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食堂でサンドイッチが詰め込まれたバスケットを受け取ると、ヨハンは缶詰が入ったリュックを肩に掛け、水筒を腰に下げて、セイコに笑われている。
「ピクニックに行くんですか?」
「いやいや、待ち合わせ」
懐中電灯のスイッチを入れて確めながら、ヨハンが言った。本島の森へ足を踏み入れるにしては大仰な格好だが、方向音痴のヨハンには当然の装備なのかもしれない。一度あの森へ入って出られなくなった者は、皆用心深くなる。
アカデミア本島には島の面積の半分を覆う熱帯の森が広がっている。整備された歩道を一歩でも外れると、そこは野生動物と迷信が我が物顔で闊歩する手付かずの地だ。森の中には特に目印らしいものもなく、背の高い木々が視界を遮り、空を貫くオベリスクも見えなくなってしまう。
「気を付けて。方向音痴なんだから」
「なに、すぐ戻ってくるさ」
ヨハンは屈託なく言って、胸を叩いた。隣で十代もヨハンに倣って胸を叩いた。誇らしげに鼻の先を天井に向けている。ヨハンの仕草を真似るのが、良く分からないが嬉しいらしい。
「貴方がそう言ってすぐに戻ってきたためしが無いから言ってるのよ。午後の授業がなければ、私もついていきたいんだけど」
「この万丈目サンダーがついている。心配はいらない。天上院くん、大船に乗ったつもりで任せておいてくれ」
「万丈目くんが乗った船は良く沈むんだけどね。水と相性が悪いんだよ、きっと」
いつものように根拠のない自信をひけらかす万丈目の横で、翔が不安を煽るようなことを言った。
「ああそう、ひとつ言い忘れていたことがあったわ。耳を貸して……」
出掛けしなに、明日香は十代の耳に手のひらで触れて唇を近付けた。十代は吐息がくすぐったそうに肩を強張らせて、子供のように軽やかに笑っている。あの頃のままのその人の瞳の中に、彼を置いていくつも歳を取った自分の姿が映り込んでいた。ほんの小さな声で、囁く。
―― 私、ずっと貴方のことが好きだったのよ。ねえ。知ってた?
何も分からない十代に耳打ちをする明日香の姿は、余程奇妙に見えただろう。不思議そうに見つめてくるヨハン達には、言葉を濁して誤魔化した。
「ちょっとね。何でもないのよ」
明日香は微笑んだ。
「そう……何でも、ないのよ」
デュエル・アカデミア生だったあの頃からもう何十年も経っているのに、その人を前にすると臆病な少女に戻ってしまう気がした。思い出の中の少女は思い出に生きる少年のことが好きだった。
失われた日々は輝いていた。今でも心は変わらない。
* * * * *
「うん、悪い人だよ。空野さんは」
青があっさりと肯定したから、龍亞は、拍子抜けしたような気分になった。
「悪い人なの? うちのパパが言ってたんだけど、人は見掛けによらないねぇ」
「うーん……悪い人っていうか、人が悪い人なんだよね。自分で悪い事を考えてできる人じゃないんだ。いい人なんだよ。<デビルバスター>みたいに、気が付くと子供が喜びそうなものばかり考えてる」
青はシンプルなワーキングチェアに体重を預けて、デュエル・アカデミアの創立記念日に配られたボールペンを弄びながら、ベッドに座った龍亞に、いつもの気弱そうな調子で教えてくれた。
「でも悪い人になりたいんだよ、空野さんは。あの人の神様は悪い人だったから」
「かみさま?」
「空野さんが神様みたいに尊敬してた先輩」
ネオ童実野校の男子寮にある青の部屋は、ほとんどが元から設えられていただろう家具ばかりで、空き部屋のような寂しい印象があった。聞くと、青が幼少期を過ごした家はとても貧しくて、今でも自分の物を所有するという贅沢に抵抗感があるらしい。
「今時珍しいよね。そういう人」
「そうかな。特に欲しいものが無いんだ。レアカードを引き当てたって、僕はデュエルができないし」
「あーわかる。デッキに自信があるのにデュエルできないなんてひどいよ。ねえ、結構歩いたら喉乾いちゃった。飲み物もらっていい?」
「いいけど……」
