今日はニーナは来ていない。
 ひとりで長椅子に座っていた。
 薬を貰うだけなので、特別な治療もいらない。
 ことあるごとに入院を勧められるのだが、それは丁重に断っておいた。
 どうせ何をしたって死なないし、何をしたって身体が元に戻るわけでもない。
 リュウの問題はそういうところだった。
 中途半端なところにずうっといるのだ。
 もしかすると、うまく次のオリジンを見付けられないと、あともう1000年くらいこんなふうなのかもしれない。
 それはそれで怖いのであんまり考えないようにしている。
 今日はジョーたちの姿もない。
 時間がずれたので、午前中の診療が終わって、今頃はプラントで勉強をしているのだろう。
 リュウは行ったことがなかったが(だから頭が悪いのかもしれない)地上の街には勉学、剣技などを教える小さな学び舎がある。
 レンジャーの訓練施設を、より一般的にしたようなものだ。
 いつも手酷くこてんぱんにされるとは言っても、やはり誰もいないとちょっと寂しい。
 と、リュウは廊下のはじっこに、エリーナの姿を見つけた。
 件のニーナの妹のような子だ。
 ちょっとほっとして、リュウは彼女に声を掛けた。
「エリーナ?」
 エリーナはぱっと振り向いてリュウの姿を見掛けると、慌てて逃げ出すように、ぱたぱたと走って行ってしまった。
 リュウはひとりで取り残されて、突っ立っていた。
 彼女は、リュウの見間違いでなければ、泣いていた。
「エリーナ!」
 リュウは慌てて彼女を追い掛けた。
 泣いている子供を放っておくという選択肢は、彼の中にはなかったのだ。







 いつの間にか特別病棟の一角までやってきていた。
 エリーナの姿を見失ってしまって、リュウは途方に暮れていた。
 このメディカルセンターの中は、言わば彼女の庭のようなものだ。
 うまく構造をまだ理解できていないリュウが、エリーナを見付けることは難しいだろう。
 なにせ、彼女は逃げたのだ。
(……どこに行っちゃったんだろう)
 白い壁に、灰色の廊下。それがどこまでも続く。同じようなデザインだ。
 以前訪れたバイオ公社のラボに、良く似ていた。
 日は傾いて、窓には昼と夕焼けの間の微妙な空から、オレンジの光が差し込んできている。
 廊下には誰もいなかった。
 オリジンのIDのおかげでどこにでも出入りはできたが、正確な地図を把握しているわけじゃない。
 迷ったようだ。
「エリーナ……?」
 控えめに、リュウは少女の名前を呼んだ。
 わかってはいたことだが、返事はなかった。
 リュウはとぼとぼと歩き出した。






