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 悪魔の瞳には、少しだけ先を見通す力がある。幼い虹彩異色症の双眸に映り込むのは、完全なる滅びの日の風景だ。
 いつか訪れる未来の世界。巨大墓地の真ん中に聳え立つ不気味な石の城。異形の魔物の宴。ベルベット地の外套のような翼を、身を切る程に凍て付いた風にはためかせて、その人は、二目と見られない醜い姿で腕を広げる。上機嫌な征服者のように、人々に神の教えを叫ぶ神官のように。
 厳かで、張り詰めていて、優しく、安堵しているようで、切なく、憧れを隠そうともせず、砕けて散ったガラスのように透明な笑顔を見せて――
「言ったろ。いいよ、オレ。……ヨハンになら」
 竜は、終わりを謳った。高らかに。
「殺されても、いい」
 
 * * * * *

 夜明けの海に浮かぶ泡のような光の粒子が、無数に煌きながら、空気の中を泳ぐように立ち昇っていく。暖かい光が龍可を包み込んで、やがて夢の終わりの知らせのように、物寂しい余韻を残して胸の中に吸い込まれて消えた。
 龍可が柔らかい瞼を震わせた。仄かに橙を孕んだ瞳で、眩しそうにまばたきをした。
 少女の世界は、ほんの一瞬前とは全く異なっていた。恐ろしい程に美しくて、また脆く壊れやすいものに見えた。鼻先を知らない匂いがくすぐる。人の心の底で渦巻く悪意が発酵した、とても甘くて美味しそうな香り。悪夢の絞り粕の気配。龍可はかすかに震えながらヨハンの首に腕を回し、胸に額を擦り付けた。
「……なんだか、涙が止まらないの」
「ああ」
「少しだけ怖い」
 ヨハンは、子供の頃に空想の両親にそうしてもらうことを夢見たとおりに娘を抱いてやった。小さな背中をさすってあやし、恐ろしい夢がどこか遠い所へ過ぎ去ってしまったことを教えてやった。控えめな嗚咽が続いた。龍可の腕に篭る力が強くなる。
 ヨハンの後ろで、万丈目がこれ見よがしに咳払いをした。
「和やかな家族の団欒を邪魔するようで悪いが」
「本当に邪魔だぜ、万丈目」
「あとでやれ。ここはどこだ? またあの異世界を放浪する悪夢の続きか? オレ達はどうしたら元の世界に戻れるんだ。さっきの嫌味ったらしいヨハンの弟にも白髪の触覚娘にも聞きそびれてしまったが、身内のお前達なら何か知っているんだろう」
 アカデミア島の残骸が、虚ろな宇宙に包まれて、消し忘れた落書きのようにぽっかりと浮かんでいる。とても大きなくじらに呑み込まれて、胃袋の中にいるような気分だ。天を見上げると、砂粒のようにささやかな銀の光が、色と形を変えながら流れるように動いている。巨大なプラネタリウムを想像した。
「……これは前世の私の記憶だけれど」
 龍可が赤くなった目を擦りながら、おずおずと顔を上げた。
「十六年前に役目を終えた<チェーン・マテリアル>が、青『兄さん』―― 十三番目の生贄を得て再び動き出したの。<チェーン・マテリアル>は、眠り続ける神様の目を醒まさせるカード」
 万丈目が三白眼気味の目を丸くして、胡散臭そうに龍可を見た。
「神様だと?」
「そう、神様。……<超融合神ワールド・エンド・ドラゴン>。パパの<究極宝玉神レインボー・ドラゴン>と一対の存在、闇を統べる覇王。私の……」
 少し躊躇う素振りを見せてから、「私のママ」と口にする。まだ迷いは残っている。だが、龍可の母親への拒絶は緩やかに形を変えていた。龍可の中には前世の記憶が確かに生きていた。家族四人で過ごしたかけがえのない日々は失われていない。そのことに、少し救われたような気持ちになる。
