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強化ガラス製の水槽の底の方は札束風呂になっている。更に、上蓋の隙間から纏められた札束を無造作に投げ入れながら、十代がつまらなさそうに言った。
「金なんてどうでもいいと言ったら、命は助けてやる」
膨大な量の紙束に押し潰されて、また性懲りもなくデータ・ロムをくすねた金の亡者、ミスター・ジェリー・ビーンズマンの三白眼気味の目はほとんど白目になっていた。圧死しそうだ。
「どのくらいで音を上げると思います?」
空野が世間話をする口調で言った。
「五分」
十代は醒めた目付きだった。
「じゃあ僕は、三分に今日の昼食を賭けます」
「何食う?」
「十代先輩のお望みのままに」
「エビフライがいいな」
「だと思いました」
「つってもこの所エビフライばっかだしな……。オレに選ばせるからだよ。青ォ、お前何食いたい?」
「な、何でも」
「子供が遠慮なんかすんじゃねぇよ。好きなもん言えよ」
「……僕、ママの鮭おにぎりが好き」
「聞いたかー、空野ォ、青はなんていい子なんだろうなァ」
「あはは、先輩、気を遣ってくれているんですよ青くんは」
「いい加減にしてくれ! このサディストども! あんまりおっさんをいじめるな!!」
空野と十代の遣り取りを空恐ろしそうに聞いていたジェリーが、しわがれた悲鳴を上げた。
「みんな、みんな、みんな―― なんでこんな紙切れなんざ欲しがるのかね」
十代が、足元でだらしなく口を開いたジュラルミン・ケースに灯油を注いだ。優美な指が、青い火を灯したジッポーライターを、油が染みて黒く染まった紙の山の上に放り投げる。大きな炎が上がった。ジェリーが、それこそ理解出来ないという顔になった。
眩く照らされた十代の美しい横顔を見詰めていると、振り向いた虹彩異色症の瞳が糸のように細くなった。雪のように冷たい手のひらが青の頭を撫でた。
「お前は、いい子だな」
「うん。ママ」
青い髪の少年はその人に見惚れながら、支配者への服従を示すように、とても従順に頷いた。
* * * * *
遊城青はデュエル・アカデミア・ネオ童実野校三年生の学年首席だ。痩せ型で、背はそれほど高くない。女の子のように綺麗な顔立ちをしているが、あまり目立たず、どちらかというと誰かの影に埋没してしまいがちな印象があった。猫背と、良く注意していなければ聞き漏らしてしまいそうな小さな声と、光を灯さないマットな瞳のせいだと思う。
デュエル理論は完璧で、天才という名前の冠はこの人を飾るのに相応しいだろう。彼は机上のパーフェクトを手に入れはしたが、生まれつき身体が弱く、ソリッド・ビジョンを伴ったモンスターの召喚は命に関わる程に疲れてしまう。彼自身がデュエル・フィールドに立って、ディスクを構えて決闘を行うことはできない。人は皆どこかしら欠けたものだという見本になりそうな人だった。龍亞には、種明かしだけ見せてくれる奇術師と評されていた。
親元を離れて、アカデミアの男子寮に一人で暮らしている。海馬コーポレーションに勤務する空野と知り合いで、新作ゲームの開発室にも度々出入りしているようだ。弟と妹が一人ずついる。遊城青という少年について龍可が知っているのは、こんなところだ。
もうひとつ付け加えると、青は龍可の父親のヨハンにそっくりだ。
二人が向かい合っていると、まるで鏡を一枚隔てて一人の人物の過去と未来が同じ時間軸の上に存在しているようだ。青は外階段に通してある鉄板から立ち上がって、ズボンに付いた汚れを払った。顔を上げて、龍可の方へ一度挨拶の代わりに笑い掛けてから、
「ヨハン兄さん」
青が言った。
ヨハンは幽霊でも見たような顔で、透き通ったエメラルド色の瞳を眇めている。青の呼び掛けを、当然のように受けた。
「カイ? ゲルダか。どっちだ?」
「今は<遊城青>だよ」
青が少し機嫌を損ねて、それがとても重要なことのように訂正した。龍可が見上げると、ヨハンはそっけなく肩を竦めた。
「弟だ。龍可の叔父貴になるな」
翔が、「隠し子じゃなくて?」と、実の娘の前でとんでもないことを言った。
龍可はそれほど驚かなかった。ばね仕掛けの玩具が飛び出してくることを、あらかじめ知った上でびっくり箱を開けるような気分だ。青と出会った時から、どこかでヨハンと他人であるはずがないと知っていたような気がする。不思議そうに青とヨハンを見比べていたエドが、言いにくそうに口を出した。
