随分と遠くの方から、声が聞こえる。
 それはひどく懐かしくて、聞いているだけで目が熱くなってくる種類の、そんな声だった。
 それがそこで響くというだけで、胸の中がぐちゃぐちゃになってしまうみたいな。
 あんまりにもいろんな感情がごちゃまぜになりすぎて、おれにはそれが何なのかわからなかった。
 悲しい、とか苦しい、とかに似ている気もする。
 でも良くわからない。
「……リュウ、リュウ!」
 それはおれを呼んでいた。
 ずうっと遠くの方から、もう届くはずのないところから、でもおれは随分と諦めが悪い性質をしていたので、手を伸ばして触れようとした。
 それはだけど、思ったより近くにあった。
 手のひらに柔らかい感触。
 おれは目を開いた。
 まず金色の頭が見えた。
 おれは二三度瞬きをして、焦点をうまく合わせた。
 すぐ目の前に、おれの相棒のボッシュがいた。
 なんだかびっくりしたような顔をしていた。
 当然かもしれない。
 急に顔なんて撫でられたら、おれだってびっくりするに決まってる。
「なんだよ、気持ち悪いなあ……。ねボケてるのかよ?」
 おれはなんだかまだぼおっとしていて、ボッシュに素直に頷いた。
「……そうみたい」
「おまえ、いきなり倒れたんだぞ。大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
「しっかりしてくれよ! さ、行くぞ相棒」
 ボッシュは手を差し伸べて、冷たい床に寝転がっているおれを起こしてくれた。
 無菌状態を保たれている清潔な廊下を、照明の人工的な灯りだけが照らしている。
 少し薄暗い。
 おれはバイオ公社のアプローチにいたのだった。
 少し前に任務が入って、でもいつも通り、お決まりにリフトが故障していて、おれたちは線路の上を歩いてくる羽目になったのだった。
 だからボッシュはちょっと機嫌が悪い。
 おれはそこに立ち尽くしたままでいたが、ボッシュがさっさと行くぞ、と振り返ったので、慌てて彼を追いかけた。
 今日はたしか、バイオ公社のラボから逃げ出したディクを捕まえて来なきゃならないのだ。
 そして、おれたちは扉を――――その扉をくぐった。
 おれはなんだか少し前から、不安と、それから僅かな恐怖でいっぱいになっていた。
 何が怖いのかは分からない。
 扉の先はただのディクの廃棄所だ。
 あるのは干乾びたディクの死骸だけで、死臭はあるけれど、そこにはもう何もない。
 本当に、なにもないのだ。
「どうした、相棒。さっきから変だぞ。腹でも壊した?」
 ボッシュが、しょうがないなという顔をして、おれの額にぴたっと手を当てた。
「うん、熱はないみたいだな……って、おい、どうしたんだよ?!」
 ボッシュは驚いて、おれの方を見た。
 おれはなんでだかわからないけど、知らないうちに泣き出してしまっていた。
 音もなく、自分でも気が付かないくらい。
 ただぽつぽつと床に水の滴が零れて、それでおれ自身も、ああ、おれは泣いてるんだって気が付いた。
 おれはなんだか、随分と取り返しのつかないところまで歩いて行ってしまっているようなそんな気が、目覚めてからこっち、ずうっとしていた。
 ボッシュは驚いていた。だからおれは謝った。ごめん。
 それで終わりだ。
 ごしごしとレンジャージャケットの袖で涙を拭って、おれはいつも通りの仕事に戻った。
 ボッシュは、変な奴だなあ、と肩を竦めて呆れていた。







