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空から降り落ちてくる濃紺色の闇は、アカデミア島の半分を丸く覆う巨大な天蓋を思わせた。深い沼の底に引き摺り込まれてしまったかのように、息苦しい気分になる。
目が慣れてくると辺りは本当の真っ暗闇じゃなくて、沢山の死に掛けた星が息も絶え絶えに光っているんだと気が付いた。頭のずっと上の方で、銀色の粒々が並んで様々な形を描いている。小等生の頃に遠足で訪れたプラネタリウムのドーム天井を思い出した。あの時はホールの照明が落ちた途端に隣の龍亞が眠ってしまって、いびきがうるさくて解説員の説明が良く聞こえなかったのを覚えている。 「……悪い夢が繰り返されてるみたいだ」 私のすぐ傍にいる翔さんが零した。声は震えていた。 慄いて脅えているけれど、『悪い夢』が持っている引力に強く惹かれているようでもあった。翔さんは言った。何十年も前にも、今と同じことが起こった。デュエル・アカデミアは学園ごと異世界に飛ばされたことがある―― 当時の事件のことは明日香さんにも話を聞いたし、パパの口からも語られたことがある。どれだけ巨大なエネルギーが働けば、世界の転位なんて非日常が現実に起こり得るんだろう? 想像もつかない。
「だけどなんであんなわけの分からない超常現象が起こったのか、どうやっていつもの日常が戻ってきたのか……つまり、あの地獄が終わり得た理由が、悪夢の発端と結末がボクにはどうしても思い出せないんだ。あんな普通じゃないこと、とても忘れられるはずないのに曖昧で、見ていた夢が途中でぶつ切れになった後味の悪さだけ残ってる」
「当たり前だ。遊城十代がいなければ、どこからもどこまでも説明がつかないに決まってるじゃないか。あいつが発端で、あいつが結末だ」
パパが口調をきつくした。翔さんの戸惑いが、とてつもない裏切りのように。
「どうしてあいつを忘れてしまったんだ。あの時のことに関しちゃ、俺はお前達が少しだけ羨ましかった。辛い時に、苦しい時に俺より少しでも長く十代の傍にいてやれたお前達が――」
「責めてやるな」
亮さんが、今にも弟に掴み掛かっていきそうなパパの肩を引き止めた。我侭を言う子供を宥めたり、喧嘩の仲裁をするような感じだ。自分の父親が他の大人に叱られているところを見るのは、なんだか奇妙な感じがする。
「誰からも忘れられることを望んだのは、他ならない十代本人だ」
「……カイザー」
内緒の秘密を一番聞かれたくない人に暴露しようとする友達を焦って止めるみたいに、十代が亮さんを咎めた。亮さんは軽く受け流して、十代をまっすぐに見据えた。
「変わり果てた姿を見られたくなかったんだろう。優しくされることが辛かったんだろう。守られ庇われることに我慢がならなかった。そうされるくらいなら誰の思い出からも退場することを望んだ」
「十代が望んだから、みんながあいつを忘れちまったってのか? そんなの不可能だ。いくら十代が不思議な力を持っていても……」
「人は成長する。十代も成長する。十八、九の時点で、奴は充分人知を超えた怪物だった」
「……あんたが、怪物だって言うなよ。十代はあんたを尊敬してた」
「あれから何十年も経っている。成長を続けた今の奴には、他人の記憶の改竄など造作もない。そうだろう」
十代は居心地が悪そうにヒールと蹄のつま先を擦り合わせて、
「……やっぱカイザー、厳しい人だよ」
溜息をついた。
「ねぇ、やめない?」
龍亞が不機嫌な顔をして、大人達の話に口を挟んだ。
「この子を責めたって仕方ないじゃない。おじさん達」
「この子?」
