行を更に煽ることが好きなような人だ。良く考えてみれば随分ひどい人だと思ったが、彼はこれでも人に向き合う態度が真剣な人だった。それは良く知っている。知っているから、理解ができない。
「ブランデーをカップの半分注ぐ。さらにその倍のブランデーを加える。それはもう紅茶じゃなくてアルコールだ。だけど紅茶の風味は消えないよ。パウンドケーキに混ぜたら美味しいだろうね。キミも好きだろう?」
 ヨハンは素直に頷いた。
「甘いものは好きです」
「そうだろう、そうだろう」
 吹雪は嬉しそうに手を組んでいる。
「キミの純粋さ……いや、純朴さかな? それに救われてる人は結構いるんだよ。ボクもそのひとりさ。明日香もね。中でも一番キミの素朴を好ましく思っているのが彼だ」
 白髪頭を撫でられて、十代が目を細めて喉でも鳴らしそうな顔になった。吹雪が満足そうに続ける。
「キミが何をしようと、何をしまいが、キミのことが好きな人間は勝手に救われているってことさ。キミ達の物語はそういうふうにできているんだ」
 十代が光の射してくるほうへ向かって頭を上げて、大きく空気を吸い込むと、窓から飛び出して行った。何か興味を引くものを見付けたらしい。
 しばらくすると、鱗だらけの腕で大事そうにノースポールを摘んで戻ってきた。
「俺にか?」
 十代は頷いて、ヨハンに白い花を差し出した。
「キミが困った顔をしていて元気がないから、慰めてあげようと思ったんじゃないかな?」
 吹雪が全く邪気のない顔で言った。
 礼を言って花を受け取ると、妻は陽だまりのように微笑んだ。正直を言ってとても驚いた。十代から花をプレゼントされる日が来るなんて、思ってもみなかった。
『花なんかつまんない。もっと格好良い話をしよう――
 それはいつかどこかで聴いた、母親に似た性格の龍亞の言葉だったように思う。懐かしい気分になったが、龍亞は生まれてすぐに双子の妹と共に両親から引き離されてしまった。花の話なんて、したこともない。
 それなら、あれは十代の言葉だったろうか?
 言いそうな台詞だと思った。
「キミはヨハンくんが好きかい?」
 吹雪が十代に尋ねた。
「うー!」
 十代が頷く。
「出会えて幸せだったのかい?」
「んー!」
 十代が、笑顔で頷く。
「ほらね。キミの罪悪感なんて、夫婦の間のほんのちょっとしたスパイスみたいなものなんだよ。あれ、泣いてるのかい? 夫が、父親が? だめだなあ、キミは」


 まだ日が昇らないうちに、山の上の孤児院を出発した。
 メタルブルーのレンタカーが、灰色の湾岸道路を孤独に走っていく。ハンドル脇のデジタル時計は、午前六時過ぎを示していた。あと十分もしないうちに港へ着くだろう。デュエル・アカデミア本島行きの朝一番の定期便に間に合いそうだ。
 後部座席で寄り掛かり合って眠っている双子に、十代が叱られた子供のような顔で、恐る恐る毛布を掛けていた。龍亞が寝言で「シンクロ召喚!」と大声を上げると、驚いて白髪を逆立てて、ヨハンが首から下げたカードに飛び込んでしまう。
 暗い紺色の海の上で、橙色の光の粒が無数にまたたき始めた。朝がやって来たのだ。気温が冷え込むにつれて、最近は日の出が随分遅くなってきた。助手席の明日香を見ると、サイドガラスに頭を預けてヨハンの胸元のカードを見詰めていた。
 目が合った。ヨハンはふと、とても気になっていたことを尋ねてみた。
「吹雪さんって、ほんとに人間なのか?」
「やっぱり。その顔、虐められたんでしょう」
「いや……どうなんだろう。少なくとも俺は、あの人こそが心の闇を食べる悪魔族だって言われた方がしっくり来る。と思う」
「ご愁傷様」
 明日香はそれ程共感しているふうもなく、肩を竦めている。
「兄さんは貴方のことが好きよ。十代のことも好きよ。貴方たちみたいな人種が大好物なの」
「そうなのかなぁ。そうなら、もうちっと優しくしてくれたっていいと思うんだけどなぁ。俺後輩なのに」
「だから。兄さんは、あることもないことも、本当もデタラメも気の利いた嘘も織り交ぜて、さももっともらしく仕立て上げて、自分が気に入っている人間に困った顔をさせるのが生き甲斐なのよ。貴方たちみたいな人種『で遊ぶの』が大好物なの」
 明日香が何でもないことのように言った。
「ヨハンかわいそう」
 ひどくどうでも良さそうな同情だった。
 厄介な兄妹だ。



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arcen>安住裕吏 10.03.25-10.03.28 −