「それで、今日は何なわけ? いきなり泣き出したりして。神経でもやられた?」
「さあ……」
 任務の完了報告が終わって部屋に戻って、それからシャワーを浴びて、テレビをつけた。
 ボッシュはおれの方を良くわからないふうに眺めていたが、おれはなんでもない顔をしていたので、すぐにどうでもいいと思ったらしい。
 ベッドに寝転んで、読んでいた本に集中することにしたようだ。
「ちょっと、変な夢を見たんだ。さっき」
「ふーん」
「……ねえ、ボッシュ。『オリジン』ってなに?」
「何、いきなり」
 ボッシュは、おれの口からそんなものが出ることが信じられない、という顔をして、身体を起こした。
「新聞でも読んだの? 『オリジン』ってのは、この世界で一番偉い統治者のうちで一番偉いやつのこと。つまり、世界で一番偉いやつ」
「へえ……」
「急にそんなこと言い出してどうしたんだよ。レンジャー辞めて、ジャーナリストでも目指すつもり?」
「……良くわからない」
「何それ。まあいいけど」
 ボッシュはその話題に飽きたようで、また本の虫に戻った。
 彼は良く本を読む。
 おれはあんまり難しい言葉がわからないので、彼の読んでいるみたいな本は読めない。
(でも、そうだよな……)
 おれはあんまりにおかしくて、苦笑した。
「……何笑ってるんだよ、気持ち悪いな」
「ああ、べつになんでもないんだ」
 おれはさっきから変な目ばっかりでおれを見てくるボッシュに、慌てて言った。
 そう、ほんとに何でもない。
「変な夢を見たって言ってたっけ。何の夢?」
「ああ、うん」
 おれはボッシュに馬鹿にされるとわかりながら、それを話した。
「空の夢を見たんだよ」
「ハア? なにそれ、下層区の?」
「……うーん」
 おれはこれ以上言うと、ローディーのくせになにそんなに大それた夢なんて見てるんだよ、とボッシュに苛められそうだったので、曖昧に頷いておいた。
「空、綺麗だったよ」
「ふーん。いいんじゃない」
 ボッシュは今度こそおれとの話を打ちきって、本に集中しはじめた。
 それは、おれにはありがたかった。







 おれにとってこれ以外の日常なんて考えられないだろう、というくらいに普通に日々は過ぎていった。
 サードレンジャーの仕事に相棒のボッシュとふたりで出向き、ゼノ隊長に報告。
 その後はいつもの訓練。
 隊長は相変わらず厳しくて、手加減なんかまったくないから、おれはいつも完膚なきまでにぼこぼこにされる。
 訓練が終わった後はメディカルルームに行き(そしてたまには担ぎ込まれるはめになり)今日の訓練での負傷具合を見に来たボッシュに笑い者にされる。
 今日もいっぱい勲章もらったな、ローディー。羨ましいよ、半分くらい俺にもくれ。
 彼はいつだっておれをからかうのだ。
 本当に意地が悪いというか、でもまあ、任務の時は本当に頼りになるし、隊長に手酷くやられたおれに、気まぐれとは言えきずぐすりを塗ってくれることもあるし、結構いいやつなのかもしれない。
 苛めっ子なんだけど。