龍亞は生まれ持った屈託の無さで、人の外にいる十代を家族として受け止めていた。そんな龍亞が、いくら気安い性格をしていると言っても、母親に年下の子供の相手をするような口を利くのは変な感じがする。
「この子は、この子だよ」
龍亞は十代を見上げて、一番愛しい人にするように笑い掛けた。
「あの人が生前作ったプログラム。敵を排除して、迷子は追い払うセキュリティ・システム。遊城十代はこのアカデミア本島の形をした箱庭の中に、何か大切なものを隠していた。それが何なのかは分からない……オレはずっと探してたんだけどね。ともかくこれはオレの寂しさを紛らわせる為に造られた幻想だ。割れて飛び散った鏡の破片、記憶の欠片。あの人の沢山ある目玉のひとつだよ。これもまた<遊城十代のコピー・カード>だ。―― 十六年も調整をされてなかった。随分傷んでる。可哀想」
龍亞は十代の腰を、いよいよ強く抱き締めた。十六歳の龍亞が人知を超えて歳を取れない十代と並ぶと、見た目は同じような年齢に見える。親密に触れ合っていると、二人はまるで恋人同士にも見える。なんとなく嫌な感じがした。
「大丈夫だよ。オレが守ってあげるから、少し眠ってて」
「―― る、」
まだ何か言いたそうだった十代の姿は、龍亞に抱き潰されるようにして、零と一に分解されて一枚の薄っぺらいカードに姿を変えた。十代のカードを大事そうにポケットにしまうと、龍亞はパパを見て、優越感を隠しもしない意地悪な笑顔になった。
「ひどい顔だね」
「こう続け様にショッキングな体験をしちゃ、ひどい顔にもなるさ」
パパは青い顔をしている。今まで十代の異形の姿を呆けたように見つめていた万丈目さんが、急に大きな声を上げた。
「……あいつ! おジャマ共があいつを見て妙に騒いでいると思ったら―― 思い出したぞ。十何年か前にネオ童実野シティに現れた悪魔族の精霊だ」
黄、黒、緑、おジャマシリーズが集まって、『ああ!』と声を上げて、万丈目さんの頭の上で小さな手のひらをぱちりと打ち合わせた。主に言われるまで彼らも忘れていたらしい。
「エド。お前もあの時オレの横にいただろうが」
「……ああ。そう言えば、そうだ。どうしてあんな、一目でも見たら一生忘れようもないような姿を忘れてしまっていたんだろう?」 エドさんが珍しくうろたえたふうに頷いた。万丈目さんは、やぶにらみの眼をエドさんから翔さんへ移した。
「そっちの金魚の糞もいた」
「だから、一体ボクが誰の金魚の糞だったって言うのさ」
翔さんが不満そうに鼻を鳴らしている。万丈目さんは翔さんに指を突き付けて、「だからあいつだ、あいつ……」と言い掛けて、そこで口篭もってしまった。
「うー。あいつだと言うのに、分からんのか」
「自分でもわかんないことを、他人に期待するのは止してよ」
もっともだ。
万丈目さんは、不審そうな目と一緒に人差し指を龍亞に向けた。
「オレには少々人知を超えた推理力があってね。分かるぞ。事件が起こった時、怪しいのはまず一番もったいぶった喋り方をする奴。妙に饒舌になる奴。そして気に食わない顔をしている奴だ。よって、犯人はお前だ」
「……人の息子を指差して犯罪者扱いとはいい度胸だな。万丈目。お前あとで校舎の裏に来い」
「オレの勘は当たるのだ」
パパの湿った目付きに、万丈目さんは不遜な態度でふんぞりかえって、龍亞に噛み付くように怒鳴った。
「お前! これはなんだ。校舎は、レッド寮は、あのヨハンに似た弟はどこへ消えた。それより何より、校舎の中にいた天上院くんはどうなった!」
龍亞は首を傾げて、
「あー。消えちゃったみたいだね」
無造作に言い放った。
