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パパの手が私の肩を痛いくらいに強く抱いた。視界が真っ白に染まる。眩しくて、眼球を無数の針で突き刺されたような痛みを覚えた。それは一瞬のことで、あとは何も感じなくなった。眼球が溶けて蒸発してしまったのかもしれない。皮膚も、血も肉も骨も、全部消えて無くなったのかもしれない。
私が無くなる。
上手く実感が湧かなかった。湧くはずもない。生きている者が感じられるのは、『死ぬ程』の苦しみと悲しみと痛みだけだ。本当は、自分の死を体感することは誰にもできない。冥界をさまよい歩く亡者達でもない限り。
―― あの時も、こうやって大きな光と向き合っていた。
白い世界の中でパパが呟いた。
無音の世界だ。音は何もない。そんな中で、内緒話の囁き声みたいなパパの声だけが、私の鼓膜をくすぐった。
「ああ……そうだった。それで、俺って……」
光の中にまぼろしが見えた。それは―― <私>の死の瞬間に、この世界に焼き付いた記憶。
私の幽霊だ。
* * * * *
朝からやけに物々しい日だった。街角には検問を行うセキュリティの姿がそこかしこに見え、海馬コーポレーション研究開発ビルの入口の前に武装警備員が立っていた。本社に爆破テロの予告状が届いたという。モーメント式の信号機の故障で電車が遅れているらしく、ビルの向かいの道路はいつにも増して渋滞している。
龍亞と龍可が十代から預かった昼食のバスケットを渡すと、ヨハンは初めて忘れ物に気が付いた様子で手を打ち合せ、「ああ」と気が抜けた声を漏らした。
「ママのこと、そそっかしいとか言う癖に、パパだって充分そうじゃない」
「いやぁ」
自分を棚に上げる癖を娘に指摘されて、ヨハンは頭を掻いて照れ笑いをした。バスケットの中には、不揃いのおにぎりが詰められていた。不恰好だが、温かい心地がした。雑な字が綴られたメモ書きをポケットにしまってから、「ちょうど良かった」と双子の肩を抱く。
「検査を済ませたら、一緒に昼飯にしよう」
龍亞と龍可は、ヨハンと、精霊と人間の融合体である十代の子供だ。同種や代替品が存在しない究極の異端児。『唯一』は『未知』でもある。このシャム双生児は、脅威的な成長速度と強靭な肉体を誇っていたが、デュエル・エナジーを自らの体内で生成することができないという致命的な欠点があった。
デュエル・エナジーとは、精霊がこの人間世界に実体を伴って存在する為に必要なエネルギーだ。半人半精霊の十代を継ぐ子供達からエナジーが失われてしまった時、彼らの精霊としての半身は存在を維持することができなくなり、消滅する。人は半分で生きることができない。人間としての半身も、間もなく死亡する。
龍亞と龍可の<消滅>と<死亡>。ヨハンには、空想すらできない。
「面倒臭いんだよね。検査」
腕に誘導コードを繋がれて、シートの上で龍亞が退屈そうに口を尖らせる。ヨハンはタッチパッドの操作をしながら、息子を窘めた。
「そう言うな。死んじゃうんだぜ。十代の鮭おにぎりも食べらんなくなる」
「それは困るね、うん」
「ママのおにぎり……。もっと美味しいものを引き合いに出せばいいのに」
龍可が十代の壊滅的な料理の腕前への不満と、ヨハンへの期待を込めて、橙色の瞳を上向けた。ブラインドのスラットの隙間から射し込んできた外光が虹彩に反射して、かちりと金色に光る。鉱物の冷たい光、人であらざるものの象徴。孤独を知らないあどけない少女の眼。床に敷き詰められたグレーのカーペットの上に、ブラインド越しにストライプ模様の光が落ちている。空調が横長のスラットを揺らす度に、かげろうのように踊る。
「美味しいものかぁ。たとえば?」
「……いちごのショートケーキ」
