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自前のデュエル機能付きバイクは、給料を前借りして設えたものだ。競技用だ。ボディは、気持ちの良いクリアレッドで塗装されている。縁にワインレッドのラインが引かれ、艶のあるホワイトで直線的な模様が描かれている。
先日、アカデミア時代のルームメイトの所へ押し掛けて、
「これこれ、オレこーいうのが欲しいんだけどさ!」
そう言ってスケッチブックに想像図を描いて見せたら、I2社が誇る新進気鋭のカードデザイナーは、十代の想像よりもずっと格好良く<D・ホイール>をデザインしてくれた。
身体の周りを覆う世界は、フィールド魔法<スピードワールド>に支配されている。エンジンの震えがシャフトを伝わり、心臓へ直接響くようだった。銀色の巨人が、後続のがら空きのフィールドへ飛び込んでいく。
「おおーっと! 決まったァー!」
イカ墨入りのフランスパンを思わせるリーゼントに派手なフリルシャツ、首元には赤い蝶ネクタイを締めて、青年MCの三白眼気味の眼は、駆け出しの若い熱意に輝いている。小指と薬指を立ててマイクを摘み、安っぽいピンクのスーツの袖を高く掲げた。
「超速の新感覚デュエルを制したのは、やはり圧倒的タクティクス! さすがは二〇〇九年度デュエル世界大会優勝者! 決まり手はもちろん<ラス・オブ・ネオス>! ウィナー、<二代目決闘王>遊城十代―― !!」
『おおおおおおおおおッ!』
熱い息が篭ったヘルメットを脱ぐと、歓声の洪水の中にいた。目が眩みそうなくらいに色とりどりの紙吹雪が舞っていた。青空へ放たれた風船が、高く飛び上がって、光の中へ吸い込まれて行った。
遊園地の一角にある、ゴーカート用のコースを改装して造られた、ライディング・デュエル用の特設会場だ。観客席は、見た事もない<バイクに跨って行うデュエル>を観戦する為に詰め掛けた子供達で一杯だった。人差し指と中指を揃えて突き出し、ウィンクをする。会場が煮え滾った鍋のように沸いた。
「すげぇっ、俺なら絶対バイクの運転しながらデュエルなんてできっこないよ!」
「曲芸みたいだよね! あのバイクすごい! 十代かっこいい!」
「十代サマー! 素敵ーっ!!」
「キング! キング! キング!」
「覇王! 覇王!」
「キャー! キングー! こっち向いてー!」
「だからオレはキングじゃ……おい、今覇王言ったのどいつだ」
レースクィーンに金メッキのトロフィーを渡されて、そう歳の変わらないMCにマイクを向けられる。その時に、ひとつ確認をした。
「あー、これって映像とかになって、未来に残るんだよな?」
「もちろん! 童実野商店街主催<オープン・ホイール・デュエルグランプリ>のチャンピオン遊城十代の勇姿は永久に記録され! ご町内で語り継がれていくことでしょう!」
「そりゃいいや。おーい! 見てるかぁ!?」
カメラを両腕で抱えるようにして、レンズに額を押し付けて、ワクワクしながら宣言した。これはタイムカプセルだ。
「オレ絶対、お前と楽しいライディング・デュエルをするんだからな! 未来から来た決闘王!」
* * * * *
スチールブルーの青空が頭の上に広がっている。雲が地表にまだら模様の影を描きながら、緩やかに流れていく。夜明け前に降ったにわか雨のせいで、地面はまだぬかるんでいる。舗装されていない道路が、地平線の向こうへ、揺るぎない一本の直線になって続いている。自動車が一台通れる程の幅の道の両側には、背の高いとうもろこしの畑が広がっていた。
薄い木の板を組み合わせて造った祠に、石の狐が奉られている。すぐ横に春楡の木が生えていて、縁がのこぎりのような形をした葉が風に揺らされる度に、地面に映した影がまたたいている。遊星は赤いD・ホイールを木の下に停めて、行きずりの男に水筒を差し出した。
