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 炎を見ていると、救われたような気持ちになる。燃え移り、大きくなって、人を魔物を、家を街を城を、森を国を焼き尽くす。灰も残さずに、塵も赦さずに、世界から追い払ってしまう。赤、黄、白、紫、青、美しい宝玉のように、きらめく虹のように、刹那も形を留めはしないが、どれだけ姿を変えたとしてもその美しさは不滅だ。そこには救いがある。優しくて柔らかい繭に守られているような気持ちになる。
 「ヨハンという少年は死んだよ」「死んだ」「死んだ――
 嘘を言う口を、炎は全て壊してくれる。そんなでたらめを吐く者は初めから無かったことにしてくれる。
 十代はデュエル・ブレードを逆手に掴んで、青白い肌を持った、人ではない戦士の胸に突き立てた。有機物めいたフォルムの鉄塊が黒い甲冑を造作もなく破壊し、醜悪な魂を貫いた。汚れた体液が飛び散っていく。フェイバリットが、血を浴びてどす黒く変色し、肉片がこびりついた片翼を広げて、右腕の竜で<フレイム・シュート>を放った。
 それで最後だ。戦場に立っている者は十代ひとりになった。
 <フレイム・ウィングマン>は、堕ちて穢れて壊れてしまった主人にいまだに忠誠を誓ってくれる。どこまで尽くしてくれるのだろう。どこまでついてきてくれるのだろう。十代の命が果てる時まで傍に寄り添って敵を屠るのだろうか。共に鬼に悪魔に成り下がってくれるというのか。
 永遠のフェイバリットの深いグリーンの体皮を突き破り、鳥に似た異形の女の頭が生えていた。誇り高きヒーロー達は、禍々しい闇を纏い、地獄を食い散らかす悪鬼へと変貌していた。強きを殲滅し、弱きを虐殺する下僕たち。その姿は、すでに<エレメンタル・ヒーロー>では無かった。
「あ、ありがとうございます……あの……」
 背後から声が聞こえた。人間だ。かすかな希望が胸に灯る。
「ヨハン……!?」
 振り向くと、ぼろ布を纏った弱々しい羊の群れが脅えと不信の目で十代を見ていた。金の眼で、一人ずつ顔を確めていく。望んでいる人の姿はどこにもない。皆一様に薄汚れていて、媚びるような笑顔を顔面に貼り付けていた。希望の火は消え、十代は落胆に肩を落とした。
「違うのか? ヨハンじゃないのか。なら裏切るんだろう? オレを棄てるんだろう。いらない。仲間なんかもういらない。みんな消えてしまえ」
 この殻では駄目だ。まだ脆い。完全ではない。
―― 違う。棄てられたんじゃない。オレが消したんだ。オレがもっと強ければ良かった。みんなのせいじゃない。だから傷付けられてない。痛くない」
 理由が無ければ立てない。踏み締める地面が無ければ、踏み越えていく屍が無ければ歩き出せない。死人に口はない。
 炎を見ていると救われる気がする。もう誰も十代を責めない。もう誰も失望しない。十代は足を踏み出した。潰れた肉の嫌な感触が靴の底に触った。全部を大きな火の中に投げ入れたら、この世界が焼け落ちて綺麗な灰に変わったら、もう少しましな気分になるのかもしれない。
「ひ……! こ、来ないでくれ! 覇王!」
 十代に恐れをなして逃げ出した人間の背中が、かつての仲間と重なって見えた。絆で結ばれていたはずの仲間達は狂王に生贄にされ、十代の弱さを恨みながら消滅した。あの時思い知った。どんなに大切にされていても、見捨てられるのは一瞬だ。十代は躊躇うことなく、ブレードの先端を去り行く者達の背中に向けた。
「脅えて、媚びて。諂って。みじめだ。無様だ。無力だ。無力は罪。無力は悪。悪は裁かれなければならない。もう正しい者を傷付けることがないように。正しさをはかない幻に変えてしまう前に、弱者は滅びてしまうべきだ」
 下僕の行動は迅速だった。惨めな弱者は抵抗のひとつもせずに、火の粉に変わり、消えていった。まるで十代の昔の仲間達のように。
 <フレイム・ウィングマン>を食い荒らす半身が―― 血の色のドレスを纏った黒翼の女が、鍵爪が生えた醜い腕で、幼い子供を慰める母親のように十代を抱いてくれた。
 命に代えても十代を守ってみせるとヨハンは言ってくれた。
 いつ会えるのかも分からないヨハンを想う時、もう理由も知れない衝動が十代の身体の内側を駆け巡る。昔はそれを絶望と呼んでいた気がする。おかしな話だ。望みはとっくに絶たれていた。それでも生きている。絶望がどれ程のものか?
