簡単な診察だけなら一般病棟でも可能だが、世界中で彼ひとりだけ、という症状の場合はそうもいかない。
 リュウは観念して、メディカルセンターの特別病棟にいた。
 二ーナは連れてこなかった。
 ここはラボに似ている。
 彼女には、あんまり思い出したくもない記憶だろう。
 まだ引き摺っているかといえばそんなことはないのだけれど、やはり少し心配ではある。
 リュウとアジーンのリンクは、微妙なかたちに変化していた。
 途切れたわけでもないし、繋がっているわけでもない。
 片方がもう片方に溶けて消えてしまったような感じで、こういうことは今までに例がないらしい。
 例を見ないと言えば、はじめからそうだった。
 リュウのようなローディーがオールドディープに選ばれることがまず特殊だ。
 それから完全にプログラムが終了してしまったことも初めてなのだ。
 ドラゴンとリンク者の死を持ってプログラムは終了する、とアジーンは言った。
 だがリュウは生きている。
 これはまだプログラムが終了していないということなのだろうか?
 人々を見届けることが、アジーンの役目だったのだろうか?
 アジーンは判定のプログラムである。
 彼はこの開かれた空の下で、何をリュウに判定させようというのか?
 人が空へ届き、それが正しいことなのかを見極める。そういうことだろうか。
 もし間違っていた場合はどうしろと言うのか。
 空を見るべきではなかった人をまた閉じ込めるのだろうか。あの地下に?
 リュウはわからない。
 あまり考えるのは得意ではないし、そして空を目指したことそのものが、なんにも考えないまま、ただ衝動で動いた結果でしかないからだ。
 ニーナを助けたい。ただそれだけ。
 だからリュウは細かいところはよくわからないが、目指した空は確かにニーナを助けてくれた。
 彼女ははっきりと口をきけるようになったし、毎日とても嬉しそうに中央区中枢のてっぺんから空を見上げている。
 最近ではメディカルセンターで友達ができたらしい。
 小さかったあの彼女は『二ーナお姉ちゃん』と呼ばれて、少し得意そうに背伸びしながら小さな友達と遊んでいる。
 面倒を見ていると言ったほうがいいのだろうが、リュウにしてみればニーナだって彼らとあんまり変わらないように見えたので。
 これはニーナに言ったら怒るだろう。だから言わない。
 リュウは空を開けて、彼女にこういう普通を与えてやりたかったのだ。
 今ある彼女の些細な幸せはリュウが与えたものではないが、ニーナが楽しそうにしていて、ほんとに良かったと思う。
 ただひとつある問題は、リュウのことである。
(……おれって、あんまり子供に好かれない体質なのかなあ……。下層区の子は、みんなレンジャーのお兄ちゃん、いつもありがとう、って言ってくれたんだけど。間違ってもいきなり木の枝を持って殴りかかってくることはなかったはずだ。それも必殺技)
 うまくいかないな、とリュウは溜息をついた。
 最近ではやっぱりニーナのほうが、リュウよりもずっとしっかりしている。
(おれもしっかりしなきゃなあ。いい大人なんだから)
 昔のリュウも、だが今と同じだった。
 いや、今のほうが随分ましだ。
 十年ほど前、下層区で流行っていたレンジャーごっこでは、触覚を二本髪に差されてのナゲット役だった。
 無敵のガルガンチュア『オンコット』役のほうが、随分と待遇がいい。
 懐かしいというにはちょっと痛い思い出だが、リュウはふっと口元を上げた。
(でもまあ、施設のローディーとは遊んじゃ駄目なんだ、なんて言われるよりは随分ましかな)
 リュウは幼年期を下層区の施設で過ごした。
 リュウの両親は、物心ついたころからいなかった。
 父はバイオ公社で科学者をやっている人だったそうだ。
 D値はそれなりに高かった。1/256。
 母親は最下層区出身のラボ被験者だった。
 D値は、抹消こそされていないようだったが、知らない。
 二ーナのようにD値を消されて生体改造を受けるような特殊な例は稀だが、当時最下層区民は日払いで割のいいバイオ公社での薬品実験体に、自ら志願していたのだそうだ。
 名も知らない母が父の目にとまり、そうして産まれたのがリュウ=1/8192。
 極めて平均的なローディーである。
 父と母がその後どうなったのかは知らない。
 死んだかもしれない。でも生きているかもしれない。あまり、実感が湧かない。
 ここまではつい最近、中央省庁区に出向いた時に、偶然覗いた階層管理データで知った。
 リュウは下層区に割り振られ、施設に入れられた。レンジャーになった。
 ローディーだからサード止まりだとことあるごとに言われたが、隊長のゼノはそんなリュウを見捨てずに鍛えてくれた。
 ニーナに出遭い、政府を裏切って辿り付いたトリニティも、二ーナを救ってはくれなかった。
 リュウはニーナを連れて空を目指した。
 空へ辿り付いたら、オリジンに担ぎ上げられた。
 なんだか無茶苦茶だ。
 支離滅裂で、一貫性も説得力もない。
(……おれはやっぱり、万年サードレンジャーが性に合ってたんだろうなあ)
 そんなことをいつも思う。
 だがどうにかなるものではない。
 リュウは空を開けたのだ。
 1000年の間閉ざされていた世界を。
 のしかかってくる責務に、人々の重みに潰れそうになることがあるのは確かだが、彼らは彼らでやるべきことをやってくれているのだ。
 ほんとはリュウにはすることなんてなんにもない。
 ただ見ているだけ。楽なものだ。
(おれもプラントで植物を育てたりしてみたかったな。家畜に餌をやるのでもいい。いや、魚釣りがいい。うん、おれオリジンをクビになったら、釣り師になろうかな。すごい釣り職人になって、ルアーも竿も自分で作って、大物が釣れたらニーナたちにあげよう。いい考えだ)
 うんうん、とリュウは腕組みして頷いた。
 素晴らしい考えだ。
 リュウは魚を釣るのが好きだった。
 まずは本格的に、漁師に弟子入りするのもいい。
 資本の身体のほうは、一応サードとはいえレンジャーをやっていたし、ドラゴンのちからもある。
 なんとか――――
『……生体反応、オールレッド。ネガティブです』
 ドクターの固い声が聞こえて、リュウは項垂れた。
 駄目そうだ、資本の身体。