ヨハンは龍可に頷いて、帰り道にケーキ・ショップに立寄る約束をした。龍亞が両手を上げて喝采する。
「オレ、チョコね。チョコレートケーキ! クリームいっぱいのやつ」
童実野駅のガード下に新しく開店したケーキ・ショップの話をして、話題は新作カードにまつわる噂話に変わり、今度の休みには家族でピクニックに行く約束を取り付ける。時間も退屈も忘れて、他愛のない話が続く。後になって思い返せることは何もないのに、空気の温度も分からなくなるくらいに夢中になれる、そんな話ばかりが、とりとめもなく流れていく。
「もうすぐ二人を、二つの身体にしてやれるからな」
ヨハンは言った。一繋がりになった龍亞と龍可を一人ずつの肉体に分けて、少年と少女を、風の向くまま気の赴くまま、好きな方角へ走らせてやりたいと願っていた。
「広いデュエル・リングに立って、二人で向かい合ってデュエル・ディスクを構えて、迫力満点のデュエルができるんだ。ソリッド・ビジョンがモンスターの姿を、まるで本物みたいに映し出してくれる。自分のライフが削られる度にヒヤヒヤして、攻撃が決まる度にドキドキする。俺と十代が感じているワクワクを、お前達にも知って欲しいんだ」
ヨハンが思い浮かべるのは最強で最驚の決闘者、永遠のライバルの姿だ。赤いジャケットが翻る様は、誰もが見惚れる程に恰好良かった。親子でタッグを組んでデュエルができる日を想うと、少し頬が緩む。きっと、これ以上無いくらいに楽しいだろう。
「一番大好きな人と全力でデュエルができるってのは、最高なんだ」
「確かに。オレと龍可だと、隠しててもお互いの手札が見えちゃうんだよね。それに、見えなくても龍可のカードは分かるんだ。何を引いたのかも、デュエル戦略も、身体も心も繋がってるから分かっちゃう」
龍亞は腕組みをして、背凭れに背中を預けて顎を逸らした。ブラインド越しの光は柔らかく微かなものへと移り変わり、室内の照明灯の明かりに追いやられていた。夜の気配が感じられた。
「離れ離れになったら分かんなくなるかな?」
考え込んで、「それはやだな」とぼやく。
「龍可のそばで守ってあげらんなくなっちゃうのは、やだよ」
「そんなことはない。離れてても心は、絆は繋がってるのさ」
「ならさ、どうして離れなきゃなんないの? ねえ、せっかくくっついてるのに。きっとオレ達双子は、二人で力を合わせて世界の危機と闘うために生まれてきたんだよ」
「龍亞、テレビに影響され過ぎ」
龍可が兄に冷たい視線を向けて、
「……でも、私も龍亞とは、向かい合うよりも、隣に並んでいたい」
照れ臭そうに言葉を濁す。ヨハンは少し驚いた顔をして、丸く眼を開いた。
「―― そうだな」
しみじみと頷く。
「そうなのかもしれない」
龍亞は龍可の手を強く握って、エメラルド色の瞳を星のように輝かせた。
「だよね! 一緒に世界を守ろうぜ龍可!」
「また調子に乗り始めた。世界っていうのはね、龍亞みたいなお子様に救ってもらわなきゃならない程弱くて惨めなものじゃないんだから」
龍可が言い終わらないうちに、頭上のスピーカーが大音量でがなり立て始めた。ノイズ混じりの耳障りなサイレンだ。思わず首を竦めていると、無機質な人工音声が流れてくる。
『緊急事態発生。第一号モーメントにおいて、致命的な事故が発生しました。ただちに避難して下さい。繰り返します、ビル内に残っている職員は、ただちに避難して下さい――』
アナウンスから一呼吸の間を置いて、混乱を極めた職員達は慌しく部室を飛び出していった。無数の靴の底が廊下を殴り付けていく。悲鳴が上がる。意味の分からない言葉をわめきながら、喧騒が次第に遠ざかっていく。開発ビル内部の照明が落ちた。
仄暗くなった部屋の中で、ヨハンは龍亞と龍可の手足に繋いだ誘導コードを手早く外して、モーメント式の車椅子のスイッチを入れた。だが、車椅子は動き出す気配を見せない。龍亞が車輪を蹴って罵声を上げた。
