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 繁栄を享受する銀盤の都市は、今は夜色のヴェールに覆われて、眠り込むように沈黙していた。ネオ童実野シティ上空はうすぼんやりとして見通しが悪く、冷ややかな霧が濃く地表に垂れ込めていた。時折親鳥がくちばしで卵の殻をノックするように、微弱な地震が断続的に起こっていた。まるで孵化する時を待っている透明な卵の内側の世界のようだった。
 静謐で悼むような夜更けだった。灰色をした無機質な工場群に挟まれた小路に、蠢くものがある。闇を鏡に写したような、どこまでも黒を突き詰めたような体躯に、薄汚れたぼろきれを引っ掛けてはためかせながら、多足の獣が音もなく無人の路地を駆け抜けていく。耳まで裂けたあぎとからは、濁った涎が滴っていた。
 デュエル・アカデミア・ネオ童実野校の指定制服姿の生徒達が、猫科の肉食獣の特徴をかろうじて残した怪物に追い回されていた。その中で唯一小豆色の女子制服を着た少女が、疲労から脚をもつれさせる。転倒した。
「パティ! 大丈夫!?」
 男子生徒の一人が、振り返って足を緩めた。獣は十二本の脚をむかでのように交互に運び、恐ろしく俊敏な動作で獲物に圧し掛かった。少女が悲鳴を上げる。
 蜘蛛の糸のように複雑に入り組んだ小路の角を曲がった途端に、龍可の視界に飛び込んできたのは、そんな光景だった。何も考えないまま、龍可は腕を突き出していた。怪物の鼻先を押さえる。
「おすわり」
 すると獣は、良く慣らされたサーカスの動物のように、機械的とすら言える程に整った仕草で尻を地面につけた。
 <ブラック・パンサー>。かつては<ネオスペーシアン>の一員だったヒーローは、あまりにも変わり果てた姿で満足したように喉を鳴らし、龍可に甘えるように乾いたコンクリートの上に寝転がって腹を見せた。
「……本校では、猛獣の調教の授業も受けるの?」
 パティは唖然としている。龍可は、珍しく人に愛想を振り撒いてくれる野良猫を見付けたような顔をして、お化け豹の喉を撫でてやった。
「いい子ね<ブラック・パンサー>。もう帰りなさい」
 龍可が不定形な尻尾の付け根を叩くと、多足の怪物は起き上がって姿勢を正し、頭を誇らしげに逸らしながら、従順に闇の向こうへ消えていった。その後姿が完全に見えなくなってしまうと、龍可は尻餅をついているパティに手を差し伸べた。
 小等部で出会った幼馴染のパティは、数ヶ月前に龍可がアカデミア本校へ留学をする以前と、それほど変わっていなかった。褐色の肌に金髪。珍しい組み合わせだ。癖っ毛をオレンジ色のリボンで纏めている。とても痩せていて、掴んだ腕は龍可よりも細い。明るくていつも元気な姿は甘いチョコレート・バーみたいで、内向的な龍可とは正反対だった。いつもクラスの中心にいるタイプの女の子だ。何か運動をしているようで、脚には綺麗に筋肉がついている。去年の臨海学校では、クラス対抗のビーチ・バレーでパティのチームが優勝していた。龍可は相変わらず点数板の下で見学をしていた。うろ覚えだが、四対一。パティのように手足を伸びやかに突き出し、カンガルーのように飛び跳ねることができれば良いのに。どうせ、龍可の入ったチームは負けてしまうのだけれど、パネルを入れ替えながら羨望を抱いたものだった。
「久し振りね。元気そうで良かったわ。私達がいない間に何か変わったことはなかった?」
「変わったこと」
 パティは反芻して、左右に首を揺らしてから頭上を見上げた。変わり果てたホーム・タウン。星空を失って、得体の知れない天幕に覆われた哀しげな天上。こめかみに人差し指を押し付けて、首を傾げている。
「もしかして時差ボケしてる?」
「……私、ずれてるかな?」
「うん、確かに、前からちょっとずれた娘だとは思ってたけど。龍可、ちょっと変わったね」
「大人になったのよ、きっと」
 龍可は澄まして言った。怪物が去った方角を、まだ気味が悪そうに見つめながら、他の友人達がまばらに戻ってくる。