 そしてまた折り重なった弱者の山にうずくまり、まだ生きている肉を漁り、焼けたところから口に入れた。この世界で完全な死を迎えた者は、塵も残さずに消滅してしまう。生かさず殺さず、柔らかい腹を裂いて臓物を食い千切る。頭蓋を割って脳味噌を啜る。人間の肉か、精霊の肉か。わからない。どちらでもいい。それは、生きる為に必要な行為だ。当然だ。正義だ。何も間違っていない。
 最初は生き物の肉を飲み込んだ時に、どうしても受け付けられずに吐いてしまった。喰ったら、もう戻れないような気がしていた。何故そんな風に考えたのか、その時は分かっていたような気がする。踏み越えてしまった今は、あの時躊躇っていた理由がもう分からない。
 目から熱い滴がとめどなく零れる。熱に眼球を焼かれたせいだろうか。無感動にそう考える。
 腹を満たすとまた立ち上がり、足を引きずりながら孤独に歩き出す。
 自分は今何の為にここにいるのだったろう。記憶は消えてくれないのに、思い出は薄くなっていく。人を精霊を殺す度に、肉を食らう度に、感情が凍り付いて感度が鈍っていく。怪物へ変わっていく。殺す理由が分からなくなっていく。
 青白い彗星が落ちてくる。永劫の夜空を見上げて、十代は親友の名前を叫んだ。
「どこにいるんだよォ! 助けてくれよ! 全部悪い夢だって、もう目を覚ましていいんだって言ってくれよ! オレのこと守ってくれよッ!!」
 返事はない。姿も見えない。誰も守ってはくれない。背中はがら空きで、凍て付いた風に皮膚が切り裂かれる。純粋な孤独が、そこにあった。悪夢は覚めない。
「ヨハアアアアアン!!!」
 本当はもうどこにもいないと知っている。

 * * * * *

 細い首に名札が付いた赤いエナメルの首輪が嵌められている。留め金に絡み付いて、どこまでも透明な宝玉のチャームが鎖骨の上で揺れていた。同級生達の誰よりも一足先に真っ白になってしまった頭と、いつまでも歳を取れない容姿がとても不釣合いだ。その人は成績によって寮の色分けを行う制度が廃止された後に定められたデュエル・アカデミア本校の男子制服を着ていて、背広姿のヨハンと並ぶと会社員の兄と高校生の弟のように見える。
「久し振りだな。少し喋れるようになったんだぜ、こいつ。ほら挨拶」
 ヨハンに背中を叩かれて、十代が笑顔で口を開いた。
「わんっ!」
 明日香は硬直した。
「わんわんっ! わん!」
 青白い顔色で震えている同級生の胸の内を、相変わらずその人は何も知らずに、無邪気に吼えさかっている。『動物の言葉を』少し喋れるようになったことが、どこか得意げですらある。
 耐えられなかった。明日香は握り拳を作り、その場でヨハンを殴り倒した。青い頭がデュエル・アカデミア本校校舎内にある応接室の絨毯の上に叩き付けられた。
「相変わらず乱暴だな〜。鼻が折れたらどうすんだよぉ」
「くぅん……きゅーん……」
 十代は、床の上に尻をついて明日香を見上げているヨハンに寄り添うと、鼻に掛かった哀れっぽい鳴き声を出した。両頬を覆う長い髪が肌にぺったりとくっついて、耳を伏せた犬のようだ。赤くなったヨハンの鼻の頭を心配そうに舐めている。
 その変わり果てた姿を前にして、明日香はもう一度振り上げ掛けた拳を下ろし、崩れるようにしてソファに身体を預けた。膝を抱えて顔を埋めた。肩が震える。
「貴方はっ……私の青春をどこまで壊してしまえば気が済むのよっ……!」
 本気で泣けた。