「飲むといい」
「ありがたい。恩に着るよ」
男は礼を言って、美味そうに水を飲んだ。
元々は白かっただろうシャツは、泥で黄色くなっている。これは、少し前まで歩道の真ん中で行き倒れていたせいだろう。伸ばしっぱなしの髪を項の後ろで束ねている。黒い髪は脂を含んで、からすの翼のように光っていた。髭も随分長い間剃っていないようだ。ジーンズの裾は焦げていた。大きなリュックを背負っている。中身は分からないが、食料と水ではないようだった。
「あんた、不動遊星だ。決闘王の」
「オレを知っているのか?」
「有名人がそういうことを言うと嫌味だぜ。こんな仕事に取り掛かるようになってから、また決闘王に良く会うなぁ」
男はそう言って、どこか皮肉るように目を細めた。
「近くの街へ行く。後ろに乗っていけばいい」
「いや、あるんだ。俺の愛車が」
親指で示した方を見ると、まだ若いとうもろこしの茎に覆い隠されるようにして、転倒したスクーターがあった。レモンイエローのパッソルだ。男は硬い葉を押し退けるようにして畑に入っていき、汚れたパッソルを起こして、道路まで引き上げてきた。
「くそっ、ガス欠だ。あんたガソリンは……持ってる訳がないよな、やっぱり」
男は永久機関を搭載した<遊星号>を羨ましそうに眺めた。
パッソルのボディに付着した泥は乾いていて、手で払い除けると剥がれて落ちた。土埃を吹いて飛ばしながら、男はふと気付いたように遊星を見た。
「決闘王サマはこれから誰かと逢引きかい? まるで惚れた女でも追っ掛けてるみたいな顔だ」
「惚れた女じゃなくて、惚れた男だ」
男は変な顔になった。とうもろこし畑の上を、まるい雲が風の向くまま気の向くままに進んでいく。聞いたことのない声で鳴く鳥が、頭上を弧を描くように飛んでいった。遊星は、なんとなく居心地の悪い気持ちになった。違和感の正体に気付くと、素直にうろたえた。
「あ、いや……そういうんじゃない。惚れ込んだ男というか、心の兄貴というか……」
何と言い表しても、あの人を語るには少し違う言葉のような気がした。隣に立って視線で語り合っていた時は、お互いが全てを曝け出しあい、心が通じていたような気がしていたのに、言葉というものは無力だ。それとも、単純に遊星の口が上手く回らないせいかもしれない。だから正直に言った。
「よくわからない。ただ、すごい人だ」
男は、<遊星号>のシートの上に掛かっている荷袋を覗いて口笛を吹いた。腰に手を当てて振り向く。
「おぉ、新作だな。珍しく海馬コーポレーションから版権が降りたやつだ。<幻の決闘王>フィギュア」
祠の隣の苔が生えた岩に腰掛けて、蟻の行列を眺めながら考え事をしていた遊星は、反射的に顎を上げた。
「<幻の決闘王>―― <幻>なんて言っても、実質<二代目決闘王>なんだよな。やっこさんのために<二代目>は永久欠番なんだから。しかし、<二代目>よりも<幻>の方が格好良いとは思わないか? 俺は思うね。並の覚悟じゃ、ちょっとやそっとの青臭さじゃ、せっかく手に入れたトロフィーを突き返したりはできない」
「あんたも、知ってるのか」
「ファンだったのさ。一回りも年下の相手に何だが、大ファンだった。マニア垂涎の品なんてのも色々持ってるぜ。世界大会優勝当時に出たフィギュアとか……あの、『ガッチャ』やってるやつ」
そう言って、人差し指と中指を揃えて突き出す仕草をする。
「そ、そんなものがあったのか?」
「あんた位の歳じゃ知らないのも無理はないなぁ。ファンクラブ会報の誌上通販取り扱い品だったんだよ。他にも、そうそう、遊城十代が<幻の決闘王>になった次の年に、世界大会のMCをやってたのは知ってるか? あれもまた天職だったね。赤い服着て、心底楽しそうだった。口癖は『試合終わったら次はオレとデュエルしようぜ!』。その時に手掛けた大会公式イメージソングのCDも持ってる。<Wake Up Your Heart>。あの、悪魔の声が入ってて、逆再生すると呪いで三年以内に死ぬっていう噂が立って自主回収になったやつな」
