消毒薬の匂いがする。
 それは彼女にとってラボでの忌まわしい記憶を蘇らせるものであり、あまり好きにはなれなかったが、何故だろうか、最近この空の下ではそれもあまり気にならなくなった。
 ニーナは廊下の隅に並んでいる黒くて硬い長椅子に腰掛けて、名前が呼ばれるのを待っていた。
 窓から見えるプレートにはこうある。
 中央区メディカルセンター。
 病院の廊下なのだけれど、しいんとしたあのラボみたいな雰囲気はない。
 風邪をひいたのかガウンを着せられて座っている女の子や、病院に着くなり雰囲気で回復してしまったような感じの、二ーナよりも年下に見える男の子。
 元気に廊下を跳ね回って、母親と看護婦に大目玉をくらっている。
 二ーナはついくすっと笑った。
 彼女は街の中枢となる人物だったが、特別室でひとりきりで治療されているよりも、こちらの一般病棟でみんな等しく、という感じの方が好きだ。
 何年経っても特別扱いなんてものには慣れないんだ、とリュウもそう言っていた。
 しょうがないよ、おれ普通なんだもの。こうも言っていた。
 二ーナもそう思う。普通だ。
 同年代の女の子たちとあまりお喋りする機会がないのが残念だが、背中の羽根以外は変わったところもないと思う。
 でも、これは変なことじゃないと思う。
 リュウはなんにもついていないけれど、リンはふさふさの耳と尻尾がついている。
 あれはとても可愛いと思う。
 でも素直に言ったらリンはちょっと怒った。恥ずかしいから止めてよ。
 リンはあんまり、自分の耳と尻尾が好きじゃないみたいだった。
 自分の身体に自分の好きじゃないものがついていることを、どうやらコンプレックスというらしい。
 二ーナはこの羽根が嫌いだ。コンプレックスなんだと思う。
 女の子は、コンプレックスというものを持っているのが普通なんだそうだ。
 だからニーナはこの気に入らない羽根がついていると安心するのだった。
 わたしはリュウやリンたちと同じ普通なんだ。安心。




 またしばらく待った。
 どうやら今日はいつもより患者が多く、混んでいるようだ。
 二ーナはぼんやりと窓ガラス越しの空を見上げていたが、ふと膝を突付かれて振り向いた。
 二ーナよりもいくつか年下に見える少女が、しゃがんで彼女をじいっと見上げていた。
 金髪でお人形さんみたいに可愛らしい女の子だ。
 裾がひらひらと開いてフリルになった水色のワンピースを着ていて、それが良く似合っていた。
「……なにかしら?」
 できるだけお姉さんに見えるように、二ーナは返事をした。
 女の子は首を傾げて、二ーナ様、と上目遣いで呼んだ。
「二ーナ様、いつもここでずうっと待ってるわ。あのね、今日は混んでてすごく待たせることになるから、特別室のほうに来てって、パパが言ってた」
「わたしはここで待ってるのが好きなの」
 二ーナは、できるだけリュウの笑顔に似るように、にっこり笑って言った。
「あなたのお名前は、なんていうのかしら?」
「私はエリーナよ、ニーナ様。あのね、パパはお医者さんなの。それで、パパが呼んでるの」
「困ったわね。わたし、特別室はあんまり好きじゃないの」
 一人で、ドクターに囲まれて、一度ベンチレータの具合が急に悪くなった時に世話になったことがあったが、あれは本当にラボでの記憶を再現したようで、ニーナはどうにも好きになれなかった。
「エリーナ、どうしても行かなきゃ駄目?」
「二ーナ様に聞いてって、パパが言ってた」
「じゃあ行かない」
「……でも二ーナ様を待たせちゃ駄目って言われたのよ」
 エリーナは口を尖らせて、二ーナを見上げた。
 二ーナはついくすっと笑ってしまった。
 それから椅子を降りてしゃがみ込み、エリーナと目線を合わせた。
 リュウは自分よりも小さい子と話をする時は、いつもこうするのだ。
「エリーナ、わたしとお話してくれないかしら? わたし、おんなじくらいの歳の女の子と、あんまりお喋りしたことがないの」
「誰とも?」
「うん。 リンっていう女の人はいるけど、わたしよりもずうっとお姉さんなの」
「私がお話して、そうすればニーナ様、たいくつじゃない?」
「うん、全然」
「じゃあお話しよう、二ーナ様」
「二ーナでいいわ、エリーナ」
「でもパパが、年上のひとには呼び捨ては絶対駄目だって言ってたもの」
 二ーナはつい苦笑した。
 リュウ、リン。ジェズイット、クピト、メベト。彼女はみんなの名前を呼び捨てにしている。
 わたしはあんまりお行儀が良くないのかしら、とニーナは思った。
 エリーナはしばらく考えを巡らせていたようだったが、すぐにぱあっと顔を輝かせ、思い付いた、と言った。
「二ーナお姉ちゃん! 何して遊ぼうか? 私、お話よりおままごとが好き」
「じゃあそうしよう、エリーナ」
 二ーナは嬉しくてにこにこしてしまった。
 エリーナは綺麗な金髪で、二ーナと同じ青い目をしていた。
 これ、誰かがわたしたちを見て、お姉さんと妹だと思ってくれないかしら、とニーナは内緒でこっそりと思った。
 