 昼食の誘いにやって来た翔と万丈目もこの場に居合せている。頻繁に島を訪れる二人は、アカデミア時代を共に過ごした遊城十代を忘れ去ってしまっていた。薄情にも程がある。ヨハンと、かつての兄貴分でありライバルでもあった十代と、明日香へ三角形の形に視線を巡らせて、応接室の入口に立ったまま全身を小刻みに震わせている。
「なぜか無性に拳が震える。訳がわからんが、何かを、思いきり殴らなければいけないような気がする」
「ボクもだよ。奇遇だね、万丈目くん。不思議だけど、この血を求めている拳をどうしてもヨハンに向けなきゃいけない気がするんだ。なんでかな」
「僕もだ」
 翔と万丈目の後ろから、つまらなさそうにエドも口を出した。翔が意外そうに首を巡らせる。
「なんでエドがここにいるっスか。明日香さんにちょっかいを掛けにきたのなら今すぐ帰れ年下。忙しいんでしょ」
「今期のデュエル哲学講座の講師を引き受けてね。週に一度この島に来ることになった。よろしくお願いします、天上院先輩」
 エドが人好きのする笑顔で、頭を下げた。
「それに……」
 青い眼を眇め、痛ましいものを見るように十代を眺めている。
「気になるんだ。一目見た時から、あの人に何かしてやりたい。そう思うんだ。どうしてなのかは分からない」
「お前は昔から薄幸そうな年上の人妻に弱い」
 エドと並んでやって来た亮がぽつりと零した。また余計なことを言って、エドに睨まれている。
「誤解を招く言い方は止せ亮。僕は真剣なんだ」
 万丈目と翔が、グロテスクな蛇の標本でも見せ付けられたような顔で、ひそひそ話をしている。
「なんかエドらしくないよね」
「夫も子供もある女性に真剣にどうだというのだ。余計に性質が悪いぞ」
 エドは珍しく熱っぽい眼差しで、二人に何を言われても構いもしない。
「誰かを前にしてこんなにも心を乱されるなんて信じられない。胸の奥から湧き上がるこのやり場のない激しい怒り、失望、優越感、煽られる嗜虐心……無性に何かして虐めてやりたい」
「良かった、いつものエドだ」
「恋かもしれない」
「何故そうなる」
 十代はヨハンに髪を掻き回すようにして撫でられて上機嫌だ。尻尾があればおおいに振り回していただろう。破天荒で人間の常識が通用しないこの人のことだから、次に顔を合わせた時には本当に尻尾が生えているのかもしれない。明日香は心の中で静かに覚悟を決めた。
「そう怒るなよ明日香。これはこれでいいのさ。だってこんなわんわん言ってる犬っぽい何かがあの遊城十代だなんて誰も思わないし、結構可愛いし」
「わんっ! わんう!」
「おーよしよし。俺、子供の頃から大きい犬飼うのが夢だったんだよなぁ〜。俺の奥さんはいつも俺の夢を叶えてくれる」
「貴方ねぇ!」
「仕込んだのは吹雪さんだぜ」
「今ほど天上院家の血筋に生まれたことを後悔した瞬間はないわ」
 遊城龍亞の失踪事件から、すでに一週間が経っていた。連絡を受けてすぐに本校へやってきた父親のヨハンは、本心は知れないものの、何でもない様子で肩を竦めて言った。
「心配ないぜ」
 心配していなければ、この島へはやって来なかっただろう。
「きっと昔の俺や十代みたいに森の中で迷子になってるだけさ。そのうち自力で戻ってくる」
「心配なのは龍可ちゃんの方もそうなの。二人一緒じゃないと駄目みたい」
 明日香は溜息を吐いて、龍亞の双子の妹を思い浮かべた。