「……ヨハンの家族は、皆<アンデルセン家の悲劇>で亡くなったと聞いていたが」
<アンデルセン家の悲劇>。十七年前、デュエル・アカデミア・アークティック校付属研究所で、職員の些細な過失によって爆発事故が起こった。校舎に火が燃え移り、学園は焼け落ちた。冬休みの最中に発生した事故だったから、帰省した生徒は幸い難を逃れたが、それでも教職員や残留組の生徒に死者が出た。アークティック校の校長だったヨハンの父親と兄弟達も、事故に巻き込まれて亡くなっている。故郷を遠く離れて日本に住んでいたヨハンがひとり生き残った。
龍可は事件のことも、祖父がアークティック校の校長を務めていたことも、今初めてヨハンの口から聞かされるまで何も知らなかった。
「実家の話はあまりしたく無かったんだよ。絶縁状態だったからさ」
ヨハンが溜息混じりに言い訳をした。「結婚を反対されたの?」と尋ねると、青を指差す。
「うちの親父は元々、龍可の母さんとそいつを婚約させるつもりだったそうだぜ」
青はアカデミア一年生の龍可よりも二つ年上の少年だ。十代とは親子程年齢が違う。計算してみると二十八も離れていた。呆れて口が開いた。
「そんなに歳の離れた婚約者なんて聞いたことがないわ。青先輩が可哀想よ」
「いや騙されるな。お前達に近付く為に学生のふりをしてたんだろうけど、あいつは俺と大して変わんない歳だ」
青は疑わしそうなヨハンに向かって、さも心外そうに頭を振った。
「まさか、そんなおこがましいこと。とてもじゃないけど、僕なんてあの人には釣り合わない」
「何だよ。ろくでなしの兄弟随一の天才が、いやに殊勝じゃないか。意外だぜ」
「意外と言えばお前こそ意外だよ。爆発事故だって? そんなデタラメを頭から信じていたの?」
灰色の涼しげな目が丸くなると、青はいよいよヨハンそっくりの顔立ちに見える。
「あの何でも疑って掛かってたヨハンが、びっくりするくらい素直になっちゃったんだ」
「恋をすると人は変わるのさ」
ヨハンは、むず痒いことを当たり前のように言った。
「デタラメを信じるも何も、俺にはもう関係無いんだ。あの<工場>で、俺達みたいな不自然な存在が新しく『造られる』ことはもうない。それだけで喜ばしいことだぜ。もう誰も誰の代わりにならなくていいし、取り替えが利く物なんだなんて拗ねたりしなくていい。子供の頃の俺が、優秀なお前に何かあった時の為の代替臓器として生かされていたって知った時、十代の奴は怒り狂ってた。俺の為に怒ってくれた。俺はあいつに怒ってもらえる価値があるんだって、その時思い知ったんだ。十代は、どんなに追い払っても、忘れようとしても、俺の心の隅にしつこく居座ってた親父の妄執を消し去ってくれた。俺は誰の代わりでもない。お前の代わりじゃない。お前だって、替えが利く存在じゃない」
子供を叱る時の口調だ。ヨハンの透き通った声が空気を震わせると、柔らかい植物の絨毯をあやすように揺する風の中にいることや、夕焼けの陽射しが海の上でルビーの宝石のように煌いていること、逆光を浴びたかもめが両翼を大きく広げて空を泳いでいく影絵、そんなふうな龍可の周りを取り巻いているささやかな事象までもが、とても美しくて崇高なものに感じられた。口を出して話を遮って、父の言葉の邪魔をするのが躊躇われた。
青は仄かに銀を宿した瞳を細めて、羨ましそうにヨハンを見ていた。
「……そうだね。だから神様は、みんな焼いてしまったのかもしれない。大切なカードは、たった一枚あればいいから。かけがえのないヨハン・アンデルセンは、たったひとりでいいから」
「かみさま? ……俺達が大嫌いだった、あの公正で平等な怠け者のことか?」
「あれは裁きだよ。<アンデルセン家の悲劇>なんて穏便なものじゃなかった。<アークティック虐殺>。僕はあの時、そこにいたんだ」
青が言った。
「双子のゲルダは、エース・カードの<暗黒界の武神ゴルド>と一緒に叩き潰された。肉の塊も骨の欠片も残ってなくて、まるでペンキみたいに、壁一面に広がってたんだ。妹のインゲルは倒れた校舎の下敷きになって、まともな形で残ったのは千切れた腕だけだ。兄弟は皆殺しにされた。父さんも死んだ。僕が造られた試験管のコルク栓は塵箱に棄てられた。僕は、怖くて、みんなを捨てて命乞いをした」
「カイ。……どうした? 生意気なお前らしくないじゃないか」
「<青>だよ。<カイ・アンデルセン>の名前は棄てた。命と引き換えにね。僕らはバベルの塔の頂上で天に向かって剣を突き上げたニムロドだ。僕らは神に一欠片の良心も見出してもらえなかったソドムとゴモラだ。神を怖れなかった。だから神に滅ぼされた。みんな、死んでしまった」
