街には奇妙な流行り病が蔓延していた。
それのはじまりは風邪の症状に似ている。
頭が痛い、顔が真っ赤になってのぼせたようになり、喉が腫れ、鼻汁が止まらなくなり、そんなありふれた症状。
だが少しずつ身体が病に蝕まれはじめるにつれて、皮膚が乾き、内臓から水が絞り出され、黒く爛れて毛も抜け落ちて、最後には干物のようになって死んでしまう。
薬はまだない。
感染源は不明だ。ウィルスはこの間発見された。非常に増殖の遅い種類のもの。
ある日突然ぱっと現れて、それは街で暮らす人々を襲い始めた。
薬もなかった。
だがひどく進行が遅いので、死者はまだ数人に過ぎない。
それは『乾死病』と名付けられた。
からからの干物になって死んでしまうからだ。
「厄介なモンがあるんだねえ」
「あるんだねえって、なにを呑気なことを言ってるんだよ。死人まで出てるのに」
「これ以上増える前に、公社が――――おっと、メディカルセンターがなんとかしてくれるさ。もうすぐ血清もできるって。仕事が早いねえ」
「……ジェズイット。やっぱりセンターって、公社から引継がれてるのか?」
リュウは真面目な顔をして訊いたが、ジェズイットは肩を竦めるばかりで答えてくれない。
「例えば――――例えばだよ。ニーナみたいな子が、まだいるんじゃないのか?」
「二代目、世界は綺麗なものだと思うか?」
ジェズイットは、全然関係のないことを口にした。
リュウは怪訝に眉を顰めて、ううん、と首を振った。
「世界がどれだけ歪んでいるか、おれは知ってる。でもさ」
リュウは俯いた。
「どうして綺麗なままでいられないんだろう。 空もあるし、食料もある。プラントは順調に稼動してる。これ以上、地下にいたころみたいに人をあんなふうに使って、何を求めるって言うんだ? おれはいらないよ、なんにも」
「ここにはニーナもいるしな」
「……からかわないでよ」
「この街はどう思う、二代目」
ジェズイットは、リュウの頭をぽんぽんと撫でた。
「汚いか?」
「汚いわけない。 みんな一生懸命頑張ってるよ。ニコラのプラントでも、ベルの建設ビルでも。おれはこの街が好きだよ」
「オーケイ、じゃあそれでいいじゃないか、二代目」
ジェズイットはまたリュウの頭を軽く小突いた。
まるで子供にしているようで、ちょっと面白くない。
「おまえの見ている世界は綺麗だ。そりゃちょっとのほころびがあるかもしれん。おまえはそこらへんを、手の届く範囲で救ってやればいい」
「……この街も、地下と同じだっていうのか?」
「あのなあ、二代目」
ガキのあんたにはまだわからんかもしれんが、とジェズイットは言った。
「完全にまっさらな世界なんて、どこにも存在しねーんだよ。みんなどこかしら歪んでるんだ。そういうもんだ」
例えばその極端な例はだな、と彼は言った。
「おまえみたいなお子様がオリジンなんて押し付けられてるとかさ」
会議室を出たところで、ちょうどニーナに会った。
ニーナはこのごろ、ちょっと元気がない。
「どうしたの、二ーナ」
「あ、リュウ……今、メディカルセンターに行ってきたの」
「うん。なにかあった?」
「ううん、なんにもない」
ニーナは、ふるふると首を揺らした。
背中の羽根も一緒になって、力なく揺れる。
「……なんにもないの。いつもどおり。……エリーナもいない」
「エリーナ?」
リュウは意外で、きょとんとした。
あんなにニーナに懐いていたエリーナが、姿を見せない?
「どうしたんだろう。風邪かな」
「……診療室のほうにもいないの。どうしようリュウ、もしかしてわたし、嫌われたかな。なにかエリーナが怒っちゃうようなこと、したのかもしれない」
「そんなことあるわけない、二ーナ」
リュウは、二ーナの両肩をぽんと叩いて、少し屈んで目線を合わせて、「ね」と微笑んだ。
「エリーナはニーナのことが大好きだよ。お姉ちゃんなんだろう? 大丈夫、すぐにまた会えるさ。風邪をひいちゃって、病室で寝てるのかもしれない」
「うん……」
二ーナはちょっと自信がなさそうに俯いていたが、やがて顔を上げて、そうかな、と言った。
「そうだよ」
「エリーナ、またわたしとあそんでくれるかしら?」
「当たり前だよ。みんなでまた遊ぼう。おれは……やっぱり、また……オンコットの役なのかな……」
ちょっと声から力が抜けて行って、俯いたリュウに二ーナはくすくすと笑って、リュウがそう言うなら安心、と言った。
「リュウ、元気がでた。ありがとう」
「よかった」
リュウはにっこりとニーナに微笑み掛けた。
だが本当のところは、実をいうと少し違和感が引っ掛かっていた。
だけど、二ーナには悟られないように気を遣った。
彼女を不安にさせちゃいけない。
普段行き付けない夜間の診察に出掛けたのも、そんなことがあったからだと思う。
メディカルセンター、そのどこにも確かにエリーナの姿は見当たらなかった。
彼女は大体は父親が仕事を終わらせるのを――――それもひどく遅い時間だ――――待っていたように思う。
母親はいなかった。
どうやら数年前の中層区の地震で亡くしたらしい。
これは彼女の父親から聞いたことだ。
エリーナの父は、助手の若い医師と共にリュウとニーナを担当してくれていたから、その顔は必然的に良く覚えている。
エリーナと同じ青い目をしている、初老で落ち付いた男性だった。
(ほんとに、どうしちゃったんだろう? いつもはあんなに姿を見たのに)
診察室、廊下、どこにも彼女の姿は無かった。
ふと思い当たって、リュウは特別病棟に足を向けた。
あの空に近い屋上はどうだろうか?