「いつもそうなんだよ。このポンコツ、いっつも大事な時に動かなくなっちゃうんだ!」
ティッピングレバーを掴んで動かしてみたが、主輪に異常は見当たらないし、キャスターの不具合もない。ただ、動力源のモーメントが起動していない。永久機関に燃料不足はありえない。ごく身近な場所でモーメント機器が逆回転を行い、エネルギーを吸い上げているのでもなければ―― 。
<I2−NEX>の銀のプレートの隣に掛けられているカレンダーには、今日の日付に赤いマジックペンで印が付けられて、<第一号モーメント実験日>と記されている。ヨハンは車椅子を諦めて、子供達に手を差し伸べた。
「立てるか? がんばれ」
シャム双生児達は、車椅子から立ち上がるのが精一杯だ。小さな一対の身体が支え合って、両足は生まれたての小鹿のように震えている。ヨハンは二人を抱き上げてやろうとした。そこに、重い鉄の扉が落ちる震動が、床を伝って絶望的に感じられた。
『緊急事態発生、このビルは封鎖されました。区画内に残っている職員は、ただちに避難して下さい――』
エリア封鎖用のシャッターが降りてしまったのだと知る。サイレンは鳴り止まない。息が詰まりそうな閉塞感を覚える。脅えて泣き出した龍亞の背中を撫でてやると、強い力で首に抱き付いてきた。
「パパ……」
「大丈夫さ。……大丈夫だ」
「パパ、オレ達を置いてかないでよ……」
龍亞が子犬のように鼻を鳴らして言った。
「馬鹿。置いていくはずがないだろ」
「約束だよ」
「俺は、ずっと龍亞と龍可と一緒にいるさ」
ふと、まるで太陽が地表近くまで落っこちてきたかのような、眩い輝きが部屋中を照らし出した。ブラインド越しに覗いた世界は、知らない星の光景のようだった。夜空が失われていた。第一号モーメントが天を貫く光の柱となって、世界の終焉を高らかに宣言しているのだった。
龍可がヨハンの袖を掴んで、ひどく落ち付いた声で囁いた。
「パパ。―― 私達は……」
人知を超えた少女は、未来を予測できてしまっていた。幼い龍可の声が、子供が決して口にするべきではない言葉を紡ぐ。
「私達、死んじゃうの?」
* * * * *
冷たい空気が頬を撫でていった。震える瞼を開くと、すぐ近くにパパの顔があった。「大丈夫か」、微笑んでいる。「怪我は、ないか?」。気遣う声。優しい音。
パパが私を庇ってくれた。破滅をもたらす死の光から抱き締めて守ってくれた。『あの時みたいに』。私の代わりに<レインボー・ネオス>の哀しい絆の力に焼かれた背中の皮膚が焼け爛れて壊死し、生きたまま動物が焼ける嫌なにおいがした。
「思い出した。……家族を失った絶望、大切な人達は時間を停めてしまったのに、何事も無かったように歩み続けている世界への怨み。これは俺の記憶じゃ、ない。あの時、『俺が』死んだんだ。十代を置き去りにして。大きな光の中に、俺の物語は終わった」
パパの声は、自分がもうずっと昔に死んでいることにようやく気付いた幽霊の声だ。身を切る鋭い風を受けながら、荒野に独りきりで立ち尽くしている旅人みたいに、乾いていて寂しい。透明な眼差しを見ていると、この人が透き通って消えてしまいそうに思えて、少し怖くなった。
「まるで、あの時の再現がされてるみたいだった。目の前が白く塗り潰されていって……。また俺の娘を失うのかと思って肝が冷えたぜ。だけど、今度は……」
傾く頭を膝の上で抱き止めた。パパのエメラルド色の髪は、私と龍亞よりも癖のある猫っ毛だ。思っていたよりも柔らかくて触り心地が良い。触ってみるまで知らなかった。私は、まだ知らないことが沢山あるまま、この人を失うことになるのだろうか。