「ママは昔、意地悪な<超融合神>と取引をしたの。神様が気まぐれで取り上げた家族を返してもらう為に、不定形の神様に<遊城十代>という形を差し出した。今は十二の次元が主の目覚めを待って、どことも知れない次元の狭間を漂ってる」
「……さっぱりだ。分かりやすく言ってくれ」
「この宇宙は神様の夢。神様が目覚めた瞬間に、泡になって消えてしまう。世界は今、完全な終わりに向かってるわ」
「なるほど。分かりやすい」
 万丈目はうんざりした様子で溜息を吐いた。
「神様だか十代様だか知らんが、世界を救う為にはそいつに夢を見続けてもらうしかないということか。実に迷惑な話だな」
 ハリネズミのようにほうぼうに尖った頭を抱えて、苛ついて地団駄を踏んでいる。そんな万丈目へ、欠落していた十代の思い出をようやく取り戻した翔とエドが白い目を向けている。
「お前がそこまで薄情者だとは知らなかった。万丈目」
「な、なんだエド。一体何の話だ?」
「恩知らずにも程があるよね。遊城十代を忘れるなんて信じられないよ。ボクらの青春から十代のアニキを取ったら、一体何が残るっていうんだ」
 ヨハンは半目になって、横から口を挟んだ。
「お前達が言うなよ」
「パパも人のこと、全然言えないでしょ」
 龍可が肩を竦める。亮は黙ってそっぽを向いていた。
 そうしていると、目を覚ました龍亞が頭を振りながら起き上がった。両腕を上げて背伸びをしている。怪我は見当たらないし、もういつもの龍亞だ。
 十代の言葉を思い出した。『龍可が龍亞を傷付けるはずがない』。その通りだ。龍亞はヨハンの袖を握っている龍可を見ると、口許を綻ばせた。
「なになに? 龍可、パパと仲直りしたの?」
「……まあ、そうね」
「うんうん、やっぱり家族は喧嘩なんてしてちゃいけないんだ。すっごい贅沢なことだって、アキ姉ちゃんが言ってたもん」
 思い出に生きる少年そっくりの顔で、底抜けに脳天気に笑う。龍可が呆れたような、安心したような表情になる。
「龍亞はお気楽なんだから。何も覚えてないの?」
「よく分かんないけど。オレね、なんかすっごく楽しい夢を見てたんだ」
 龍亞が鼻の下を擦って顎を逸らした。照れ臭そうに耳を赤くする。
「えへへ、今よりずっと小さい頃の夢なんだ。パパとママと龍可とオレ。家族四人で過ごしてた。みんな仲良しなのが当たり前で、寂しいって何なのかもわかんないくらいなんだ。毎日ワクワクすることがいっぱいあって……でもなんだか急に悲しい気持ちになったんだ。あれれ、何が辛いのかな? って、考えてるうちに目が覚めちゃった」
「……そっか」
「変な感じだったよ。楽しいのとむしょうに寂しいのが一緒にやって来る感じ。変なの」
 龍可は表情を隠すようにしゃがみこんで、地面の上に落ち葉のように散らばっているカードに手を伸ばした。<ダンディ・ライオン>、<コクーン・シリーズ>に<ネオス>。<NEX>。前世を生きていたもう一人の自分が、少し前まで繰っていたカード達。拾い集めると、表面に付いた土埃を丁寧に払った。デッキを両手で大切に包み込んで、ヨハンに差し出した。
「……ママの大切なヒーロー・デッキ。パパが、返してあげて」
 世界の平和を守る正義のヒーロー達のカードは、古びてはいるが、大切に扱われてきたことが分かる。デッキを通して、かつて永遠の少年が夢に描いていた世界を覗き見ることができる気がした。
 沢山の友達に囲まれて、日が沈むまで笑い声が絶えない中でワクワクするデュエルをやって、また明日も楽しい日が来ることを信じて眠りにつく。そんな『普通』に憧れ続けた幼子の夢想。ぶれない正義の心さえ大切に抱いていたら、平等で分け隔てのないヒーロー達が仲間だと認めてくれる。自分がひとりぼっちじゃないと信じたかった、寂しがり屋の子供が描いた空想の世界を。