「あれ?」
 おれはなんだか腑に落ちない気がして、レンジャー基地の壁を見上げた。
 確かこの間までは岩肌がむき出しになって、地下水が漏れてきていたように思うんだけど、そこはいつのまにか綺麗に補修されて、壁ができていた。
 本当に、いつの間に直ったんだろうか?
「ねえ、ボッシュ。ここ、工事なんて入ってたっけ?」
「ハア? 何言ってんの、おまえ」
「この間まで、岩から地下水が染み出してくるから、まともに改修できないんだって、みんな困ってたじゃないか。今更壁なんか造って大丈夫なのかな」
「ボケたか? ずうっと前からこうだっただろ」
 確かにその壁には年月と共に溜まった埃と汚れが付着していた。
 人の手が入った跡はない。
「なんか、最近基地の中、前と変わったよね……。さっぱりしたっていうか。昔はもっと汚くて空気が悪かったのに」
「気のせいだろ。空気清浄機が新型に変わったんじゃないの?」
 ファーストのロッカールームがなくなっている。
 基地にいるのも、おれが良く話をする同期のサードレンジャーだけだ。
 知らない人は全然いない。
 そして、どんどん少なくなっていく。
 昨日いた人間が、今日は姿を見せない。
 それを誰も話題にしない。
 でも、ボッシュがおかしくないって言ってるんだから、別に変なことでもないんだろうか?
 彼はおれより優秀なレンジャーなので、間違うことはない。
 本当は彼のほうが向いているのだ。
 おれなんかより、ずっと、あの大それた『役目』は。
(……あの役目ってなんだっけ)
 ぼんやりと霞みがかったように、おれは疑問にうまく答えが出せなかった。
 ただ危機感はなかったので、どうってことないんだろう、と思っておいた。
 おれたちレンジャーは、直感で危機を感じるように訓練されている。
「あ、そう言えばおれ、下層区にきずぐすりを買いに行かなくちゃ……」
 出口に足を向けると、ボッシュに肩を掴まれた。
 振り向くと、いつもの意地の悪い顔をしたボッシュが、にっこりと、あまり覚えのない笑い方をした。
 おれはそれをどこかで見たように思ったけど、うまく思い出せなかった。
 どこで見たんだったか?
「相棒、そんなのめんどくさいだろ。俺のを分けてやるよ」
「でも、ボッシュだって使うだろ?」
「こないだ纏め買いしてさあ。その代わり、ゼニーはきっちり払えよ」
「ああ、うん……ありがとう」
 おれはボッシュの好意に甘えることにした。
 そんなに遠くはないけど、確かに街に降りている時間はあまりない。
 もうすぐいつもの訓練の時間だ。
 遅れると隊長に怒られる。
 それに、なんだか、ボッシュがおれを行かせたくないようなふうだったので。
 なんでだか知らないけど。
「……悪いな、まだそっちはうまく出来上がってないんだ」
 ボッシュは珍しく、おれに謝った。
 おれは変な気がしたし、ボッシュがなにを言っているのかも良くわからなかったが、うん、と頷いた。
 ボッシュは聞き分けのいいおれを見て、また笑った。
 その顔は誰かに似ていた。
 とても近しい人間に似ていたような気がするのだった。
 でも、それを上手く思い出せない。
「もうちょっと後でな。ここもちゃんとおまえの思いどおりに、すぐに造り上げるからさ」
 おれはまた、良くわからないまま頷いた。
 ボッシュは、偉いな、と小さい子にそうするみたいに俺の頭を撫でた。
 ボッシュは、こんなに優しいことをする人間だったろうか?
 あまり覚えがないんだけど。
 そして、彼の目はこんなに真っ赤な色をしていただろうか?
 血の通った炎みたいな、ぎらぎらした目をしていただろうか。
 くすんだ緑色をしていなかったか。
 それはまたおれの記憶違いだろうか。
 ボッシュはまた覚えない笑い方をして、その時唐突におれは気が付いた。
 これは、おれの顔だ。
 これは、アジーンの目だ。
 空洞みたいな眼窩に嵌っているのは、ドラゴンの血の赤だ。







「リュウ? なんだよ、ぼーっとして。俺の顔に何かついてるか?」






「え? あ、ああ、いや……」
 おれははっとして、慌てて頭を振って、ごめん、と謝った。
 おれは今、何を考えていたんだったか?
 なんだかすごく心臓がばくばくと鳴っている。
 冷汗が背中を濡らしている。
 口の中がからからだ。
 これは、なんでだ?
 ボッシュはおれの様子に肩を竦めて、メディカルルームに行ってこいよ、と言った。
「ひどい顔してるぞ。また任務の真っ最中に倒れないでくれよ」
「あ、ああ……そうするよ」
 おれはボッシュに、口で言うのと裏腹に優しく頭を撫でられて、頷いた。
 そのころには、さっきまで感じていた違和感はもうどこにもなくなっていた。
 違和感を奇妙に思うおれも、どこにもなかった。
 さっきまで何を考えていたんだったろうか?
 綺麗さっぱり、覚えていない。







 そう、これから訓練があるのだ。
 とても優秀で、おれなんか足元にも及ばないくらいに強い、けど本当はとても優しいゼノ隊長の。






 みんなは、おれにとてもやさしい。


 



 







 
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