青の手は震えていた。巨大怪獣が大口を開けて今にも彼のことを飲み込もうとしている姿が、彼だけに見えているみたいに脅えきっている。龍可は得体の知れない不安を覚えた。視線を巡らせてみる。龍可の目の前で青とヨハンが向かい合っていて、龍可の肩を翔が後ろから抱いてくれている。少し離れて、万丈目とエドがそっくりの胡乱な表情で腕組みをして立っている。
「あいつの兄弟は、皆電波か」
「それよりも今ヨハンの兄弟絡みで何かとんでもないことを思い出したような気がしたんだが、何を思い出したのかをすぐ忘れてしまって」
「奇遇だな。オレもだ」
ひそひそ話を交わしている。二人の後ろでは、十代が捕まえてきた蜻蛉を亮に見せ付けて自慢していた。『恐ろしい』怪物はいない。
ヨハンは脅える青を前にして、それ以上<事故>の話を続けることを諦めたようだった。
「俺達は、龍亞を探しに来たんだ。その様子じゃ何か知ってるんだろ。まさか、お前が攫ったのか」
「龍亞――」
「影丸会長が島に仕掛けられてる監視カメラの映像を見せてくれたんだ。森の中で龍亞と一緒に映っていたのは、アカデミア時代の『あいつ』だった。そしてここは、取り壊されてもう存在しないはずのオシリス・レッド寮だ。この場所は、過去のアカデミア本島なのか」
「<デビルバスター・オンライン>を知ってる?」
青は、急にそんなことを言い出した。
「このアカデミア島はね、他のエリアとはちょっと違うんだ。過去のある一点の世界を召喚し永続する、体感ゲームの世界だ」
「ゲームなんて今はどうでもいい。俺の息子はどこにいる。お前が何を考えてるのかは知らないが、龍亞に何かしたらただじゃ済まないぜ」
「僕が龍亞に何かするなんて、ありえないよ。ヨハンはやっぱり何も分かってない。僕はデュエルができない。僕がまたデュエルをする時が来るとしたら、それは僕が死ぬ時だ。……それが、今なんだ」
青は左腕に装着したデュエル・ディスクを起動した。ネオ童実野校の指定ディスクで、授業に使う機種と同じものだ。デッキからカードをドローして、先行にフィールド魔法を発動した。見た事もないカードだ。少年らしさを濃く残していながら、大人びて落ち付いた声がテキストを読み上げる。
「フィールド魔法<神縛りの陵墓>の効果。僕のライフと引き換えに、手札から<超融合神ワールド・エンド・ドラゴン>を召喚」
痩せた指が、絵柄の枠が空いたモンスター・カードを掲げた。星の数は十。まともに考えて、第一ターンから召喚できるようなしもべじゃない。闇属性の悪魔族。攻守ゼロ―― 。
柔らかい地面を貫いて、蔓草めいた無数の鉄鎖が生えてくる。どこか有機的な鈍色の鎖は、擦れ合って甲高い音を立てながら、ヨハンの背後にいる十代の四肢を絡め取った。十代は虹彩異色症の眼を丸くしたまま、首輪に絡んだ鎖に引き摺られて、何が起こったのか分からないでいるうちに青の足元に投げ出された。首が絞まって咳込んでいる。
「鎖が荒ぶる神を大地に繋ぎ止め、カードの主の下僕とすることができる」
「何をやってるんだよ!」
ヨハンが青を怒鳴り付けた。
「こいつはお前の姉貴でもあるんだぞ!?」
神縛りの鎖に捕われた十代を見下ろして、青は首を振った。
「姉さんじゃない。これは<コクーン>が偽造した、<遊城十代のコピーカード>だよ」
十代当人は、何を言われているのかも良く分かっていない。毛糸玉にじゃれついているうちにこんがらがってしまった仔猫を思わせる、あどけない眼を見開いている。そんな十代を見詰めながらヨハンは、世界そのものがぐらついたかのようによろめいた。
「何を……言ってる?」
「<三幻神>と対をなす<三幻魔>が存在するように、ヨハンを選んだ光の<究極宝玉神>にも対をなす闇の神が存在する。<超融合神>―― これもまた神のカード。その、肉片。うつろな抜け殻のカード」
「いい加減な事を言うんじゃない。ずっと、ずっと一緒にいたんだ。俺はこいつと――」
「その通りだよ。ヨハンはこの十六年もの間、本物と過ごした時間よりも長い時間、ただの影を守り続けてきたんだよ。思い出してよヨハン。いつからこうなった? この人は、どうしてこうなってしまった?」
ヨハンは空洞の闇を覗き込むように、焦点の合わない目を十代へ投げ掛けた。
「十三年前に、龍可が倒れたって聞いて……俺はいてもたってもいられなくなって、龍可のいる病院へ向かった」