「ようこそ<コクーン>へ。繭はどんどん大きくなる。十二の世界は今、新しい宇宙を漂い始めたんだ。<チェーン・マテリアル>にまた火が灯った。青『兄さん』の命を最後の生贄に、全次元は統合される」
「……龍亞。何言ってるの。どうしちゃったの?」
今の龍亞は、私のことなんて眼中にないみたいだった。言動が異常だ。パパの顔が強張る。恐る恐る、呼び掛けた。
「……龍亞?」
「覚えてる? これね、プラネタリウム。パパとママがオレ達に星空を見せてくれる為にくれた、一番大きい玩具」
龍亞は随分上機嫌だ。黒のクレヨンで塗り潰したような空を指差して、遊園地のティーカップみたいに腕を広げてくるくる回る。だけど双子の私には、楽しそうな仕草とは裏腹の感情が伝わってくる。 ちぐはぐで天邪鬼な感情表現をする悪魔みたいだ。本当は泣き出したいのに、正反対にはしゃぐ姿は、飽きて棄てられたぜんまい仕掛けの玩具みたいにひどく滑稽で、物悲しいもののように映った。
「忘れちゃったよね。やっぱり。期待してなかった。パパだもん」
目の前にいる少年の姿形は龍亞に間違いないけれど、中身は龍亞であるはずがない。全然別の生き物が龍亞の中に入って、身体を好き勝手に動かしている。龍亞が絶対に口にするはずがない言葉を吐き出している。半身の私の魂すらも貶められた気がした。
「あなた誰よ。龍亞から出てってよ!」
一歩前へ足を踏み出したところを、紫色の袖に止められた。パパが鋭い目で―― こんなふうに敵を見る残酷な目をしたパパを見るのは初めてで、少し戸惑う。押し殺した声で、龍亞の中にいる何かに言った。
「龍亞と十代を返せ。皆を元の世界に戻せ。じゃなきゃ、ただじゃ済まさないぜ」
龍亞はパパに悪意を向けられると鼻白んだ。怒っているように、そして少しだけ傷付いたように。
「憎みたいなら憎めばいいよ。殺したいなら殺しなよ、あの時みたいに。躊躇ってるふりなんてしなくていいよ。知ってるんだ、パパは本当は家族を愛してなんていないんだから。パパはママを嫌い。パパはママの子供のオレ達のことが嫌い。そうじゃなきゃ、あんなひどいことはできない」
さっきから、龍亞に取り憑いた誰かがパパを呼ぶ声には、少しの違和感もない。余程嘘が上手いのか、まるで演技じゃないみたいに聞こえる。それにこの喋り方は、龍亞の真似こそしているけれど、私は良く知っている気がする。おかしな偏屈さと親への不信を含んだ言葉。
私に良く似ている。
同じ顔をしている龍亞が私みたいなことを言うと、鏡の向こうの世界から、もうひとりの遊城龍可が語り掛けてきているような錯覚に陥ってくる。パパが形の良い眉を怪訝そうに顰めた。
「俺が一体何をしたってんだよ。どんな恨みがあるのか知らないが、俺の息子を巻き込むのは止せ。その子は関係ない」
「ほら、また。龍亞と関係がないなんて、たとえ冗談でもひどすぎる」
「お前は一体、何者なんだ?」
「あなたの子供だよ」
パパが首を振る。
「俺の子供は、龍亞と龍可の二人だけだ」
「忘れちゃったの?」
龍亞の瞳が狐のように細くなった。笑っているような、軽蔑しているような、深く恨んでいるような、得体の知れない妖しい表情だ。龍亞が、肉体の中に他の何者かの魂が入っているだけで、そんな表情ができるなんて信じたくなかった。つまりそれは、龍亞とそっくりの私の顔でもあるわけなんだから。
柔らかい瞼が閉じて、また開くと、龍亞の眼球はほんの一瞬の間に金属質の輝きを灯して、人ではあらざるものに切り替わっていた。思わず息を呑んだ。
「まさかね。忘れてはいないでしょ? このオレの瞳を」
そこにあったのは、敵意の翠と悪意の橙、虹彩異色症の双眸だ。異形の悪魔、遊城十代と同じ眼だ。射竦められたように、引き込まれるように、龍亞の悪魔の瞳を見つめ返していたパパの喉から、乾いた声が零れた。