あそこはエリーナのお気に入りの場所のようだった。
ちょうど時間も日が落ちたころだ。
あそこなら、彼女はいるかもしれない。
リュウはほとんど歩くIDみたいになっていた。
最新式の自動D値チェックによる認識で、IDカードらしいものは何も必要ない。
便利なことは便利なのだが、なんだか変な感じだ。
カードを通す認識機械もリュウが近付くだけでシャッターを上げてくれた。
ちょっとしたお化け屋敷にでもいるような気分だ。
なにせなんにもしていないのに、機械が動くのだから。
都市開発の段階で、ジェズイットとクピトにフリーパスのIDなんてものをふらふらと持ち歩いて落としたり、すられたりしては大変だろうと提案され(それにしたって失礼な話だが)認識機械にオリジンの生体認識機能の設置を義務付けたため、こんな感じになっているのだ。
(どうせおれは子供だよ)
若干18歳のオリジン。
じゃあいくつくらいが適齢なのかと言われれば、それもちょっとわからない。
(エリュオンさんはいくつだったのかな、実際……)
リュウはそんなことも知らない。
知らないことだらけだ。
何もわからないままで世界を統べろ、なんて、本当に無茶だと思う。
そんなことを考えながらエレベーターで最上階まで直接上がった。
採光窓からはもう紺色の夜空が見えた。
数え切れないくらいの星が光っている。
数年前なら御伽噺の光景だったが、今はこれが現実だ。
ひかり、色を変える空。どこまでも緑の草原。空を映して、輝く水の滴。
地上は綺麗なものばかりで溢れていた。
(……これでも、やっぱり世界は汚いままなのか、ジェズイット?)
リュウは甘ったれなのだろうか。
昔のように、世界の綺麗な部分だけを見て生きているのだろうか。
歪みに目を瞑ったままでいるのだろうか。
二ーナは救われたんじゃなかったのか?
リュウはあまり頭が良くないから、良くわからなかった。
考えることが苦手だ。
目の前のもので手一杯だったあの頃から、リュウはなんにも変わることができていない。
(……だからガキだとか言われるんだろうな)
それを自覚はしている。
だからこんなに居心地が悪いのだ。
リュウは頭を振って、ずぶずぶと泥沼のように沈んでいく気分を振り払った。
もしエリーナがそこにいたとして、子供に心配を掛けてもいけない。
明り取りを開けて、リュウは頭だけ突っ込んで屋上に呼び掛けた。
「エリーナ?」
そこにもエリーナはいなかった。
特別病棟の廊下を歩きながら、リュウは溜息を吐いた。
どこに行ってしまったんだろう、エリーナ。
あんなにニーナが心配しているのに。
ぼんやりとそんなことを考えながら歩いていると、角を曲ったところで見知った顔に出くわした。
「おや……どうなさいました、オリジン様」
「あ」
その男は白髪頭に青い目をした、優しそうな医師だった。
リュウとニーナの担当医だ。
そして、エリーナの父親だ。
ちょうど良かった、一度彼に聞いてみた方が良いだろう。
そう思って、リュウは口を開いた。
「あの、ドクター。お聞きしたいことが……」
「ああ、中央区からはほかのメンバーが来なさるんだとお聞きしていたのですが、あなた様がわざわざお越しくだすったのですな。ご安心下さい、すぐにあの薬は完成いたしますよ。しかし、もう少し時間を見ていただけますかな。なにせ、こんなに早く来るとは思いませんでな」
「……?」
何のことだろうか。
眉を顰めているリュウに老医師は、あちらへ、と手で示した。
「しばらくお待ち下さい。あなた様にお見せするようなものでもありませんからな」
「……何のことです?」
「おや、通達は行っておりませんでしたかな。例の『乾死病』の血清ですよ。今、最後の段階でして……少し」
リュウが困惑していると、遠くから鋭い悲鳴が聞こえた。
それは半分ほどは耳慣れた声だった。
幼い少女特有の甲高さ、それは間違いなく、エリーナのものだ。
もう半分には耳慣れないものが、彼女にそぐわない感情がべたべたと塗れていた。
すなわち、恐怖と苦痛である。
「――――エリーナッ?!」
リュウは即座に声のした方角へ向かって、全力で駆け出した。
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