胸の中が冷たい雨水で満たされたような気持ちになる。雨はすぐに悪い水に変わって、身体を内側から蝕んでいく。パパは私に怪我がないことを確めると、満足そうに目を細めた。そして無表情の<私>を見上げて、
「<龍可>……」
苦しそうに、手を差し伸べた。
「守ってやれなくてごめん――」
薄い瞼が閉じて、全身から力が抜け、体温が奪われていく。触れ合っているところから死の感触がひたひたと近付いてくる。
「パパ」
子供の頃から、私の家には大人がいなかった。いなくても平気だと思っていた。両親と関わりがないまま、私は龍亞と二人で大人になっていく。年月が過ぎて、歳を取った両親が子供の私達よりも先にいなくなってしまっても、今までと何も変わらない。だからいつかその時がやって来ても、きっと私は泣かないんだろうと漠然と思っていた。
だけれど、パパの背中に手を回して、焦げた紫のシャツに開いた大きな穴に触れた時、喉の奥が塞がったような焦燥を覚えた。熱くてぬるぬるした感触が手を汚した。血だ。
「……起きて。パパ」
青い髪を掴んで引っ張った。女の人みたいに綺麗な顔なのに、皮膚が引き攣れたようになってしまった頬に触った。二本の脚と引き換えに喋れなくなった人魚姫の無音の慟哭みたいに、声にならない絶叫を上げる私を、<私>が冷たく見下ろしてくる。エンシェント・フェアリーの加護を受けた私の命を一撃で削りきれなかったことが、ひどく残念そうだった。
「あなたのライフは、残り五百。私にはまだ<ティンクル・モス>の攻撃が残ってる。魔法カードを引いたら終わり」
デッキからカードをドローする。引かれたのは、青緑色のカード。
魔法カードだ。
<私>は女性型をした不気味な発光体に目配せをして、少年の手のひらを翳した。龍亞の手だ。攻撃命令が下される。
「<スポア・スピア>。……これで、終わり」
悪意の槍が私を貫いて、全部が終わったんだと思った。
ひとつだけ気掛かりがある。龍亞が眼を覚ました時に、自分の肉体が別の人間の意志に操られて、パパと私を、家族を殺したんだと知った時、龍亞は一体どう思うだろうということだ。今までのように屈託なく笑うことができるんだろうか。それが急に心配になった。
半身が血で汚れて笑えなくなるのなら、何も知らなくたっていい。生と死の境目にある一線に片足で立った時、私はそう思った。人殺しになってしまった一番大切な人の無知を願った。その人を傷付ける記憶が捻じ曲げられてしまえばいいと切望した。
心地が良い闇の中で、槍は私の額を突き刺す寸前で止まっていた。幽かに発光する苔の群体が姿を取り繕ったもので、やがて夜に融けて紛れて消えていく。
龍亞が倒れていた。ディスクから零れたカードが、秋の森の地面を覆う枯れ葉のように、ばらばらに散っていた。私の目の前には、兄の代わりに悪魔が立っていた。
悪魔は向かい合っていた私の前に屈み込んで、黙ったままパパの額に触れた。薄青色が乗った唇をきつく引き結んでいる。手には鱗がびっしりと生えていて、蜥蜴そのものだ。どんな生き物の肉も引き裂くことができる力強い腕。自分以外の全てを傷付ける為の、太くて鋭い爪が生えている。
「やめて」
私は懇願した。
「パパに触らないで。連れていかないで――」
血の気を失っていたパパの顔が少しだけ安らかなものに変わった気がした。頬を汚している血液が乾いて変色していく。深い傷痕が塞がっていく。
<私>が宿しているのは、聖なる光の守護を受けて、癒しの力をエンシェント・フェアリーに授けられた私には、想像もつかない力だった。まっさらな善意も穢れた欲望も抱き締めてくれる夜のヴェールのようで、恐ろしいけれど、どこか安心する。闇に、こんなに優しい力があるなんて知らなかった。
「……パパを、助けてくれようとしているの?」
少し驚いて尋ねると、<私>は私らしくない男の子みたいなぶっきらぼうな仕草でそっぽを向いた。