 龍可は女子寮の自室に閉じ篭ったまま、授業に出て来なくなった。彼女の心は薄いガラス細工のように、とても繊細で傷付きやすい。いつでも傍で守ってくれる兄が、龍可を支える揺るぎない芯だ。魂の半分だ。片割れが欠けると脆く崩れ落ちてしまう。とても硬くて、誰にも砕けない殻に閉じ篭ってしまう。
 そんな龍可の姿を見ていると、遊城十代の遺伝子は確実に受け継がれているのだと実感させられる。
 龍亞は新聞部の手伝いでアカデミア本島を回っていた最中に失踪してしまった。学園内では、龍亞が島に伝わる七不思議を全て知ってしまったせいで神隠しに遭ったのだと噂になっている。
 この島では昔から生徒や教員が怪奇現象に見舞われることが珍しくない。不思議は確実に七つでは済まない。兄の吹雪のように、突然行方不明になる生徒も少なくない。教師としては非常に頭の痛い問題だ。
「なんだか最近良くこのメンバーが揃うね」
 翔が集まった顔ぶれを見渡して、不思議そうに言った。
「まるで磁石に引き寄せられてるみたい」
「そうとも! 僕と天上院くんの愛の磁力に違いない!」
「ああそれ今ボクが格好良く決めようと思ってた台詞! 返せ泥棒!」
 翔と万丈目がじゃれているのはいつものことだが、亮までリーグを空けて来るのは珍しい。見上げると、こちらの考えを読んだかのように、落ち付いた色の眼を伏せた。
「鮫島師範に頼まれ事がある」
 亮は、ヨハンの傍に従順な飼い犬を気取って座り込み、赤い首輪を誇るように顎を逸らしている十代を、物言いたげに見ている。
「……あれを気にしていた」
「鮫島理事長も遊城十代を覚えているのね」
「忘れられはしない。あの人も同じだ。罪の痛みを癒されはしない」
 良く分からないことを言う。首を傾げていると、廊下を踏み鳴らす傲慢な靴音が響いてきた。応接間に並べられているトロフィーを珍しそうに見て回っていた十代を跳ね飛ばすようにして、巨躯が現れる。
 長い黒髪を方々に伸ばし、研ぎ澄まされた刃物のような冷たい眼をした男だ。アカデミア本校を取り仕切る影丸校長だ。校長を名乗るにしては随分若く見える男だ。艶光りする筋肉を覆うスーツは、はちきれそうに膨らんでいる。常に悪意と敵意を映している眼で亮を睨んで、不遜に鷲鼻を鳴らした。
「鮫島の犬が。でしゃばるな。あの蛸頭にそう伝えろ」
 デュエル・アカデミアに突然現れた影丸は、鮫島を継いで校長をやっていたクロノスを押し退けて本校校長の地位に居座った。格下げをされたクロノスは影丸校長の独裁者然とした雰囲気に呑まれて、お茶汲みの地位に喜んで甘んじている。クロノスは生徒想いの立派な教師であり、恩師でもあるのだが、相変わらず地位と名誉と腕力を持った者には滅法弱い。逆境にも弱い。どうしようもない。
 影丸とぶつかった拍子に転がって行った十代は、何事も無かったかのように上半身を起こして、絨毯の上で頭を振っている。影丸は十代の白髪頭を視界に入れた途端に、鋭い鷲鼻をしかめ、狒々が威嚇をするように歯を剥き出しにした。
 十代に手を貸してやろうとしていたヨハンの瞼が半分閉じられた。影丸を前にして、十代に危害が及ぶと直感したのだろう。おとぎの国の王子様を彷彿とさせる優雅な物腰が一瞬でなりを潜めて、夜の森の奥に潜む飢えた肉食獣のような印象に変わる。まるで機械のような、銀を孕んだ冷たい眼だ。
 野生動物の縄張り争いを傍観しているような気分になった。乱暴者の大猿と仲睦まじい狼の夫婦が貴重な水場の所有権を奪い合っているのだ。