冷蔵庫を開けたら、中には同じ形をしたガラス瓶が詰め込んである。ラベルは外国語で書かれている。読めないが見た事がある言葉だ。龍亞の父親の母国語だ。
「水しかないよ」
「これ……冷蔵庫の中全部ジャム?」
プラスチックの棚という棚にリンゴンベリージャムがぎっしりと並んでいた。青は頷いて、夜食の続きを再開した。温かいご飯にジャムをスプーンで掬って乗せている。見ているだけでお腹が一杯になってきた。
「子供の頃から食べ慣れてるんだ」
「先輩、そんなぐろいの子供の頃から食べてたの? なんか可哀想だね」
「僕達は子供の頃いつもお腹を空かせていて、食べたいものを沢山思い浮かべて過ごしてた。いつかそんな美味しいものが食べられる生活ができたらいいなって。ネオ童実野シティに住んでたら、食べたい時に食べたいものが食べられる。すごいよね。いざそうなると……もう二度と食べたくないと思ってた故郷の森の野苺が、すごく食べたくなった。ううん、違うかな――」
青は少し考え込んだ。注意深く言葉を選んでいるようだ。
「悼んでるのかもしれない。死んだ兄弟達に悪いと思ってこうしてるのかもしれない。皆もう美味しいものも食べられない。玩具で遊んで楽しいとも思えない。姉は拗ねるだろうし、妹は怒る。きっと。生きていればの話だけど」
話を聞いていると、なんとなくきまりが悪くなってきた。
「前に弟と妹がいるって聞いたけど……えっと」
「あ、その子とは全然別。シャム双生児って分かる?」
「シャム猫なら分かる」
「身体がくっついて生まれた双子のことだよ。その子は身体の左半分が男の子……弟で、右半分が女の子。妹。身体は一繋がり、心は二人分。名前は<遊城赤>」
「<あか>と<あお>? 青先輩のお父さんとお母さんって、ひっどいネーミングセンスだね」
「まあ、後付けなんだけど。本当は色の名前の<赤>じゃなくて、別の漢字を使うんだ。でも僕に合わせてくれたんだろうね」
青は綺麗に整頓されたノートに、ボールペンで機械のような字を書いて見せてくれる。
「男の子の名前は<亞>。女の子の方は<可>。ふたりでひとりだから、<遊城亞可>。昔は二人の名前の頭には、<龍>っていう字が付いていたんだ。でも十六年前に龍は死んでしまったから……」
「……龍亞と、龍可?」
からかわれているのかと思った。しかし青には冗談を言っている様子もない。
「そう。昔は龍亞と龍可って呼ばれてた。二人は死んでしまったんだ。街と一緒に焼けちゃったんだって。<ゼロ・リバース>で、全部」
二十二年前に発生した<ゼロ・リバース>について、アカデミアの授業では地殻変動による不幸な大災害だと学んだ。本当は遊星の両親が最高責任者を務めていた<MIDS>が、モーメントを暴走させて街を丸ごと冥界の門の中へ引きずり込んだのだ。死の光の向こうへ。
「母は家族の死を受け入れられなかった。命と引き換えにこの世の摂理を捻じ曲げて、父と子供達を蘇らせた。遊城十代。僕の大切なママ」
「よみがえる」
龍亞は操られるように反芻した。青の金属めいた灰色の瞳に、吸い込まれていくような気がした。
「そう。二十二年前に、当時三歳だった君は一度死んだ」
青が、大真面目な顔で言った。
「人の兄と悪魔の妹が一繋がりの肉体を共有している。それが前世の君だった。君は死ねない妹を置いて人として死んで、人として生まれ変わった。幼い頃の記憶は成長するにつれて失ってしまった。でもおかしなことに、死ねなかったはずの妹も君と一緒に『また』生まれたんだ。人間の遊城龍可。悪魔の遊城龍可。この世界に、今あの子は二人いる。これはすごく変なことだ」
急に、ベッドの上に座っている龍亞の顔を、背後の壁から伸びてきた温かい手のひらが覆った。
目隠しの手。慣れない悪戯をする手。くすくす笑う声。とても耳に馴染んでいて、ありふれた声。龍亞を呼ぶ声。
「……龍可?」
振り向くといつの間にか、そこには―― 悪魔が佇んでいた。
微笑みながら龍亞を見ていた。
* * * * *
龍可が授業をさぼって昼間のアカデミア本島を歩くのは初めてだった。遠くから実技の授業の喧騒が風に乗って聞こえてきた。
