地上での実験的な生活が始められた。
 大深度都市には見られなかった病原菌や未知の外敵に備えるために、まだ試験的なものではあったが、街が造られた。
 なにせ地上世界というものは、1000年もの間手付かずのままの未開の地だったのだ。
 そこは急にぱっと現れた人類をすぐに受け入れてくれるほど、優しい世界ではなかった。
 だが確かに人工太陽の無機質な灯りとはまったく違う自然の光が常に降り注いでいたし、食物、物資、なにもかもが豊富にあった。
 ラボが生産せずとも食料が不足することはなかった。
 そしてなにより、空気はとても澄んでいた。
 透明で、混じりっけなしの綺麗な大気だ。
 それは1000年の間汚染された空気を吸い、肺腑を侵されてきた人々を浄化してくれた。





 世界が壊れたのだ。
 価値あると認識していたすべてを失い、混乱する人々を統率するために、始源の唯人、世界を統べるオリジンと呼ばれるものに代わる、新たな存在が生み出された。
 世界を開いたその人、空の解放者。最後のオールドディープ。その適格者。
 資質は十分だ。
 新生オリジンの誕生である。
 彼ははじまりの人と呼ばれ、件の『見極めの儀』で生き残った数人の統治者、そしてそれらと敵対していた反政府組織『トリニティ』の幹部を率い、ふたつの勢力の調和のなか、世界を安定へと導く役を担うことになる。
 空の解放当時、若干16歳だった少年の名は、リュウ=1/4。
 下層区で1/8192のローディーとして生まれ、サードレンジャーとなり、ある時組織に背いてトリニティと行動を共にし、しかし結局どこに属することもないまま空へ届いた彼の名は、人々の間で語り継がれた。
 時が経つにつれ、その名は半分伝説となった。
 名前だけが一人歩きした。当人を置き去りにして。





◇◆◇◆◇





 あれからもう2年になる。
 多忙な日々に追われていると、あっという間に過ぎてしまった年月に、彼、リュウは苦笑した。
 つい先日――――いや、昨日のことのようだ。
 空への扉を開いたあの日、アジーンと言う名の友との出遭い。
 初めて翼の生えた少女に出会った時のこと。
 頭に直接響くオリジンの声。赤いひかり。
 そして友達がリュウを憎んで憎んで、いなくなったこと。
 あんなにまっすぐに目指していた空なのに、最近では責務に掛かりきりで全く目にしない日すらある。
 あの頃は眩しい青空をただぼんやり見上げながら、そうして一日が終わり、夜がきて、また次の日が昇って――――もうそろそろやめよう、とリュウは頭を振った。
 余計なことを考えていると、また手が止まっていると誰かにどやされるだろう。
「二代目、手が遅いですよ」
(ほら、やっぱり)
 リュウは内心溜息を吐いて、うん、と頷いた。
 しょうがない人だ、という顔をしている相手は、リュウよりふたつばかり年下に見える少年である。
 二ーナと同じようなくらいなんだろうな、と見当はつけていたが、歳を訊いたことがないのでわからない。
 もしかすると、実際にはリュウよりも年上なのかもしれない。
 彼は空が開かれる前は統治者と呼ばれていた、先代オリジンの右腕であったというクピトである。
 少女じみた風貌をしているが、彼は男だ。
 確か初めてそれを聞いた時には、とてもびっくりしたように記憶している。
 女の子と見間違うくらいに、とても綺麗な顔をしているので。
「まったく、先代といいあなたといい、なんでオリジンっていうのはみんな職務怠慢が目につくんでしょうね……」
「さ、さぼってるわけじゃないよ……ただおれ、あんまり頭が良くないから」
 リュウは慌てて弁解とも言えない弁解をした。
 最近ようやくまともに学術書を読めるようになってきたところで、先代オリジンの引継ぎだとかで就任した直後などは、まともに文章も読めなかったのだ。
「しっかりしてくださいよ、あなたは先天的に頭は良いはずなんですから。D値の再検査で、1/4が出たんでしょう?」
「体力なら自信があるんだけどなあ」
 リュウはやれやれと頭を振った。
 オールドディープ適格者としてドラゴンのアジーンとリンクした結果、その影響でD値が変動している可能性がある――――そう言われて半ば無理矢理バイオ公社にD値の再検査を受けさせられて、出た数値が1/4。
 これにはリュウ自身も唖然としてしまった。
 なにせ生まれた時の数値で一生が決まると言われるほど厳格なD値が、そんなにころころと変わっていいものなのかと、少々首を捻ったものである。
 まあ、おかげで上層区の人間をはじめとするD値絶対主義者連中も、納得させることができたのだが。
「D値っていうのも微妙なんだなあと思うよ。あてにならないんだよ、あんなの」
「あなたが言いますか」
「だっておれが1/4って、なんだか騙されてる気がするんだよ……。昔から頭悪いし、要領悪いし、根っからのローディーだってことあるごとに言われてさ」
 リュウは、そこではあっと溜息を吐いた。
 そんなことを言う人間たちは、もうこの世界のどこを探してもいないのだということは理解していた。
 だがそうやってリュウを扱下ろす筆頭たる人物は、彼はどうやっても過去になりえない人間だったので、こんなふうに言葉の端々に現れてくれる。まだ。
 救いようがないねローディー、なんて、リュウを馬鹿にしながら。
「ともかく、おれは繋ぎなんだからね。エリュオンさんみたいな、ちゃんとしたオリジンが出てくるまで」
「……どうでしょうかね。彼も、多分……」
「多分、なに?」
 クピトは、眉尻を下げて苦笑しながら、ゆるゆると首を振った。
「多分、あなたと同じことを思ってたんじゃないでしょうか。ずっと」