「ファンクラブ。……会報とかは」
「全部取ってある」
尻が浮いた。男は遊星の反応を見て、嬉しそうな、誇らしそうな顔をした。少し気恥ずかしくなって目を逸らした。男の話は続く。夏空に吸い込まれていく。
「行き道にどうだい、あんたよりも年寄りの<幻の決闘王>ファンと話でもしないか。この辺は同じ景色ばかり続くし、本当に何もない上に人っ子一人通らないんだ。退屈してたんだよ」
「……よければ、ぜひ」
遊星はそう言って、両腕でD・ホイールを引いて歩き出した。
太陽は真上に昇り、気温が上がって、青臭い緑の匂いが強くなった。泥で濁った水溜まりに、灰色に変色した空が映っている。男は小柄なスクーターを引き摺りながら、なんだか楽しそうに話し始めた。
「こんな話はどうだ? D・ホイールが流通を始めて間も無かった頃の話だ。バイクに跨ってデュエルするなんざ、まだ笑い話だった頃のことだ」
男は目を閉じた。瞼の裏に過去の幻を見て、懐かしんでいるようだった。
とうもろこし畑の上を、風に舞い散る木の葉のように、白い蝶が飛んで行った。変化のない景色、地平線の果てまで続く一本道。温まった空気に混ざる水の匂い。泥と植物の匂い。穏やか過ぎて現実味がない。まるで夢の中のようだ。
「当時童実野駅の前にあった商店街が、D・ホイールの町内グランプリをやった。昔から新しもの好きな連中が多い街だったからな、あそこは。だが商店街の復興企画で、小さなもんだよ。予算もない。とてもじゃないがプロの決闘者なんか呼べない。なんとか協賛を取り付けた海馬コーポレーションも、社長さんが観光客寄せのパフォーマンスにやるのは新入社員ひとりで充分だって言い出した」
男は大げさに肩を落として見せた。
「皆がっかりしてた。そこへ当日KC社が寄越したのが……確かに、入社したてで右も左も分からないひよっこ社員が、赤いD・ホイールと一緒にふらっと現れた。新入社員の遊城十代だ。<二代目決闘王>だよ。見に来てた奴らの喜びようったらなかったね。海馬社長はやることが一々格好良いんだ」
遊星は驚いて、男に訊き返した。
「十代さんが、オレの両親と同じ海馬コーポレーションの社員に?」
背広を着て会社勤めをしている遊城十代を想像してみようとしたが、どうしてもその姿が浮かんでこない。
「意外だろう。世界大会で決闘王の称号を突っ返した時に、海馬社長を激怒させて―― ありていに言えば気に入られたんだな。世の中を舐めきった根性を叩き直してやるってんで、あいつ、喜んで入社したそうだ。海馬コーポレーションを海馬社長のファンクラブだと勘違いしてたんじゃないか」
「あ、それはありそうだ……」
少し納得がいった。
むくどりの群れが道路の脇で餌になる虫を探して地面を突付いている。とうもろこし畑から飛び出してきたイタチが、こちらと目が合うと驚いて、素早く畑の中へ戻って行った。
「アマチュアの集まりだ。まあ当然だが、我らが遊城十代の一人勝ちだった。あれは良い宣伝になったろうよ。なにせ本物の決闘王サマ直々にD・ホイールの可能性を見せ付けてくれたんだ。遊城十代は、そこで奇妙な言葉を残してた」
男は意味深に言葉を切ると、頭の上に輝いている太陽を眩しそうに見上げた。まるで強い輝きの中に誰かの面影を見ているようだった。
「この次世代デュエル・ディスクを皆が当たり前みたいに楽しむようになった頃に現れるひとりの決闘王を待ってる。口数は少ないが熱い心を持っていて、何より仲間を愛して愛されている。そいつとやる為にD・ホイールを造った、びっくりさせてやるためにシンクロも覚えた、きっと楽しいデュエルができる――」