この島は好きじゃない。心の中が纏まらない気持ちで一杯になる。きっと明日香が心配していた通りの理由だ。龍可と同じ年頃の両親がこの島で過ごしていたと知ってから、両親へいまだに感じている拒絶を、本校にも同じように感じているのだと思う。我ながら根深い性格だと龍可は思った。龍亞のように屈託のない人間になれたら、どんなに生きるのが楽だろう。
龍亞は長い空白の年月を挟んでも、父親のヨハンとすぐに打ち解けていた。最近良くメールの遣り取りをするようになったそうだ。能天気な兄は、母親が異形の怪物だと知っても特に気にしていないように見えた。龍可の前でなければ、目を輝かせて「カッコいい!」と叫んだだろう。人間でも精霊でも、偉い人にも犯罪者にも、分け隔てのない気安さで接する兄だった。それでも、誰にでも好意で向き合う訳じゃない。正義を愛して悪を憎む。兄は本物のヒーローみたいだった。
ヨハンは気難しい龍可よりも明るい龍亞を愛しているに違いない。親に甘やかしてもらいたがる程子供ではもうないが、そう思う。
その兄がいなくなった。
龍亞が隣にいないと、龍可は半分に欠けた世界で生きているような気がする。片目で見る世界だ。片手と片足だけの世界だ。混乱して、何も分からなくなって、クラスメイトや先生が掛けてくれる言葉も上手く理解できなくなった。怖くなって、自分の部屋に閉じ篭った。
龍亞は新聞部の手伝いで、アカデミア島を回って地図を作っていた。夏の怪談特集の記事に使うそうだ。極度の怖がりで、人を怖がらせる怪談話を自分でやって自分で怖がっているような兄だったから、初めのうちはあまり乗り気ではなかったと思う。
だけれど龍亞は楽しそうだった。とても仲の良い友達ができたらしい。綺麗な顔をした不良生徒だそうだ。あの龍亞が一番尊敬している遊星を引き合いに出すからには、余程相手に好意を抱いているのだろう。それでも、龍亞は人を簡単に信用し過ぎる所があるから、事件に巻き込まれた可能性も否定はできない。
龍可が部屋で待っていても龍亞は帰って来なかった。クリボンが島を探してくれているが、カードの持ち主の龍可から離れてそれ程遠くへは行けない。
島に住む精霊達なら龍亞の行方を知っているかもしれない。話をすれば、助けてくれるかもしれない。そう考えて、女子寮から湖を迂回して森の入口に向かうと、知った顔が佇んでいた。
エメラルド色の頭に、紫色のシャツ。ヨハンだ。何故父がここにいるのかは分からないが、龍可が龍亞を追って森へやってくるのを知っていて、待ち伏せをしていたみたいだった。
ヨハンは一人では無かった。あまり顔を合わせたい相手ではなかったが、十代を連れていた。十代はアカデミア本校の男子制服を、相変わらず何の違和感も無く着ている。二人の姿は課外授業中の教師と生徒のようで、学園に良く馴染んでいた。それから、両親の同窓生の男性が一緒にいる。四人。どの顔もデュエル雑誌で見たことがあるものばかりだった。ミーハーなパティがここにいたら、きっと大喜びで騒ぎ立てていただろう。
「やあ、お姫様。どちらへ?」
龍可はヨハンを無視して横を通り過ぎた。ヨハンはめげずに龍可の後をついてきた。声が追い掛けてくる。
「女の子が一人で森へ? それはいけない」
「決めたから。パパが止めてもおとなしくしてられない」
「いいや駄目だね。昼間の森は危険だ。夜の森ももっと危険だ。俺で構わないのならエスコートをしよう」
龍可は少し驚いて、顔を上げた。
「止めないの?」
「止めたりなんかしないさ。大切な人が隣からいなくなった時、探しに行かない方がどうかしてる」
「授業、出てないのに……何も言わないの」
「こんなにいい天気なのに、授業なんか出る方がどうかしてる」
「そ、そう」
龍可は面食らって、俯いた。長い間構ってくれなかった父親が付き合ってくれることに戸惑いながら、本当は少し嬉しかった。『ありがとう』と言おうと思ったが、父を前にして言い慣れていないせいで上手く言えない。ヨハンは分かっているんだというふうに、龍可の頭を撫でて、先を歩き出した。