「勘違いしないで。泣いてるママと龍亞の声を聞きたくないから。……それだけなんだから」
悪魔は私よりもずっと年上の女の人の姿をしている。私が生まれる前に存在した<私>。私が生まれる前に死んでしまった<私>。見た目はパパと同じくらいの年齢に見える。
「パパが憎い」
<私>が感情を押し殺した声で呟いた。覆い隠しきれない感情が滲み出ていて、苦しげに響く。
「パパを苦しませて悲しませて傷付けて、心が壊れそうな位の絶望をじわじわと与え続けて、人と精霊への憎しみを植え付けて、そうやって私は、嘘でもいいからママを殺したパパに言わせてやりたかった。ママを、遊城十代を世界で一番愛してるって。本当はあの人を殺したくなんてなかったって。私達のことを今でも愛してるって。……また家族で、昔みたいに暮らそうって」
<私>は、龍亞みたいにおどけて肩を竦めてみせた。
「ばかみたいよね。龍亞よりママよりずうっとばかみたい。私達のことを愛してくれなくても、結局パパを嫌いになれない」
<私>の髪は老人のように真っ白だ。虹彩異色症の双眸に、額には黄ばんだぎょろ目が嵌っていて、どことも知れない異国に旧くから伝わる呪術めいた刺青が、異形の印象を一層際立たせている。四肢は大きな蜥蜴―― 竜そのものだ。力が強過ぎて、家族や友人を抱き締めることができない不器用な腕。全てがちぐはぐな雌雄同体。<私>は怪物の母親からすべてを受け継いだ、人知を超えた存在だった。
その二目と見られない醜い竜の身体が、パパの傷が塞がるごとに、まぼろしのように透き通っていく。
精霊が人間界で実体化を行う為には、想像もつかない程の大きなエネルギーが必要だ。特殊な場を形成し、お互いに生死の選択を迫る闇のデュエルは、決着がつけば書き換えられたこの世界の理は元に戻る。
存在するだけで巨大なエナジーを必要とする存在が、恒久的にこの世界に影響を及ぼし続ける力―― 死に至る傷を癒すほどの力、冥界の門の前に立っている者を連れ戻すほどの力を使ったとしたら、一体どうなってしまうのか。
すぐに分かった。きっと、消えてしまう。
「あなた――」
「ママを殺したパパが赦せない。私達を棄てたパパを今でも怨んでる。怒って、憎んで、悲しんで苦しんで、疑って、だけど、パパまで傷付いてる姿なんてもう沢山。見たくない。ママが愛した、私と龍亞のたったひとりの大切なパパだもん」
<私>が、悟ったように言った。
「ほんとは分かってた。パパが怖い顔をやめてまた笑ってくれるなら、ほんとの私じゃなくてもいい。偽物でも普通の『私』が傍にいてあげられたら、もういい。それでよかった。……ばかみたい、本当に。パパもママも私も、全部ばかみたい。大っ嫌い」
<私>は場違いに微笑んでみせた。
「ママも―― ずっとパパを遠くから見てるだけで幸せだったママも、こんな気持ちだったのね、きっと」
何だか変な笑い方だった。こんなに清々しく自分を笑う人を知らない。―― いや、ひとりだけ見たことがある。世界から零れ落ちてしまいそうな、儚い笑い方をする人を知っている。誰も彼もに拒絶され、孤独を甘受して、それでも人を愛することをやめない、やめられない怪獣の笑い方だった。
「人に愛されたい怪物なんて、ヘンよね。私もママも」
まるで祈りのように清らかで静謐な声だ。何も答えてくれない神様と二人きりで並んで、一方通行の寂しい話をしているみたいだ。
「ねえ、来世の普通の『私』。今の私の分まで、パパを愛してあげて」
「……本物とか、偽物とかじゃない」
パパがエメラルドの眼をうっすらと開いた。火傷の痛みに一瞬だけ眉を顰めて、すぐになんでもないふうな穏やかな表情になる。
「どっちも俺達の龍可だよ」
<私>の頬が歪んで、泣き笑いの形になる。