「これは、十代が龍可に預けたものなんだろ?」
「うん」
 ヨハンはデッキの上に手のひらを重ねて、頭を振った。
「だったら、龍可があいつに返してやるべきだ」
「……うん」
 龍可は、少し困った顔をして頷いた。
「そうね。……みんなを、ちゃんとママに返してあげなきゃ」
 少女の繊細な指が、主の無いヒーロー達のデッキから一枚のカードを引き出した。可視の領域にまで濃縮された闇の力が、カードを黄金色に染めている。薄い紙面に宿った魂の欠片が、実体を伴って顕在化する。
 それは、最早人の形をしていなかった。巨大な眼球だ。ちょうど両手に収まる程で、どこか金属的な印象を持っている。濃黄色の表面は艶かしく濡れていて、赤い虹彩がかすかな星の光を反射していた。
 野次馬をしていたおジャマトリオが、グロテスクな目玉を前にして、甲高い悲鳴を上げて煙の中に逃げ込んだ。主人の万丈目も、飛び上がって声を裏返らせている。
「な、なんだそれは!? 気色の悪い!!」
「でっかい目玉!」
 万丈目の隣で、龍亞も似たような格好で悲鳴を上げた。
「……疲れたろ」
 ヨハンは、落ち付いた声で言った。
 剥き出しの眼球。
 それは模造品と呼ばれた白痴の竜であり、かつてのアカデミア本島の光景を守っていた思い出の中の少年だった。青がもたらした次元の崩落から家族と仲間達を守り、傷付いて、人の形も取り繕えなくなった妻だった。
 不死者に安らかな死が訪れることは永遠にない。強靭な肉体は永劫に再生を繰り返す。それは、神とひとつになったその人が今も生み出し続けている、無限の感覚器系だった。神の瞳に、耳に、鼻に、舌に、思考回路に、皮膚に、魂になった遊城十代の人格を基にして生み出された、同一存在だった。
「アニキ、こんなに小さくなっちゃって」
 翔が溜息混じりに零した。
 十二の次元を受容する為に、神の感覚器は数限りなく存在する。だが、夢を見ている者はひとりだ。無限の情報は、神と融合した人間の自我に圧し掛かり、一瞬で押し潰してしまっただろう。
 ヨハンはむしょうに寂しい気持ちになった。焦燥した。今すぐに妻を抱き締めてやりたいと思った。恐ろしい悪夢から目を覚ましてやりたかった。目玉は溶けたチョコレートのように形を崩して、龍可の手のひらから零れて地面に染み込んでいき、やがて跡形もなく消えた。
 遠巻きに見ている龍亞と万丈目は、居心地が悪そうな様子で、縋るような目を亮に向けている。
「……オレはおかしいんだろうか、カイザー」
「いや……お前の反応が、正しいんだろう。きっと」
「だよねえ」
 万丈目の袖を掴んだまま、龍亞が何度も頷いた。
「龍可、あんなに普通にこだわってたのに。もういいのかな? オレがいない間に何があったんだろ」
 首を捻っている。
 闇の中に、夜光虫を思わせる青白い炎が灯る。稲妻のような素早さで飛来したワイヤーが、龍可を絡め取った。かぼそい光の筋が、ほんの少しだけたわんで揺れる。糸に僅かな力が掛かっただけで、少女の身体が弾かれるように投げ出された。不躾な腕が、アカデミア本校指定の女子制服の襟を捕まえて宙吊りにする。
 いつの間にか薄汚れて灰色がかった年代もののD・ホイールが、削れた大地の上に停まっていた。今は好き勝手に改造されてしまっているが、良く見ると元々は<デュエル・チェイサーズ>への支給機種だったことが分かる。
 D・ホイールの傍には見覚えのある迷彩服姿があった。昔も今も、その男にまつわる記憶にはろくなものがない。<精霊狩り>のギース・ハント。かよわい精霊達を金と享楽の為に攫う悪党だ。ギースは粘着質の細い目で舐めるように龍可を、宝玉獣を、ヨハンを眺め回すと、満足がいったように舌なめずりをした。この男の頭の中では、ヨハンの大切な家族が札束に換算され、単純な数字に置き換えられているのだろう。胸が悪くなる。