 同じところをぐるぐると回っているような感じがする。
 こういうところも公社と同じだ。
 メディカルセンターはこんなに広い場所だったろうか。
 地上部分を見ている分にはそれほどの面積はないように思えたが、いかんせん入り組んだ造りになっている。
 いくつかエレベーターを乗り継いだところで、リュウはようやく金色の頭を見付けた。
 採光窓の向こうの、小さな屋上だ。
 小さな子供なら問題なく通り抜けられる大きさだったが、大人のリュウには少しばかり無理がありそうだった。
 リュウは窓を開けて、エリーナを呼んだ。
「エリーナ? 泣いてるの?」
「……リュウ、こんなところまで追い掛けてきたの?」
 エリーナはびっくりしたように慌てた。
「ここはこのセンターで一番偉い人しか――――パパと私しか入って来られないのよ? どうしてリュウがいるの? 認証機、壊れてた?」
「……おれ、街の中ならどこにでも行けるんだ」
 リュウはちょっと言葉を濁して、言った。
「オリジンだから」
「……うそ、泣き虫リュウ。リュウがそんな偉い人のわけないよ」
「おれもそう思うよ……」
「……リュウも、オリジンがパパなの?」
「へ?」
「リュウ、いつもパパたちが特別にしてるもの。ニーナお姉ちゃんもそう。パパが偉い人なんでしょう?」
 思いがけないことを言われて、リュウはきょとんとした。
 ううん、と唸りながら頭を掻いて、考えてみた。
 リュウが完全なオリジンだったと思うエリュオンは、少なくともリュウの父親ではなかったはずだ。
 リュウの父は公社勤務の科学者だった。そうデータにあった。
 古いデータなので、あまり信憑性はないが。
 だが、エリーナはそれで納得してしまったようだった。
 そんなにオリジンが似合わないらしい。
 リュウはちょっと、やっぱり、と落ち込んでしまった。
 本当に似合わないのだ。
「私も、パパがここの偉い人だから、こんな高いところまで来れるの。綺麗でしょう? お空がこんなに近くに見える」
 エリーナは、小さな窓越しにリュウを見た。
「リュウもこっちに来たら?」
「無理だよ。行きたいけどこの窓、くぐれないよ。おれ、身体がエリーナよりも大きいもの」
「そっか」
 エリーナは肩を竦めて、二ーナお姉ちゃんなら一緒にお空を見れたのかなあ、と言った。
「……ごめん」
「そんなことない。ねえリュウ。リュウとニーナお姉ちゃん、ほんとの兄妹なの?」
「へ?」
 リュウは首を傾げた。
「ニーナがそう言ってたの?」
「ううん、なんとなく。でも、そうだったらいいのにね。リュウは私のお兄ちゃんで、そしたらすごく楽しいわ、きっと」
「……おれのこと、嫌いじゃないの?」
「なんで?」
 エリーナは、それこそ心外なことを聞いた、というふうに、目をぱちぱちとした。
「なんでそんなこと思うの?」
「だっておれ、いつもみんなに苛められっぱなしだし、もういい大人なのにお兄さんみたいなことひとつできないし。ニーナの方がずうっとお姉さんなんだよ、最近じゃあ」
「そうかしら? でもみんな、リュウのこと好きよ。 リュウのお話をしてると、みんなすごく楽しくなるのよ」
「そうかなあ……」
「そうよ」
 エリーナはくすくす笑った。
 さっきまで泣いていたと思ったのだが、彼女はとてもおかしそうに笑っていた。
「私も早く大人になりたいわ」
「……そうかな。おれ子供のころはずうっとそう思ってたけど、大きくなったらすごく強いレンジャーになるんだって。でもいざ大人になってみると、昔憧れてたレンジャーみたいには、全然できないんだよ」
「うん、リュウはレンジャー向いてないよ。弱いもん」
「……おれ、弱いかな……」
「たぶん。ジョーよりは弱いわ。あの子がレンジャーになったら、きっと下っ端で使われるわよ」
「でもおれ、そっちの方がきっと向いてるよ。下っ端の方が」
「下っ端がいいの?」
「うーん……そうかな。あ、ごめんエリーナ。変な話をしちゃったよ」
 リュウは慌てて謝った。
 子供にするような話じゃない。
 エリーナはしかし、くすくす笑ったままだ。
「リュウは本当に変な子ね。大人じゃないみたい」
「……子供っぽい?」
「うーん、子供っぽいのも違うわ。なんだか安心するのよ。きっと、だからジョーたちもリュウには何をしても許してくれるって思ってるんだわ」
「エリーナってさあ」
 リュウは少し驚きを込めて、言った。
「思ってたよりずうっと大人なんだね」
「そうかしらね?」
「うんそう。エリーナもニーナも女の子って、みんなそうやって早く大人になれちゃうのかな?」
 リュウはちょっと心底羨ましいような気がして、そんなことを言ってみた。
 エリーナはしばらく黙って、屋上のへりに越し掛けて足を揺すっていたが、急に立ち上がって、リュウのほうへ歩いてきた。
「男の子って、なんでそうやっていつまでも子供でいられるのかしら?」
 エリーナは心底羨ましそうにリュウを見た。
「リュウもジョーも、トマスもマイケルもそう。私も子供がいい。でも大人になりたいわ。大人になったら、きっとプラントで働くの。花を育てるのよ。それで、プラントじゅう花でいっぱいにするの」
「……センターで働かないんだ」
「……ここは、いや」
 エリーナはいやにはっきりと言った。
 リュウはちょっとびっくりして、しかしすぐに微笑んで言った。
「きっとなれるよ」
「ほんとに?」
「なれるに決まってるさ。おれだって、要領悪いけど昔から憧れてたレンジャーになれたんだ。格好良いばっかりの仕事じゃなかったけど、おれすごくあの仕事好きだったよ。誇りに思ってた」
「……『だった』『思ってた』? やめちゃったの、そんな好きな仕事なのに」
「うん。今は釣り師になりたい。毎日魚を釣って、腕を磨いて、いつか幻の勇魚も釣っちゃうんだ」
 リュウが素直に今の望みを口にすると、エリーナはけらけらと笑った。
 それはあまり行儀が良いものじゃなかったが、いつものちょっと神経質なくすくす笑いよりもずうっと、本当におかしくて仕方ないという感じだった。
 そして彼女は最後に涙を目尻にくっつけたまま、リュウもきっとなれるよ、と言った。






 夕焼けが空を赤く染めていた。
 半分暮れた太陽が、地平線から半分こっちに顔を出している。
 風も随分冷たくなってきた。
 リュウはエリーナに、そろそろ帰ろう、と言った。
「お父さん、きっと心配するよ」
「しないわ。パパはいつもみんなの心配が先。私のことは知らないの」
「そんなことないよ。エリーナ、風邪ひいちゃうよ」
「リュウは先帰ってていいよ」
「でもおれ、帰り道がわからないよ……」
 リュウは自分でもちょっと情けないと思ったが、エリーナに連れて帰って貰わないと、出口まで辿り付けそうになかった。迷子だったのだ、そう言えば。
 エリーナはしょうがないわね、と肩を竦めて、窓をくぐり抜けてリュウの手を掴んだ。
「泣き虫リュウ、こっちよ。はぐれちゃ駄目だから、手を繋ぎましょうね」
「……うん」
 リュウは苦笑いした。
 ほんとに最近のリュウはいいとこなしだ。
 だがエリーナはもう機嫌を直しているようだったので、リュウはちょっとほっとしてしまった。







 今でもリュウは、その小さな手のひらの温かさをすぐそこにあるように思い出せる。
 泣き虫リュウ、こっちよ。
 彼女はリュウを泣き虫で弱虫だと言った。
 リュウはオリジンなんて呼び名よりも、自分にはそっちの方がずっとしっくりくるように感じる。
 後になって彼女が泣いていた理由を知った時には、本当にそう思った。
 リュウは泣き虫で弱虫である。それは正しかった。








 







 
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