 しかし影丸は、芋虫のように太い指で十代の華奢な顎を跳ね上げると、
「美しい……」
 虹彩異色症の瞳を覗き込んで、崇高な美術品を鑑賞するかのように溜息を吐いている。半分男性の美女に見惚れる筋肉質の野獣。この図は、誰も予想をしていなかった。四十代の半ばだろう影丸と、アカデミアの卒業式からひとつも歳を取っていない十代が並んでいると、親子程も歳が離れているように見えた。
「影丸校長ってロリコンだったんッスか?」
「エドの乱心ぶりといい、お前の嫁さんは男心を惑わすファム・ファタールか」
 さすがに呆けているヨハンを横目で見て、万丈目が感心したような呆れたようなことを言っている。
「貴様らは邪魔だ」
 影丸は、ヨハンと十代を除いて応接室に集まった顔を眺め回して言い放った。
「我が校の生徒の保護者との個人的な面談だ。部外者は出ていけ」
「校長。龍亞くんも龍可ちゃんも私の生徒です。それに二人の両親は私の友人です。部外者扱いは納得できません」
 影丸は口出しをするなと言わんばかりの目で明日香を睨んだ。一瞬怯んだが、明日香は唇を引き締めて影丸を睨み返した。この男は、まるきり野の獣のようだ。遠い外国の荒れ野に、もしくは動物園の檻の中にいるべきなのだ。少なくとも教育者には向いていない。
「ああ、そうだな」
 意外にもヨハンが、影丸に同調する意思を見せた。
「そうしてくれると話がややこしくならなくて助かる」
「……ヨハン。後で覚えてなさい」
 無性に悔しいような気持ちになって睨むと、苦笑いをされた。ヒールの踵で強く床を打ちながら退室する。納得できるはずがない。無情に閉じた扉を振り返って耳を付けていると、面談を盗み聞きしている教師やプロ・デュエリストの姿が余程奇妙に映ったのだろう、通り掛かった生徒が口を開けて遠巻きに見ていた。あまりにも異様な光景に、近寄ってくる者はいない。
「なんだあいつ偉そうに。あいつの爺さんは三幻魔を操って世界を滅ぼそうとした悪人だぞ。オレが爺さんを倒さなければ世界は滅びていたのだからな」
 万丈目も、邪魔者扱いを受けて追い払われたことが腹に据え兼ねるという顔で文句を言っている。三幻魔復活の引鉄になった男が何を言うのか。睨んでやると、照れたように緩い笑顔になった。この男は駄目だ。
「何言ってんの。三幻魔は大徳寺先生から託されたカードに助けられてボクが倒したんだ。アカデミア在学時代の三年半、ボクは何度世界を救ったことか」
 翔の記憶にも妙な補正が掛かっているらしい。何度も噛み合わない会話を繰り返すうちに、そろそろからくりが読めてきた気がする。
「……きっと十代が、悪戯をしたまま元に戻すのを忘れているんだわ」
「あながち間違ってはいない」
 エドの隣で、腕を組んで廊下の壁にもたれている亮が、表情も変えずに言った。
「何だか腑に落ちないことばかり。影丸会長のお孫さん。……そうなのかしら? 本人じゃ、ないのかしら?」
 かつて三幻魔復活の現場に居合せた明日香は、七精門の鍵を守る仲間達と共に、皺くちゃの老人が精霊の生命力を吸い上げて若々しい肉体を取り戻す光景を間近に見たことがある。その老人―― 影丸は、永遠の若さを手に入れるという野望を遊城十代によって挫かれた。十代と繰り広げた熱いデュエルによって自らの過ちを認め、以降は好々爺然として、犯した罪を償う為に奔走していた。老人の目からは悪意と敵意が零れ落ち、ぎらつく光は消え、穏やかなものへ変化した。
