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 扉をくぐると、身体を取巻く世界の温度が変わった。視界が一回転して、上下が入れ替わる。空調によって管理された清潔な空気の匂いがする。天井にはライン状の照明灯が二列に並んでいる。光沢のある石の床を、目が眩みそうなくらいに真っ白な壁と柱が挟み込んでいる。アクリル樹脂のパネルに銀色のプレートが包まれて、冷たい輝きを放っている。案内板だ。海馬コーポレーション第二ビル二階の見取り図が描かれている。数ヶ月ぶりの味気ない廊下が、ヨハンの目に飛び込んできた。
 薄っぺらい扉だけがソリッド・ビジョンのように空中に浮かんでいる。四辺の枠の中には冗談のように雄大な宇宙が広がっていて、手品師のとっておきのショーを見ているようだった。廊下の先は吹き抜けになっていて、エントランスが上から見えた。壁伝いに、緑白色のマットな濁りガラスの仕切板が付いたスチールの手摺りと、僅かに茶が入った黒いタイル張りの回廊が取り付けられている。
 エントランスでは、事務机とスチールの本棚を総動員して、社員がバリケードを作っているところだった。詳しい理由は知れない。サングラスを掛けた男性社員が、何もない空間から突然現れたヨハン達を手摺り越しに見上げながら口を開けていた。凍り付いていた時が動き出す。
―― アンデルセン博士だ。確保、急げ!」
 馴染みの黒いスーツとサングラス姿が、灰色のカーペットが敷かれた階段を駆け上ってくる。まるで軍隊みたいに規則正しい足音だ。視界の隅で、黒いコートの裾がはためくのが見えた。亮のデッキからナイフ投げのように投げられたカードが、持ち主の手を離れて恐ろしい速度で飛んでいく。黒スーツの男の胸元に飾られている金色の社章に突き刺さり、怯んだ所へ、エドがポケットに両手を突っ込んだまま膝を上げ、面倒そうな表情で硬い靴の底を押し付けた。仰向けに倒れていく男の顔面のすぐ上で、かっちりとした白いスーツの袖が翻る。投げられたカードが、階段の踊り場へ姿を現した二人目の黒スーツ姿の襟を、首の皮すれすれのところで壁に縫い付ける。サーカスのピエロみたいだ。ヨハンは感嘆して叫んだ。
「すっげー! さっすがプロ・デュエリストだぜ!」
 三人目の追手が階段を上りきり、龍亞と龍可の方へ向かう。
「ハイブリッド型を確認! <ワールド・エンド・ドラゴン>も傍にいるはずだ、探せ!」
 男が叫ぶ。
 『ハイブリッド型』。人間の雄と雌雄同体の半人半精の掛け合わせで生まれてきた実験動物。新たなる人類の可能性―― 精霊研究機関<NEX>に近しい研究員は、龍亞と龍可をそう呼んでいる。双子の肩に回した遊星の腕に力が篭る。天空の湖のように澄んだ青い瞳が、剣のような光を帯びた。今にも敵に飛び掛かり、喉笛を食い千切ってしまいそうな、野に放たれた獣を思わせるきらめき。そこには、人を人とも思わない海馬コーポレーションの研究員への怒りが浮かんでいた。その半分は義憤で、もう半分は、白衣を着ている人間にどこか両親を重ねて見てしまう癖のせいだろう。
「遊星、子供達を頼んだ」
 ヨハンは笑って遊星の肩を軽く叩いた。「子供は大人の尻拭いなんてするもんじゃないんだ」、そう付け加える。
 伸び上がるように靴を突き出す。長い脚を、薄茶色の髪と髭をした若い黒服男に押し当て、床についた足を軸にして、身体を回転させる勢いも交えて壁に叩き付けた。
 踵を一度強く踏み込む。全身が羽虫のように軽やかに浮いた。サングラスに隠れて表情の分からない顔のすぐ傍を、ちょうど耳を掠める辺りを狙って、固めた拳を突き刺した。コンクリートの壁に、乱暴に取り扱われたガラスの窓のような、稲妻の形をした罅が入る。鼓膜のすぐ横へ激しい震動を与えられた黒服男が気絶する。サングラスが割れ、中から覗いた顔は、思ったよりも愛敬のある造作をしていた。
 ふと、手足が伸びきっている黒いスーツの内ポケットから電子音が鳴り出した。無線機の呼び出し音だ。取り上げて通話のスイッチを入れた。