「こんにちは、エリーナ」
「ごきげんよう、二ーナお姉ちゃん」
「エリーナは、わたしよりもずいぶんとお行儀が良いみたいね」
 二ーナはそう言って、くすくす笑った。
「二ーナお姉ちゃんは、今日は風邪?」
「いいえエリーナ。わたしはとても元気よ」
「でも、メディカルセンターは病気の人が来るところなのよ。どこか悪くなきゃ、パパに怒られちゃうのよ」
「困ったわね。エリーナ、パパに怒らないでねってお願いしてくれないかしら?」
「うん、いいよ。私、二ーナお姉ちゃんとお話、好きだもの」
 ニーナとエリーナは、顔を見合わせてにっこりした。
「実を言うとね、わたしは検査を受けにきているの。この羽根がわたしの身体に悪いことをしてないか、エリーナのパパに調べてもらうのよ」
「ふうん。……その羽根、悪い子なんだ」
「そう、ちょっと悪い子なの。でもわたしにはとても大事な子よ」
「ふーん……」
 エリーナは良くわからないふうに目をぱちぱちとしていたが、やがて恐る恐るといった調子で、二ーナの背中に手を伸ばした。
「羽根、触っても大丈夫? 痛くない?」
「大丈夫」
 エリーナの小さな手が触れると、とてもくすぐったくて、二ーナはちょっとくすくすと笑った。
 人に羽根を触らせることなんて、検査以外では初めてだ。
 今まで随分と触られることを嫌がっていたのに、変なの、とニーナは思った。
 べつに大したことじゃなかった。
 ちょっとくすぐったいだけだ。
 全然嫌じゃない。
「ね、かっこいいね、羽根」
「気持ち悪くない? こんな真っ赤なの」
「とても綺麗よ。ニーナお姉ちゃん、この羽根嫌いなの? 私もこれ、とっても欲しい。背中についてたら、絶対みんなに自慢するもの」
 二ーナはそう言われて、それは予想外の言葉だったのできょとんとして、それから思い当たって、ちょっと得意そうな顔をしながらエリーナに教えてあげた。
「これはね、エリーナ。わたしのコンプレックスなのよ」
「コンプ?」
「コンプレックス。自分の身体で自分の嫌いなところのことよ。でもそれがあるのが普通なの」
「……私、鼻が低いのが嫌なの」
「それがエリーナのコンプレックスなのよ。でもぜんぜん可愛いわ、エリーナ。わたしよりも、ずうっと綺麗なお顔をしてるもの」
「私、あんまり可愛くないよ」
 エリーナは顔を赤くして照れた。
「友達のメアリのほうが、真っ黒な髪の毛がすごく綺麗で可愛いもの。女の子も男の子も、みんなメアリが大好きよ」
「あら、エリーナは金髪が嫌いなのかしら? わたし、ちょっと寂しいわ」
「あ、そんなことないよ。ニーナお姉ちゃんの金髪はとても綺麗よ」
「……ねえ、エリーナ。わたしたちおんなじ金色の頭で、お姉ちゃんと妹に見えるかしらね?」
「きっとそうよ。あとでみんなに聞いてみようよ」
 エリーナははしゃいだふうに言って、二ーナの膝にぎゅうっと抱き付いた。
「最近ね、病院に来る子と良く遊ぶのよ。足を骨折しちゃったジョーと、虫歯のトマスと、腕を4針縫ったマイケルに、風邪ひきメアリ。メアリは風邪で真っ赤な顔をしてるけど、ほんとはすごく可愛い子なの」
「お友達、たくさんね? うらやましいわ」
「ニーナお姉ちゃんも一緒に遊ぼうよ。あ、そうそう。それから泣き虫リュウもいるよ」
「リュウ?」
 二ーナは聞き慣れた名前を聞いて、ちょっと興味を持った。
 どんな子なのかは知らないが、きっといい子に違いない。
 リュウと同じ名前を付けてもらった子が、悪い子のはずはないからだ。
「リュウはね、いつもカード遊びでびりだったり、くじゲームではずれを引いちゃうから、毎回罰ゲームをさせられちゃうの。病院のショップにベリージュースを買いに行かされたりはまだいい方なんだけど、ジョーに負けるといつも必殺技の練習台にされちゃうから、絶対に泣かされちゃうのよ。ジョーはレンジャーになりたいんだって。だから強いの」
「いつもいじめられて、リュウは大丈夫なのかしら?」
「うーん、ちょっと可哀想よ。でも平気って言ってるから、平気みたい」
「ふうん……」
 二ーナがちょっと「リュウ」が心配になってきたところで、急にエリーナが長椅子の上に靴を脱いで立ち上がって、腕を振った。
「あ、みんな来たわ! ニーナお姉ちゃん、こっちこっち!」
「え? あ」
 ぴょんと椅子から飛び降りたエリーナに手を引かれて行きながら、二ーナはほんとはエリーナは、わたしと同じであんまりお行儀が良い方じゃないのかもしれない、と思って、ふっと微笑んだ。





