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二十二年前にネオ童実野シティは一度滅びた。<ゼロ・リバース>によってリセットされた人々の営みは、長い時間と途方もない労力をもって組み直され、育まれてきた。ようやく取り戻した平穏な日常は再び蹂躙されて、名もない墓標へと変わり果てていく。
シティの地下深くから生まれ出た多頭の竜によって、初めにモーメント施設が襲われ、破壊を受けた。市中への電力の供給が止まる。D・ホイールに乗っていたチェイサーズが、機体に搭載されている小型のモーメントを嗅ぎ付けたかのように地中を走ってきた影に捕食されてしまう。竜はモーメントに余程恨みがあると見えた。陸上でアミティビレッジの人食い鮫の恐怖を味わうことになるとは、誰も思ってはいなかった。
空から、癇癪を起こした残酷な子供が虫篭の虫達を踏みにじるかのように、竜が吐き出した火の玉が降ってくる。
ダイモンエリアの一角で、民間の武装ガードがバリケードの鉄板越しに竜の一頭と対峙をしていた。ひととき機銃掃射の音が太鼓のように辺りに鳴り響いていたが、炎を燻らせたあぎとの奥へ一呑みにされて、すぐに静かになる。人類が築き上げて来た文明の叡智が生み出した、人が人を殺す為の方法は、神の前では空に向かって唾を吐く位に意味のない行為だ。
駅前のコンコースに、歩道に乗り上げて焼け焦げた観光バスが停まっていた。窓から黒い煙が吹き出ている。空から降りてきた竜の首が、その車体を戯れに顎で咥えて持ち上げた。長い首を鞭のようにしならせて、バスを放り投げた。街頭に設置されているソリッド・ビジョン発生装置に直撃し、爆発が起こる。
竜の頭は赤紫色の鱗と黒い短毛に覆われていて、蛭を思わせる穢らわしい角を生やしている。頭頂部近くに人に似た顔が張り付いているが、それはあまりにも醜く、人ではありえない。擬態か、それとも提灯鮟鱇の発光イリシウムのように、擬似餌の役割を持つ器官なのかもしれない。しかし表情が欠落した人の顔面が時折引き攣るように蠢く様は、人に似た人以外のものがある一点の姿を模った時に、見る者に極めて強い嫌悪感を与えるという、不気味の谷の現象を思わせた。
繁華街をデュエル・アカデミアへ続く方角に通り抜けて、セキュリティの武装警察官に守られながら、ドレッドロックスの女性が幼い子供達の手を引いていく。
「さ、急いで下さい。ここももう安全じゃない」
まだ若い警官が言った。だが、一体この街のどこに安全な場所があるというのか、本当の所は彼自身にも分からない様子だった。子供達は脅えた眼で遠い空を見上げている。
「ガッチャが仕返しをしにきたんだ。前にオレ達があいつをいじめて泣かせたから、そのせいでみんなが襲われて街がこんなふうになっちゃったんだ」
女性が、震える子供の小さな手を握り締めた。落ち付いた声で諭す。
「よしな。ガッチャはそんなことをする子じゃない。あの子は綺麗な銀の髪をしていて、優しくて性根のまっすぐな子だった。遊星に良く似てたよ。だから、あれは別の生き物さ。何もあんた達のせいじゃない」
アスファルトの地面を突き破って竜の頭が姿を現し、威嚇するように牙を剥き出しにして吼えた。警官が立ちはだかり、リボルバーを構える。
「……お巡りさんを舐めるなよ、化物。人間の底力を思い知れ!」
銃声が鳴った。悪意は返る。硝煙の匂いが儚く香った。
総合病院の傍らで、シティ・タクシーが車道に見捨てられたまま炎上していた。待ち合わせ場所に良く利用されていた時計塔が根元からへし折れている。地面にもげた熊のぬいぐるみの頭が転がっていた。綿が焼けて黄色くなっている。脇に脱げた子供用の靴が落ちていた。広場の階段には弾痕が残っていたが、人の姿はどこにもなかった。