「お前、まさか、……龍可なのか?」
―― 私には、パパが何を言っているのか分からなかった。
人の心の闇を食べる悪魔の眼にあてられて、おかしくなってしまったんだと思った。だって、私はここにいるんだから。
それでも自分の存在が大きく揺らいだような気がした。
* * * * *
今から、何十年も前のことだ。
何の変哲もなく、いつも通りのかけがえのない朝が来る。仄青い空の中を、ちぢれた雲がゆっくり流れていく。クリームがかった朝の光に照らし出されて、マンションのベランダの手摺りが白く浮き上がっている。その上に、草色の鳥が停まってさえずっていた。ずんぐりとしていて、醤油差しのような形をした珍しい鳥だった。
寝起きに弱い十代は、起きながらまだ眠っているような態で、レタスの葉を手でちぎりながら瞼が半分落ちている。綺麗な顔の造作をしているのに、頬に枕の跡がくっきりと残っていた。顔を洗っても取れなかったらしい。テーブルに頬杖をついて、龍亞が十代を見上げている。
「また夜更かししてデッキ組んでたんでしょ? ゆうべトイレに起きた時、まだ電気点いてたもん」
「んー。止まんなくてさ」
「ずるいよ。オレ達には早く寝ろ〜なんて言うのに」
「子供は寝るのが仕事だ」
十代が偉ぶって腕を組んだ。龍亞が口を尖らせて抗議する。
「おーぼーだ!」
「大人は横暴なのが仕事だ。あと食べることと遊ぶこと。カードパックの大人買いと、それからワクワクすることもな」
「そんじゃ子供よりも大人の方がずっと楽しそうだよ。オレも早く大人になりたいなぁ」
「ああなれなれ」
十代が笑って、龍亞の頭を肘でぐりぐり撫でる。そうしていると、ダイニングに焦げ臭いにおいが漂ってきた。
「またやってる」
龍可は溜息をついた。注意力散漫。
「パン、焦げてる」
「あー!」
十代が慌ててトースターのスイッチを切るが、時は既に遅かった。KC社製の真っ赤なトースターの網の上に、みじめな姿に変わり果てた食パンの残骸が乗っている。黒い炭の塊。
「パンもまともに焼けない家事音痴が主婦を名乗るなんておこがましいわ」
「龍可は難しい言葉いっぱい使えて偉いね。ねーママ」
「あ、ああ……偉いな、うん」
十代が引き攣った笑顔を見せる。更に冷たい声で、龍可は追撃する。
「ママ、ゴミ行っちゃうよ」
「あー今日ゴミの日だ忘れてた!」
十代が、慌ててゴミ袋を掴んで、スニーカーを半分つっかけて玄関を飛び出していく。ネクタイを直しながらヨハンがキッチンに顔を出して、倒れたゴミ箱と元はパンだった炭を見ると、すぐに状況を察した様子だった。
「あいつは昔からそそっかしいなぁ!」
呆れたように、楽しそうに言いながら、スープが吹き零れていた鍋を止めた。
龍可がテーブルの上に色とりどりのプラスチックの宝石を並べて、オルゴール付きの宝石箱のねじを巻いていると、隣でデッキを組んでいる龍亞が口を出して邪魔をする。
「そんな玩具の宝石なんか、食べらんないし、植えても芽が出るわけでもなし。ねぇ龍可ぁ、それより見てよ。オレのデッキ!」
「ママと同じこと言ってる。龍亞は女の子が全然分かってない」
ヨハンが背の高い身体を屈めて、龍可の宝石箱を覗き込んだ。龍亞とは違って素直に感心してくれる。
「龍可の宝物は綺麗だなぁ」
「うん。……ひとつ、パパにあげる。お守りにして」
宝物を誉めてくれたお礼に、龍可が橙色の宝石を一個差し出すと、ヨハンは大事そうに受け取って、ベランダの窓を開け放った。鳥が驚いて飛び立った。ヨハンがベランダに出て宝石を太陽に翳すと、小さなプリズムから虹が生まれた。
