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 初めて抱いた時、その人は泣いたのだった。瞳は、何よりも感情が昂ぶった時に孕む色をしている。眇められていて、悔しそうだ。
「十代と家族になりたい。俺を受け入れて……俺の子供を産んで欲しい」
 返事は無かった。浅い呼吸を繰り返している。左右でちぐはぐの触り心地の胸が上下していた。
「俺の親友で、俺だけの女の子になって欲しい」
 痩せた背中は、何度も世界を背負ってきたのだとは信じられないものだった。腹は薄く、脚の間で勃ち上がっているものが硬くなるにつれて断続的に痙攣した。
 髪の中に隠れていた耳の上半分の曲線を唇で挟むと、喉の奥で押し殺された嗚咽のような声が鳴った。
「オレばっかり……ヘンになっちまって……」
 濡れた金の瞳がヨハンを詰る。
「お前も、見せろよっ。ヘンになれよ。なんでオレばっかりこんなふうになっちまって、女になるとこ、一番見られたくない奴の前でなっちまって。ああもお、ぜってぇゆるさねぇ。赦さないからな、ヨハン!」
 女の乳房の盛り上がりと、腰のくびれを繋ぐラインは、柔らかくて優しい。それと対になって、のっぺりとした胸と薄い腹筋が浮いた男の半身が、身体の中心線を境目にして繋がっている。とても明快な雌雄同体。
 かぼそい腕を背中に回してくれた時の、息が止まりそうな程の胸の震え。目が眩んだようになっていて、上手く息ができないこと。それを、華奢な腿に下腹が擦れ合った途端に理解して、猫のような瞳が丸くなる。
「オレの、で、こんなふうに……? ヨハンが……」
 美しい形をしているくせに不器用な指が、青い陰毛を掻き分けて、硬くなった竿の部分に触った。十代は何とも言えない表情になって、その顔を隠すように、ヨハンの胸に額を押し付けている。
「もっと……ヘンになれよっ。オレと一緒くらい。そしたら、オレも――
 「なってもいいんだ」と、消えいるような声が言う。
「十代? 泣いてるのか?」
「あんまりにも情けなくて恥ずかしくて泣けてきたんだよ。なんだよこの恰好……」
 ベッドのシーツの上で大きく脚を広げて、不思議な色の視線を斜め下へ逸らし、唇を噛んでいる。
「なんだよ、一番恰好付けたい奴の前で」
「きれいだ」
「もォ、わけわかんねぇよっおまえっ」
 裏返った声が叫んだ。
「わかんねぇよ。触り方が、優し過ぎるんだよ」
 泣き言を言う声だった。
「明日になったら……忘れてくれぇ……」
「忘れない」
 ヨハンは断じた。
「絶対に忘れない。俺の手で、指で、十代が気持ち良くなってくれたことは、俺一生忘れないぜ」
 初めて抱いた時、その人は泣いていて、新しい命を孕む可能性と、新しい命を宿すことができない可能性と、そのどちらの未来も怖がっていた。それでも半分の子宮の中へ種を注ぐことを止めなかったし、その人は決して拒まなかった。痛みも快楽もぬくもりも、かぼそい肢体で精一杯に包み込んで受け入れてくれた。ただ泣いていた。何故泣くのかを尋ねた時に、その人は何も答えなかった。
 愛した者を破滅させる赤い悪魔は、唇を震わせて、子供のようにしゃくりあげていたのだった。