街は、滅びに向かって一切の迷いもなく進んでいるように見えた。
「俺達の街が、見る影もねぇ」
瓦礫とがらくたの山だ。オペラグラスを覗きながら、牛尾が煙草を噛んで吐き棄てた。無線に向かってがなる。機動隊からの応答はそれほど多くない。ラジオを付けた途端に、ラジオ局が入ったビルが遠くで崩れ落ちる姿が見えた。
道路はただの凸凹道に成り下がって、D・ホイールの機動力を削いでしまう。加えて、モーメントは竜を呼ぶ。支給品のD・ホイールの代わりに、ガソリンエンジンで動く骨董品級の七三式ジープが引っ張り出されてきたのだが、懐かしい旧式のエネルギー機関も、牛尾のような古い人間にとってはまあ悪くなかった。正面から見た時の愛敬のある顔つきと、サンドベージュのカラーリングも悪くない。
街のあちこちで、切断されたハイウェイが導くべき行き先を失って、虚しく高架橋脚から垂れ下がっている。そのせいで車線を頻繁に変更しなければならなかった。ジープは火の手を上げる立体駐車場の前を通り過ぎ、湾岸線を滑っていく。
ジープの左側には、オフィス街が広がっている。昨日の夜はいつもと同じ風景だった。夜の帳が訪れても、幾千万の宝石を散りばめたかのようなネオンサインを灯して、街は眠らなかった。今は大雪崩の後のような景色になっている。
割れたショーウィンドウが炎を映して紫色に輝いている。商店のシャッターが剥がれ落ち、紙くずのようになって街路樹に寄り掛かっていた。倒壊したコンクリート柱が道を塞いでいた。ざらついた断面を晒し、節くれ立った異形鉄筋が屹立している。そんな光景を見ていると、<ゼロ・リバース>によって滅びた街並みがそのまま捨て置かれていた旧サテライト島を思い出す。
ジープはデュエル・アカデミア正門前に到着した。既に配備されていたヒトマル式戦車が、脆くなった道路を踏み鳴らして、滑腔砲を旋回させる。竜の頭に張り付いた人の顔の皮のようなものへ照準を合わせる。砲弾を放った瞬間に、戦車は自壊を待たずに、別の竜の頭に噛み砕かれた。それに怯まず、迷彩柄を施された武装ヘリが空からミサイルを撃ち込む。悪意が返ってくることを知っていて、戦うことを止められない。彼らの後ろにはアカデミアの校舎があった。ジープから上半身を出して、牛尾が怒鳴った。
「デュエル・アカデミアを、市民をガキ共を、未来を守れ!」
だがその竜は、どうすれば人の希望が折れるのかを知り尽くしていた。まるで絶望したことがある人間のように。
多くの市民が避難しているアカデミア校舎へ向かって、竜は炎を吐き付けた。一瞬の間に、校舎は人々の命を飲み込む火の海へ変貌する。
「……奴は、何でも炎に投げ込めばいいと思っているんだ」
誰かが絶望的に呟いた。
「たてつく力もない虫けらだと、人間を嘲笑ってやがる」
竜は赤い眼で人の心を無遠慮に覗いている。守りたいものがある限り、どんな相手とだって戦えるという信念の根源を打ち砕いて、希望を踏み潰す。人に宿る魂すらも弄んでいる。
細長い竜の首が幾筋も絡まり合って、月明かりを遮り、影が夜空へ伸びていく。けしの実のような小さな粒が、大きな顎からぱらぱらと零れた。掬い損ねた人の身体だ。
星空を貫いて、禍々しい闇色の竜とは正反対の、温かく優しい光が駆け抜けた。赤くうねる炎の竜だ。ネオ童実野シティを幾度も救った<赤き竜>に、赤いD・ホイールが追走する。その姿はシティに住む者なら誰でも知っているヒーローだ。不動遊星。牛尾が叫んだ。
「遊星、行け! 走って走ってふられて来い、化物と対峙しろ倒せ! 現実を見ろ。お前がこの街を滅ぼそうとする悪魔を見過ごせるもんかよ!」
遊星号が通り過ぎていく間際に、人々が叫んだ。
「頑張れ、不動遊星!」
「貴方は俺達のヒーローなんだ―― ご武運を!」