「無事か、パティ」
「うん。……スライは?」
「あいつ、一人で逃げちゃったんだよ。臆病者だからさ」
 ボブが馬鹿にしたように言った。スポーツマンのように短く刈られた薄い茶色の頭、癖の強い太い眉、見開きがちの黒い眼。ロースハムみたいな、色白の肥満児だ。芋虫に似ている指で、玉の汗が浮いている額を引っ掻いた。
「臆病者っていうより、薄情者なんだよね。あいつは」
 ボブの後ろから、スクエア・フレームの眼鏡を掛けた少年が、小柄な身体を乗り出した。前分けの栗色の頭には、何度か転んだ名残の土埃が付いていた。天兵は相変わらず線が細く、女の子みたいな顔立ちをしている。左右対称になるように揃えられた行儀の良い蝶ネクタイが、いかにも気弱なお坊ちゃんといった印象を誇張していた。遊城兄妹がデュエル・アカデミア本校に留学をしている間に、少し背が伸びたような気がする。
 あとから龍亞が追い付いてきて、龍可の両肩を掴んだ。馴染んだ顔ぶれを見付けて忙しなく視線を巡らせている。
「どうしたの? みんな。こんなところで」
「学校に避難するところなんだよ。お前らこそ本校に留学してるんじゃなかったのかよ」
 ボブが答えた。天兵が複雑そうな顔をして手を差し出してくる。
「最悪のタイミングでシティに帰ってきたな。でも、おかえり龍亞。おかえり、龍可ちゃん」
「やっぱ帰る所はここだよ。パパとママには本校が特別な場所かもしれないけど、オレ達の特別は生まれてからずっと育ってきたこの街だもんね」
 龍亞がしみじみと言った。天兵の手のひらを強く握り、嬉しそうに目を細めた。人懐っこい犬のような姿に、天兵が安堵した様子で溜息をつく。
―― おぉい! 龍亞! 龍可ちゃん! そこ、無事か!」
 龍亞と龍可を追って、暗がりの奥から武骨な呼び声が聞こえる。錆びたパイプラインが絡まるように交差しながら、雨ざらしのコンクリート壁に張り付いている小路に、左頬に傷を持ったいかめしい顔が浮かび上がった。
 牛尾だ。センサー式屋外用照明の仄白い光の下、背広を肩に背負うようにして、シャツの袖を捲り上げ、太い眉毛を顰めている。良く日焼けした浅黒い肌をして、目付きが悪く、粗暴な動作が目立つ強面だが、ネオ童実野シティの平和を守る為に日夜命を懸けて犯罪者と戦っている本物のセキュリティだ。硬派な見た目に似合わず、気の強い女性に果てしなく弱いことを、近しい人間は皆知っている。
「あ、牛尾さんだ」
「あ! 遊星だ!」
 友人達が、牛尾の横に並んで現れたヒーローの姿を見付けて歓声を上げた。無邪気に目を輝かせて、軽やかに飛び付いていく。表情にかかっていた不安の影は、一瞬で消え去っていた。遊星にはそういう力がある。彼らの手を優しく握り返すと、微笑を浮かべて頷いてみせた。
「遊星ならきっと何とかしてくれるよね!」
「信じてるよ、遊星」
「心配するな。大丈夫だ。……すぐに、いつもの日常が戻ってくる」
「うん、遊星が来てくれたんだもんね!」
 龍亞と龍可はお互いを横目で見詰めて、手を握り合った。心を共有する。遊星は、他人の不安を引き受けて一緒に背負おうとする。背負えてしまう力がある。自分自身の不安を取るに足らないもののように扱う。そんな性格だから、傍にいるといつも心配になる。
「おら、さっさと避難しろ。積もる話は歩きながらで構わねぇだろ。遊星」
 牛尾が、いつものことながらヒーロー役を民間人の遊星に奪われて、所在無さそうに頭を掻きながら、生徒たちの肩を大きな手で押して歩き出した。
 ターミナルに直結した屋根付きのダブルデッキに出ると、霧に覆われたネオ童実野市街を、ぼんやりとだが見渡すことができた。<眠らない街>と呼ばれた世界の中心都市からは、人の営みの明かりが消えていた。かつては宝石のように煌いていたオフィス街のビル郡が、滅びた街の亡霊のように佇んでいる。道路脇に等間隔に立っている街灯の光が、濃霧に吸い込まれ、光苔のように弱々しく点っている。普段は夜遅くまで活気付いている駅前の高架下商店街にも、すでに仰々しいシャッターが降りていた。無人だ。墓場のような静寂に包まれている。