森の中へ入れば、まるで精霊界みたいに精霊達の姿をあちこちに見ることができる。人間のクラスメイト達は誰も気付かずに過ごしている。人も精霊も、お互いの領域を踏み越えることなく共存している。ただ、今日はとても騒がしい。まるで旅に出ていた友人が帰ってきたかのように、森全体がざわついている。
葉が擦れ合っている隙間から、黄味を帯びた光が幾筋も地表に投げ掛けられている。足元には青々とした草が、今にも小道を覆い隠してしまいそうに繁っている。やがて小さな道すら消えた。龍可の前を、低木をデュエル・ディスクで払いながら歩くヨハンが、口笛で<虹の彼方に>を吹きながら、どこか楽しそうに言った。
「これでこの森に方向音痴一家が揃ったわけだ、俺のお姫様。迷子なんて怖がっちゃいないぜ。ガンガン進もうな」
「縁起でもないこと言わないで。なに、その変な喋り方」
「女の子と仲良くなりたいのなら、娘と言えどもレディとして扱わなきゃって、吹雪さんに教えてもらったんだけど。変かな?」
「うん……変だからいつも通りでいいと思う」
龍可は正直に言った。ヨハンは照れたように笑って、リュックの中から龍亞のジャケットを出して、十代の鼻先に押し付けて匂いを嗅がせている。
「龍亞の匂いを辿れ。十代、龍可にいいトコ見せるチャンスだぜ!」
「わんっ!」
十代ははりきった様子で、凛々しく顔を引き締めて犬の鳴き真似をした。
「…………」
「な、何故オレを見る。仕込んだのはオレじゃないからな」
万丈目が気圧されたように一歩後ずさった。精霊が興味深そうに覗き込んでくるのを、鬱陶しそうに手で追い払っている。
「おジャ万丈目さんも、精霊が見えるのね」
「……まあな」
万丈目は子供達のアイドルだ。テレビで見るよりも目付きが悪い。有名人が精霊視の能力を持っていることに、少し驚いた。ぞんざいな扱いをしながらも、とても精霊達に慕われている。龍可のように<友達>としてではなく、<兄貴分>のような感じで見られている。
不思議な感じがした。精霊視の力を持った龍可の父親のヨハン。人であらざる十代は、当たり前のようにヨハンに寄り添っている。友人の万丈目も、ごく自然に精霊視の力を有している。エドは精霊の声を聞く。精霊が見えない亮と翔の方が、会話の筋道を立てることができずに不便をしているように見える。それでも二人は精霊の存在を信じて、敬意を払っているようだった。
この光景は龍可が思い描く『普通』と正反対だ。それなのに、なんだか気持ちが良い人達だった。
大人の彼らは、数十年前のアカデミア本島で、龍亞や龍可のように子供だった。制服を着て、授業を受け、テストに臨んで、思い思いに学園生活を送っていた。想像もつかない。いや、今と変わりがないのかもしれない。人と精霊とその中間の生き物が、緩やかな時間を過ごしていたのかもしれない。ほんの少しだけ、羨ましいような気がした。
それでも龍可はまだ家族の絆を頭から信じることができない。父が少し怖い。人知を超えた母を受け入れて、怪物になることができない。
草を踏み潰す度に、靴の底に深緑色の汁が染みた。青い匂いが夏の大気に交じり合って、空気が濃く感じられた。
「パパは、龍亞がどこへ行ったのか知ってるの?」
「心配はいらないさ。少なくとも五体満足で無傷だ。ヒーローがついてる」
「ヒーロー」
「あいつと一緒に島をうろついていた奴だ。龍亞から話を聞かなかったか?」
「……少しだけ。でも龍亞、言いにくそうにしてたから、知らない」
「まあ、無理もないかなあ」
ヨハンは視線を宙に泳がせて頬を掻いた。
「あの子も能天気なようでいて、気を遣ってるのかぁ」
「………?」
森の奥から飛んできた<ナチュル・フライトフライ>が、十代の鼻先に止まった。透明な羽で鼻の頭をくすぐられて、十代がむずかるように顔を顰め、くしゃみをした。その拍子に、羽虫の精霊が実体化する。他の精霊達も面白がって、十代の周りを輪になって取り囲んだ。
「こら十代。無闇に実体化させるなよ」