いつの間にか、乾いた泥が付着したブーツは歩みを止めていた。<遊星号>を引く腕は強張っていた。遊星は下を向いて、
「……でも、もういない!」
鋭く、かすれた声で囁いた。
「十代さんはもういない。あの日、遊城十代は<ゼロ・リバース>の爆心地にいた。親父の研究があの人の未来を奪った。俺の親父があの人を殺した!」
遊星が知る限り、<幻の決闘王>、<遊戯を継ぐ者>、<精霊と人間の架け橋>と呼ばれた遊城十代の軌跡は、歴史のある一点で止まっていた。二十二年前に起こった旧モーメントの臨界事故を境目として、十代の姿はこの世界から泡のように消え去ってしまう。最後にその名を見付けたのは、<ゼロ・リバース>後に作られた行方不明者リストの中だった。
ある者は暴走したモーメントの光によって蒸発し、ある者は地殻変動の亀裂に飲み込まれ、<ゼロ・リバース>の犠牲者達は、死亡を確認する為の遺体も残らなかった。街は滅び、人が生活していた痕跡すら跡形もなく消失してしまった。そのまま時が過ぎて、かつて栄えた都市は忘れられていく。
「あんなにデュエルを愛していたのに。どんな時でも楽しんでいたのに。あの人のD・ホイールもシンクロ召喚も、見てみたかった。きっとオレを驚かせて、楽しませて、お互いワクワクできるようにあの人はデッキを組んでいたんだ。でももうデュエルはできない」
死んでしまった人間は何もできない。罪の償いもできないまま光の向こうで永遠の眠りについた両親のように。
十代が誇らしげに袖を通していた赤い服。良く動くしなやかな手足。ひとときも同じ表情を見せない明るい顔。大人びた眼差しに子供のような歓声。強い引力のような存在感。出会って一目で憧れたあの人はもうどこにもいない。
「未来を知っていたら、過去のあの人はオレと一緒に戦ってはくれなかった。笑い掛けてはくれなかった。励ましてもくれなかった。また今度会った時にはデュエルをしてくれるなんて約束はなかった。オレは、十代さんを殺した、虐殺者の――」
舌が乾いて上手く動かない。息苦しさに喘ぐように、言葉を吐き出した。
「悪魔の、息子だ」
とうもろこしの茎が風に無造作に撫で付けられて、纏まって傾いていた。まるで大きな手で弄ばれているようだった。雲が太陽を覆い隠して、また空の向こうへ悠々と過ぎ去って行った。
「オレが口を出すことじゃないが……。あいつなら、多分こう言ったろうよ」
男はくたびれたシャツの袖で汗を拭って、頭を掻きながら言った。
「あんたが悪いことをしたわけじゃないだろってな」
「やっこさん、既婚者だってのは知ってるか?」
しばらく黙って歩いた後で、男は急にそんなことを言い出した。
「え?」
「遊城十代だよ。夫と子供がいたんだ」
遊星は少し考え込んで、やはり、からかわれているんだろうと思った。
「いや、あの人は男だ。アニ……いや、男の中の男だった」
「半陰陽だったんだよ。半身が男で、半身が女だった。子供は双子で、男と女がくっついたシャム双生児だった」
「…………」
「なんだい、ショックか」
「いや……ただ……驚いて」
遊星は緩慢に顔を男に向けた。
「あんたの親父さんは<MIDS>の最高責任者だったろう」
男はぬかるみに嵌ったパッソルを持ち上げてから、得意そうでいて自嘲するような、何とも言えない顔になった。
「俺はこれでもジャーナリストの端くれでね。正義を追求して、大企業の闇を何度も暴いてきた。だが、あそこだけは手に負えなかったよ」
そう言って、自分の顔を撫でた。左頬の頬骨の上にマーカーが刻まれている。
「<モーメント>って永久のからくりを造ったあんたの親父さんと、対になる一人の科学者がいた。<NEX>って部門の最高責任者だ。永遠の生命のからくりを解き明かしたっていうそいつは、不動博士と二人で海馬コーポレーションの双璧とまで呼ばれてた」