 * * * * *

 童実野総合病院の中庭に敷き詰められたタイルが、太陽を反射して輝いていた。塗り替えられたばかりの壁の白さと、錆の浮いた噴水がアンバランスだ。赤茶色の煉瓦で囲われた植え込みは、平らに整えられている。その間に等間隔に植わっている木々は、枝いっぱいに薄いピンク色の花をつけていた。ヨハンはベンチについて、絵本を広げている。
「『神様が遣わした天使は、地上に愛を運ぶのが仕事でした。仕事が終わったら、天使は神様のもとへ帰らなければなりません。天使に恋をしたわるい王様は、天使が助けてあげようとする人間がいなくならないように、いつもみんなを困らせておくことにしました。みんな王様がきらいになって、やがて力を合わせて殺してしまいました』」
 絵本は原典で、綴られているのはこの国の言葉じゃない。ヨハンの母国語だった。それを日本語に翻訳しながら、隣の妻に読み聞かせてやっている。ページを繰る。
「『でも優しい天使だけは、わるい王様をきらわずに、ひとつだけ王様の願いを聞いてくれたのです。王様は言いました、天使と一緒に神様のもとへ――』」
「なんだその救いのない話」
 スリッパをつっかけた足を交互に揺らしながら、十代が文句を言った。ヨハンは言葉を切って顔を上げた。
「お前向きではないな」
「身に憶えがありすぎてヤなんだよ。どうせオレは悪い覇王様だよ」
 ふてくされたように十代が言った。どこがだよ、とヨハンは思う。十代はヒーローだ。誰よりも綺麗な天使だ。少なくとも彼の指が触れるのに、暗く憂鬱な物語は似合わない。
「寂しい話だからやめといた方がいいって言ったのに、お前が聞きたいって言ったんじゃないか」
「だってヨハンが実家の話をしてくれるなんて、めっちゃめちゃレアカードなんだぜ」
 チョコレート・ブラウンの頭が勢い良く立ち上がって、眩暈を起こしてふらつく。慌てて薄い肩を抱き止めた。
「馬鹿、いつもの身体じゃないんだ」
 頭を抱き込んで背中をさすってやると、楽になったようで、ヨハンの胸に額を押し付けてじっとしている。
「お前ひとりの身体でもないんだ。気を付けろ」
「……うん」
 それから髪に隠れた耳の傍で、童話を読み聞かせていたものと同じ声音で父の話をした。故郷にいる人間の形をした家族の印象は、ヨハンにとっては御伽噺とそう変わらないものだった。現実味も温かみもない。家族という言葉は同じなのに、腕の中にある十代の温もりとは正反対の性質をしている。
「あの人の創った話は、どれも暗くて冷たくて救いがないんだ。主人公は泡になったり、脚が切断されたり、地獄に落ちたり、醜いからってみんなにいじめられたりする。皆生きてるうちはずっと辛くて、幸せになるには死ぬしか方法がない。そういう気が滅入りそうになる話を、もう二百年は書いてる」
「にひゃく」
「……って、自分で言ってたんだけどさ。気の利いた冗談を言うような人じゃなかったんだけど、さすがに妖怪じゃあるまいし、そんなはずないよなぁ?」
「オレに聞かれてもな。ヨハンの父さん、会ったことないし」
「俺も家を出てからは一度も会ってないな〜」
「どんな人だった?」
 猫のような艶のある眼が見上げてくる。ヨハンは絵本を脇へ置いて、腕を組んで、俯いて言葉を選びながら、ぽつぽつと喋った。
「顔は良く覚えてない。どんな言葉を掛けてくれたのかも記憶にないな。確か、ものすごく心配症だったんだ。家の外で起こり得るあらゆる事故を想定して、出掛ける時は縄梯子とかツールナイフとか、針金や靴べらなんかが入った鞄を必ず持ち歩いていたし、寝る時は死んでるのと間違われて埋葬されないように、額に『生きています』って札を貼って寝たり」
「やっぱりヨハンの父さんだな。おもしれぇ」
 十代が笑う。そうだろうか。首を傾げる。厳格な父は、子供のように思っている半陰陽のその人に笑われた時に、どんな反応をするのだろう。どれが壊れても替えがきく玩具の人形のように自分の子供達を扱っていた父が、たった一人だけ異様に溺愛していた十代だから、静かに微笑んでいるのかもしれない。良くわからない。あの人のことは何もわからない。
 視線を巡らすと童実野町の風景と、あちこちで満開になっている桜の木々がある。溜息混じりに、「ああ、そうだっけ」と呟いた。桜を見て思い出したのだった。四月二日。今日は父親の誕生日だ。普段は意識的に忘れようとしている子供の頃の故郷の思い出が、海中の泡のように浮かび上がってくるのを押さえきれないのは、きっとそのせいだ。
 「ともかく、ヒーローに救いのない結末なんて似合わない」と十代が言った。
「いや、ヒーローいないし。童話なんだからさ。出てきたらびっくりだ」
「オレはどんな物語にもハッピー・エンドしか認めないぞ。ヒーローに相応しい結末はそれしかない」
「俺が創ったわけじゃないんだけど」
「書き直せば。ヨハンそーいうの上手いじゃん」
「俺が?」
「そう。だってヨハンの父さんが生み出した童話なんだ。じゃあヨハンの兄弟みたいなもんだろ」
 理屈はよくわからないが、十代は人差し指を立てて得意そうだ。
「ちょっとハッピー・エンド過ぎやしないかって位がいいな。その位でいいのさ。幸せはあってあり過ぎて困ることなんかないんだ。大好きな人には特にそうだ。子供達にはでっかい夢を見て欲しい」
 ヨハンの鼻先に指を突き付けて言う。にっこりした。
「だから、子供が産まれるまでには頼むぜ。なぁ」
 患者衣で隠れた腹は、もう見て分かる程に膨らんでいる。雌雄同体の男の半身が、子供を宿した女の器官に押されて窮屈そうだった。指でなだらかな隆起を辿る。皮膚の向こう側で、何かが動いた。
 まだ生まれていない生命の気配に触れると、ヨハンは少し変な気持ちになる。自分が子供を作れる生き物だったと知って、全身に熱い血が巡っていることを強く意識した。本当に十代と同じ人間だったのだ。なんだかふわふわとした感覚の中でずっと生きてきたヨハンだったから、こんな気持ちになるのは生まれて初めてだ。
 強い風が吹いた。白い花々が巻き上げられて、空気の中を雪のように舞う。薄い花びらがくるくると翻る。ダンスを踊っているみたいだ。ぽっかりとした空を見上げている十代の隣で、幼い頃に聴いた懐かしいメロディを、知らずに口笛で吹いていた。十代が寝癖頭を傾けて、ヨハンを見上げてくる。
「それ、聴いたことがある」
「この唄、昔うちの親父が書いた旧い旅行記に、日本人の作曲家が音楽をつけてくれたんだってさ」
「いつの唄だっけ?」
「百年くらい前だったかな」
「じゃ、きっと前世を生きてた頃に聴いたんだろうな」
「たまによくわかんないこと言うよな。十代って」
 『朱の唇に觸れよ、誰か汝の明日猶在るを知らん』、小難しい詩を口ずさむと、十代は眉を下げて頭を振った。
「そっちはわかんねぇ。オレが知ってるのは……」
 とても好きなトーンの声が歌を紡いでいく。
「いのち短し恋せよ乙女。紅き唇あせぬ間に、熱き血潮の冷えぬ間に。明日の月日はないものを――
 まだ冷たさを残した空気の中を飛び跳ねている花びらが、日の光を受けて仄白く輝く。穏やかな春の陽射しの下で、その人のようなヒーローになりたいと言うと、『なにを言ってるんだ、こいつは?』という顔が返ってきた。
「ヨハンはもうとっくに強くて恰好良いオレのヒーローじゃないか」
 十代が言った。



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<パーフェクト・レッド(完)>

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arcen>安住裕吏 10.07.11 - 10.07.13 −