「お前の周りには、能天気な金づるが勝手にぞろぞろと集まってきやがる」
 耳障りなだみ声が、ヨハンを嘲笑っていた。
「実に都合の良い体質だよ、ヨハン・アンデルセン。その青い頭の傍に罠を張っていれば、俺は苦もなくお宝カードを手に入れられるって寸法だ」
「いい加減にしろよ! 龍可はオレの妹だ。ただの女の子だって言ってるだろ!!」
 龍亞が握り込んだ拳を振り上げて怒りを露にする。ギースは、鼻であしらう。
「は! 普通の人間だ? 笑わせやがる。怪人と怪獣の掛け合わせが、モブのわけがないだろうが」
 精霊を人間が作った価値観に引きずり込んで、苦しみもがく純粋な魂から利益を得ようとする欲深い人間のしたり顔は、どこまでも醜かった。
「一体どこから出てきたんだ」
 ヨハンは、透明人間が急に正体を明かすように、その男がひどく唐突に現れたことを訝った。
「瞬間移動でもしてきたっていうのか?」
 それこそ<精霊狩り>が獲物と定める存在のようだ。人知を超えている。ギースは高慢ちきな手品師のように、得意げに顎を逸らした。迷彩服の胸ポケットから小振りのストラップを摘み出す。チェーンの先に芋虫を模った黒い石細工が連なっているもので、あまり趣味は良くない。
「見ろ、悪魔の角の破片さ」
「あ、それオレと同じ石だ!」
 龍亞が叫んだ。男子制服のベルトに引っ掛けているストラップには、牙の形をした黒い石細工の飾りがぶら下がっている。
「お前の女房は実に便利な能力を持っていてなぁ。あいつの骨が人知を超えた力を授けてくれる。俺みたいな小悪党でももれなく使える大きな力さ。こいつがあれば、次元を渡り歩くなんざちょろいもんだ。おかげで何度もいい目を見させてもらったぜ」
―― 十代の力を、悪用したっていうのか!」
 妻は、いやしい<精霊狩り>が触れることすら許されない気高い人だった。優しい悪魔の力が、十代の意志とは関わりのないところで利用されている。そんなことは耐えられなかった。心が憎悪の闇に染まり、沸騰する。
「レアカードの窃盗」
 頭に血が上っているヨハンとは対照的に、龍可が醒めた目で呟いた。
「万引きなんて小等生じゃないんだから。おじさんはスケールが小さいのよ」
「小さい言うな! ……ん?」
 ギースは狭い額に皺を寄せて怒鳴ってから、ふと違和感を覚えたふうに白目がちの眼を宙に泳がせ、龍可に向けた。龍可が軽く頷いて、「そう、私」という。
「思い出したの、昔のこと。前世の私のこと。今の私も昔の私も同じ。パパとママの娘の龍可よ」
「……父親なんか、大嘘つきで妻殺しで母殺しのくそったれなんじゃなかったのか?」
「それが私のパパなんだから、しょうがない」
 ギースは唖然としている。
「あの人でなしから性悪を受け継いだ嬢ちゃんが、あれだけ憎んでたヨハンにほだされたっていうのか? 理解出来ない。俺なら一度嫌った奴は死ぬまで嫌いだ。いや、そうだな――
 三白眼がヨハンを睨んで、一人で勝手に納得するように何度も頷いている。
「どういうからくりかは知らないが、ヨハンは精霊をたぶらかすのが実に上手い。あの悪魔を骨抜きにしちまうくらいだ。詰めの甘い嬢ちゃんが情に流されても不思議じゃない」
「おじさん、パパを目の敵にしてる割には随分高く買ってくれてるのね」
「ふん、減らず口は母親によく似てやがる。まあいい、俺には関係のないことだからな。ずっとこの時を待っていた。性悪の悪魔を檻に閉じ込めちまえば、俺は世界を救った英雄だ。地位も名誉も財産も思いのままだ。十六年前にヨハンが悪魔を殺してヒーローになったみたいにな。あの役割は俺がやっても良かったんだが、なにせヨハンに先を越されちまったからなぁ」