 
「やあ、二ーナ。ごめん、待っててくれた?」
 待合室で、二ーナがいつものように椅子に座っている。
 このところ羽根の調子が良くないらしい。
 ほぼ毎日のように、メディカルセンターに通っている。
 それは最近のリュウも同じことだったが、彼女のほうはメディカルセンターに通う理由の半分は、主治医の娘のエリーナにあるようだった。
 妹ができたのだ、とニーナはとても喜んでいた。
 エリーナはニーナと同じ金髪と青い目をした、とても可愛らしい少女だった。
 ニーナとふたりで座っていると、本当に姉妹のようだった。
 リュウの顔を見付けると、二ーナは立ち上がって、こっち、と手を振ってくれた。
「ぜんぜん。わたし、まだなの。リュウの方が先に終わっちゃった」
「あ、そうなんだ。じゃあおれ、待っ」
 てるよ、と言い掛けて、リュウは硬直した。
 ぺたっ、と尻を撫でられたのだ。なんだか馴染みのある仕草だ。
「ジェ、ジェズイット!!」
 慌てて振り向いたが、そこには誰もいない。
 また消えているんだろうか、と思ったが、そうではないようだった。
 相手はリュウの腰くらいまでの背丈しかないので、見えなかったのだ。
 ジョーだった。
 彼はリュウの視界に入らないことが非常に気に入らないような感じだった。
 顔にはこう書かれていた。泣き虫リュウのくせに、生意気。
「リューウ、レンジャーごっこしようぜえ。おれたちレンジャー、おまえはグミエレメントだ」
「む、無理だよ、そんな手も足もないの! 大体なんなんだよ、いきなり人のおしりなんて撫でて」
「あれ、知らないのか? 最近の怖い話。 夜道で女の子が急に誰かにお尻を触られるんだけど、振り向くと誰もいないんだ」
「トマスの姉ちゃんも遭ったんだって! ほんとにいるんだぞ、夜道でお尻を触るお化け!」
「触られると良くないことがあるんだよー、姉ちゃんだって次の日さあ……」
「…………」
 リュウは額を押さえて頭痛を堪えた。
(……ジェズイット、それ犯罪)
 リュウが同僚を痴漢罪でレンジャーに突き出した方が良いか真面目に悩んでいると、服の裾をぎゅうっと引っ張られた。
「さあ、今日は外でやろうぜ。うるさくするとまた母ちゃんか看護婦さんに怒られちゃう」
「リュウ、のろのろしてるなよ。またジュース買いに行かせるぞ」
「い、いやあの、うわ、やだよグミは! おれ二ーナ待ってるんだから」
 リュウが助けを求めるようにニーナを見ると、二ーナは行ってらっしゃい、というふうに手を振っている。
 どうやら救援は期待できないらしい。
「ニーナ姉ちゃんもおれたちと遊んでろってさ。さ、行くぞリュウ」
「もういいから、せめて邪公にしてくれよ……」
「邪公こないだやったじゃん」
 子供たちに寄ってたかって引き摺られるようにして、リュウは病院の玄関から引っ張り出された。
 確かにメディカルセンターは子供がレンジャーごっこなんかするような場所じゃない。
 看護婦長に怒鳴られるような時だけは年長者だからと矢面に立たされるので、確かに屋外のほうがありがたい。
 病人は静かにして欲しいだろうし、今日も待合室は満室だった。
 廊下までいっぱいになっている。
「……今日も病人が多いね」
「最近流行ってる病気なんだってさ。良く知らないけど、すごく怖い病気。でも大丈夫、もうすぐ薬ができるんだって、エリーナが言ってた」
「エリーナが?」
 リュウは聞き返して、あのニーナの妹みたいな少女、このメディカルセンターの管理者の娘を思い浮かべた。
 リュウの手を引っ張っているジョーが、教えてくれた。
「エリーナ、パパの仕事を手伝ってるんだよ。すごいことなんだって。みんなが助かるって言ってた」
「へえ。エリーナのパパはすごく頭がいいんだね」
「泣き虫で頭悪いリュウとは全然違うね」
「……しょうがないだろ、頭が悪いのは生まれつきだよ」
 なんとなくレンジャー時代の相棒と喋っているような気分になりながら、リュウはもう一度メディカルセンターを見上げた。
 真っ白で巨大な細長いシルエットは日光を浴びて輝いていたが、あの消毒薬の匂いと鈍く光る鉄のように冷たい雰囲気だけは、どうしてもバイオ公社のラボに似ていた。

 





 







 
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