「行って下さい。怪物からネオ童実野シティを救って下さい!」
遊星は走り抜ける。背後から死の絶叫が聞こえてきた。口許を歪めるが、停まらない。
濃密な闇が身体の周りを覆っていて、モルタルで押し固められているような窮屈な感覚だ。呼吸が苦しくなる程に空気が澱んでいる。蜘蛛の巣状に張り巡らされたハイウェイの終点で、異形の尖塔が冷たく空を突いている。街の中心地だ。人々の魂を食い荒らして、竜は更に進化する。無機質な覇王城が徐々に鼓動と息吹を宿し、生物の特徴を色濃く顕していく。岩で設えられた外壁が、鱗に守られた黒い表皮に変わっていく。生贄を捧げられた数だけ首を持ち、夜の闇を分厚い翼に換えて、竜は世界の中心で、滅びを祝福するかのように遠吠えを上げた。
遊星の記憶の中にいる十代は、生きている喜びと世界への愛を振り撒いて笑っていた。その笑顔が、いつでも遊星に勇気をくれていた。あの人が犯してきた罪を知って、遊星は思う。多くの心の闇を抱えながら、それでもまだ笑うことができていた十代という人間は、確かに人知を超えていた。大罪を背負いながらも正義を貫く覚悟を決めていたからこそ、十代はあんなに明るく破天荒でありながら、どこか儚く見えたのだ。
「<赤き竜>よ。お前も神の化身なら、どうしてあの人に呪われた運命を与えた。あの人だけは、誰も穢してはならなかったんだ!」
竜は答えず、突き進んでいく。夜の先へ。視界が仄白く染まった。急に強い光が射して、眼球を突き刺されるような痛みを感じた。涙が滲む。目が慣れると、絶海の孤島の風景が、赤き竜に導かれた遊星の視界に広がっていた。森に囲まれた火山島だ。巨大なオベリスクと円柱型の建造物は、十代の母校のデュエル・アカデミア本校校舎だ。その屋上に、遊星はいた。
銀色のドーム天井の上で二体のモンスターが対峙していた。一体は、データベースでしか見たことがないが、蒼い体躯を持った三幻魔の一体<幻魔皇ラビエル>だ。もう一体は、銀の竜―― こちらは良く見知っている。<サイバー・エンド・ドラゴン>。鋼鉄の三つ首竜だ。
「遊星!」
龍亞の声が聞こえた。痣が疼く。仲間の双子の姿が、少し離れた屋上の縁に見えた。龍亞と龍可。十代の子供達。エメラルド色の髪は父親のヨハン譲りだ。優しい顔立ちには、遊星が最近知ったアカデミア在学時代の十代の面影が見える。赤き竜の痣に導かれるままに、<スターダスト・ドラゴン>のカードを二人へ投げ渡した。
こちらに気が付いて腕を伸ばしてきたラビエルの首を、サイバー・エンドが捉えた。喉笛を食い破って幻魔を破壊する。
カードを受け取った龍亞が、床に刻み込まれているスキャン・パネルに<スターダスト・ドラゴン>を触れさせた。装置が作動する。床がカードの形に窪み、中空に一枚のカードが現れる。
カードは美しい金色の光を放ちながら、緩やかに回転をしている。龍可が手に取って太陽にかざすと、青緑色のカード枠が表面に浮かび上がってきた。魔法カードの特徴だ。中央に配置されている正方形の枠内には、何処とも知れない風景が描かれている。
乳白色の光の中に、かすかに青が透けて見える。まだ少し肌寒い位の、春の空だろうか。まるで視界一面に吹き荒れる桜の花吹雪のように、それぞれに異なる次元の世界が封じられたカードが、風の中を舞い上がっている。―― そんな絵柄が描かれている。
フィールド魔法カード、<パーフェクト・ワールド・エンド>。
―― 神を殺す為に創られた破滅のカードだ。
* * * * *
大きな竜の姿に変わり果ててしまった妻の頭の上に立っている。ヨハンは、変な感じがした。自分が蚤にでもなったみたいだ。靴の底に触る感触は、ふかふかの絨毯のようだ。黒い短毛が密集して生えている。昔、実家の近所にある牧場で毎日羊を追っていた牧羊犬も、こんな感じの毛並みだった。スケッチブックに絵を描いてやったことがある。