 はたして、待合室にはエリーナの友達の、数人の子供がいた。
 金髪で意地悪そうな顔をしたのがジョー、茶色い頭でそばかすのあるのがトマス、腕を包帯で吊っている赤毛の男の子がマイケル。
 綺麗に切り揃えられた長い黒髪に、お人形みたいな顔をした女の子がメアリ。
 リュウはどうやらいないようだった。
 ちょっと残念だな、とニーナは思った。
 エリーナはジョーのところまで駆けていって、彼におはよう、と言った。
「今日はリュウはいないの?」
「あ、おはようエリーナ。あいつ、診察中だよ。注射かもしれないってビビってた」
「それ、大変ね」
「そうだね。泣いちゃわないといいけどね」
「大丈夫だよ。ジョーの「獣字剣」よりましだよ、注射のほうが」
 トマスが恐る恐ると言った調子で、何かを思い出してるみたいに遠い目をして、言った。
「リュウ、あれちょっとほんとに血が出てたよ、絶対」
「でもリュウって結構頑丈だよな」
「うん。じゃああいつ後でメンバーごっこの時、子分のオンコット役な。おれがオリジンでメアリが聖女様」
「じゃ、俺剣聖!」
「おまえ腕包帯で吊ってるから剣聖できないだろ、トマス」
 しばしどうすれば良いのかわからずにぼおっとしていたニーナの手を、エリーナが握ってにっこりした。
「ねえみんな、私のお姉ちゃんよ。お名前はニーナって言うの」
「よろしくね」
 二ーナは気後れしながら、はにかんで笑った。
 子供たちの中で一番年上らしいジョーが首を傾げて、ニーナとエリーナを交互に見ていたが、やがてぽつりと言った。
「良く似てるね、エリーナ。お姉ちゃんとそっくり」
「でしょう? やさしいお姉ちゃんなのよ」
 エリーナがとても嬉しそうに微笑んで、ちょっと得意そうにニーナを見上げた。
 二ーナもにっこりとして返した。素直にとても嬉しかった。