 何もかもが変わってしまったように思う。
 ローディーからハイディーへ。背もずいぶん伸びた。髪は、切った。
 あの頃は、なんにも考えずにいられた。
 ただ、二ーナを助けたかっただけ――――彼女を空に連れて行きたかっただけだ。
 その為なら、身体が、心さえもどうなったって良かった。
 二ーナを守りたかった。
 彼女は弱かった。
 そして、リュウを確かに必要としていた。
 無条件で自分を信じてくれたはじめての相手を、最後まで守り抜きたかった。
 じわじわと浸蝕されていく恐怖。アジーンになっていくリュウの心。
 心臓をずうっと鷲づかみにされているような、そんな感触。
 あの真っ青な空を一目見上げて、そして目を閉じて、リュウはそこで終わってしまったはずだった。
 二ーナを空へ。
 彼の望みなんて、それだけだったのだ。
 ちっぽけで、それでいて大それた希望だ。
 個人の命が代償になるには大き過ぎるくらい。
 だが彼は届いた。
 しかし、生き残った後のことなんて考えもつかなかった。
 きっと自分はあそこであのまま死んでしまったままなのだという考えが、ずっとリュウを支配していた。
 彼は空っぽだった。
 命を賭して空へ。
 その後のことなんか、なんにも考えていなかったのだ。まったく、全然。

 