『どうした、下で何かあったのか?』
「え? 何です?」
 『ハイブリッド型を確認! <ワールド・エンド・ドラゴン>も傍にいるはずだ、探せ!』―― そう言い放った男の声帯を完璧に模写して、ヨハンは返事をした。通信先から呆れたような声が返ってくる。
『何事も無さそうで何よりだ。会議の時間だぞ。上がってこい』
「ああ、そうだ。すまない。今手が離せないんだ。少し遅れるかもしれない」
『早く出ろよ』
 無線を切って、肩越しに放り棄てた。手のひらに乗るほどの大きさの四角い機械が、乾いた音を立てて階段を滑り落ちていく。
 ヨハンには、一度耳にした大抵の人間の声を真似ることができる能力があった。そういう特技を、ヨハンの兄弟は皆持っていた。持たなければ生きている価値すら見出してもらえなかったから、兵役すら存在しない平和な国で何も知らずに暮らしていた血の繋がらない兄弟以外は、皆ジェームズ・ボンドやスパイ大作戦のようなことができた。まるで雲の上を進むように足音を立てずに歩いたり、関節を外して狭いところへ潜り込んだりすること。金銀細工が施されたレアカードから、目に見えない零と一で組まれた幻まで、現実と非現実を問わない泥棒の手段。鍵を不法にこじ開ける為に、靴の底には専用の工具が入っている。人間の壊し方も段階順に詳しく学んだことがある。
「お前は何かにつけて器用過ぎる。気に食わん。今の隠し芸は何だ」
 だが、自分の持ち芸についての説明程虚しいものはない。早速絡んできた万丈目の両目を手のひらで塞いで、明日香の声をそっくりそのままに写し、耳の傍で囁いてやった。―― 好きよ、準くん。
 万丈目は瞬時に顔面を茹で上げて陥落した。扱い易い男だが、この体たらくでは、明日香の相手が務まるのにあとどのくらいの時間が掛かるのだろう。幸せそうに昏倒している姿を見ていると、少し不憫になった。
 龍亞が砕けた壁を唖然と見上げている。
「すっごい馬鹿力。手は大丈夫なの?」
 無傷の手を見せてやりながら、ヨハンは笑って言った。
「パパは子供の頃は悪の秘密結社の怪人だったんだなぁ〜」
「人造人間? 改造されたの?」
「そうそう」
「パパって悪い奴なの?」
「正義の味方のママと出会って一目惚れしたんだ。好きになってもらいたくて悪事はやめた」
「ママって、デュエル強かったの?」
「ああ、とても」
「どのくらい? 今のオレとどっちが強いかな?」
「デュエル世界大会で優勝するくらいには、強かったさ」
「えー? うそでしょ、さすがに。それじゃ最強ってことじゃない。いくらオレでも騙されないからね」
 遊星が、疑り深い眼差しで口を尖らせている龍亞を、落ち付いた声で諭した。
「お父さんの言うことは本当だ、龍亞。十代さんは、デュエル史上最強の武藤遊戯と互角の決闘者だ。今でも<幻の決闘王>遊城十代に敬意を表して、二代目決闘王の座は永久欠番になっている」
 現役決闘王が、誇らしげに「オレの憧れのヒーローだ」と付け加えた。
「そして<宝玉獣>のヨハンさんは、デュエル・モンスターズの生みの親であるI2社のペガサス名誉会長が、かつて五本の指に入るとした決闘者……つまり、世界最強の決闘者のひとりだ」
「『史上最強』と『世界最強』? えっ、オレって実はすごいサラダブレッドなの!? デュエルの王子様みたいな!」
「サラブレッドね」
 龍可が、慣れた様子で訂正をした。
「んー。学生時代に読書感想文を書いて取った賞状の話みたいで、なんか照れちまうなぁ」
 ヨハンは頬を赤らめて、頭の後ろを掻いた。
 照明を遮って大きな影がさした。項に圧迫感を覚えて、視線だけで振り向く。壁のような巨体が両腕を振り上げて、のし掛かるように迫ってきていた。ヨハンは反射的に右腕を上げて、尋常ではない程の巨躯を持った男の襟を掴んだ。
 しかし落ち付いて観察をすれば、相手の意外な容貌に目を丸く開く。
「デスコアラ!」
「コアラじゃないんだな〜!」