 時計を確認する。午後十一時。この時間だとまだシティ内を巡回するモノレールが動いているはずだったが、ターミナルのホームには、頼りのない照明こそ点いてはいるものの、次の便が入って来る気配は無い。
 警戒宣言が出されているせいだと牛尾が教えてくれた。
「海馬コーポレーションの<NEX>って部署が作った、<デビルバスター>ってゲームを知ってるか。龍亞、お前は年齢的にちょうどターゲット層だったろ」
「カードのモンスターが実体化するゲームでしょ?」
 龍亞が栗鼠のような目を上向けた。
「そうだ、モンスター。少し前から、そいつらがソリッド・ビジョンのくせして、まるで心を持った生き物みてぇに勝手に動き出したんだよ。主人の命令を無視して人を襲い始めた奴がいる。主人の命令に従って人を襲い始めた奴もいる」
「でも空野さん、えーと、ゲームを作った人。前にね、そんなことには絶対ならないって言ってたよ。大事なルールを三つ決めてるから大丈夫なんだって」
「インテリの『大丈夫』程信用ならないものはねぇ。ひとつ、象が踏んでも壊れないって触れ込みの丈夫な炊飯器は、買って三日で蓋が取れた。ふたつ、節電仕様のこたつの電源が入らない。みっつ、一瞬でパンが焼ける便利で安全なトースターが爆発」
「それは牛尾さんの使い方が乱暴なんだよ」
 遊星の右隣について、龍亞が先頭を歩いていく牛尾に抗議する。その後にクラスメイト達が続く。龍可は一番後ろを歩きながら、霧の中へ視線を投げ掛けた。街灯の光が溶け込んでいるせいか、辺りは薄ぼんやりと明るい。その中に、時折蠢くものが見える。明らかに人とは異なったフォルムが、影絵のように伸び縮みをしながら踊っている。目を逸らして、少し前に<KC−NEX>で空野が弄っていたプログラムのことを思い出した。
 <デビルバスター>における<実体化の三原則>は、開発者が取り決めた絶対のルールだ。だがルールというものは、創造者が新たなルールを上書きしてしまえば、ごみほどの役にも立たない。
 かつて十代が龍亞と龍可の慰めに生み出し、前世の自分が組み立てた玩具が、多くの人々を傷付けている。龍可の半分は、そう考えるとひどく恐ろしい気持ちがした。
 もう半分の龍可は、静かに真逆を思考する―― 永く眠り続けてきた母の目覚めの時が来た。無知無能の神の降誕を祝せよ。心のままに喰らえ、唄え、わめけ。狂乱せよ。力を示せ、正義を示せ。精霊達よ、覇王の子が赦そう。それこそが新しいルールだ。
「とにかく、もう何人か食われてんだ。悪気の有る無しは関係ねぇ。その空野さんって奴を見付けたらすぐにしょっぴいてやるからな。そいつが一つ目の厄介ごとだ。二つ目は、ここからならちょうど正面になるか。見えるか? 霧が邪魔だが。どれもこれも、あいつが現れてからだ。疫病神さ。多分な」
 水粒のフィルタが視界を濁らせているが、<旧NEX>研究開発ビル跡地、今は整備されて森林公園になっている区画のちょうど真上に当たる上空に、良く見ると鋭利な亀裂が入っている。
 眼だ。脈動していた。罅割れの向こう側から眼球が覗いている。時折赤い虹彩を不気味に蠢かし、夜空に浮かぶ星のように輝いて、無人の街を見下ろしている。
「……あれなに? でっかい誰か、空からこっち見てる」
 龍亞が鳥肌を立てて遊星の腕に掴まった。それは、例えば神様のようなものが、次元の割れ目から人の営みを他人事のようなふりをしながら、しかし興味深そうに眺めているのだった。牛尾は上手い返事が見当たらないようだ。顔を渋くしている。
「うちのお偉いさんまで妖怪一つ目入道だとかアメリカから出張して来たバックベアードだとか騒いでやがるんだぜ。俺が知るか。空の向こう側の名無しの誰かさんだ。遊星が例の変な穴に落っこちた頃から浮かんできたんだよ。ところで無事で何よりだが、お前今度はどんな不思議な隠し芸のお陰で助かったんだ?」