眼下に終わりゆく世界が見えた。デュエル・アカデミア分校の校舎が、バースディ・ケーキの山を崩すように、影絵の竜に食い荒らされていく。長い間住んでいたトップスが崩落して、階層下に広がっている繁華街を押し潰した。旧サテライト島とシティを繋ぐダイダロス・ブリッジが折れて、島は海水と共に次元の彼方へ流れて消えていった。
この十六年の間、随分不自由を感じてきた街だった。妻の魂を穢され、双子の子供達に危機が及ぶ度に、こんな街はいつか壊れてしまえばいいのにと呪い続けていて、その通りになった。ようやく願いが叶っても、特に嬉しくはなかった。
悪夢の核となる存在が、ヨハンと向かい合う形でそこにいる。人の形をかろうじて残した十代が、ゆっくりと顔を上げた。
「ヨハンの夢への架け橋になれるなら、こんな世界壊れてもいいって思ったんだ」
サーカスの花形が観客席へ向かってショーのクライマックスを告げるように、顔を覆った手を降ろして滅びを見下ろしている。自分が犯している罪を確認する、その人の表情は冷たい。悼んでも悲しんでもいない。ただ頬を伝って、瞳から溢れた涙が筋を描いて地面に染みを作っていく。
「楽しいデュエルももういらない。ワクワクしたいなんて思わない。家族と未来を生きたいなんて、あの人に、父さんにもう一度会って本当の心を訊きたいなんて―― 思うもんか。全部、全部無駄なんだ。もう遅いんだ。心の底まで怪獣になって、こんな姿じゃもう誰にも愛してもらえない。たとえヨハンが愛してくれたって、オレがオレを愛せない。ばっかみてぇ。かっこわりぃ」
十代が、押し殺した声で呟いた。
「……どんどん弱くなる」
人々の悪意を喰らって無限に成長を続ける竜の上で、十代は、鱗だらけの手のひらで自分の身体を抱き締める。ひどく寒そうで、寂しそうだ。
「ヨハンに笑ってもらいたくて、どうすりゃヨハンは喜ぶんだろうって、そんなことばっか考えてる。お前が支えてくれるのがいつのまにか当たり前になってて、一人じゃ立つこともできない」
「当たり前のことを言うなよ。俺達は半分ずつだ。欠けた魂じゃ人は立てない」
ヨハンは十代を睨み付けた。
「そんなことも分からないのか」
壊れた巨大墓地の街の真ん中で、異形の魔物の無数の首が人の命を食い荒らし、呪われた宴を開いている。ベルベット地の外套のような翼を、身を切る程に凍て付いた風にはためかせて、その人は、二目と見られない醜い姿で腕を広げる。上機嫌な征服者のように、人々に神の教えを叫ぶ神官のように。厳かで、張り詰めていて、優しく、安堵しているようで、切なく、憧れを隠そうともせず、砕けて散ったガラスのように透明な笑顔を見せて、竜は終わりを謳った。高らかに。
「言ったろ。いいよオレ。ヨハンになら……殺されてもいい」
「冗談でも言うな」
ヨハンは厳しい声で言った。
「犠牲なんて間違ってる。俺はひとりもみんなも救いたい。人の命を選ぶなんて間違ってる。ひとつを選んだ十代も、ひとつを生贄にしてみんなが幸せになろうとする世界も、どっちも間違ってる」
「そんなもの、大いなる綺麗事だ」
十代が、軽蔑と苛立ちをあらわにして吐き棄てた。
「子供じみた理想論だ。絵に描かれた薄っぺらい正義だ。大真面目な顔をして、そんなことが言えるヨハンがあんまりにも愚かで、ばかみたいで、オレにはずっと眩しかった。羨ましかった。オレにもそんなことを真剣に言っていた頃があったんだ。思い出しちまう。だからひとつもすべても救おうとするヨハンを見ていると、いつも胸が苦しくなる。
神も悪魔も、カードを操る人間の為にしかこの世界ではいられない。ヨハンを誰の悪意からも守る為に、今のオレはあるんだ。そんな形でしかいられなくなってしまった。だから、ヨハンがずっとひどいやつなら、世界は救われていたのに。たった一言言うだけで済んだ。子供の頃みたいに、オレのことなんか大嫌いだ、認めないこの世界から消えちまえって」