「……パパ」
龍可は驚いて、口を手のひらで覆って声を上げていた。三歳の頃のことだが、記憶は鮮明だった。デュエル中に急に昏睡状態に陥った龍可は、人間の肉体を離れ、精霊世界で一時を過ごした。龍亞に呼ばれて殺風景な病室で目を覚ました時、傍には兄しかいなかった。両親に見捨てられたような寂しさを感じた。龍可を理解してくれるのは、世界中で龍亞一人だけなのだと思った。
あの時、ヨハンは傍まで来てくれていたのか。
「俺は何もできなかった。龍可の傍についていてやることもできなかったし、龍亞を安心させてやることもできなかった。俺がいない間に十代は<ライトイレイザー>を投与されて、記憶も、言葉も失ってしまった。妻を守ってもやれず、子供も抱き締めてやれない、小さな手すら握っていてやれない役立たずだった。俺は……」
「もっと前だ。お前の中で遊城十代が壊れ始めたのは、いつからだった?」
「それは―― 十六年前。<NEX>が一度解体されて、再編される時だった。龍亞と龍可が生まれたばかりの頃、二人の為に十代は自分を犠牲にして、どんなひどい実験にも進んで志願した。あいつは日に日に強くなってく闇の力を持て余してた。あいつは何も悪くないのに、大き過ぎる力をみんな怖がってた」
「そしてヨハンは龍亞と龍可を救う為に、みんなの期待に応えてあの人を封印の機械に掛けた。それから、もうひとつあったはずだよ。遊城十代が封印の枷を無抵抗のままに嵌められて、海馬コーポレーションの実験体に成り下がり、ネオ童実野シティの繁栄の為の礎になることを受け入れる条件―― それは、ヨハン・アンデルセンをふたつの<NEX>の最高権利者にすること」
青の声に敵意は含まれていない。いつもと変わりなく、穏やかで、丁寧に言葉が綴られる。それでも彼の言葉はヨハンの身を、心を切り裂く。責めて、詰って、怒りをぶつけられたみたいに、ヨハンは俯いて拳を固く握り締めていた。爪が皮膚に食い込んで、顔色は青ざめていた。
「精霊研究機関<ナイトメアエクステント>。ヨハンの敵が全て抹消され、ヨハンの賛同者だけで作られた楽園の全権をヨハンに委ねること。ヨハンの夢を叶える為に存在する王国をネオ童実野シティの中に築き上げ、ヨハン・アンデルセンをその国の王様にすること。これが遊城十代の献身のもうひとつの条件。もう誰もヨハンを笑わない。疎んじない。ひとりぼっちで誰からも見向きもされなかった昔とは違う。誰もが恐れ、敬い、畏まる。ヨハンは遊城十代を売った見返りに、夢の王国の王になったんだ」
「あんなものが欲しかったんじゃない!」
ヨハンが怒鳴った。
「最愛の人を犠牲にして叶えるものを、俺は夢だなんて認めない! 絶対に!!」
「そうやって、罪悪感がお前の思考を停止させる」
青が、冗談を取り消すみたいにあっさりと言った。
「目の前にはいつも無惨な姿の遊城十代がいる。だからお前は、あの人を探しに行くことはない。だって、そこにいるんだから。胸の痛みにばかり気が向いていて、少し考えれば分かることなのに考えない。ヨハン・アンデルセンが遊城十代と二人で<NEX>に招かれたのが、二十歳の時。一年後に二人は結婚する。二十一歳。そして、十六年前に龍亞と龍可が生まれた。お前はその時、あと何ヶ月かで三十になろうかってところだった」
「待って。変よ」
ヨハンが同じ顔の青に虐められている所を、これ以上見ていられなかったのかもしれない。龍可は慌てて二人の間に割って入った。
「パパが……その、結婚を決めた時にはもう、わ、わた、ええと。……できちゃってたって」
「娘に何を教えてるんだよ、性悪兄貴」
「そこは心から反省してる、ひねくれ者の弟」
青が睨むと、ヨハンは顔を渋くして、胸の前で両手を開いた。
「そう、龍可の言う通りだ。ヨハンが言う記憶を繋ぎ合わせると、龍可は今十六歳であるはずがないんだ。九年間の空白がある。ヨハン、お前が歳を取れなくなったのもその位からだったよね」
「ああ」
ヨハンが、ぶっきらぼうに頷いた。
「だけど……確かに……何の矛盾もないんだ。思い出は綺麗に繋がっているんだ。空白は無い。なのになんで過ぎ去った時間がずれているんだ? 辻褄も合わない。俺の記憶はどうなってるんだ?」
「呆れた兄さん。記憶程あてにならないものは無いんだって、子供の頃は良く知ってたじゃないか。結局お前も僕と同じなんだ。神に悪魔に運命を食い潰されてしまったんじゃないかよ」
青は飼い犬のように首輪を鎖に繋がれた十代へ、同情と、同類へ向ける共感の目を向けた。