 今しがた明日香が睨み合った大男は、あの老人から失われた光を目に宿していた。やはり影丸本人ではないのだろうか。孫が祖父と同じ見果てない夢を見ている者の眼をしているのだろうか。判断はつかない。
「あんたが影丸会長か」
 応接室から、澄んだ声が聞えてきた。

 * * * * *

「十代から話を聞いたか。それとも大徳寺か。いかにも、俺だ」
 影丸がもったいぶって頷く。ヨハンは背凭れに背中を預けて、膝の上に頭を乗せた妻の白髪を梳いてやった。十代は不思議な色の瞳を糸のように細めて、満足そうにしている。
「すごい爺さんだって聞いたけど、貴方も歳を取れない人なのか。お互い苦労するよなぁ」
「醜く老いる必要があるか?」
「まあいいや。俺の息子はどこだ。貴方が一枚噛んでるんだろ」
 物怖じしない言い方に、影丸が力強い眉を跳ね上げる。
「不躾な子供だ。何故そう思う」
「俺の勘は当たるのさ。―― なんちって。嘘だよ。貴方はアカデミア創立時にも同じ事件を起こしてる。龍亞は本物の不老不死の息子だ、貴方のお眼鏡に適うだろう。そして貴方は自分の庭で勝手な事件が起こるのを好まない。こんなの、最初に犯人が出てくる推理小説みたいじゃないか?」
 膨れ上がった筋肉の上に埋れるように乗っている頭が揺れ、鷲鼻が引き攣るようにしかめられた。まるで向かい合っているヨハンを威嚇しているようだが、これで笑っているらしい。
「残念だったな。俺ではない。こいつを見るがいい、愚か者」
 バゲットのような指がリモコンを窮屈そうに操作すると、壁に取り付けられたモニターの電源が入った。目まぐるしく映像が移り変わり、ある一点で動きを止めた。夜の森だ。島の各所に設置されている監視カメラから転送されてきた記録映像だと気付いた。
 青い木々の間に頼りのない獣道が通っている。エメラルド色の頭が現れる。龍亞だ。少し遅れて、綺麗に色分けされたチョコレート色の頭が映り込む。
 十代だった。カメラが切り替わる度に、不快そうに眉間に皺を寄せてこちらを睨んでくる。お前がそこで見ているのは分かっているんだというふうに。
「十代……」
 艶のあるチョコレートブラウンの髪、木の実のような色味の落ち付いた瞳。傷付きやすくて繊細な心を守る為に斜に構えているところ。皮肉に吊り上がる格好良い唇。ヨハンは知らず、ソファから立ち上がっていた。
 そこにあるのは過去の遊城十代の姿だ。意地の悪いことも言うし、喧嘩だってできる。拗ねて口をきかなくなる時もある。人を騙したり怒らせることが得意な性悪だが、それでも構わず抱き締めると、戸惑って、どうすれば良いのか分からない顔をして俯く。ヨハンの胸に頭を押し付けて、じっとして動かなくなる。深い知恵と洞察力と覚悟を持った、愛しい妻だった。目頭が熱くなった。
 影丸が嘲るように片目を眇め、顎で白髪の十代を示した。
「そこにいるぞ。十代だ。なんだその目は? まるで死に別れたものを見るようだな」
 今そこに存在する十代は、空っぽの瞳を大きく開いて、白痴の笑顔を湛えてヨハンを見上げてきている。
「貴様はこれっぽっちも現実を見ていない。貴様の興味はあの頃の幻ばかりに向いている。その虚ろな怪物が貴様の愛した者ではないというのなら、今すぐ切り捨ててしまえ」
 影丸は気だるそうにソファの背凭れに肘をつき、太い指を白髪頭に向けた。