涙が十代のもとに嗚咽を連れて来る。その人の偽悪と悪の境界は失われていた。神に侵された魂は、人に向けられた心を機械的に相手へ返すだけだ。醜い巨大怪獣の姿では誰にも愛してもらえず、そのせいで街が壊れ、人は死に続けていた。
「殺してくれ。倒してくれ正義の味方。オレはもう、ヨハンと同じ優しい人間じゃない」
全ての生命と非生命に終わりをもたらす、呪われた滅びの竜が言った。竜は世界を憎みながら、世界に返された悪意に傷付き、人を怖れ、人に怖れられて悲しみ、涙を零していた。その姿はあまりにも脆い。
「泣いている人に拳を振り上げるのは――」
ヨハンは静かに言った。十代の肩が、かすかに跳ね上がる。
「そんなものは、正義じゃない」
それがとても残酷な言葉であるように、十代が身じろぎをして、耳を塞いで頭を振った。虹彩異色症の瞳は、まるで逃げ込む場所を探しているかのようだった。強い者に縋る者の眼だ。弱い眼だ。
「神が目覚めれば、全ては崩れ落ちて泡になって消える。眠らせてくれ。頼むから、もう……眠らせてくれ。忘れてくれ。嫌なんだ。ヨハンにだけは見られたくない。こんなになったのにまだ恋をしてる。ほんと……ばかみたい、だよなぁ?」
十代は、ぎこちなく笑おうとしたようだった。ヨハンは笑わなかった。泣いているその人の肩に手を触れる。硬く艶やかな黒い骨は、とても大きなかぶとむしの角に触っているような感触だった。全身に鋭利な棘を生やして強さを誇示し、だけれど、かぼそく泣いている姿がちぐはぐだと思った。
抱いてやろうとした途端に、その人の白眼のない瞳が大きく見開かれた。蜥蜴の脚が後ずさる。ヨハンから離れようとするのを、赦さず、腕を背中に回して力一杯にかき抱いた。十代が悲鳴のような声を上げる。
「やめろ……! 触るな、柔らかい人間の体は、オレに触れるだけで傷付いちまう!」
「冗談じゃない。愛する人が泣いている。それを、傷付くのが怖くて抱き締めることもできない男だって、十代は俺を思うのか」
見くびるな。ヨハンは叫んだ。
「強がらなくていいんだ、十代。さらけだしていい。お前の胸の痛み、全部さらけだしていいんだ。俺が全部受け止めてやる。俺が、お前を救ってやる!」
「……無理だ」
「無理じゃない。俺には、絶対にできる」
「なんで、そんなことが言える?」
「家族だからに決まってるさ」
神に侵された心で、十代の腕が勝手に人を殺す。その度に人間と精霊が上げる死の絶叫が、ガラスの破片の鋭さで、その人の感じやすい胸に突き刺さる。これは十代の痛みだ。魂の半身のヨハンの罪だ。
守りたい人の前で情けない顔を見せたくないから、虚勢を張った。目を逸らさない。鏡のような光沢がある瞳に、ヨハンの顔が映っている。虹彩が嵐の海のように揺らいでいて、十代の動揺が強く伝わってきた。ヨハンの視線に晒され続けることに耐え兼ねて、十代が目を逸らそうとした。それを、細い顎を取って顔を上げさせると、潤んだ瞳が見上げてくる。乱暴なクラスメイトにいじめられている弱虫な子供のように、唇がきつく引き結ばれていた。どれだけ突き放されても構わずに異形の身体を抱き締める、ヨハンの中にある揺るがないものが怖いのだ。
脅えている頬を撫でて、ヨハンは妻と唇を合わせた。薄青色の唇は柔らかく、冷たくて、いとおしかった。十代が、喉の奥で小さな悲鳴を上げた。赦しを求めて開かれた唇の隙間に舌を差し入れると、先が二股に分かれた青白い舌に触った。薄い瞼が閉じられ、震えている。抱いた腰が少しだけ跳ねた。だが、抵抗はない。抱擁も返されない。十代は強大な力を持った竜へと変わり果ててしまっていた。身動きひとつでヨハンが壊れてしまいそうで、それが何よりも怖いのだ。