「見てみろよ。光に透かすとほら、もっときらきら光るぜ」
そう言って、人懐っこく笑った。床に映り込んだ影さえも美しくきらめきながら揺れている。なんだか嬉しくなった。ただのプラスチックの玩具は、ヨハンの手の中にあると、まるで本物の宝石のように気高く輝いているのだった。
「龍亞もママも、パパを見習って欲しい」
龍可はしみじみと言った。
母親の十代はヒーローに傾倒していて、顔は良いが暑苦しい所がある。だから龍可は穏やかな性格の父親と特に気が合う。ヨハンは女の子みたいな顔立ちをしている。フリルやレースや甘いお菓子、可愛いもの、綺麗なものを愛していて、龍可の気持ちを細かいところまで良く分かってくれる。双子の兄のデリカシーの無い発言を聞く度に、『龍亞もパパに似てくれたらよかったのに』とこっそり思う。
「パパにはもっとお姫様みたいな人が似合うと思う。なんでママみたいながさつな人と結婚したの?」
ヨハンはいつもきちんとした服装をしていて、十代のようにお風呂上がりに家の中を裸で歩き回ったりはしない。甘くて優しい声、顔、物腰。童話から飛び出して来た本物の王子様みたいだ。
十代は、うるさい龍亞が大好きな特撮番組の主人公を思わせる。王子様に迎えに来てもらった慎ましやかなお姫様には程遠い。龍可と龍亞の両親は、のんびり屋で大らかでうっかり者の白馬の王子様が、薄幸のお姫様と間違えて熱血ヒーローと結ばれてしまったみたいな、変な夫婦だった。
―― ハッピー・エンドには違いないけれど。
「ひどいケアレスミスみたい。やることなすことが男臭いママと並ぶと、パパの方がお姫様に見える時もある」
ヨハンは苦笑した。
「龍可は十代にきついなぁ」
「尊敬できない母親第一位」
ベランダの下から大きな物音がした。多分、焦った十代が駐輪場に停めてあった自転車を倒してしまった音だ。十代は嘘みたいに耳が良い。街中に飛交う声をひとつずつ聞き分けることすらできるくらいだ。だから、全部聞こえていたのだろう。
龍可は少し笑った。いつも根拠のない自信が満々で、能天気な十代に困った顔をさせるのが、実はちょっと好きだった。龍亞の悪戯よりもずっとレベルが高いと、泣きそうな顔の十代に誉められたことがある。
「さすが俺の子だなぁ」
ヨハンはそう言って、変な感心の仕方をしている。龍可の前にしゃがんで、透明な眼差しが覗き込んでくる。龍可があげた宝石をつまんで、顔の前に翳した。橙がかったイエローの樹脂が、光が射す角度によって目まぐるしく色を変えている。
「トパーズの色だな。南欧の言葉で<探し求める>って意味の石だ。龍可の瞳と同じ色だ」
宝石と龍可の瞳をためつすがめつして、満足したように頷く。
「龍可の瞳は、宝玉よりずっときらきら光ってる。とっても綺麗だ。俺の娘はすごく美人だぜ」
ヨハンに大げさなくらいに誉められて、龍可は思わず頬を染めた。
「パパの眼も、エメラルドみたいでとってもきれい」
「あはは〜」
「うふふ……」
龍亞が隣でげっそりして、「あーやだやだ。空気が甘い」と鳥肌を立てている。兄はロマンティックな雰囲気が大の苦手だ。
「龍亞はママとヒーローごっこでもやってればいいよ」
龍可はそっけなく言いながら、にこにこしているヨハンを玄関まで見送った。
「行ってらっしゃい、パパ」
「行ってきます」
「気を付けてね!」
「ああ。俺が帰るまで三人、今日も仲良く元気でいてくれよな」
ヨハンは手を上げて、十代が閉め忘れて開け放たれっぱなしだった扉の向こうへ歩いていく。