「貴様――
 十六年前、十代を殺したあの日の記憶に触れると、美しい花の匂いに包まれたまぼろしが、ヨハンの眼前にありありと広がった。焼け焦げた巨躯が大気の中に頼りなく投げ出され、遥か下方の大地に叩き付けられて、肉と骨が粉々になる。倒壊したコンクリートのビルディングが怪物の遺骸を覆い隠していく。
 白昼夢の中で妻が見せた笑顔は、清々しくすらあった。何もかもを吹っ切って駆け抜けて行く者の笑顔だった。それでも、十代は泣いていたのだ。零れた涙の透明さを、今でも鮮やかに覚えている。悪夢の痛みがヨハンの胸を刺す。
「いいえ、おじさんには無理よ」
 龍可が、とても落ち付いた声で言う。
「もしもママの命を終わらせられる存在がいるとしたら、それはママが絶対に悪意を向けることができない憧れのヒーローだけ。たとえ自分の魂が滅びても守りたい大切な存在。握手をする時にも、その人の柔らかい手のひらを傷付けたくなくて、拳の中に爪を握り込むもの。ヒーローじゃない人にママは殺せない。おじさん何度もママに殺され掛けてたじゃない。『お茶がまずいのはお前が毒を入れたからだ』とか、『その変な眉毛と顎鬚は対精霊兵器に違いない』とか言って」
「ノイローゼだそれは」
 万丈目がぼやいた。龍可が後ろめたそうに言い訳をする。
「家族に置き去りにされてから、ママはちょっとおかしくなっちゃってたの」
 ギースは悪夢を追い払うように、乱雑に髪をかき上げて唾を吐いた。苦しむ娘の顔をヨハンに見せ付けるように、龍可の首を掴んで片腕で吊り上げる。
「やめろ、娘に手を出すな!」
「龍可を離せ! オレの妹にこれ以上何かしたら、絶対にお前を許さないぞ!」
「お前らは家族揃って、実に長い間俺をこけにしやがってくれたなぁ。今頃あの世で十代もべそかいてるだろうよ。溺愛してた娘が、競売のショーケースに並んでる所を見せてやりたかったぜ」
 皮肉に唇を吊り上げる。
「宝玉獣のヨハンなんてもてはやされたって、どうせまた何もできねぇんだ。法螺吹きの役立たずにはな! お得意の恰好つかねぇ祈りでも捧げてるがいいさ。神様は真性のサディストだから、あの野郎に愛された人間ってものは皆ろくでもない結末を迎えることになる。誰もお前なんかに手を差し伸べやしない」
 ―― どこからかエンジンの駆動音が響いてきた。永久機関がトルクを生み出す音が空気を震わせ、腹の奥に重く圧し掛かってくる。モノクロの空を割って、鮮烈な赤色をしたD・ホイールが次元の彼方から飛び出してきた。シルエットは、妻が昔駆っていた<十代号>にとても良く似ている。
 乗っているのは、鋭利に尖った短尾下目のような頭、艶やかな黒い髪に落ち付いた眼差しをした青年だった。横顔に強烈な既視感を覚える。かつて海馬コーポレーション<MIDS>において、モーメントの開発に携わっていた天才科学者の容貌と重なった。
―― 遊星!」
 龍亞が嬉しそうに叫んだ。
 D・ホイールが後輪を器用に地面に着くと、こまのように二度回って、青年はアクセルを思いきり踏み込んだ。躊躇いのない速度で爆進するD・ホイールを避けようと、ギースが思わずといった様子で身体を傾ける。信じれば奇跡は必ず起こると妻が教えてくれた通りに、颯爽と現れたヒーローが腕を伸ばして龍可を掠め取った。
 少女が救われた次の瞬間、ギースの顔面に龍亞のブーツの底が恨みを晴らすように突き刺さっていた。再び、眩暈がしそうなくらいの既視感を覚える。
「ありがとう遊星!」
 ふらつきながら不器用に着地した龍亞が、右手の人差し指と中指を合わせて遊星に向けた。遊星も唇を上げて同じ仕草を返す。―― ガッチャ!