嗚咽が十代の息を乱す。まるで恋を知ったばかりの少女のように、腕に抱いたその人は、あどけなく泣いていた。誰にも立ち入らせない強固な心の殻の内側に隠された、見捨てられた子供の悪意を感じた。十代はそれを、ヨハンにだけはさらけだしてくれる。
「ヒーローに……なりたかった」
手に入らなかった玩具の話をするように、ぽつりと言った。涙で濡れていて、寂しげな、耳に良く馴染む声だった。
「悪い奴をやっつけて、みんなを救うことがオレの使命なんだと思ってた。でもそうじゃない。オレがやったのは、いつもみんなを苦しめる敵を倒すことだけだ。戦うことしかできない。闇を統べる覇王は初めからそういう存在だったんだ。―― でもオレはヨハンと出会って夢を見た。オレに夢を語ってくれたお前となら、オレにもできるかもしれない。未来を、希望を創り出せるかもしれない。かけがえのない大切な人の本物の夢に―― 精霊と人間の架け橋になれるかもしれない。結末がこれだ。無駄な夢なんて見なきゃよかった。オレより先に死んでく人間なんて愛さなきゃよかった。オレが愛したりしなきゃ、ヨハン! ―― お前は、楽しくデュエルやって……困ってる人や精霊を助けて……今よりずっと幸せに生きててくれたかもしれないのに。オレを見てそんな泣きそうな顔で笑わなかったのに!!」
「それは無理な相談だ。俺は、十代、お前に出会う為に生まれてきた」
「もういいんだ、そういうの。ヨハンに押し付けられてた役割も刷り込みも使命も、<ゼロ・リバース>が光で焼いてくれた。だからヨハンはお前の心で感じるままに、運命を狂わせたオレを憎んでいい。呪っていい。嫌って、遠ざけていいんだ」
「俺には分かるんだ。大切なことは、いつだって自分の心が教えてくれる。お前と龍亞と龍可を守る為に、俺は俺としてここにいる。俺は世界で一番幸せな男だ、十代。お前を選んで、お前に選ばれたことが嬉しくてたまらない。なぁ、十代。ふざけるなよ。お前が何も創り出せない、壊すだけの存在だって? 覇王? いい加減にしろ。俺達の子供の前では、そんな馬鹿な事絶対言うんじゃないぜ。龍亞と龍可は、お前と俺との絆の証だ。大切な大切な家族だ。お前と俺で創り上げた家族だ」
「龍亞……龍可……」
十代が、呆然と呟いた。
「オレの……家族……」
とても崇高なもののように、口にする。
「龍亞と龍可が生まれた日の事を、俺は今でもよく覚えてる。十代。永遠を生きるお前には子供を作る必要がなくて、身体はそういうふうに出来ていなかったんだ。俺はあの時、十代が死んじまうんじゃないかと思った。想像して、怖くなって、どうすれば良いのかわからなくなった。家族に置いてかれたら、十代も子供達も失って俺一人で残されたら……そう考えると目の前が真っ暗になった。本当に真っ暗なんだ。一筋の光も無い闇の中に突っ立ってる感じだった。今でもそうなった時のことは……人の家族のぬくもりを失ってしまった自分がどうなってしまったのか、俺にはわからない」
十代の背中に指を這わせた。冷たい肌はすべらかで手触りが良かった。手のひらを通して、怪物になっても人と同じリズムで脈打っている心臓の音を聞き取ることができた。血管の中を熱い血が流れている証拠だ。チョコレート色の硬い髪に顎を埋めて、髪で隠れた耳の傍で囁いた。
「あんな気持ちを抱いてお前は長い時間を生きてたんだな。すまない十代。寂しい思いをさせた」
「……また、そうやって、ヨハンは、オレを甘やかす」
「ひとりぼっちにして、ごめん」
十代が、大きな目玉がはまった額をヨハンの胸に押し付けた。親に甘えるように、神に懺悔をするように。聡明に成長した大人の心が、幼子のような嗚咽を恥じているのが分かった。とても好きな音階の声が、途切れ途切れに言葉を紡いでいく。