「いよう、二代目! 相変わらず辛気臭えツラだな。なんだ、またクピトに絞られたか。リンの尻でも見て元気出せ」
「……いや、それちょっと」
 最後の書類にサインを入れて、執務室を出たところで、ジェズイットに出くわした。
 肩をばんばんと叩かれて、ものすごいことを言われた。
 リュウは顔を真っ赤にして、とんでもない、と身振りで示した。
 ジェズイットは元統治者だが、少々他とは毛色が違う。
 D値が少し低いのだという話を聞いたことがある。
 とりあえず、リュウは彼が真面目な顔をしているところを見たことがない。
 女の子の尻を見て鼻の下を伸ばしているか、見ているだけでは飽き足らずに手を出して、頬にくっきりと赤い手形をこさえているか。そのどちらか。
 彼は、ん?という顔をして、やがて納得したようで、ぽんと手を叩いた。
「そーか、やっぱり二ーナがいいか。あのコは痩せてるからな、ちゃんと触ってでかくしてやらなきゃ」
「な、何を?!」
 リュウは慌てて上擦った声を上げて、非難した。
「二ーナに変なことするなよ! 絶対駄目だ!」
「いや、あんたがだよ」
「お、おれ? って、おれはそんなことしないよ! なんてこと言うんだよ!!」
「あれ、知らないのか? 女の子ってのは、ほんとは触ってもらいたいんだよ、あれ。だからあんなに可愛いお尻をしてるのさ」
「それ、痴漢の言い分だろ!」
「二代目、青いあんたにはまだわからんだろうがなあ……」
「一生わかりたくないよ! ともかく、駄目だ、二ーナは!」
 リュウが必死で牽制すると、ジェズイットは飄々と肩を竦めた。
「まあ冗談は置いといて。今日は集合、あるんだろう?」
「……ああ。もうすぐリンも来るはずだ。メベトも」
「二ーナは?」
「ちょっと遅れるって。メディカルセンターで薬を貰ってから来るって」
「ああ、そう。いつもの?」
「うん」
 リュウは頷いて、じゃあ、と顔を上げた。
「おれ、先に待ってるから」
「……オリジンってのは、最後に現れて、ショッキングな発言をするもんだろうって思うんだが……二代目、いつも一番乗りだもんな」
「遅れるよりいいじゃないか」
「まあ、なあ。あんたの遅刻の理由なんて、釣りくらいのもんだしなあ」
「……う」
「じゃ、メシ食ってから顔出すわ。あ、そうそう二代目」
「?」
「ほい」
 ぽん、とすれ違いざまに尻を触られて、リュウはぞわっと背筋を強張らせた。
「…………へ?」
「駄目だなあ、ちゃんと飯食ってるか? 仕事ばっかしてねーで、たまにはニーナとデートでも」
「な、な、な、なんでおれの尻を撫でるんだよ」
「俺は人の尻を触ると、相手の体調までわかっちゃうんだよ」
「……うわあ、それはまた、何と言うか……ていうか、やめて……」
 顔色を無くしながらリュウがぼそぼそと懇願すると、ジェズイットは冗談だよ、と二ヤ二ヤした。
「二代目、あんたは先代みたいなのは着ないの、服。こうぴったりした、身体のライン全開なの」
「……あれ、おれが泣いて止めてくれって言ったの、見てなかったわけ」
「セクシーでいいじゃん、男のフェロモンとかがさあ、こう……」
「絶対、着ない! エリュオンさんには悪いけど、おれには無理だよ、あれ絶対!」
「イイと思うんだけどなあ、女の子にモテモテだぜ?」
「だから、尻を撫でないでくれよ、この手……」
 リュウが半分くらい泣きそうになってきた、その時だった。
「道の真ん中で何卑猥なことをしてるんだい」
 呆れ返った女の声がして、リュウとジェズイットは振り向いた。
 視線の先には、リンだ。
 彼女はとんとんと肩でバムバルディを叩き、そうして発砲した。
 何の気負いもなく、それは放たれて、
「……あっぶねーなー、リン」
 ジェズイットのアブソリュードディフェンスに弾かれ、砕け、消えた。
 リンは、ふんと鼻を鳴らし、銃を腰に納めた。
「あんまり子供におかしなことを教えるんじゃないよ」
「リン、おれもう18だよ……」
「私からすれば十分子供だよ、リュウ。久し振りだね。2週間ぶりくらいかな」
 リンはそこで、やっと2年前と全く変わらないふうに、にっこりと笑った。
 






 彼らはプログラムに従い世界を開いた竜に代わり、竜の遺志を継ぎ、世界を監視し、そして必要が迫ればしかるべき処置を下す役割を担う存在となったのである。
 彼らの目的は統治ではない。
 したがって、統治者と呼ばれるものはもうこの世界にはない。






      
メンバー
 彼らは判定者と自らを呼び、この地上でまだぎこちなく暮らす人々を見守っている。
 今日もまた。



 







 
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