―― 思い出の風景にノイズが生まれて、あっという間に世界が真っ黒に染まる。上下左右が反転する。螺旋をぐるぐる回る気持ちの悪い浮遊感がやってきて、ようよう感覚が安定すると、現実は切り替わっている。朝の光も、家族四人で暮らすマンションも、街の姿も消えてしまう。
鉛色の殺風景な部屋で、内臓を思わせる形で複雑に絡み合ったパイプが、冷蔵庫に似た唸り声を上げている。冷却された空気が肌を切る。背広姿のヨハンが呆然と立ち尽くしている。目の前には、タイムカプセルのような銀の容器の中で、透明なガラスの仕切り越しに、眠っている人の姿が見える。機械に繋がれ、大きな装置を構成する一部品のように扱われている、雌雄同体の怪物。喋らない、走らない十代。
記憶が唐突にぶつ切れになり、乱暴に繋ぎ合わされている。過去と未来が繋がらない。
「正しい人間の君に、精霊研究機関における全ての権限を委ねることに決めた。これからも清潔な研究を続けて欲しい」
そんなことを言われた気がする。誰に言われたのかは、もう忘れてしまった。気に食わない治安維持局にだろうか。忌々しい倫理委員会だっただろうか。
「彼を、あるいは彼女を……アンデルセン博士、君に預ける。貴重な実験動物だ。君の更なる成功の為の踏み台だ。大切に、使ってくれたまえ」
良く覚えていない。
「……十代? 一体、どんな、悪趣味な冗談だよ」
棺の上蓋のようなガラス板を外して、薄い肩に触ると、十代の瞼が震えた。開いた目に覗き込まれて、背筋が凍り付いた。意志の光が完全に消失している、虹彩異色症の悪魔の瞳がそこにあった。幼児がむずかるように頬を歪めて、
「……ヨハン。ヨハンだ、ヨハンがいる。あははははは」
狂ったように笑った。そこには知性がなく、大人に成長して手に入れたはずの思慮深さも欠落していた。信じたくなかった。悪い夢に違いなかった。
「一体……どうしちまったっていうんだよぉ……」
「ヨハンがいて……ルアがいて……ルカがいる」
橙色の液体が満たされた水槽の中には、生まれたばかりの男女一対の赤ん坊がたゆたっている。龍亞、龍可。二人で二つの肉体に分かたれた、ごく普通の双子が浮かんでいる。
十代は白痴の表情で、唄うように、大好きだと言った。祈るように、幸せだと言った。
「もう、どこにもいかないでくれよ―― みんな、オレを、」
―― 置いてかないでくれよ。
そう言って、十代はとても満足そうに微笑んでいるのだった。長い間迷子になっていた子供が、ようやく父親に抱き上げてもらえた時のような、最大級の安堵の表情で。
* * * * *
龍亞は軽蔑の眼差しで、パパを見ている。
「パパとママはほんとの兄弟でもないのに、二人の精神はとても感応をしやすかった。似過ぎているから、知らずに片割れと心を共有することがあった。双子みたいに。パパはママが感じていた絶望を、自分の心だと取り違えてしまってるだけ。あなたは絶望なんかしてなかった。……してくれなかった。怪物だって呼んで焼いた」
「そんなことをするくらいなら、消えたほうがましだ」
パパは押し殺した声で断言した。
龍亞がデュエル・ディスクを展開する。乱暴な使い方をするから、龍亞のディスクはすぐに傷だらけになってしまう。ずっと昔は壊れる度に買い換えていたけれど、遊星が私達の成長に合わせてこまめにカスタマイズをしてくれるようになってから、綺麗に修理が入ったディスクは使い捨てられず、初めて何年も持っている。子供の頃から使っているものを、慣れない手付きが触る。
「じゃあ心の闇を思い知って。悪夢の痛みを、思い出させてあげる」
そう言って、龍亞はディスクにデッキを差し込んだ。パパは構えず、力なく頭を振った。
「……娘と、闇のデュエルなんかできない」
「パパが嫌なら、そっちの贋物でもいいよ」