「大丈夫か、龍可」
 遊星の整った顔に覗き込まれて、腕にお姫様のように抱かれている龍可が頬を赤らめた。少女が青年に好意を抱いていることは一目で分かった。
「あーっ。いいなぁ龍可」
 龍亞が物欲しそうに指を咥えている。少年が青年に好意を抱いていることも、一目で分かった。
 嬉しいような、寂しいような気分になる。
 ヨハンは、白目を剥いて大の字の恰好で倒れているギースの傍に屈み込んだ。脳震盪を起こしているようだ。溜息を吐いて、胸ポケットから十代の骨の欠片を取り返した。
「まったく、ろくでもない野郎だ」
 ギースに首を絞められていた龍可当人は、さほど気に留めていない様子で、遊星の腕の中から飛び降りてスカートの裾を直している。指の形に赤くなっている首を擦りながら、
「本当は結構良い所もあるんだけどね」
 と言う。
 ヨハンにはどうしてもそうは思えない。この男とは反りが合わないし、考え方が認められない。十代を裏切った空野と同じくらいに理解出来ない人間だった。単純に好き嫌いの問題でもある。
 龍亞が、子栗鼠のようなすばしっこさで遊星の腕を掴んで、ヨハンを見上げて誇らしげな顔になった。
「パパ。この人が遊星だよ、オレの仲間で決闘王の。サイン欲しいって言ってたでしょ?」
「ああ……」
 龍亞の髪に触る。自分の頬が緩んでいるのが分かった。息子が父親に自慢できるような友達を持っていることがとても嬉しかった。遊星は実直に頭を下げて、心地の良いトーンの声で「初めまして」と言った。
「オレは、不動遊星って言います。……貴方が、ヨハンさんですね。十代さんの――
 遊星はとても大切な宝物のように十代の名前を口にしてから、戸惑いがちに言葉を途切れさせた。かつて未来からやってきたというその青年が遊城十代と出会ったのは、今からほんの刹那の時を遡った過去のことなのだろう。遊星の思い出の中では、二人は同年代の少年同士だったはずだ。
 遊星には、十代が過去に生きていた人だという認識はある。だが彼の感覚は、少し前まで隣にいた気の置けない友人がいつの間にか年を重ねて、以前から見知っていた友人の親になっていることに戸惑っている。
「ああ。遊城・ヨハン・アンデルセン、龍亞と龍可の父親で十代の夫だ。龍可を救ってくれてありがとう。君には助けられてばかりだ」
 ヨハンは笑って遊星に右手を差し出した。
「十代や子供達から君の話を良く聞いてる。ずっと直接会ってお礼が言いたかったんだ。俺のエースを取り戻してくれたことは、今でも忘れない。感謝してる」
「あれ? 遊星とママって、知り合いだったの?」
 龍亞が遊星とヨハンの間で首を巡らせて、意外そうに声を上げた。未来から来た少年を現在で語るのはとても複雑で、説明が難しかった。ヨハンは少しだけ考え込んで、ひとまず、過去に引き起こった事件の話をする。
「昔、俺がまだ十代で、今の龍亞とそう変わらない歳の頃のことだ。時空を超える力を持ったカード泥棒に、俺の<レインボー・ドラゴン>のカードを盗まれてしまったことがあるんだ。その時に未来から来た遊星君と十代と過去の武藤遊戯が三人で結束して、カードを悪用していたひったくり犯が間違いを認めるまで闇のデュエルで嬲り者にしたって聞いてる」
「何て言うか、軒下にできた蜂の巣の駆除に電磁砲付きの戦車がやって来たみたいな感じだね」
 龍亞は目を丸くしている。遊星はヨハンが差し出した手を力強く握って、
「遊星で構いません、ヨハンさん」
 純粋なリスペクトと、隠しきれない罪悪感を孕んだ表情でそう言った。彼が何を後ろめたく思っているのかは、見当がつくつもりだった。この生真面目な青年は、生まれてから二十二年の間、ずっと同じような表情で、幾度も、数え切れない程の人間に頭を垂れ続けて来たのだろう。親の業を逃げも隠れもせずに背負って歩く子供の姿は哀しい。ほぼ反射的に、龍亞と龍可にするように頭を撫でてやると、戸惑った様子でまばたきをしている。
 ふと、龍可がヨハンの袖を引っ張った。スカートのポケットから翼を模った黒い石細工を取り出す―― これは、ヒーロー・デッキと一緒に拾われたものだ。前世の龍可が大切に持っていた母親の遺骨だ。