「これはただの複製品だ。僕達と同じだよ。本物のように美しいけど、中身は空っぽだ」
それでも彼は緻密で美しい金細工を鑑賞するように、白痴の半陰陽に見惚れていた。
「ヨハン、お前は十六年も自分を騙していたこのニセモノを恨んでいる? 嫌うかな? 憎むなら、僕は……」
青がその後をどう続けようと思ったのかは分からない。ヨハンは、歩いていく。無造作に、気取らない足取りで白髪頭の名もなき精霊のもとへ歩いていく。そして、その人を縛っている鎖ごと抱き締めた。力ある鉄鎖が皮膚を焼いても構わなかった。
「……こいつは十代だ」
当たり前のように名前を呼んだ。
「複製品なら俺と同じだ。だけど魂まで複製することはできない。同じものをいくつ作っても、結局違うものになる。それは俺が誰より知ってる。こんな綺麗な魂、同じものをふたつも作れるはずがない。俺は命に代えても十代を守る。たとえ肉の一欠片までも必ず守ってみせる。その為に俺が肉片になろうが、構うもんか」
ヨハンが白髪頭に笑い掛けると、怪物は透き通った瞳を宝玉のように輝かせた。ヨハンの手を壊れ物のように取って、慈しむように自らの薔薇色の頬に押し付けた。文句なしのハッピー・エンドを迎えた童話のお姫様のように、幸福に微笑んでいた。無知で無垢な表情を見ていると、龍可の胸が針で突き刺されたようにちくりと痛んだ。たとえ贋物だったとしても、その人の感情も、確かに宿っている魂も、誰にも作り物だとは言えなかった。鎖に弾かれ、ヨハンが舌打ちをする。
「馬鹿なヨハン・アンデルセン。そんなだからあの人は……お前のことが。大切で、かけがえなくて。大好きになってしまうんだ、いつも、どんな時でも。ずるいよ。卑怯者。そんな本当みたいな嘘を吐くなんて。何度騙されたって後悔しない綺麗な嘘を吐くなんて。優しい毒を流し込むなんて。魂を汚されたあの人が……あの子が……どんな気持ちで……」
青の呟き声は、まるで泣いているみたいだった。
「ターンは終了だ。ヨハン、フィールド魔法の効果を使ってお前はお前の神を呼ぶんだ。僕はコピー・カードを壊すのに躊躇いはない。言ってる意味、分かるよね」
十代のあどけない眼差しは、相変わらず何も分かってはいなかった。誰かが誰かに傷付けられることを知らない赤ん坊だ。世界が善意でできていると純粋に信じている。青は真剣だった。細い指で精霊を縛り付けた偽造カードの縁を摘み、今にも破り捨てようとしている。
ヨハンは観念した様子で、命の残量と引き換えに手札から空と地の架け橋を呼んだ。神縛りの鎖が虹の化身である<レインボー・ドラゴン>を拘束し、ヨハンの場へ引き摺り出す。
「……すまない。<レインボー・ドラゴン>」
ヨハンは、空を駆ける自由を奪う鎖に不快そうに身を捩り、金属質の腹を晒した竜を見上げ、まるで自身が鎖に繋がれ、締め上げられて、痛みを感じているかのような表情でいる。
操り人形と化した光の竜のあぎとが大きく開かれた。主と神の意志に反して、虹の煌きが解き放たれる。青は灰色の瞳に、意地悪が成功した時のような、やるせなく、暗い喜びを宿していた。
「十六年前と、立場が逆だね」
「………?」
「迎撃しろ、<ワールド・エンド・ドラゴン>。<ナイトメア・ペイン>!」
青に操られて、白痴の竜が取り繕った人の形を棄てた。すべらかな額が割れて大き過ぎるぎょろ眼が開き、禍々しい刺青が美しい顔立ちを異形へ貶める。悪意と敵意に満ちた爪が、牙が、角が皮膚を突き破って生えてくる。巨大な翼が悪魔のフォルムを形作る。怪物の本性を暴き出されたその人が、鎖に引き摺られて腕を翳した。
闇を統べる優しい悪魔の力と、全てを破滅的に白く塗り潰す光の神の力が、鎖に縛られ、正しく統御されないまま激突した。水平線の向こう側へ沈み行く夕日が、最後の輝きで空間を赤く照らし出している。そこに、罅が入った。硬い石を投げつけられたガラス窓のように、透明な大気の中に、いびつな亀裂が生まれているのだった。
「あの時と同じだ……」
耳の傍で翔の声が聞こえた。見上げると眼鏡越しの瞳に、何とも言えない感情が貼り付いていた。畏れと絶望。ただ純粋な負の感情ではなく、そこにはある種の郷愁や違和感や憧憬が含まれているようにも思えた。
「学園が異世界へ飛ばされた時と、同じだ」
神々は歪んだ苦痛を分け合って、慟哭するような悲鳴を上げた。拮抗する光と闇の力が綻びを生む。時空に大穴を開ける。異次元の扉が、開かれていく。