「貴様次第では、貴様らを俺の庭で飼ってやっても構わん。我が箱庭、アカデミア本島は外界から隔絶されている。ネオ童実野シティ、あの醜い巨大墓地の住人どもの手も届かない。隣の無様な怪物に、こんなものはいらんと言ってしまえ。それで済む」
 ヨハンは、影丸の提案が全く理解出来なかった。何を言っているのか、それすらも分からなかった。そんな『もしも』を空想する力すら、ヨハンには存在しなかった。
「わけの分かんないことを言わないでくれ。切り捨てる? いらない? こいつは俺の妻だ。たとえどうなっても、十代はここにいる。俺の隣にいる」
「まだその怪物を人間だと言い張るつもりか。人間は自分に都合の良いようにしか物事を受け止められないものだ」
 ヨハンと影丸に注目されて、十代は少し気分が良さそうに顎を逸らした。指で白い喉を撫でてやると、昔よりも素直に、安心したふうにヨハンの胸に頭を擦り付けてくる。
「俺と十代は二人で一人なんだ。魂の半分と半分だ。人は半身だけでは生きられない。片翼だけじゃ鳥は飛べない。片方が折れちまった時は、もう片方も共に、きっと動かなくなるんだ」
 笑い掛けると、妻は同意をするように目を細めてヨハンの首元に頬を寄せた。エナメルの赤い首輪の金具が、宝玉の飾りと触れ合って硬い音を立てた。
「ヨハン・アンデルセン。いかにも人間らしい。そのくせ人間嫌いを気取っている。やはり貴様は愚か者だ。世界で一番愚かな人間だ。神は愚者へ情けを向ける。賢人に振り向きはしない」
 影丸は巨大なひとでのような手の平で鷲鼻を覆って、
「愚か者が神になるからそういうことになる」
 世界の仕組みに不満を漏らすようにぼやいた。
 ふとした空白の時間に、ヨハンは影丸に尋ねてみた。
「<コクーン>は何故俺を憎んでいるんだ?」
 影丸はヨハンの質問を予想していたようだ。分厚い瞼を閉じて指の先で揉み解しながら、驚くほど穏やかな声で呟いた。
「『彼女』か」
「なんか意外だ。貴方なら、あの女、とか言いそうなのに」
「この俺が生涯でただ一人惚れた女が産んだ娘だ。塵芥とは違う」
「会長の奥さんか?」
「ふん。そうなら良かったがな……馬鹿な男に夢中で俺を振り向きすらしなかった。心に触れさせることすら無い。情けすら与えない。同じ穴の狢という同類意識を共有してはいた。だが、奴はもう俺の存在すら忘れてしまっている」
「あ〜。ご愁傷様だけど、それで良かったんだよ。影丸会長、人に好かれるようなタイプじゃないもんな。向いてないんだよ。愛のない貴方は可哀想だ」
「貴様らは……」
 影丸は歯を剥き出しにして笑った。大猿が激昂したような恐ろしい顔で、本当におかしそうに笑った。ヨハンはお茶請けを貪り、十代は犬のように脚で耳の付け根を引っ掻いている。
「実に面白いぞ。構わん。俺の庭は好きに居座れ。探し物は好きに探せ」
「でも広いんだよ、アカデミア島。ヒントくらいくれても良いんじゃないかって思うぜ」
「過去の遊城十代を望むなら、奴はまだ貴様の息子と森をうろついているだろう。だが娘とその家畜を愛するならここに留まれ」
「どちらも欲しいと言ったら?」
 影丸の答えは簡潔だった。
「欲張りは全てを手に入れるか、何も手に入れないか。どちらかだ」
 ヨハンは少し考えてから、昔の話をした。
「子供の頃、俺は良く故郷の森で迷子になったんだ」
 何十年も前の話だ。子供だった頃の思い出は、色褪せて今にも時の流れに押し流されてしまいそうに見えるが、それは心の中に鋭い楔で打ち込まれている。忘れられはしない。無かったことにもならない。