ヨハンに怒られて額を小突かれ、十代が情けない顔になる。頬にかかる髪が伏せた犬の耳みたいだ。その頭を、なんとなくといった様子で亮が撫でてやっている。翔が意外そうな顔をした。
「お兄さん? どうしたの、女の人の頭なんていつもは全然興味ないでしょ」
「実の兄貴に良くそういう誤解を招くようなことを言えるな、お前……」
万丈目が背の低い翔のつむじを見下ろして、感心したような慄いたようなことを言う。誰も不思議を不思議がらない。変な光景だ。
親子程も歳が離れた大人達なのに、ふとした瞬間に、同じ年頃の少年達とピクニックをしているような感じがする。ヨハンは昼食のバスケットと水筒まで下げている。道も無い森の中を一列になって進んでいく人間達の後ろを、精霊達が王の帰還を祝う家来みたいに行進していた。
「万丈目が島に帰って来て嬉しいんだよ。精霊達は。あいつへそ曲がりの顔をしてる上に性格も悪いけど、面倒見が良いんだ。みんなの恩人なんだってさ」
不思議に思って精霊の列を眺めていると、ヨハンがこっそり教えてくれた。
「昔、まだ話せた頃の十代に聞いたんだ」
「…………」
「あいつ今はこんなふうにおとなしくて可愛い奴だけど、昔はそりゃあ格好良かったんだぜ。いつでも自信満々で、破天荒で、冗談みたいに強かった。俺と同じ位にな」
十代の自慢をしているはずが、ごく当然のように自分の自慢になっている。ヨハンはそのことに気付いた様子もない。龍亞にそっくりの癖だ。内心呆れて、そっと十代を覗うと、柔らかそうな頬をエドに引っ張られていた。
「おいおい、あんまり俺の奥さんを虐めないでくれよぉ」
ヨハンも気がついて文句を言う。どこか夢を見ているような表情だったエドは我に返って、信じられないように自分の手のひらを凝視した。
「な……ぼ、僕は何を? 仮にも人妻に、女性に……」
エドは青ざめて十代の顔を覗き込んだ。十代は首を傾げて、一声鳴いた。
「わん」
「あああ、この締まりのない顔……僕の心の中にある何かに確実に触れる」
エドが頭を抱えて苦悩している。
万丈目の肩の上に、部屋の電気が点くような唐突さで、手のひらに乗るほど小さな精霊が現れた。愛敬があるというか、グロテスクだと評するかは、人によって判断が分かれるところだろう。なめくじのように触覚の先に眼球がくっついていて、分厚い唇は変に色っぽく赤に塗られている。<おジャ万丈目>の名前の由来にもなっている<おジャマ・イエロー>の精霊だ。主人の頭の上を飛び回り、蝿のように叩かれている。
『万丈目のアニキ、なんだかヤな感じよォ。森がザワザワ言ってるの、アニキも分かるでしょう?』
「それはお前らがよってたかって騒いでいるせいだ。うるさいぞザコ共が」
『それにこの白髪頭のヒト、前にどこかで会ったような気がするのよォ』
「ヨハンの嫁さんなら、以前に会っていてもおかしくはないだろう」
万丈目は聞く耳を持たない。<おジャマ・イエロー>は、しなを作って『イケズゥ』とぼやいている。
「本当にこの人ボクらの同窓生? こんな美人がいたらボク間違いなくほっとかないよ」
翔が、十代の整った顔立ちに見惚れて言った。その途端にヨハンが胡散臭そうに目を眇める。
「もういいさ、その話は。この薄情者達」
「なんでヨハンが不機嫌なんだよ」
茶色い蔦が巻いた枝を払うと、森は突然途切れて、スギナやシロツメクサが絨毯のように敷き詰められた原っぱに出た。柵のない岸壁が、島を取り囲む海との境界線を描いている。崖の下はすぐに海面まで落ち込んでいた。傍には、赤い屋根のおんぼろ屋敷が建っていた。今にも倒れそうな危なっかしい建物だ。
「オシリス・レッド寮じゃない。取り壊されたんじゃなかったっけ?」
翔が唖然とした。寮の側面に、二階へ上がる外階段が取り付けられている。アルミ製で、手摺りも底板も錆び付いて赤茶けていた。ネオ童実野校の男子制服を着て、エメラルド色の頭をした少年が、人待ち顔で階段に座っている。
「遅かったね。随分待ってたよ」
青が屈託のない顔で言った。
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