空間を穿った傷口は瞬く間に広がっていき、今にも世界が脆いガラス細工のように砕け散ってしまいそうだった。仄かな橙色に発光している一面の草っ原が割れて、森がざわめき、逃げ惑う鳥達が赤い空を覆い尽くした。海は巨大な渦を巻いて、不気味な唸り声を上げている。
それが、急に静かになった。完全な静寂が訪れた。波は凍り付き、鳥は空の上に投げ出されたまま羽ばたきを止め、夕闇は永遠になった。時間が停まり、全てが硬直した。
青はなんだか安心した表情だった。手間の掛かる頼まれ事をようやく片付けた者の、どこか晴れやかですらある顔をしていた。
龍可は気が付いた。この少年の姿をした人は、死に取り憑かれているのか。
「無垢で無知な神は降り立った星の叡智には振り向かない。ゆえに、ドロップアウト・ボーイと呼ばれて馬鹿にされる。馬鹿にされながらも、微笑みを浮かべて成すべきことを成す。彼はただ壊す為だけに、純粋に滅びをもたらす為だけに、この宇宙に降り立ったんだ。あらゆる学問も、あらゆる芸術も、あらゆる兵器も、想像力、争い諍い、神には関係ないすべてを壊す。新しい生命を創り出すために、古き良きものどもを滅ぼす。
あの日、闇は光に取り憑かれた。光の破壊衝動に導かれ、闇の優しさで幼子を育み、そして神とひとつになった。完全なるものだった。だけど神は、全知全能であるがゆえに盲目で白痴の神は、人に恋をしてしまった。人の子を孕んで産んで、人を理解してしまった。あらゆる学問も、あらゆる芸術も、あらゆる兵器も、想像力、争い諍い、神には関係ないすべてが、神に関わりのあるものになってしまった。世界は悪意に満ちている。醜悪な世界とくっついてひとつになって、狂ってしまった神を救う。僕は、その為にあの日生かされたんだと思った。僕のママになってくれたあの美しい神様を、世界から解放するために。
<雪の女王様>は、僕のママになってくれるって言った。ママは僕のママだから、子供の僕を殺さないって約束してくれたんだ。僕らのママはヒーローだ。絶対に約束を破らないよ。<アークティック虐殺>……遊城十代の逆鱗に触れた僕達アンデルセン家の一族は、僕以外皆あの人に食い殺されてしまった。それが真相だ」
「信じるもんか。十代は、俺の妻は誰より優しい正義の味方だ。絶対に人を傷付けたりしない!」
「言ったろ。裁きなんだ。僕らは絶対にやっちゃいけないことをやった。……龍可を攫ったんだ」
ヨハンは言葉を失って、青ざめて、ただ頭を振った。『絶対に信じない』という意志は、『絶対に信じたくない』へと変わっていく。青が龍可を見た。龍可には何の覚えもないが、青には鮮烈な過去の記憶であるようだった。龍可の記憶もまた、ヨハンと同じく欠落しているのだろうか。
「とても無害な生き物だった。聞いてた話と違う。とても強い人だって、父が言ってたから。でもとても弱くて、とても脆くて、すごく惨めで、子供のためなら何だってするって、自分はどうなってもいいから龍可だけは助けてくれって命乞いをして……泣いて震えていることしかできない、かよわい人だと思った、初めのうちはね。
大切な子供を奪われた時、母親は全力で立ち向かってくる生き物なんだって、あの時僕らは思い知った。母親がいない僕達人形には、親が子を想う気持ちなんて全然分からなかったんだ。僕らが味わったのは、遊城十代の全力。それがどんなものか―― ヨハン、いくらお前だって想像がつくはずだよ。
龍可に危機が及んだ途端に、あの人は僕らに牙を剥いた。全然違う生き物になった。<ダス・アプシェリッヒ・リッター>、二つ首の悪魔の竜に進化した。手掴みで頭から人を丸呑みしちゃうような怪獣相手には、デュエルなんて概念すら無かった。虐殺だ、文字通り」
「嘘だ……十代を貶めるな」
ヨハンは信じることも否定もできず力なく項垂れている。青の恐怖は本物だったのだ。
「ママの期待を裏切るのがどれだけ恐ろしいことなのか、罪深いことなのか。僕は良く知ってる。遊城十代に逆らった代償が、貶めた罰が、赤いペンキだ。千切れた腕だ。壊れた校舎に沢山の死体だ。どんなに力が強くても、どんなに頭が良くても、どんなにデュエルが上手くても、人は怪獣には勝てないんだよ。
身体の半分みたいに思っていた双子の姉さんの手も、生意気な妹の手も振り払って、振られた番号も名前も棄てて、<雪の女王様>の手を取るしかなかったんだ。命乞いをするしかなかったんだ。<遊城青>になるしかなかったんだ。ママが怖くて仕方なくて、でも僕が何よりも怖いのは、姉さんを殺したママが、妹を殺したママが、家を家族を焼いたママが―― 大好きだ。