「迷子は日常茶飯事だった。俺方向音痴だからさぁ。行き道も帰り道も分からなくて泣いてたら、いつか誰かが迎えにきてくれるかもしれないって期待したことも何度かある。でもいつもひとりで、誰も俺を探しには来なかった。親父は狂った実験に夢中で構ってくれなかった。母親は無機物だった。生きてすらない試験管だ。迷子になった時に親が心配して探してくれてる、迎えにきてくれるって、俺は俺の子供にそう信じさせてやりたい。散々寂しい思いをさせた俺がそれを言う資格があるのかは分からない。でも諦めたら、そこで俺は俺の父親と同じ生き物に成り果てちまう」
「甘やかすと、子供は腐る」
 影丸が言った。デュエル・アカデミア本校を預かる校長としての言葉だろう。初めて教育者らしい顔を見たような気がした。
「倒れた子供に手を差し伸べれば、いつでも誰かに引き起こしてもらえるのを待つようになる。頭を撫でられれば、賞賛を求めて媚びる。貴様も遊城十代も類稀な決闘者であると認めよう。ならば何故、貴様らが与えられなかった愛情を子に与えようとするのだ? 何故同じ道を歩ませない? それは親が子の可能性を摘むに等しい。ぬるま湯が貴様の言う親の愛か?」
「甘やかされて育った子供がどこまでも駄目な奴に育つってのは良く知ってるさ。俺の知ってる人間にも、特に駄目な御曹司や王子様がいる。だけど俺と十代の子供だぜ。駄目じゃないわけがない。妙に大人ぶった偏屈者か、能天気なドロップアウトか。そのどちらかだ。龍亞も龍可も完璧じゃない。でも誇り高くて強い子だ。俺と十代の光だ。俺は、迷子になって泣いている自分の子供を、放っておける親にはなりたくない」
 影丸は口をきかなかった。思考の海の中に沈んでいた。しばらく経って口を開くと、
「やはり十代がお前を崇拝する理由は分からん」
 本当に不可解そうに言った。
「奴に会えたら伝えろ。お前の予言の通りだとな」
「予言?」
「俺が死んでも誰も泣かないと言われたことがある」
「あはは。そりゃ上手いこと言ったな」
「泣かれはしないが、俺がいなくなった時に何をすれば良いのかも分からず右往左往する奴らはいた。嫌われ者にはそれで充分だが……歳を重ねるごとに増えていくのは未熟な子供ばかりだ。対等はない。格下が増殖するだけだ。敵も手下も皆死ぬ。自分の物語を読み切ってしまった老人が退屈まぎれに何を言おうと、世界は変わっていく」
 かつて永遠の若さを求めた男が、永遠程退屈なものはないというふうに、うんざりとぼやいている。
「初めて他人を愛した。相手はまさしく女神。あれを手に入れようと、俺は生に執着していたのだと分かった。だが受け入れられないことを知った時、何もかもが馬鹿らしくなった。あれに比べれば世界も未来も塵芥。もういらん。欲しいものは、いつも手に入らない。いらないものばかり寄せ集めて造った城など醜悪なだけだ。俺、いいや私は―― こんなもののために長生きがしたかったんじゃあない」
「女にふられていじけてるんだ。あんた長く生きてるみたいだけど、子供だなあ」
 影丸はにやりとして、
「この俺にそこまで無礼な口を利いたのは、貴様で二人目だ。もう行け。顔も見せるな」
 虫でも追い払うように、手のひらを翳した。



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−「P.W.E」…<
arcen>安住裕吏 10.04.12-10.04.18 −