「……かと思ったら、なんだ、隼人じゃないか。久し振りだな〜! 元気だったか?」
「挨拶の前に、降ろして欲しいんだな!」
 デスコアラそっくりの大柄な身体で、ヨハンに吊り上げられて床の上に爪先立ちになっている隼人が言った。ヨハンが手を離すと、皺になったシャツとネクタイを直しながら、つぶらな目がせわしなくまばたきをしている。どうやら隼人は友人の姿を見付けて、いつもの調子で抱き付こうとしていたらしい。ヨハンも翔や十代と一緒に、何度かこの男に潰され掛けたことがある。
 前田隼人はI2社に所属し、デュエル・モンスターズのカードデザインを手掛けている。アカデミア本校在学時代には、十代のルームメイトだった。サッカー・ボールのようによく太っている。大柄だがおっとりとした性格をしていて、つぶらな瞳と丸鼻のせいでコアラが立ち上がってきたように見える。見た目がそっくりな<デスコアラ>を含むオーストラリア・デッキを使う。
 隼人は妻の太陽のような性質にいたく感銘を受けており、同じI2社の社員として、部署は違うものの、ヨハンとも二十年以上の付き合いになる。今日は、新作カードのソリッド・ビジョン映写テストの立会いに来ていたそうだ。
「コアラのおじさん、これから世界が滅びようって時にまだ仕事の話?」
 龍亞が面白くなさそうな顔になっているのは、幼い頃から仕事の多忙を理由に両親に置き去りにされてきたせいだろう。隼人は困惑しながら小動物のような目をまばたきさせて、しゃがみ込んだ。大きな身体が床に沈み込んだようになる。視線がちょうど龍亞の真向かいに合った。
「カードの発売日が遅れると、みんながっかりしちゃうんだな」
 新作のカードパックの発売を誰よりも楽しみにしている龍亞は、言葉に詰まる。
「う。それはそうだけど」
「おれ、絵を描くくらいしか役に立たないけど、もしも明日目が覚めないとしたって、今日できることをやらずにはいられないんだな」
「おお、かっこい〜。隼人はデザイナーの鏡だなぁ」
 ヨハンは感心して溜息をついた。隼人は照れ臭そうに頭を掻きながら、ヨハンと、龍亞と龍可を交互に見た。彼が双子の中に誰の面影を探しているのかはすぐに分かった。
「……なんて、十代ならそう言うだろうなって、思っただけなんだな。今でもたまに、嫌なことがあった時とか、落ち込んでる時とか、ぼおっとしてると耳の近くであいつが笑ってるような気がして、そしたらおれの悩みなんてあいつに笑われるくらい全然大したことないんだって、なんか元気になっちゃうんだな。あいつがいなくなってからもう随分なるけど、今でもすぐ近くにいるように感じることがあるんだな」
「ああ。いたんだ、あいつ。すぐ傍に」
 ヨハンは真面目な顔をして頷いた。<NEX>の実験サンプルとして精霊拘束装置の中に閉じ込められ、世界の終わりを告げる竜と化した十代は確かに隼人のすぐ傍にいた。
 隼人は何も知らない。困ったように少し笑っただけだった。
「ヨハンは、今までどこに行ってたんだな? ペガサス会長、心配してたんだな」
 ヨハンは置き引きに遭った自転車のような扱いが心外で、目をまるく開いた。
「え〜? ちゃんと置き手紙をしてきたんだぜ、俺」
「置き手紙って、あの『旅に出ます、探さないで下さい』って書いてあった奴か? あんなのは『ちゃんと』って言わないんだな」
「子供の家出じゃないか」
 エドが呆れ果てた様子で口を挟んだ。いつもの小馬鹿にするような口調だ。確かにヨハンは馬鹿だが、往生際が悪いと自覚しながら言い訳をした。
「だって、何も言えるわけないさ。俺もいい大人だし、会長には迷惑を掛けたくないんだ」
「大人も子供も関係ない。お前達夫婦はアカデミア時代からそうだった。他人を頼ろうとしない。そういうのをこの国の言葉で何と言うか知ってるか」
「何て言うんだ?」
「友達甲斐がないと言うんだ、馬鹿」
 救いようがないというふうに、溜息をつく。