男はひしゃげたタイヤを気にして覗き込んだ。その拍子に首から下げているカード型のロケットが、グリップにぶつかって乾いた音を立てた。遠くの方から風に乗ってサイレンの音がかすかに聞こえてきた。
「一説には、そいつ<ゼロ・リバース>の爆心地にいたそうだ」
「じゃあ、その科学者も――」
「いや。倒れた建物の下敷きになろうが、地割れに挟まれようが、無傷でぴんぴんしていたそうだ」
「…………」
「そんな妖怪みたいな天才さんは、だけど、死の光を見て狂っちまった。頭がおかしくなった。その日から光に取り憑かれたように、何でもかんでも大きな火に投げ込んでしまえばいいと思うようになった」
歯切れが悪くなる。自分でも自信の無いことを話すような口調だ。
「色々悪いことをやってたんだよ。何の罪もない子供を人体実験に使った。世界の王様気取りで、自分に逆らうものは容赦なく収容所へ送るか、人知れず闇の中へ突き落とすか、見せしめに異常な殺し方をした。十七年前のアークティック校連続猟奇殺人は聞いたことがあるか? KCビル炎上は、庁舎の大火事は? 今でも時々ワイドショーなんかでやってるだろう。奴の仕業だそうだ」
「…………」
「でもいつしか罰が当たって、自分が造った麻薬に漬けられて廃人になった。もう言葉も喋れない。ものも考えられなかったろうな。人に利用されるだけの家畜に成り下がっちまった。でも、幸せそうだったなぁ」
男は、気が抜けた様子で大きく息を吐いた。何となく、以前B級映画のろくでもない結末を見て、おんぼろソファの背もたれに頭を預けて放心していた幼馴染の顔を思い出した。
「もう誰も傷付けないで済むんだ。だからあんなにほっとした顔をしてたのかもな」
「なんでそんな話をオレに聞かせる?」
「さぁ。なんでだろうな」
男は口の端を上げて、眠気を含んだ目を瞬いた。気だるそうに続ける。
「あんたは親父さんを悪魔だっていう。そいつも、<赤い悪魔>って呼ばれてたらしいぜ」
ふと、記憶の片隅で心に柔らかく触れるものがある。
『オレは悪魔なんだよ』
―― 赤い悪魔。
『だから、辛いのは嬉しいんだ』
夏の夜。ボール紙で出来た手作りのお面。赤い服の道化師。手品。マントのように羽織った白衣。金色の社章。
『ラッキーカードだ』
<スターダスト・ドラゴン>。
『こいつが君の所へ行きたがっている』
父親のように抱き締めてくれた腕。母親のように頭を撫でてくれた手のひら。雌雄同体の―― 。
「……その人は、ヒーローを使ったんだろうか」
遊星は記憶に問い掛けるように、そう呟いた。男は少し宙を見つめて、
「いや。子供じゃあるまいし、そんなものは信じていなかったさ」
そう言った。
どこまでも続くようだったとうもろこし畑が、ようやく終わりを迎えた。一本道はぶなの森の中へ向かっている。男は森の入口にスクーターを置いて、ナイロン製の大きなリュックを背負い直すと、畑の脇のイヌガラシが群生する小道を歩き出した。
「おぉ、この先だ。眺めの良い場所があるんだ」
そう言って、道の先を指で差した。
小道を進むと低木の茂みがあり、掻き分けていくと程なく崖に出た。真下に落ち込んでいる岩肌には、足を掛けられそうな窪みは見当たらず、柵も取り付けられていない。眼下には人の手が入っていない森と、その間を縫うように緩やかに流れていく川が見えた。男はリュックを地面に置くと、ジッパーを開けて、足元の森へ向かって逆さまに振った。無造作に詰め込まれていた紙の束が、形を崩しながら舞い上がり、降り注ぐ太陽の光を受けて雪のように白く輝いた。本物の札束だ。何の意味もなく、誰の欲望を掻き立てることもないまま、ただの薄っぺらな紙吹雪は青い空の下をどこまでも落ちていった。
男は崖から札束をばらまき終えると、袖で顎を拭って、
「あーあ、やっちまったなぁ……」
魂が抜けたような顔で呟いた。