怖い位に大好きなんだ。愛してる。綺麗で、優しくて、面白くて、僕の頭を撫でてくれた手のひらも、抱いてくれた腕も、ヴァイオリンを弾く音も、子守唄も、大切過ぎて、ママがいない世界なんて、なんでまだ続いているのか分からない。それこそが怖い。怪獣に丸呑みにされてしまうよりずっと怖いよ。いらない。
ママは僕を殺さない。だけど生かされてママのいない世界を見せ付けられるくらいなら、僕もあの時双子と一緒に潰れて死んだ方がずっとずっと幸福だった。
ヨハン。お前に優しい偽りの記憶を与えたのは、遊城十代だよ。お前を傷付けないように、お前が泣かないように。いつも前を向いて夢を追い掛けていられるように。ママはお前を抱き締めて強固な殻で永遠に守ろうとしていた。あの人は、たとえ世界を壊しても、家族を守ろうと決めたんだ。だけど何も知らず、お前は――」
<遊城青>の、デュエル・アカデミア・ネオ童実野校三年生で、学年首席の物静かな少年の仮面が剥がれていた。<カイ・アンデルセン>の名前を殺して生き延びたヨハンの弟の仮面も剥がれていた。ただひたむきに母に愛されたいと渇望し、母の愛情が他の兄弟に向けられていることに焦燥し、嫉妬する名無しの子供の顔をしていた。
「みんなの期待に応えてママを封印の機械に掛けた? 違う。そんなに優しい方法じゃない。ヨハンはママを実体化した<レインボー・ドラゴン>で焼き殺したんだ」
「―― 嘘だッ!」
「殺してしまった。お前を愛していた、守ろうとしていたあの人を。だから……遊城十代はもういない」
「嘘を吐くな! 俺は十代を殺さない。そんなことをするくらいなら、俺が消えた方がずっとずっとましだ!」
「それなら本当のことを思い出して―― あの子に詫びながら、あの人の亡骸の前で身を焼いてもう一度死ね」
突き放すような言葉だった。
フィールドが罅割れ、鉄鎖が崩れていく。神縛りの主は不敬の報いを受ける。名もなき闇の竜を操る、偽造されたカード。そしてヨハンの<レインボー・ドラゴン>のカード。対となる二体の神のカードが空間の裂け目に呑み込まれ、次元の歪みの向こう側へと除外されてしまう。
憑代となるカードを失ったモンスターは、形すらも保っていられなくなってしまう。人の形をした闇の竜の体躯が透き通っていく。翼を持った巨大な白蛇と共に消えていく。ヨハンが叫んだ。
「十代! <レインボー・ドラゴン>!」
魂を抜き取られたかのような、悲痛な悲鳴を上げた。
消滅の間際に怪物の虹彩異色症の眼が龍可を見た。気後れしたまま、少し哀しそうに微笑んだ。その人の、世界から消えてしまおうとするような、儚い後姿を見た事がある。娘に拒絶された母親の顔をして、怪物は消えた。本当にこの世界からいなくなった。
「ママ……僕の、<雪の女王様>」
愛する母親に一瞥すらも向けられなかった青は、竜が消えた亀裂の向こう側へ頭を垂れた。その姿は、敬虔な神の使徒が主に祈りを捧げているようだった。
「ほんとの子供に生まれたかった。……<チェーン・マテリアル>よ。僕が十三番目の生贄だ。あの人とあの子の願いを叶えてくれ。遊城十代が渇望する通りに―― こんな世界、滅びてしまえばいい!」
時を停めた夕焼け空が、逃れようのない闇色に塗り替えられていく。何もない空洞の闇が、ひたひたと忍び寄ってきた。まるで宇宙が捻れて裏返ったようだった。
海水は泡立ちながら蒸発し、海底は崩落した。天空を覆い尽くした闇は、やがて降り落ちて島の半分を覆い、恐ろしい速度で浸蝕を始めた。遊城青を名乗っていた少年は、老朽化した粗末なオシリス・レッド寮ごと闇に呑まれて、どことも知れない異次元の彼方へ消えた。
島を覆った黒のヴェールを隔てて、全てのものが崩れ去っていた。世界が終わろうとしているんだと分かった。目を閉じて耳を塞いだ龍可を、力強い腕が抱き締めた。薄目を開くと、驚くほど近くにヨハンの顔があった。
目に見えない衝撃の波が、刃のように大気を裂きながら迫り来る。ヨハンに抱かれたまま、龍可は目の前に鮮烈な赤を見た。
ずっと昔に廃止された、成績最下位の男子生徒が押し込められた掃き溜め寮、<オシリス・レッド>の旧制服がはためいている。デュエル・アカデミアの資料データで見た事がある、ドロップアウト・ボーイの証明だ。それが、その人が身に纏うと、見惚れる程に格好良く見えた。痩せた背中が、まるで完全無欠で絶対無敵な本物のヒーローみたいに見えた。
「心配するな、オレのヒーロー」