「今でも思う。お前達二人が結婚したのは失敗だった。お互いにお互いしか見ようとしないで二人で終わってしまう生物だ。馬鹿が二人で完結してしまってどうする。お前達の為にも、力ずくでも引き離しておくべきだったな」
 挑み掛かるような眼差しだ。その奥にある感情の色にふと思い当たるものがあって、ヨハンは息を呑んだ。
「エド、お前、……もしかして」
 エドが、ふいと横を向いた。このひねくれものの男は、あけすけに思考を悟られることを好まない。だからこそ、肯定の仕草だと思えた。ヨハンは力なく肩を落として、囁いた。
「……好き、だったんだな」
「…………」
「俺のことが」
「待て。何故そうなる」
「でも俺妻も子供もいるんだ。不倫は良くない。悪いけどエドの気持ちには応えらんないぜ。……すまない」
「この馬鹿、お前は十代とは真逆の方向に性質が悪いな!」
 エドが噛みつくように怒鳴った。随分背が伸びたが、どうしても小型犬が精一杯威嚇をしているように感じる。おそらく初対面で感じた印象を、いまだに引きずっているせいだ。
「お前と話してると、あの史上最大の馬鹿と話をしているような気分になる」
 冗談のように整った顔立ちに疲労を浮かべている。
 亮が腕を組んで、横目でエドを覗っている。表情はないが、どこか面白がっているようだった。
「エド・フェニックスでも相手をしきれないか」
「……亮みたいに上から腕を組んで見下ろしていられればいいんだがな。少しだけ後に生まれたというだけで、何故一生年長の馬鹿の世話を押し付けられなければならないんだ」
「苦労をするな」
「まったくだよ」
「お互いに」
 エドは、少し驚いたようだ。首を傾げて、それから一人で納得したように「ああ」と頷く。この二人はどこか似ている。ヨハンには良く分からないが、言葉を交わさなくてもお互いの言いたいことが理解できるのかもしれない。
「外は、やめといた方がいいんだな。変なのがうろうろしてるから」
 隼人が心配そうに言った。制止されるまでもなく、エントランスに積まれたバリケードを退かせて入口のシャッターを手動で開けるのは、随分気が滅入る作業だろう。
「とりあえず俺は上がるよ。ビデオ・ルームを借りたい。預かりもののデータを見たいんだ」
 ヨハンは言った。


 <NEX-KCデビルバスター開発室>には窓がない。分厚い壁は防音処理を徹底していて、仮に室内で悪魔崇拝の儀式が執り行われていたとしても何の不思議も無い位に秘密主義を貫いていた<旧NEX>の名残がまだ残っている。おかげで、外が晴れているのか、曇っているのかも分からない。雨音はしなかった。
 部屋の中央には、シンプルなスチールのオフィスデスクが整然と並んでいる。灰色のデスクトップパソコンの横に原色のフラットファイルがブックスタンドに挟まれて整頓され、食玩のフィギュアが飾られている。無人の受付カウンターの上には、販促イベント用のポスターが無造作に突っ込まれたコンテナが乗っていた。その横でアナログ式の電話機が窮屈そうに鳴っていたが、誰も受話器を手に取ろうとはしなかった。天井には蛍光灯がひとつだけ点っている。
 掛け時計の針は午後八時を指している。部署内には残業中の空野がひとりきりだった。この男は仕事が趣味のようなところがある。
 仕事―― 遊城十代の残滓を追い掛けることだ。
 空野が振り向いた。デスクの上で備品のインスタント・コーヒーを煎れているところだった。
「こんにちは、龍亞くん、龍可ちゃん」
 空野は丁寧に龍亞と龍可に頭を下げた。気まずそうにヨハンと空野を見比べている龍亞の横で、龍可が行儀良く挨拶を返す。
「こんにちは、空野さん」
 空野はヨハンを見るなり、残念そうな顔をした。悪意はヨハンの一方通行ではない。相手にも同じだけ嫌われていることを知っている。
「やあ、今日はお客さんが沢山だ。お尋ね者の元最高責任者に、プロ・デュエリストに不動博士のご子息まで。大したもてなしはできませんが、どうぞゆっくりして行って下さい。ところで元博士。十代先輩の姿が見えませんけど――
「……十代は十六年前に俺が殺した」