「思い出したの。さっき、光の中にまたパパの姿を見失った時――」
<私>が言った。
* * * * *
その時、龍可の目の前には破滅の光景が広がっていた。愛する者が誰一人残らない不毛の荒野だった。完全なる世界の終わりが橙色の双眸に映っていた。幼い少女は少しだけ未来を見通す力を持っていたのだ。龍可は確認を込めて、
「私達、死んじゃうの?」
ヨハンにそう尋ねた。
「パパ」
龍可は、楽しそうな歓声と悲鳴と一緒に一回転するジェットコースターを、遠くから眺めているような気持ちだった。憧れても届かないものばかりに囲まれて、触れることもできないままに終わりを迎えるのなら、どうしてこの世界に生まれてきたのか分からなかった。テントの隙間からほんの少しだけ覗いて見たサーカスのように、世界はとても哀しいもののように思えた。
何故人ではないのに人の言葉を話せて、人に似た形をして生まれてきたのかが分からなかった。もしも重なる所がひとつも無かったなら、人間や人が造った世界なんて、何一つ好きにならずに済んだはずだ。そう思った。
「私と龍亞が悪い子だから、こんな目に遭わなきゃならないの?」
何が悪かったのかを、思い出を探りながら指折り数えてみた。それはとても他愛のないものばかりで、だけれど明日が来ないことを知ってしまった幼い子供にとっては、真剣な心配事だった。
ヨハンは哀しそうに眉を顰めた。まだ三歳の龍可が、小さな手が触れる程傍に自分の命の終焉を感じてしまうのが、ひどくやるせないように思っていた。
「馬鹿だな。そんなわけがないだろ。龍亞も龍可もいい子だ。俺の自慢さ。だから、きっと大丈夫だ。俺の命と引き換えにでも、二人は絶対に守ってみせる。十代が待ってる家に帰ろう。あいつは俺達が帰らなきゃ、ずうっと、いつまでも待ってるんだ」
赤い服を着たヒーローのことを考えると、ヨハンは、いつでも勇気が湧いてくる。笑われたくなくて誰にも秘密にしていた夢を自信満々に語ることができる。十代はいつでもヨハンに力をくれる。
そして胸の中で魔法の呪文のように繰り返す。あいつを、ひとりにするもんか。
「お前達になにかあったら俺はすごく悲しいし、十代も悲しい。俺も十代も龍亞と龍可の事が大好きだよ」
暴走した第一号モーメントがもたらす破滅の光が、この星の上に降臨する。街は死に飲み込まれていく。ヨハンは一面の白い輝きの中で、あやすように腕の中に抱いた子供達に、子守唄を口ずさむように言い聞かせた。
「二人は確かに普通の人間とはちょっと違うかもしれない。俺も十代も、普通にはなれなかった。だけど、もしも世界中がお前達のことを認めてくれなくても、愛してくれなくても、寂しいことなんてないんだ。世界中のみんなの分まで精一杯に、十代が、俺が――」
光の中で、ヨハンは言った。
「愛してるんだ」
「……私も」
光の中で、龍可は頷いた。たとえ化物として生まれても、この変わり者の父親が家族を愛してくれないはずなんかない。それを知ることができて、とても嬉しかった。
「私も愛してる。パパ……」
明日が来ないことが、穏やかな日常が断絶されて、二度と大好きな人と一緒に朝を迎えられないことが、世界が完全な終わりを迎えることが、胸が潰れてしまいそうなくらいに哀しかった。
そして、光に包まれて最期の時を迎える。
* * * * *
「思い出した」
<私>が囁いた。
「あの日のこと。私達が冥界の門の向こう側に引き込まれてしまった日のこと。光の中でパパの大きな体に包まれたこと。私の背中を強い腕が抱きしめたこと……。ママは怖くて忘れてしまったんだろうって言ってた。自分が死んだ時のことなんか思い出さなくていいって。優しいママは私が脅えないように、泣かないように、きっと私の思い出も、悪魔の力で消してしまってた」