「ずっと、誰か一人を選びたくなんてなかった。かけがえのない人間を選び取ることが、心を通わせることが怖かった。オレはきっとその誰かを傷付けて、そいつのすべてを台無しにしちまうんだって分かってたんだ。子供の頃からそうだった。だからみんなオレに近寄っては来なかった。親も友達も悪魔憑きだとオレを怖れた。ひとりぼっちだった。誰も遊んでくれなかった。それでもいいと思ってた。誰かを傷付けるより、誰も愛さないほうがずっとましだと思ってた。……でも」
ひととき、言葉が途切れた。呪術的な刺青が飾っている鼻をすすって、細い喉の奥で子猫の泣き声のような音が鳴った。
「でも、オレはお前を心から愛してしまった。誰よりもきれいで、まっすぐな信念を抱いて夢を追い駆けるヨハンが好きで、好きでたまらなくなった。オレに夢を語ってくれるお前の眼、きらきらしてて、まるで宝石みたいだった。ヨハンに見つめられると、自分の心なのに、自分の気持ちなのに、抗うことができない。大好きな人には幸せになって欲しいのに、オレが傍にいたらヨハンは絶対不幸になるのに、オレはヨハンが好きだ。好きだよ、大好きだよ。『みんなと同じくらい大好き』より、オレは人を好きになっちゃいけないのに、どうしようもないんだ。世界で一番愛してる。ごめんなヨハン。お前を失うくらいなら、もうこんな世界いらない。お前を傷付けようとするなら、みんな消えちまえばいい。オレ、馬鹿だからさ、まっすぐ走ることしかできねぇ。停まれねえ。進む道が間違ってるって気付いても、オレにはまっすぐに走り続けることしかできねぇ。
正義のヒーローになりたかった。弱きを助け、悪をくじく、ってヤツ。でもなれなかったよオレ。悪い怪獣になっちまったよ。せめてヒーローに倒されたいと思ってた。ヨハンがオレを殺してくれるなら……」
仄かな期待を込めて、十代がヨハンを見上げてきていた。
「オレはたぶん……すごく幸せだ。嬉しいよ。泣けてきちまうくらい」
月の光に照らされて滅びの夜に浮び上がったその人の姿は、とても透明で、今にも泡になって星空に溶けて消えてしまいそうだった。
「ヨハン、お願いだ。もぉ……いいよな?」
チョコレート色の髪。変わり果てた竜の姿の中で、初めてその人を見た時から何も変わらない、ツートン・カラーの珍しい髪質。触り心地は猫のファラオとそう変わらない。頬に触れて少しくすぐったい。
「オレさ、足止めても……もう走り続けなくても……」
艶やかな鱗、蝙蝠の翼。ユベルと共有する竜の無敵の肉体に守られた十代の心は、いつもまっすぐに走り続けていた。しかし何度も打ちのめされ、引き摺られて引き裂かれ、継ぎ接ぎだらけに傷ついている。強がりが過ぎるせいで誰にも気付いてもらえなかった十代の心の欠落は、十代自身にも長い間目を逸らされてきたものだった。だが、ヨハンには感じることができた。目について離れなかった。傷痕に消毒薬を振り掛けて、包帯を巻いて、癒えるまで隣で付き添ってやりたかった。
「オレが目指してた夢はもうとっくに過ぎ去って、後ろにも見えなくなって……オレは今どこを走ってるんだろう? わからない。暗くてわかんねぇ。お前達がいない家は、広過ぎて……さみぃんだよ……」
ヨハンは泣いている十代の頬を拭った。その人の涙を拭う為に、自分は生まれてきたのだと思った。
「笑えよ、十代、いつもみたいに。そんな難しい顔してないでさぁ」
怪物の眼が、驚いたように大きくなる。ヨハンは、きちんとした笑い方を忘れてしまった魂の半身に、手本を見せるように笑ってやった。十代の表情が引き攣る。やはり上手く笑えない。
だけれど、取り繕っていても、笑おうとしたのだ。
「なんだよそれ、十代。すっげぇ不細工な顔だぜ」
ヨハンは噴き出した。笑った。十代も、つられて笑った。