「……イルカ人間に会ったんだ」
 遊星は突然奇妙なことを言い出した。珍しく自信が無さそうにしている。
「あぁ? 何だそりゃあ」
「オレにも良く分からない。あれは、何だったんだろうか」
「俺に聞くなよ。まぁいい、あの目玉のちょうど真下、森林公園の歩道らへんだな。地震で大穴が開いた。遊星が落っこちた深い穴だ。あの辺りの地盤は最初の揺れでだらしねぇ程緩んじまってるから、余震の度に崩落だ。穴が広がってっちまう。さっき聞いたんだが、土の中から腐りきった肉の塊が出てきたそうだ。ああ、安心しろ、仏さんじゃねぇってよ。俺もまだ実際に見ちゃいないが、思うにどこかの馬鹿な肉屋が偶然地下にできてた空洞を知って、売れ残った肉をこっそり棄ててたってところだろうよ。ひでぇ臭いらしい。そんで蛆虫だ。栄養たっぷりの環境で育った蛆虫のプールだ」
「うげぇ」
 ボブが潰された蛙のようなうめき声を上げた。天兵はどこかがっかりした様子で、眉間に皺を寄せている。
「公園前の道路が封鎖されてるから一体何が起こってるんだろって思ってたら。穴とただの肉の塊と蛆虫?」
「ああ。落っこちたりしたら悲惨だぞ。ただでさえ深いんだ。それに、そんなえげつないもんを市民に見せらんねぇだろ。しばらく飯食えなくなるぞ」
「うん、生きたでっかい竜とか、あ、化石でもいいんだけど。そういうのがいるんだったら見てみたいけどさ。蛆虫は勘弁だね。がっかりしたなぁ。せっかく竜が出たって噂を聞いて寄り道して見に来たのに」
「あっバカ!」
 ボブが天兵の口を慌てて塞いだ。愛想笑いをするが、牛尾は白けたような目をして二人の頭の天辺に拳骨を落とした。
「三つ目、<コクーン>を名乗ってる怪しいサイコ・デュエリスト連中だ。奴ら湾岸のスタジアムを占拠しちまってから、まるで実家にいるみたいに堂々と街中をうろついてやがる」
 耳鳴りに似た音がした。霧の向こうから、不吉な影のように伸びるビル群の間を縫うようにして、行列を作って道路を進んでくる奇妙な集団が現れた。異形の衣装を身に纏って踊り狂い、かぼそく単調にフルートを吹き鳴らし、不気味に太鼓を叩きながら行進してくる。蝿の唸りめいた音は、異形の楽団の祈り声だ。
「力こそ全て。力こそ真実。<邪心経典>は我らに教えて下さった。悪意こそが生命の本質だと。大いなる闇より生まれし人は、大いなる闇の牧場で心の闇を育まれ、やがて熟れ切った甘い果実となる。我々は、十二次元宇宙を統べる神に捧げられる供物である。世界など、宇宙など、この十二次元など、神と合一せし偉大なる覇王様の気まぐれひとつで破滅し再生するのだ」
「覇王、覇王――
 呪術めいた印象の装飾具が浮かび、擦れ合う。現実味がなく、浮ついた夢を見ているみたいだと思った。段々とこちらに近付いてくる。
「<コクーン>だ。カルトだよ、奴ら。あいにくと今はガキ共の保護優先だ。構ってる暇がねぇ。ほっとくぞ」
 牛尾がうんざりと言い放ち、気味が悪そうに顰め面をして青ざめている生徒達の背中を叩いた。ダブルデッキを降りて道路脇の筋を入ると、慣らされたばかりの空き地を囲むフェンスが道を隔てて続いている。またビルでも建つのだろうか。その先には、住宅街が広がっている。枯れかかった街路樹の背後に、足元からライトアップされた巨大なデュエル・ディスクが屹立しているのが見えた。デュエル・アカデミア・ネオ童実野校のシンボルだ。
 後ろからは、まだなお邪悪な祈りの文句が追い掛けてきている。落ち付かない気分だった。
「神の赦しを得て世界に混迷をもたらす偉大なる<コクーン>を称えよ。龍可様、覇王の子、覇王を継ぎし繭」
「龍可様、我らの救い主様」
「覇王龍可様……」
 同行者達の視線が龍可に集中する。龍可は、意外そうに首を傾げた。
「偶然ね。私と同じ名前」
「だね〜?」
 龍亞が首を捻っている。