「しょうがなかったんですよ、あれは。あの時先輩を殺さなければ、貴方も世界を敵に回していた」
 空野は道化師じみた大仰なポーズを取って、思ってもいない慰めを口にした。
「十代先輩が決めたことですから、僕は口出しをしない。ただ恨むだけです」
「お前に慰められに来たわけじゃない。ビデオ・ルームを借りるぜ」
 ヨハンは、書庫の隣に並んでいる両開きのロッカーからビデオ・ルームのカードキーを取り出して、空野を素通りして歩いていく。
「逃亡中のお尋ね者のわりに、相変わらず物凄く態度がでかいですね」
 ぼやく空野の後ろで、龍可が申し訳無さそうに頭を下げていた。
「ごめんね、空野さん」
「ほんと仲悪いんだね」
 龍亞が呆れたような感心したような顔になる。ふと空野は客の顔ぶれを見回して、
「青くんは、行ってしまったんですね」
 ぽっかりとした、穴の空いたような声で言った。龍可が頷くと、ようやく納得がいった様子で頭を振ってみせる。
「そうですか。そうだろうと思っていました、この街の異変は。やはり先輩から逃げられるものなんていないんですね」
「異変?」
 窓のない<NEX>部室内からは、ビルの外の様子を覗うことができない。遊星が、畳み掛けるように空野に尋ねた。
「ネオ童実野シティに何かあったのか。みんなは無事なのか?」
「無事かどうかは、十代先輩の気まぐれひとつというところですね」
「……街の様子を見て来よう」
 遊星は肩を落として、重い足取りで部屋を出て行く。
 ビデオ・ルームの前で、ヨハンは遊星を呼び止めた。生真面目そうな青い目が上を向く。預かり物の記録媒体を指先で摘んで尋ねた。
「君はこの中に入ってるデータを見たのか?」
「あ……はい」
 気後れしたふうに、遊星が頷いた。龍亞が余程珍しいものを見るように目を丸く開けていた。
「ディスクの中身を、ヨハンさんが見るべきなのかは分かりません。いや……見るべきなんです。だけど十代さんは、きっと貴方だけには知られたくなかった」
 ヨハンと十代に板挟みにされる位置に立っている遊星の苦悩が伝わってきた。悩むために生まれてきたような青年だと思った。彼のように実直で思いやりに溢れた人種には、十代のようにあらゆる意味で奔放な存在がさぞ羨ましいことだろう。ヨハンに頭を下げて、廊下を歩いていく。
「二度も見たいものじゃない」
 エドはそう言って、ヨハンの後ろを通り抜けていった。
「よく分からんが激しく気が乗らん。行くぞ、屑ども」
 万丈目もおジャマトリオを引き連れて、エドの後に続く。
「さ、私達も遊星と一緒に行きましょ。子供が大人の話に口を挟むのは良くないし」
 龍可が龍亞の背中を押して歩いていく。
「ええー? 子供って何だよ。龍可らしくないなぁ」
「何言ってるのよ。何かあった時に、私達が遊星を守ってあげなきゃ」
「あ、それもそうだね。龍可いい事言う」
 龍亞は単純に納得して、すぐに機嫌を直すと、腕を大きく振りながら遊星を追い掛けて行った。
 かつての十代は、心の闇をヨハンに決して覗かせようとはしなかった。同じように今の龍可も、龍亞の前では仄かな闇色の気配を匂わせはしない。
 ヨハンは幾分重苦しい気分になって、虹色に煌いているデータ・ディスクの表層を指で弾いた。龍可が、ヒーローを目指す龍亞にだけは見せたくない母親の姿が、この中にはあるのだ。傷付きやすい悪魔の心を想うと、少し哀しい気持ちになった。
 仲間達が次々と去っていく中で、翔が立ち止まった。
「ボクも残るよ。少し、ヨハンに聞かせてあげたい話があるんだ。そんなに面白い話じゃないけどね」


 遊星が行きずりの男から託されたというデータ・ディスク。前世の龍可が<コクーン>に遺していた<旧NEX>の残滓。
 そこにあったのは、遊城十代の罪の記録だった。
 十六年前に再発足する<現NEX>、ヨハンが統括する今の精霊研究機関が設立される以前のことだ。人間の手によるものとは信じがたいが、人間の手による以外のものではありえない、悪魔のような部署があった。<旧ナイトメアエクステント>。最高責任者である遊城十代博士は、非道の限りを尽くして、人の心を持たない本物の悪魔だと恐れられていた。