 そして、少し前までオシリス・レッド寮が建っていた断崖に立って、翼の飾りをかざした。すると、鍵穴が正しい鍵を得て一回転する時の小気味の良い音を立てて、次元が罅割れていく。闇に呑まれて消えたはずだったレッド寮のおんぼろ扉が、透明な空間にうっすらと浮かび上がった。
「すっげ〜! 龍可、今のどうやったの? ねぇねぇ!」
「龍亞にはまだ無理」
 はしゃぐ兄にそっけなく肩を竦めて、龍可の不思議な色の瞳がヨハンを見上げてくる。
「ママはヒーローを待ってるわ」
 龍可は、浮ついた濃紫色の靄がかかっている中空へ躊躇いなく手を伸ばして、レッド寮の扉を開いた。先には、赤茶けた縞模様を持った惑星が見えた。暗い色の環が周囲を覆っていて、四つのガリレオ衛星をはじめとする数多くの衛星を従えて、本物の宇宙の中に浮かんでいる。木星だ。足元には銀色の星屑が細い一本道の形に集まって、いずこかへと続いている。
 ヨハンは娘に頷いて、扉の向こうへ靴を踏み出した。ヨハンに続いて龍亞が恐る恐る扉のへりに足を掛け、ふと振り向いて後味が悪そうな顔になる。気絶しているギースを見下ろして言った。
「このおじさんはどうするの?」
 ヨハンは息子に向かって、力強く拳を握ってみせた。
「放っておこうぜ」
「……パパって、結構冷たいんだ」
「大丈夫。いつもママに変な所で置き去りにされていたけど、なんだか生きて戻ってきたからいつも。おじさん、これでも精霊と人間の融合体なのよ」
 龍可が澄ました顔で言って、龍亞の背中を押した。ヨハンは軽く目を見開いた。
「……こいつが? 十代と同じ、精霊と人間の架け橋だっていうのか? うっそだろぉ?」
「ママに呪われて、精霊と人間を苦しめた数だけ良いことをして罪滅ぼしをしないと、普通の人間には戻れないんだけど。でも全然懲りないのよね。きっと、良いことって何なのか分かんないんだと思う。パパとママが教えてくれなかったんだわ。おじさんに」
 龍可は可哀想なものを見る目をギースに向けて、傍にしゃがみ込んだ。花柄のハンカチを、狭い額に浮いた靴の跡に当ててから、踵を返して兄の後についてきた。道のない道を歩き出しながら、ヨハンに尋ねる。
「パパは怖くないの? ……みんなに変だって思われること。仲間じゃないって言われること。ひとりぼっちになること?」
「そりゃ、怖くないって言ったら嘘になる。だけど……」
 ヨハンは何十年も生きてきた。眩暈がする程に昔のことだが、子供の頃の思い出はいまだにヨハンの中で燻っている。世界には怖いものや気に食わないもの、苦手なものばかりが満ちていた。太陽が沈んで夜のヴェールが世界を覆うと、おぞましい闇がやってきた。世界中の醜悪を寄せ集めたような、耐え難いものだった。いつか背が伸びて、力が強くなって、ヨハンが子供から大人に成長したら、悪い夢は全部消えてなくなるんだと固く信じていた。
 そんなことは無かった。腕の中に大切なものが生まれるごとに、恐怖も不安もかさを増していく。大人になったヨハンは、相変わらず悪夢に苛まれていた。
 ただ、譲れないものを手に入れることができた。子供じみた夢だと、子供だったヨハンが恥じていた信念は叶った。精霊と人間の架け橋に出会い、人を愛しいと思い、愛される幸福を知り、二人の絆は受け継がれ、家族という形を成した。
 赤い靴を履いてどこまでも走り続ける妻が、ヨハンに教えてくれた。立ち止まっている時は、心がいつも不安に凝り固まっている。だが一度走り出してしまえば、もう怖いものなど何もない。真っ直ぐに前だけを見て走れ、駆け抜けろ。
 あの人の隣にいると、ヨハンは勇気が湧いてくる。
「……だけど、みんなの前で大好きな人に向かって『お前なんかいない』って言うことは、俺にはできない」
 ヨハンはそう娘に囁いた。まだ不安げな優しい手を取って、蛇行する星屑の道を歩き出す。広い宇宙を気まぐれに散歩するように、気取りのない足取りで。



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−「P.W.E」…<
arcen>安住裕吏 10.05.23 - 10.06.01 −