 半年前まで毎日通っていた通学路に出ると、十字路を隔てた向かいの大通りから歩いてきた奇妙な格好の男に出くわした。見慣れたカルト教団服を着て、肩からポシェットのように黒い太鼓を引っ掛けている。片手におにぎりとペットボトルが入ったコンビニの袋を下げていた。人間は精霊と違って、どんな特別な力を有していても腹が減る生き物なのだ。相手は正面から龍可を見ると、ひどく驚いた様子で、そして嬉しそうに頭を垂れた。
―― あ、覇王様。相変わらずお美しい。今日は女子高生の姿なんですね」
 龍可は、思わず実体化したクリボンを振り被っていた。焦茶色の毛玉が正確に相手の眉間に激突する。<コクーン>教徒が仰向けにひっくり返り、動かなくなった。近寄ってしゃがみ込んで観察をする。息はしている。問題ない。ただ目を回しているだけだ。
「る、龍可?」
「大丈夫、龍亞!」
 龍可は血相を変えて、龍亞の肩を強く掴んだ。
「怪我はない? この人、今龍亞を襲って口では言えない位にひどい事をしようとしてたわ。私には分かるの」
「ええ!? 怖っ! 平気さ、無事だよオレは。かよわい龍可がそうまでしてオレのことを心配してくれるなんて。オレ絶対龍可のこと守るからね!」
 龍亞はいたく感激して目を輝かせ、得意そうに力瘤を作ってみせた。牛尾が、遊星に縋るような視線を向ける。
「なんか龍可ちゃん、前と感じ違わねぇか?」
「大人になったらしい」
 遊星はぽつりと言って、頭を振った。
「街はこの有様だ。ったく、これだけ事件が頻発すると、この街は神か悪魔にでも呪われてるんじゃないかって気分になってくるぜ」
 牛尾が忌々しそうにぼやいている。


 デュエル・アカデミアの正門をくぐると、空気が仄かにぬくもりを帯びたようだった。人の体温のようなものが感じられる。体育館の屋根の上に取り付けられたトップライトが眩く点灯し、白い光を放っている。念入りにワックスで磨かれ、鏡面のように輝いている床の上には、ブルー・シートが敷かれている。館内は避難してきた近隣住民でごった返していた。ハイトマンが生徒名簿のチェックを付けながら歩き回っている。シートの上に座り込んで朝を待つ人々に、マリアが毛布を配っていた。
「せんせー!」
 叫んで、人の間を縫って駆け寄ってきた生徒達を、マリアの橙色のスーツの袖が抱き締めた。恩師の姿も半年前と変わらない。肩につく位で清潔に揃えられたストレートの髪は、赤みを帯びたブラウンだ。厳しくて凛とした明日香とは対照的に、人懐っこく快活そうな印象で、教師というよりは保母さんのようだ。なんとなくひまわりの種を抱いて嬉しそうにしているハムスターに似ている気がする。小豆色のネクタイを締めている。左右対照になるように、きちんと整えられている。龍可の両親が、何でもこなせるくせに、二人共ネクタイだけは一人で結べなかったことを思い出した。父を亡くした時の母はネクタイそのものを放棄していたし、母を亡き者にした父は早々にボタン付きの簡易式ネクタイを採用していた。
「みんな無事だったのね。良かった」
 マリアは安堵の表情で、生徒達を無事に避難所まで連れて来た牛尾と遊星に頭を下げている。
「ありがとうございます。さ、みんなこっちに来てお手伝いをしてちょうだい。龍亞くんと龍可ちゃんも、帰ってきたばかりの所で悪いけど、全然人手が足りなくて困ってるの。そうね、クラッカーを配ってくれる?」
「ごめん先生。オレ達は無理なんだ。遊星はオレが傍で守っ、むぐ」
 龍可は生真面目な顔をして、龍亞の口を後ろから塞いだ。
「私達の両親がまだここには来てないみたいなんです。もしかしたら事故に巻き込まれたのかもしれない。モンスターに襲われているかもしれない。そう思うと心配でじっとしていられないの。ごめんなさい、マリア先生。私と龍亞も、遊星や牛尾さんと一緒に行きます。理由はよく分からないけれど、カードが実体化する世界なら、私にはデュエル・アカデミアの生徒として信じられるデッキがある。遊星の力になれるはずです。迷惑は掛けません」
 堂々と、朗々と謳う。
「龍可、ちょっと、かっこいいかも」