母親を語りながら、<私>は胸の前で柔らかい指を組んで、祈りを捧げるように頭を垂れていた。たったひとりだけ信じている神様を崇拝する信仰の使徒みたいに。悪魔にはとても不釣合いで、ちぐはぐな恰好に見えた。
「だけど私は、パパに最期に抱き締めてもらえたことも忘れてしまってたのが、……今は少し寂しい」
かつて<私>は確かにパパに愛されていた。だけれど子供は大人に成長し、沢山の血で手を赤く染めた。
「……パパ、愛してる?」
<私>はパパに問い掛ける。多くの命を食らい、弄び、人の心を糧としか見られない悪魔に成り果てた姿を見ても―― 。
「まだ、私のこと愛してる?」
恐る恐る口にする。声は震えて裏返っていて、<私>が長い間独りぼっちの日々を過ごしてきた証明のようだった。幼い頃に与えられた家族の愛情を忘れることができず、古ぼけた宝石を手の中に大切に包み込むようにして生きてきた<私>は、怪物と呼ばれるようになっても、心の底では人に良く似ていた頃の思い出を愛しているのだった。
<私>が怖いのは、人々に排斥されることじゃない。パパに棄てられてしまったことが苦しかった。ママがいなくなってしまったことが悲しかった。どんなに呼び掛けても龍亞は目を覚ましてくれなくて、胸が痛んだ。家族がばらばらになっても、夜が来て世界を覆い、また朝がやってきて、<私>の中では完全に滅びたはずだった世界で、人々はいつも通りの営みを始める。自分を置き去りにして勝手に組みあがっていく世界が怖かった。人間が怖かった。人に混じって生きるパパのことが怖くなった。
パパにもママにも龍亞にも置き去りにされた<私>は、孤独の海の中をたゆたっていた。十六年という、心が歪んでしまう程の永い時間が過ぎていった。
パパは慣れた手付きで<私>の銀の髪を梳いた。柔らかい頬を撫でた。抱き締めた―― まぼろしのように透き通った<私>の身体を人間のパパの手は掴まえることができなかったから、抱き締める仕草をした。そして、当たり前のように言った。
「ああ、愛してるよ」
噛み締めるように。
「龍可、龍亞、十代。世界で一番、愛してる」
<私>の瞳が丸く開いた。天邪鬼でちぐはぐの悪魔は、正反対の感情表現をする。泣いている。きっと、とても安らかに微笑んでいるのだった。虹彩異色症の眼から、宝石のようにきらきらと光る涙の粒が零れ落ちていく。
「……どうしよう? 私、いつも我侭ばかり言って、ひどいことも言ったし、ごめんね。ほんとは」
喉を詰まらせて、恥ずかしそうに頬を赤らめる。喉の奥で微笑んだ気配がした。
「ほんとは、大好き。パパ。私、……生まれ変わっても、パパの子供になれてよかった」
ようやくきちんと笑った。人間の女の子の表情で、普通に、ごく当たり前に、平凡に、小さな子供が父親の前でするように、はにかみながら微笑んだ。
「またね」
<私>が言った。
「さよなら」
まだ少しだけ名残惜しそうだった。
「また来世にね」
<私>が、デュエル・ディスクに差し込まれたデッキの上に、透明な手のひらを乗せた。サレンダーの証だ。ガラスのように光を透過する身体が、仄かに輝く淡い光の粒に包まれる。人魚姫があぶくに変わって、光射す海の水に融けて消えていく光景を思い起こさせた。
「大好きよ。世界で一番。パパ、ママ、龍亞……」
優しい声は、ベッドに入って眠りにつく前のありふれた『おやすみなさい』の挨拶や、『また明日』の約束のようだった。造り物の星々の下で、美しい本物の夜空への憧れを込めて―― 。
「愛してるわ」
私の幽霊は唄うように囁いた。
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □
<コクーン(完)>
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