 多くの生命が彼の、あるいは彼女の餌食になっていた。その人は、幼い子供までも使い捨ての利く玩具の部品のように利用する鬼畜だった。血塗られたおぞましい悪行の数々は、<赤い悪魔>の名に相応しかった。
 かけがえのないものを失くした人は悪魔に縋る。かけがえのないものを失くした悪魔は神に縋る。それは失ったヨハンを、双子の子供達を性悪の神から取り返す為に駆け続けた十代の物語だった。
 瞼を瞑って耳を塞いでしまいたかった。かつて十代が十六年の間、優しい嘘でヨハンを抱き締め、真実から遠ざけていたように。
 ―― 目を開け。見ろ。
 ヨハンは何度も自分にそう言い聞かせる。奮い立たせる。勇気を示す。
 それはヨハンが最愛の人間に犯させた罪の記録だ。ヨハンの罪だ。
 優しい魂と正義の信念と輝ける夢、その人を構成する人格のすべてを神に捧げて死に別れた家族を蘇らせた十代は、再び家族で幸福な日々を過ごすという新しい夢を見るには、既に疲れ切っていた。ヨハンに身体を焼かれた時、静謐な眠りの中でようやく安息を得たかと思えた。
 しかし十代は、死してなお神の慰み者になった。
 ―― 神。
 <究極宝玉神>と対をなす<超融合神>は、不定形で『自己』という概念がない、世界の意思のようなものだった。神は、永い眠りから<チェーン・マテリアル>のカードによって自身を呼び起こしたユベルと共感した。孵化したばかりの雛が、造りものの人形を親鳥だと刷り込まれるように、ユベルを求め、ユベルが望んだ十代を求めた。
 ユベルに寄生していた神は、超融合によってユベルとひとつになった十代をも蝕んでいく。あやふやな自我を得た神は、思考する心と世界に触れる肉体を何よりも欲していた。雨上がりの青い紫陽花の葉の上で、捕食者の鳥達に向かっておぞましく膨張した角を振り翳すかたつむりのように、腹の中の虫が育ちきったかまきりが、水辺に誘い出され、入水自殺をさせられるように、大いなる寄生虫に操られて、十代の運命は狂っていく。
 神による因果律への細工が、十代の歴史の中に早過ぎる家族の死をもたらす。最愛の者達に置き去りにされたその人は、まぼろしを求めて神の膝元へ頭を垂れた。神の情けを望んだ。すべて<超融合神>の策略の通りになった。
 遊城十代は<超融合神>となり、家族を冥界の門の向こう側から取り戻した。<超融合神>は遊城十代となり、心地の良い意志と美しい肉の器を手にいれた。
 しかし、それはほんの僅かな間のことだった。神に存在した自我は、この十二次元宇宙に停滞する生物の感情や、星の記憶から砂粒の位置までに至る地理情報、膨大な記録に押し潰されてしまう。盲目にして白痴の姿に還った神は、十二次元を統合し、完全な世界を創り出すという、かつてのユベルの夢を機械的に遂行する<世界の終わりを告げる竜>と成り果てる。


 モニターには、ヨハンの姿がうっすらと映り込んでいる。
 二十二年前に<ゼロ・リバース>の破滅の光に焼き尽くされた時から、ひとつも歳を取れなくなった身体だ。蘇った死者だ。死体を継ぎ接いだヴィクター・フランケンシュタイン博士の怪物だ。
 光の中に狂った<神>は、神殺しの咎有り男に呪いを掛けた。
 ―― 今後誰にもヨハンを殺すことはできず、誰にも裁くことはできない。永遠に歳を重ねることもできず、冥界の王はこの男を、安らかな天国へも、贖罪の快楽を貪る地獄へも、決して招いてはならない。罪を忘れ果て、美しい夢を追い求めて、果てしない現世をさまよう運命を与える。
 ―― 遊城十代はヨハンを呪う。生きて、生きて、生きて、生きて、生き続けよ。


「今から二十八年前、ボクらがデュエル・アカデミアの三年生だった頃のこと。覚えてるよね、あの異世界でのこと」
 翔がヨハンに語ったのは、おぞましい闇の世界で引き起こった虐殺の物語だった。ヨハンが触れたことのない、十代の救いようのない末路だった。