龍亞が舐めるような眼を私に向けた。爬虫類めいていて、体温のない冷たい目だった。
「消してあげる。私が欲しかったものを、人だっていうだけで全部与えてもらえた普通の私」
「……私は、私だけよ。あなた何なのよ。誰? 私はここにいる。私は遊城龍可。パパとママはお仕事が忙しくていつも世界中を飛び回ってた。そう信じて龍亞と二人きりで十六年間ずっと一緒に生きてきた私。周りに大人がいないこと、子供の頃は寂しかった。いつも不安だった。だけど、パパは本当は私達を命を懸けて守ってくれてた。ママは―― いない。私は化け物の子供なんかじゃない。パパと龍亞と私。ごく普通の、人間の家族よ」
「私は遊城龍可。<ゼロ・リバース>で壊れた肉体を、ママは一生懸命直してくれた。元の形には戻れなかったけれど、龍亞と私はひとつの身体にいつも一緒にいられるようになった。二人で一人。双子は一人。私はママが愛してくれた化け物の子。<悪魔の赤>、<赤い靴のカーレン>、<覇王>……そう呼ばれた遊城十代を継ぐ者。ママと龍亞と私。たとえ世界を敵に回してもママが私を庇ってくれたように、私は永遠にママの眠りを守ってあげる。パパは普通じゃない私達を裏切って、普通の人間達の味方をした。<ダス・エクストレーム・トラウリヒ・ドラッヘ>―― ユベル究極完全体に進化したママを、<レインボー・ドラゴン>で焼き殺してしまったわ。……赦せない」
「ユベル!?」
その名前を聞いた途端に、パパがひどく驚いた顔になった。パパに向かって、翔さんが戸惑いがちに頷く。
「……その子の言う通りだ。あの時シティを襲った怪獣はね、ボクが生きてるうちに二度も見ることになるとは思わなかったけど、あれはかつてボクらの学園を異世界に飛ばした張本人だよ。ヨハン、ボクは、さっき人間の姿じゃなくなったキミの奥さんを見た時に、すごく嫌な感じがしたんだ」
黄ばんだ三つ目。呪術的な印象の刺青。雌雄同体。蝙蝠の翼。蜥蜴の手足。
「言ったら悪いと思うけど、ヨハンの奥さんは、十六年前にキミが滅ぼしたユベルにそっくりだったんだ。みんなは知らなかったと思う。あの異世界で、最後にボクだけがそこに居合せたんだから。<チェーン・マテリアル>と<超融合>によって十二の宇宙を統べる<超融合神>とひとつになって、全次元を統合しようとしたユベルの最終形態―― 究極の悪夢の竜の姿が、あの日ネオ童実野シティに再び現れたんだ。突然、何の前触れもなく、目的も分からないまま。今でも不思議なんだ。どうして、『一度目』世界は救われたんだろう? ボクは全部見てたはずだよ。だけどヒーローはボクじゃない。無理だよ。巨大怪獣になんてかないっこないよ、あんなの。記憶を繋ぐのに、一体何が足りないんだろう?」
「あれは―― ユベルだったのか? あれがユベルと融合した十代だっていうのか。あんな……姿が」
パパは目を閉じた。鋭い痛みを感じている表情になった。過去の思い出がガラスの破片に変わって、赦しもなく、胸に突き刺さっているようだった。
「どうして俺を襲ってきた?」
そう言って、自問をすぐに打ち消す。
「……いや。あいつ、撃たなかったんだ」
両手で顔を覆う。表情が隠れてしまったけれど、立ち尽くしている姿は、迷子が泣いているようにも見えた。声がみっともないくらいに震えていて、こんなに怖がっているパパを見るのは初めてだ。
昔はこの人に感情なんかないんだと思っていた。いつも仮面のような無表情で、つまらなさそうで、何も感じていないようで、子供の私達に構ってもくれなくて、愛してなんてくれていないと思っていた。人を愛さないパパにはきっと怖いものなんて存在しないんだと思っていた。