 しばらく子供らしい遊びに付き合った。
 ニーナにとってそれは初めての体験で、彼女はまず戸惑ったが、すぐに慣れた。
 単純なカード遊びは間もなく理解出来た。
 彼女の扱う魔法陣よりも、それはとてもシンプルだった。
「二ーナお姉ちゃん、強いねえ!」
 黒髪のメアリが、のぼせたような顔をして言った。
 彼女は風邪をひいているらしいので、あんまり激しい運動はできないのだ。
「お姉ちゃん、とっても頭がいいの」
「そんなことない、エリーナ」
 二ーナはちょっと照れて、顔を赤くした。
「わたしにもわからないこと、いっぱいあるもの」
「でも頭いーよ、二ーナ姉ちゃん。リュウなら瞬殺だよ」
 ジョーがカードを並べながら言った。
「あいつ馬鹿だからすぐに自滅するんだよ。おれがいくら教えてやっても全然駄目」
「ジョー、教え方上手いのにな」
「頭を使うのが苦手なんだってさ」
「ふうん……」
 二ーナは良くわからないまま頷いた。
 どうやらその「リュウ」は、二ーナの知っているリュウとは随分違うようだ。
 どうやらずうっと弱っちいらしい。ニーナみたいに。
「わたしの友達にも、リュウって人がいるわ」
「へえ、それ、どんな人? リュウみたいに弱っちい?」
「ううん、とても強い人。わたしをいつも助けてくれるの」
 二ーナは言いながら、カードを表に返した。
 そうして、ふいに見知った姿が視界の隅に入って、顔を上げた。
 彼は待合室の端っこにニーナの姿を見付けて、ちょっと驚いたような顔をして、それからにっこりと笑って手を振り、彼女の方へ歩いてきた。
「やあ、二ーナ。来てたんだ」
 そしていつものようにちょっとかがんで、二ーナと目線を合わせて、
「リューウ! おっせえ!」
 ごつん、とジョーに頭を叩かれたのだった。
 二ーナがびっくりしている間にも容赦は無かった。
 ジョーにほっぺたをぎゅうっと抓られて、リュウは慌ててわたわたとした。
「いたた! いたっ、痛い!」
「泣き虫リュウ、注射で泣いた?」
「泣いてないよ!」
「さっきまで泣きそうな顔してたじゃん」
「に、苦手なんだよ……そのくらいいいじゃないか」
 そうしている間にもリュウは、小さなトマスとマイケルに肩までよじ登られている。
 メアリとエリーナはくすくすと笑い、リュウは一人で困った顔を浮かべている。
「リュウ、メンバーごっこしよーぜー」
「うん、いいけど。でもどうせ、おれまたオンコット役なんだろ……?」
「当たりい」
「ああいうのはさ、人間ができる役じゃないんだよ。何されてもノーダメージなんて」
「大丈夫、リュウ頑丈だし、背だけは一番高いじゃん」
「だっておれもう18だから」
「18って、おれの兄ちゃんと同じ歳だけど、兄ちゃんプラントでちゃんと働いてるぞ。力仕事だ。リュウは昼間から病気でもないくせにメディカルセンターでフラフラしてるプータローなんだから、おれたちと遊ぶくらいしなきゃなんないの」
「どーいう理屈だよ……でもいいよ、そういう無茶苦茶なこと言われるの、なんでか慣れてるし」
「じゃあ決定。ねえ、二ーナ姉ちゃんは何の役する?」
「え?」
 二ーナは急に話し掛けられて、びっくりしてしまった。
 ちょっと固まっていると、リュウが慌てたように言った。
「二ーナは痛い役は駄目だからな!」
「あたりまえだろ。女の子は殴っちゃ駄目なんだぞって、兄ちゃん言ってたもん」
「その分リュウが殴られるんだよね」
「……今度は、あんまりほんとに痛いのは止めてくれよ……」
 リュウが、途方に暮れたみたいに肩を落とした。







 リュウはニーナにくすくす笑われるのが、なんだかすごく恥ずかしそうな赤い顔をしていた。
「あんまり笑わないでくれよ、二ーナ」
「ご、ごめんなさい、ふふ、おかしい……」
「……おれもおかしいって思うけどさ、何でだろう、もうちょっとちゃんと大人みたいなことができれば良いのかなあ」
 リュウは、どうすればいいんだろう、と腕を組んで首を傾げていた。
「でもどうしてあんな面白いことになってるの?」
「面白いって、二ーナ。……ええと、確か嗜好品プラントで、新作のドロップをもらった帰りにメディカルセンターに寄ったから、せっかくだからそういうのが好きそうな子にあげようと思って。おれ、あんまり甘い物が好きってわけでもないし、まあ嫌いでもないけど」
「ああ、この前わたしにくれたものね?」
「うん。それで、はじめの子にあげたところで。……ジョーだったよ、確か。他の子供にも集団で寄ってたかって襲われて、持ってためぼしい試作品を根こそぎ持っていかれて、そのお礼に仲間に入れてやるぞって、それでこんなふうに」
「苛められっ子になっちゃったのね?」
「……まあ、そういうこと」
 リュウはばつの悪そうな顔で、溜息をついた。
 ニーナはくすくす笑って、とてもいい子たちよ、と言った。
「わたしにはとても優しくしてくれるもの」
「二ーナはそうだよ、なんだかほんとにお姉さんみたいになっちゃって。おれの立場が全然ないよ」
「ふふ」
 二ーナはにこにこしながら、手を伸ばしてリュウと手を繋いだ。
 昔から、こうしているととても安心するのだった。
 もう怖いことはなんにもないのだ、という気がして、安堵することができる。
 リュウはすごいと思う。
 大人とか子供とかなんて関係なく、人をこんなふうな気持ちにできるのは、二ーナはリュウしかいないと思う。
 でも、たまにはこういうのもいいかもしれない。
 リュウはずうっと守る側にいるのだ。
 たまにはニーナのいる場所を譲ってあげたほうがいい。
「大丈夫、泣き虫リュウ。ニーナお姉ちゃんが守ってあげるわ」
「…………」
 リュウはしばらくきょとんとしてから、苦笑して、ほんとだよ、と言った。
「おれよりニーナの方がお姉ちゃんみたいだよ」
 そうして二人で顔を見合わせて、おかしいねえ、と言い合った。





 







 
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