「アニキはヨハンを目の前で失ってから、変わってしまった。少しの弱さも許せなくなってしまったんだ。自分が抱えてる弱さも、他人の弱さが目につくのもね。だからアニキは決闘者のデュエル・エナジーを奪って集めて、誰の弱さも届かない、揺るぎない力の象徴を作り上げた。<超融合>のカード。
 デュエルしたら必ずどちらか負けた方が死ぬ闇の世界でだよ。アニキは、コブラみたいな生温い方法でエナジーを集めたんじゃない。何千何万何十万、数え切れないくらいの人と精霊を殺戮したんだ。使えなくなった下僕を見限って棄てることにも躊躇わない。仲間の声も届かない。大事なものは力だけ。人間の心はあんなふうに単純なものじゃない。あの時のアニキは、無数の魂を食らって血に染まりきった、<超融合>のカードの化身みたいだった。
 アニキは狂った。壊れた。ヒーローは覇王に堕ちた。トリガーを引いたのは―― はじまりは、ヨハンの死だ。あの時キミが本当は生きてたのか本当に死んでたのか、そんな真実は重要じゃない。ただアニキの中でヨハンが死んだ。それがきっかけだったんだ。キミという光を象徴する半身が消えたから、闇がひとりで歩き出して死を振り撒いていたんだ。
 アニキはヨハンに憧れてた。ボクがアニキに憧れるくらい……ううん、もっと性質悪く憧れてた。アニキはいつもヨハンを追い掛けてた。アニキの頭の出来の悪さなんてみんな知ってるのに、ヨハンの夢を叶える為に似合わない科学者の白衣なんか着ちゃった。『旅がオレを呼んでる』とか自由なことを言って、急にみんなの前から姿を消すことがなくなった。可愛いエプロンなんかしちゃって、キッチンに立って料理の教本なんか読みながら、でも不器用だから指を切ったり髪を焦がしたりしてた。全然似合わないことしてるのに、すごく楽しそうな顔をしてた。幸せそうだった。
 アニキは、ヨハンの隣でヨハンと同じだけ輝きたいと思ってしまったんだ、きっと。そんなの無理だ。だって、闇は光と相反する。アニキの輝きは全部ヨハンに吸い取られてしまうんだから。
 ヨハンが輝いてられるのは、隣にアニキがいるからだ。闇を全部引き受けてくれるアニキがいるからだ。光の中を歩くキミの隣を歩いて、同じだけ輝こうとする闇なんて変だよ。矛盾してる。
 遊城十代の心の闇は、ヨハンが思ってるよりもずっと深いんだ。いつもヨハンだけが知らなかったんだ。だからあの人は、まるで綺麗な生き物みたいに扱ってもらえることが心地良くて、ヨハンと一緒にいたんだ。
 自分の闇を受け入れた者が光に祝福されたキミの隣で笑うことが、悪魔が太陽の隣に立っていることが、どれだけ熱いのか。どれだけ眩しいのか。考えてもみなかったでしょ。ヨハンに触れるだけで、きっとアニキは身体を焼かれるくらいに苦しかったんだ」
 ビデオ・ルームの冷ややかな空気の中で、メインモニターがデータの再生を終えて沈黙した。空中に投影されたパネルは、咲いた花が萎れるように閉じていった。
 醒めない悪夢を見ているようだと思った。悪夢の中に置き去りにされた半身の絶望を想って、まだ頭がぼんやりしていた。どうしてか、出会ったばかりの頃の妻の、純朴で能天気な笑顔が脳裏に浮かんだ。
 初めてその人に笑い掛けられた時、目が眩むくらいの強い光の中にいるようだと思った。触れた手は温かくて、力強く握手をすると、確かに実在する人なのだという感慨が湧いた。憶えている。キャスター付きのワークチェアを引いて立ち上がった。


 ビデオ・ルームの鍵を持って<NEX>の部室へ戻ると、空野はまだキーボードを叩いていた。性懲りもなく、例の嫌な名前のオンライン・ゲームの調整をしている。
 <悪魔退治>。まったく、嫌な名前だ。
「ひどい顔ですよ」
 空野は振り向かないまま視線だけを上げて、空々しい口調で言った。ヨハンは返事をしなかった。相手も気にせず、すれ違い際に独り言のように呟いた。