たとえば私なら、龍亞がベッドに入ったまま二度と目を覚まさなかった時のことを想像すると、どうしようもなく怖くなる。もしも治らない病気にかかったら、事故に遭って二度と家に帰って来なくなったら。
大事なものが仕事しかないパパは、大好きな人を失う恐怖なんか知らないんだと思っていた。
そうじゃない。私の考え方は全然間違っていた。パパは私が片割れの龍亞を想うくらいに、龍亞が魂の半分の私を想ってくれるくらいに―― 遊城十代のことが大好きだった。その子供の私達のことも。
「はじめから撃つ気なんてなかったんだ。偽悪はあいつの欠点のひとつだって知ってたのに。あいつはきっとあの空の上の花園で、ひとりぼっちであそこにいた白髪の子供を抱き締めてやろうとしていたんだ。でもあんなに大きな身体になっちゃ、人なんか摘んだだけで潰れちまう。触れるだけで殺してしまう。子供を抱けない身体に変わってしまった。だからあんなに哀しそうだったんだ。苦しくて、泣きたくて、抱き締めてもらいたくて、だけど俺があいつの味方をしたら、きっと俺も一緒に世界の敵になっただろう。嫌われ、憎まれ。畏れられて、悪魔って呼ばれて。だからあいつは俺を……突き放したのか」
泣き出しそうな声で「ばかだ」と言った。それは十代に向けたものなのか、自分自身に向けたものなのかは分からなかった。
「覚えてる。大きな身体が焼け爛れて、まだ生きてる肉が焦げる嫌なにおいがしてた。命が消えてく所をこの目で見てた。トップスから落っこちて、遠い地面に叩き付けられて、肉も骨もばらばらに砕けて瓦礫の中に埋れて見えなくなった。<レインボー・ドラゴン>に攻撃命令を下したのは、他ならない俺だ。俺が――」
「パパはママを犠牲にして精霊と人間の英雄になった」
龍亞が冷たく吐き棄てた。
「どうしてママを抱き締めてあげなかったの? 一緒に世界の敵になってくれなかったの? 最期にパパに愛されてるって嘘でも信じさせてあげられなかったの? ママはパパの為に何もかもを捧げたのに。一番曲げたくない信念まで折って、汚れて泣き喚いて、嘘しかつけなくなって、龍亞の憧れのヒーローみたいだった背中があんなに小さくなって、なのにパパは……どうして、ママに何も与えてあげなかったのよ!!」
龍亞の声と口調が私のものになる。龍亞は男の子だけれど、そうなると双子の妹の私と何も変わらなくなる。もう一人の<私>がパパを責めた。苛んだ。ずっと押し込めていた心の闇が噴き出して、溢れて零れて止まらなくなる。
「コピー・カードを、ママの肉の欠片をパパに与えたのは、パパにママを忘れさせないため―― ママの苦しみを、哀しみを、痛みを、悪魔の血を継ぐ私が代わりにパパに返してあげるためよ」
「……弟の言ってたことは、本当だったんだ」
消え入りそうに、パパが呟いた。あの日パパは、とても長い眠りから目が覚めて、記憶があやふやだった。パパは十代を探してあても無くうろついていた。
「俺は、目を閉じていたってあいつの元へ引き寄せられていく。そういうふうにできてる。だからあの時も、正しく十代へ引かれて、出会っていたんだ。泣いてた。俺に恋をしたのがばかみたいだって。幻じゃなかったんだ、あれは」
パパは泣いていた。顔を手のひらで覆っていたけれど、涙は誤魔化しようがなかった。滴が地に落ちて細い草を濡らして、微かな嗚咽が空中に吸い込まれていった。
「俺は―― 十代を殺したんだ」
パパが言った。完全な世界の終わりを目に映してきたかのような、救いのない声だった。
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