 パティが素直に感心してくれた。マリアも心を動かされた様子で、龍可の手を優しく握り、遊星と牛尾にもう一度頭を下げた。
「どうか、生徒をお願いします。……そうね、心配ね。分かるわ龍可ちゃん。気を付けて。ご両親はきっと無事よ」
 降り掛かる面倒事を優雅に避ける技術は、十六年の間『普通』を渇望してきた龍可の身に染み付いている。上手く言い繕えたようだ。だが、龍亞が胡散臭そうな横目で龍可を覗ってきている。詐欺師を見る目だ。呆れている。
「完璧な言い訳。龍可、息するみたいに嘘つけるようになったんだね」
「嘘は言ってない」
「確かにだけど。嘘でも本当でもないことをお澄ましして言うと、すっごく立派なことを喋ってるみたい。オレ、知ってるんだ。ぐれちゃった十代の喋り方だよそれ。龍可、まるで急に何歳も年を取ったみたいだよ……いや、そうでもないか。言い訳とヘリクツは子供の頃から上手かったもんね、龍可」
「それ、誉めてるの?」
 龍可も龍亞そっくりの胡乱な目付きになった。
「何年経っても何年経っても、ずっとずっと龍亞はデリカシーがない。きっといつか生まれ変わっても、龍亞はずーっとそうなんだわ」
 龍可は笑いを堪えていた。肩が震える。
「あー。子供っぽいって思ってる顔」
 龍亞が口を尖らせて、「なんなんだよ、もう」と文句を言った。


 空に罅が入り、割れ目から濁った金色をした目玉が、赤い虹彩を蠢かせながら街を見下ろしている。そのちょうど真下、旧<KC−NEX>研究開発ビルの跡地に、デュエル・アカデミアのグラウンドほどの大穴が奈落の底まで続くようにぽっかりと口を開けている。地底からは異様な臭気が立ち昇り、周囲には黄色と黒のストライプ模様のテープが丸く張り巡らされている。制服姿のセキュリティが森林公園の入口を封鎖し、列を作ったパトカーが忙しなく赤いランプを点灯させていた。
 <デュエル・チェイサーズ>支給機の傍に、見慣れたD・ホイールが停まっていた。車輪の形をした白い<ホイール・オブ・フォーチュン>と、対照的に黒を基調とした飛行翼付きの<ブラックバード>。遠くからでも一目で分かる特徴的な二機種だ。
 主の二人は自機の傍で狭霧と話し込んでいた。ブルーのラインが入った白いロングコートを羽織った長身と、小柄な赤毛のとさか頭が見える。ジャックとクロウ。龍可と同じ竜の痣を持った仲間だ。
 遊星の姿を見付けると、クロウが大きく腕を振った。顔は明るい。小動物のようにすばしっこく駆け寄ってきて、グローブ越しの手を強く握った。
「無事だったか遊星! さっきお前が穴の中に落ちた時はびびったぜ。今頃虫に食われちまってんじゃねぇかってさ」
「クロウ。冗談でも不吉だぞ」
 ジャックに長い腕で背中を叩かれて、遊星は黙って頷いた。
「いいじゃん何事も無かったんだから。聞いたか? あれから急に空の上に変なやつが出て来て、みんな怖がって家に引っ込んじまってる。逆に街中でパレードをおっぱじめた奇天烈な連中もいるんだが」
「ああ。牛尾に」
 牛尾は、まず何よりも重大な使命のように狭霧の機嫌を取ると、『キープ・アウト』のテープを乗り越えて穴の縁に立った。
 穴はほぼ垂直に落ち込んでいる。濁った地下水が溜まり、底を見通すことはできない。汚れた地底湖の中心は島のように盛り上がっており、表面には薄い肉の膜が球状に張っている。目を凝らすと、血の通わなくなった血管の奥に、扁平な皿のようなものが幾つか透けて見えていた。楕円の塊の中央に、眼窩と鼻腔と口蓋の形に空洞の闇が詰まっており、顔のようにも見える。乾いた血と膿でできた繭は、孵化しそびれてそのまま死んでいった虫のように、完全な静寂を保ちながら泥色の水にたゆたっていた。
 肉の繭の表面には黄土色をした蛆虫のようなものが無数に張り付いていた。蠢きながら死肉を喰らっている。産み付けられた母体から栄養を貪り、成長を続けているのだ。
「なんだ、あの馬鹿でかい繭は。まるで巨人の死体だ。聞いてたのと違うじゃねぇか」