自分がいる限り世界は絶対に終わらないという確信に満ちた、力強い少年の声が聞こえた。ヨハンが、懐かしそうに呟いた。
「……島の監視映像に映ってた、龍亞と一緒にいた過去の十代か」
翻った赤いジャケットの裾が、深い夜の色に染まっていく。瞬く間に、ベルベットのカーテンのような質感を持った、巨大な蝙蝠の翼に変化する。四肢は鱗に覆われて竜の特徴を宿し、人間が異形のモンスターへと変貌する。龍可が良く見知っている怪物の姿に変身する。
金属の輝きを宿した冷たい眼球が、敵意の翠と悪意の橙に輝いた。悪魔の異能を行使して、圧倒的な力が闇を捻じ伏せる。高潔で孤高のその人の姿は、二目と見られない程に醜く変わり果ててはいたが、まるでこの世界を統べる王ででもあるみたいだった。
崩壊が止まった。島の半分を欠損したまま、時間が動き出した。風が凪ぎ、草の擦れ合う音が還ってきた。次元の崩壊から龍可達を守ってくれた悪魔の姿は、草原に立つ悪趣味な案山子のようだ。振り向いたその人に、ヨハンが尋ねた。
「龍亞は無事なのか!?」
「この世界が龍亞を傷付けることは絶対にない。……あの子と離れて不安だったろ。わりぃ、龍可」
その人が、怪物の腕を無造作に龍可に差し伸べた。反射的に強張った身体を引いてしまった龍可を見て、その人は自嘲するように唇の端を歪めて、手を引っ込めた。ヨハンが十代の両肩を強く掴んで、はっきりと意志を持った虹彩異色症の瞳を覗き込んだ。
「教えてくれ十代。一体何が起こってる。一体何が本当だ? 記憶の辻褄が合わないんだ。お前は俺の家族を殺したのか。お前は俺の記憶を弄ったのか。俺はお前を……殺したのか?」
十代は、皮肉っぽく笑った。白髪の怪物が浮かべていた無垢な笑顔よりも、悪夢を具現化したような姿には、神様すらも嘲るような意地の悪い顔がとても似合っていた。
「滑稽だ。怪獣は正義の味方に恋をした。だけど醜い姿を心を、ヒーローの目に映すのは堪えられなかった。焼かれてしまいたかった。だせぇ。カッコわりい。汚ねぇ。……ばかみたいだ」
十代が笑う。くすぐったそうに笑うその人は肉体も心もちぐはぐの天邪鬼で、真逆の感情表現をするんだと分かった。笑っている。悪魔は泣いているのだ。ヨハンは笑わなかった。ヨハンが笑わないことに、十代は救われたようだった。
「昔からそうだったよなぁ。兄妹喧嘩の仲裁は、ヨハン、お前の得意分野だった。オレは大人になって、口の上手さに掛けてはちょっとした自信を持ってたんだぜ。でも人を煙に巻いたり、誰かを騙したり、口先三寸そんなのばっかりで……誰かの心に届く言葉を、オレは果たして口にしたことがあっただろうか? どうなんだろうな。わからない。沢山喋った気がする。でもその中で、オレが本当に伝えたい言葉を何度言えただろう? ヨハンには、龍亞には、龍可には……オレの言葉は届いていたんだろうか。ヘリクツばっかこねてるつまんねぇ大人だって思われてやしねぇかな。オレがこんなに好きだって気持ちは……」
「知ってるさ」
ヨハンが断言した。迷いは無い。エメラルド色の瞳が柔らかく細くなり、強張っていた唇が綻んだ。
「今更何を言ってるんだ。やっぱ、いくつになっても、お前は……馬鹿なやつだよなぁ」
苦しげだが、優しい笑顔だった。
「家族の絆は消せない。他の何を忘れたって、それだけは俺は揺るがない。人にも精霊にも神様にも悪魔にも嘘にはできない。こんな綺麗な奥さんもらって、可愛い双子がいて、俺はほんとに幸せだ。俺の世界だ」
「―― よかった」
十代はそこで泣きそうな、辛そうな、痛くて仕方がないような表情をした。悪魔は、本当に笑ったのだ。
「子供の前で、情けねぇツラ見せんじゃねぇよ。ばか」
「お前こそ。馬鹿十代」
十代はヨハンの頭を小突いて、気の置けない友人同士のように拳を軽く合わせて、
「ヨハン、オレ、本当は――」
言い掛け、途中で口を閉ざした。どこからか子供っぽいくすくす笑いが聞こえてきた。
「―― ダメだよ。心を許しちゃ、ダメだよ。ママ、また……殺されちゃうよ」
とても耳に馴染んだ声だった。見覚えのあるリストバンドを巻いた腕だけが、遊園地の鏡を使ったトリック部屋のように宙に突き出していた。腕は十代の腰を後ろから抱き締めて、甘えるように柔らかい腹を撫でている。ベルベットの翼の向こう側から、空洞のような眼がこちらを見詰めていた。
龍亞がそこにいた。
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