「あれだけ捨てようと思ってたもんは、何一つ捨てられなかったのになぁ」
未練がましそうだったが、どこか清々しいふうにも見えた。空になったリュックの口を閉めて肩に掛け、照れ臭そうに指で鼻の頭を擦りながら、遊星と目が合うと満足そうに少し笑った。
森の入口へ戻ったところで、ぶなの幹に立て掛けていたパッソルを起こしながら、男が言った。
「俺はこれでも、ガキの頃は正義のヒーローになりたかったんだ」
親指で頬のマーカーを示して、皮肉っぽく頭を揺らす。
「だが見ての通りだ。今じゃ落ちぶれて見る影もない。ガキの頃の俺が見たら何て言うだろうな。でも、俺は俺でこれで良かった。なかなかすごい大仕事をしたんだ。ヒーローのなりそこない達が血を流して土を掻き集めて造った道を、本物の足元までようやく繋いだんだ。大絶賛ものだ。奴らと酒でもやりてえもんだなぁ」
肩の重荷が消えたというふうに、両腕を高く上げてひょろ長の背を伸ばした。あくびをする。何だか初めて会った時よりも、随分歳を取って見えた。
男は首から下げた皮紐を解いて、遊星にカード型のロケットを握らせた。肩を叩いて、役立たずのパッソルを引き摺って歩いていく。
「ネオ童実野シティに龍亞と龍可って双子が住んでる。俺は元気でやってるって伝えてくれ」
背後で、気が晴れたような声がした。
「遊城十代は生きてるぜ」
驚いて預かったロケットへ目を落とすと、血がべったりと付着している。すぐに振り向き、男へ声を掛けた。
「おい、どこか怪我をしてるんじゃないのか――」
遊星が振り向いた先には、とうもろこし畑に挟まれた一本道がどこまでも続いていた。緑の茎が擦れ合って水が流れるような音を立てている。温まった空気には濃い夏の匂いが混じり込んでいる。むくどりの群れが青空を横切っていき、どこかで犬の鳴き声がした。
行き倒れの男も、泥が付いたレモンイエローのパッソルも、跡形もなく消えていた。
街の入口で検問に遭った。何かあったのかと尋ねると、若い警察官は遊星の顔を見て、随分畏まった様子で答えてくれた。
「昨晩近所の薬品工場に火をつけた奴がいるそうなんですよ。何の薬を造ってる工場だったのかは知りませんけど、所有者が……この辺りを取り仕切ってる方なんですが、中々立ち入らせてくれなくてどんどん延焼しちゃって。幸い怪我をした人もいなかったんですが、朝にはもう建物の骨組み位しか残ってなかったです」
ふと、先程まで一緒にいた男のジーンズの裾が焦げていたことを思い出した。警官は耳にボールペンを挟んで、抱えたボードを指で突付いた。
「犯人、崖から落ちたんじゃないかって話なんですが、まあ一応、上から言われてこんなことをしてるわけです。ご協力ありがとうございます。では、お気を付けて」
遊星は軽く腕を上げて、D・ホイールを発進させた。すべらかに舗装道路を走り出しながら、預かったロケットを片手で開けてみると、中にはカードキーと古ぼけた写真が一枚入っていた。
写真の中から正装した双子が、揃いの笑顔でこちらを覗き込んできていた。龍亞と龍可に間違いはない。良く見知っている相手のはずが、どこか違和感を覚える写真だった。
会った事はないが、一緒に写っている、子供達と揃いの髪色をした男は父親だろう。その隣に立っているのは、おそらく双子の母親なのだろうと思えたが、何故か黒いマジックで念入りに顔を塗り潰されていた。
『遊城十代は生きている』。
頭の奥の方で、あの男の言葉が、鳴り止まない耳鳴りに重なって何度も繰り返している。
放火犯。焼けた工場。焦げたジーンズ。崖から落ちた男の噂―― 。
遊星は頭を振った。きっと人違いだ。空のリュックを背負って、役立たずのパッソルに見切りを付けて、来た道を引き返して飄々と歩いていく後姿が瞼に浮かんだ。
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