「生まれてから今までずっと考えてたんだ。俺はずっとひとりぼっちだったから、俺と同じように精霊が見えるお前に惹かれたのか。俺に欠けているものを、お前が補ってくれるから好きになったのか。お前が精霊と人間の架け橋そのものだったからいとしいと思ったのか。わからなかったんだ。確かにそうかもしれない。頭で考える分には、そういうことはちゃんとした理由になってた。でも俺達の絆に理由も理屈もなかったんだ。俺はお前に出会う為に生まれてきた。お前に恋をした。これは運命だ。それも俺達に何の関わりも無い神や悪魔が決めたものじゃない。俺とお前が決めた運命だ。十代、馬鹿言うな。どこを走ってるっていうんだよ。良く見てみろよ。お前の足は止まったままじゃないか。あの<ゼロ・リバース>の朝から一歩も動いていないじゃないか。まっすぐに走り続けることしかできないお前が、どうしたっていうんだよ。また走ろう、十代。お前が走るから、俺はお前を追い駆けていく。俺が目指す夢が、俺の先を走っていなくてどうするんだよ?」
ちぐはぐな眼が、信じられないものを見るかのようにヨハンを見つめていた。震える唇が、恐る恐る開く。
「オレは……ヨハンの夢になれたのか?」
その人は昔は、誰もが憧れるヒーローだった。その人は今は、誰もに恐れられる怪物だった。それが、少女のように薔薇色の頬を染めて、ひたむきにヨハンを見上げてきていた。
ヨハンにとって、半陰陽のその人は最高の親友だった。そして、たったひとりの大切な女の子でもあった。大きく頷いてみせる。十代の瞳に、星のような輝きが灯る。
「何度だって夢は見れる。目指していた夢が叶った時、顔を上げれば、もう次の夢が目の前を走っているんだ。俺はヒーローじゃないけど、精霊と人間の架け橋の十代は俺の誇りだ。だから、次は……」
赤黒い鱗に覆われた両手を取って、胸の前でお互いの指を絡ませる。初めてその人を口説いた時のことを思い出していた。確か、ひどく嫌がられたような気がする。諦めずに口説き続けた。やがてその人は呆れたような顔をして、文句を言わなくなった。ヨハンを受け入れてくれたのだった。
想いを拾い上げられた時の嬉しさや、いとしさを好き返された幸福。憶えている。その人を、一生を掛けて守って愛して幸せにするんだという覚悟。忘れない。今の感情のように、鮮やかだ。
ヨハンの目の前にいるのは、世界を終わりに導く竜なんかじゃない。全知全能にして無知無能の神でもない。強がりながら、傷付きやすく、意地っ張りで甘え方を知らず、誰より強く、ヨハンにだけは心の痛みを見せてくれて、たまに涙もろく、破天荒で、一番親しい友達であり、最大級のリスペクトに値する、最強のライバル決闘者。
遊城十代。ヨハンのいとしい妻だった。
「お前を幸せにすることが、今の俺の夢なんだ」
「オレは……」
十代は怪物の姿で、はにかみながら微笑んだ。まるで、この宇宙で一番幸せな存在であるようだった。
東の空から金の光が射し込んできた。闇を浄化する朝の訪れに似ていて、ずっと力強いものだった。滅びに向かう街を暖かな黄色に染め上げていく。空の彼方から仄白い雪のような燐光が無数に舞い落ちてきて、世界から音を吸い上げていた。
この光は、何だろう。ヨハンは怪訝に思った。胸に染み入る程に懐かしく、どこかで見たことがある気がする光景だった。
十代が顔を上げる。輝きが横顔を美しく照らした。
「―― 遊星」
優しい表情を浮かべて、目を閉じている。
「ごめんな。ありがとう」
世界が再び変化を始める。黄金の光が空一杯に満ちていき、闇を追いやってしまう。夜の中に宙吊りにされていた街を、乳白色の空間が覆い尽くした。
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