 牛尾は強烈な腐臭に、鼻に当て布をしながら、近くにいた下っ端隊員の襟を掴んで文句を言っている。その背中を眺めながら、ふとジャックが思い当たった様子で呟いた。
「良く似た事件を知っているぞ。以前藤原信通という男が、東海道の東西浜に流れ付いた非常に大きな死体を見たそうだ。身長はおおよそ十五メートル。おそらく女だろうと判断された死体は、時間が経つにつれて腐乱した。辺り一帯は数キロメートル四方にわたって死臭に満ち、とても人が住める場所ではなくなったそうだ」
「ソースはどこだ、出所は」
「今昔物語集」
「御伽噺じゃねーか」
 クロウが肩を竦めた。今では龍亞とそう背丈が変わらないとさか頭が、遊星を見上げて眉を顰める。遊星は、まるで誰かとても大切な人間の葬儀に出席している最中みたいに見えた。
「記録映像で見たことがある。十六年前、ネオ童実野シティに突如として正体不明の巨大な竜が現れ、街を破壊し、人々を襲った」
「オレ達の<赤き竜>とは真逆の存在だな」
 ジャックがすべらかな顎を撫でて、痣が刻まれた腕を見つめた。
「人々に退治された竜は、今でもこのシティの地の底で眠っている。……腐った繭の中で、いつか目が覚める時まで」
「おいおい、冗談は止せよ。腐ってんだぜ? 二度と起きるわけねぇよ。それにしても、ひっでぇ臭いだよな。なぁ?」
 クロウが鼻をつまんで顔をしかめた。穴の縁の方では、セキュリティの現場鑑識官が穴の中へ糸を垂らし、底の方で蠢いている黄土色の塊に針を引っ掛けて、川魚を釣るように引き上げている。歓声と罵声が上がる。糸が撓み、飛び上がってきたものが地面に落ちる。手袋をして拾い上げた鑑識官は、
「な、なんだこれ!?」
 叫んで、投げ出した。育ち過ぎた蛆虫だと思われていたそれは、サッカーボール程の大きさをした眼球だったのだ。
「動いてるぞ。生きてる、こっち見たぁ!」
「じゃあ穴の底の黄色い奴は、全部目玉の集まりだってのか?」
 隊員達が死の沼のような穴を覗き込んで、薄気味悪そうに悲鳴を上げている。放り上げられた目玉を、龍可は危なげなく抱き止めた。人に化ける程にはまだ育ちきっていないが、これもまた神の細胞の一欠片だ。産み落とされたばかりなのか、まだしきりに光を厭う素振りを見せていた。
「大丈夫?」
 針を引っ掛けられた目玉は、迷惑そうに虹彩を動かしていたが、龍可の腕の中に収まると安堵したように沈み込み、跳ねて穴の中へ戻っていった。また悲鳴が上がる。
「穴は焼いて埋めちまえばいいとして、上の奴はどうするんだ?」
 現場写真係が空の罅割れにカメラを向けながら、途方に暮れている。亀裂の向こう、次元の彼方からこちらを覗いてくる巨大な目玉の中には、幽かな黒点が見える。小さな人影のようにも見えるそれが、無数に蠢いている。奇妙な斑点は徐々に形を失いつつあった。まるで食物が消化されつつある誰かの胃袋の中を覗いているような、気味の悪い景色だ。
「牛尾さん。何か上手い方法はないんですか? 対空砲でもないとあそこまでは届きませんよ。我々の装備じゃ無理です」
「俺に訊くなよ。だが、ま、確実に分かることはある。口が無くて耳もついてねぇ奴は、話し合いが通じる相手じゃねぇってことだ。詳しい事情は良く知らねぇが、いつかこの国が世界を滅ぼそうとする化物と戦うことになるって予言してた昔の偉い人がいてな。故人なんだが、そのお偉いさんが遺してくれたものがある。……そろそろだ」
 遠い上空から、耳障りなノイズが降ってきた。龍亞が鼻先を天に向けた。黄味がかった碧い瞳に、かぶと虫の大群のような黒い粒が映り込んでいる。
「何あれ?」
「すげぇぜ。俺も見るのは初めてだ。空飛ぶD・ホイールさ。夢みたいだろ」
 牛尾がどこか誇らしげに腰に手を当てて、鼻を鳴らした。


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−「P.W.E」…<
arcen>安住裕吏 10.06.11 - 10.06.12 −