「世界を救う為には、ヨハン・アンデルセンが神の遺骸の耳元でたった一言囁けばいい。『お前なんか大嫌いだ。消えてしまえ』と」
 ふと、ヨハンは足を止めた。それはヨハンが子供の頃、古いビデオの前に座って、毎日のように繰り返していた呪いの言葉だった。
 <カーレン・アンデルセン>。遠い異国の地で何不自由なく暮らしている王子様。十番目の兄さん。お前なんか大嫌いだ、消えてしまえ。死んでしまえ。記憶の中から痕跡も残さずに消し飛んでしまえ。お前さえいなければ、こんなろくでもない世界に生まれてこなくて済んだのに。
 もう一度、たった一言だけ、ヨハンが眠り続ける妻の耳の傍で呪いを囁けば全てが終わる。世界は救われ、光に満ち溢れたハッピー・エンドを迎える。十六年前にヨハンが妻を殺し、焼け爛れた遺骸を世界中の人々の前に晒し者にして、英雄になった時のように。街は鮮やかに色付き、喜びと活気が満ち溢れ、精霊と人間の笑顔が絶えない夢のような光景を見る事ができる。
 ヨハンは、押し殺した声を喉から絞り出した。
―― それを、俺が、あいつに言えると思うのか?」
「死んでも無理でしょうね。世界は破滅です」
 空野はタッチパネルを弄る指を止め、過去を懐かしみながら遡る者の、郷愁に満ちた声で言った。
「僕が十代先輩を知るきっかけになったのは、本校入学の年に開かれたジェネックス大会の時でしてね。親友の剣山が十代先輩の後ろをついて回っているのが羨ましくてしょうがなかった。いや、僕は生まれつき負けず嫌いなもので、十代先輩の傍にいるだけで強くなった気でいる剣山をやっかんでいたんですよ。僕が十代先輩を完膚なきまでに叩き潰してアカデミアのカリスマを失墜させた時、きっとあいつは、次は僕の子分にしてくれと言い寄ってくるに違いないと見下していた」
「ふん、お前らしいぜ。剣山は案外人を見る目が無いな」
「まあせっかくなので、最後まで聞いて下さい。確かに僕は鼻持ちならない男です。自覚はある。ですが、十代先輩にデュエル・アカデミアの卒業デュエルを受けてもらえた時の高揚を今でも覚えている。残念ながら、あの人の本気は、なにひとつ僕へは向かない。いつもそうだった。あの卒業デュエルの時だって、僕が全てをぶつけたデッキを、僕の<ホルスの黒炎竜>を、軽くあしらうだけだった。
 あの人は完全無欠のスーパー・ヒーローで、いつも高みから遠くを眺めていて、足元の僕の存在に気付きもしない。あの人の為に駆けずり回っても、結局僕にできたのは、泣いているあの人の後ろで右往左往することだけだ。ヨハン・アンデルセンへ向ける半分の微笑みさえ僕は知らない。
 あの人は優しくて恰好良くて、ずっと僕の憧れで、誰より綺麗だった。どれだけ両手を血に汚しても、いくつもいくつも嘘を重ねても。僕のただ一人の神だ」
「みんなそうやって、十代のことがなんだかすごい奴なんだって騙されてる」
 ヨハンは、ぽつりと零した。
「あいつはひねくれ者でうぬぼれ屋で天邪鬼な奴なんだ。俺があいつのこと抱き締めてやらなきゃ。弱虫だって本当のことを言ってやらなきゃ――
 ヨハンが最後に見た妻は、まぼろしの中で、ひどく儚い姿だった。泣いていた。かつてのスーパー・ヒーローは輝きを吸い尽くされ、自ら光ることができない死んだ星へと変わり果てていた。ヨハンの<月>だった。童話の中で、夜毎に美しい世界を語り上げていた、愛しい星だった。
「……闇なんて、光なんて、どうだっていい。覇王も<超融合>もどうだっていい。人を殺しても、精霊を壊しても、どんなに悪い奴でも、どれだけひどいことをしても、両手が血まみれだろうが、気が狂っていようが、人間を辞めようが知るもんか。何が変わるっていうんだ? 十代は俺の妻だ」
 ヨハンは吐き棄てた。
「家族を守るのが俺の使命だ。正義も博愛も世界も神も、あいつを傷付けるのなら間違いない。俺の敵だ」



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arcen>安住裕吏 10.06.03 - 10.06.10 −