扉の向こうには、その昔リュウが一度目にした光景に非常に良く似た部屋が広がっていた。
 強化ガラスで部屋の内部はふたつに仕切られていた。
 拘束具付きの寝台があった。
 リュウは昔あの部屋の中で、二ーナがとても怯えて震えていたのを良く覚えている。
 有毒ガスに汚染された彼女の羽根を、なんとかしてもらおうと乗り込んだバイオ公社の実験室だ。
 彼女は人体実験に使われた被験者だった。
 そして今彼の目の前には、この地上にはあるはずのない、ラボの亡霊がいた。
 あの部屋となにひとつ変わるところのない設備があった。
 防護服に身を包んだドクターたち。
 制御盤。液体で満たされたカプセル。ラボの払い下げだろう、錆びたパイプ。
 はたしてエリーナはそこにいたのだった。
 彼女はガラスの向こうがわで、寝台の隅っこに隠れるようにしてしゃがみこんでいた。
 ひどく取り乱して泣いている。
 泣いている彼女を見ても、ドクターたちは何とも思っていないようだ。
 顔色ひとつ変えない。
「……エリーナ?」
 リュウはエリーナの名を呼んだが、分厚いガラスに隔てられて彼女には聞こえていないようだった。
 口の中がからからに乾いて、その声が震えていることを彼は自覚した。
 彼女はここで何をやって――――いや、何をされているのだ?
 後ずさり掛けて、リュウははっとして踏み止まり、部屋に踏み込んだ。
 逃げている場合じゃない。
「……彼女になにを!?」
 治療にしては行き過ぎであることは、一目で明らかだった。
 声を荒げるリュウに気付いて、ドクターは一斉に振り向き、そして頭を下げた。
 リュウは苛立った。
 それは何の答えにもなっていない。
「どういうことなんだ、これは……」
「仕方がないんです、オリジン様」
 後ろから声が聞こえて、リュウはばっと振り向いた。
 初老のドクターがいた。
 エリーナの父親だ。
「しょうがない。悲しいが、私の娘ひとりさえ辛抱してくれれば、みんなが助かるのです。それはとても素晴らしいことだと、あの子も理解しております」
「なんだって……?」
「医者の娘などに生まれて、因果なものだったと思ってくれと言い聞かせておりました。オリジン様、あなたは外へ。これは、あなた様のような綺麗に生きねばならん方が見るもんじゃあありません」
 そう言って、初老の医師はパネルに向かっている若い男に目配せした。
 数人ばかりがリュウの腕を掴んだ。
「申し訳ありません、オリジン様」
「あなた様は外へ。すぐに終わらせますので」
「離せ……なにをするつもりなんだ? エリーナ!」
 室外へ引かれる腕に抗いながら、リュウは叫んだ。
 部屋の隅で震えている彼女の、薄いパジャマから剥き出しになった腕には、いくつも黒っぽい痕があった。
 それは注射の跡のように見えた。
 腕に三本の細長いプラグが突き刺さっており、ゆっくりとした速度で、彼女から血液を奪っていた。
「主任、ウィルスの浸蝕が早過ぎます。散布速度を遅らせますか?」
「いや、今のままでちょうどいい。サンプルの汚染がある程度まで進まないことには、うまく血清を造れないからな」
「了解しました」
 淡々と言葉が交わされて、不幸なことに、リュウはもうそういうことに関しては馬鹿なローディーではなくなっていたので、はっきりと理解できるようになっていた。
 エリーナは実の父親に、人々を救う血清を作り出す材料にされているのだ。
「ふざけるな! あんたは自分の娘に一体何をしてるんだ!!」
「お言葉ですが、オリジン様。私の、医者の娘だからこそです。我々は、人々を救うためなら手段を選んでおれんのです。そうしなければ、この街は滅びる。オリジン、あなた様の街が滅びるのです」
「人々? みんな……? みんなって何なんだ。こんな小さな子ひとり救えない世界が、何を救えるっていうんだ!?」
 ガラスで隔てられた部屋の向こう側では、パイプから黒っぽい霧が吹き出していた。
 エリーナはうずくまっていた。
 すすり泣きながら頭を垂れていた。
 リュウは目の前が真っ赤に染まった。
 頭の中から思考らしいものが全部すっ飛んで、真っ白になった。
 そして気がついた時には群がるドクターを突き飛ばして、強化ガラスを力任せに殴り付けていた。
 厚い透明な板に罅が入った。だが、まだ足りない。
「オリジン様! 何をなさるのです?!」
「止めて下さい、危険です! あなた様は生身なのですよ!?」
 視界が真っ赤に染まっている。
 網膜に映る炎を通して、世界が見えていた。
 右手が熱い。燃えている。
 久方ぶりの感触だ。
 炎を纏って薙いだ硬いドラゴンの腕は、簡単に強化ガラスを溶かして破った。
 途端、真っ黒な霧が部屋中に充満した。
 リュウは咳込んだ。
 致死性の極めて高いウィルスが皮膚に付着し、肺を満たした。
「……エリーナ」
 リュウはエリーナを呼んだ。
 彼女はようやく振り向いた。
 だが、あまりうまくものが見えていないようだった。
 彼女の半身は真っ黒になって、痩せ細り、枯れていた。
 生きたもう半分の身体からは、止まることなく血が抜き取られ続けていた。
 どう見込んでも、助かりようはないように見えた。
 リュウはしゃがんで彼女の頭を触った。
 そして、嘘を吐いた。
 もうだいじょうぶ、心配ない。
「……リュウ?」
 声を聞いて、ようやく彼女は目の前にいる人間が誰なのかということに気がついたようだった。
 エリーナは泣きながらリュウを見上げた。
「リュウ、いや。私、なんでこんな真っ黒な手をしてるの? お顔もざらざらするの。ねえリュウ、私のお顔も、この手とおんなじふうになっちゃってるの……?」
 リュウはゆっくり首を振った。
 エリーナの頭を撫でて、また言った。だいじょうぶ。
「いつものとおりさ。可愛いまま。ニーナに良く似てる、エリーナの顔だ」
「お姉ちゃん、どこ? リュウ、喉が乾いたわ……ねえ、パパがひどいことするの」
 エリーナからはどんどん生気が失われていた。
 彼女はもうまともにものを考えられなくなっているようだった。
 一貫性のないお喋りを、べらべらと続けていた。
 リュウはひどい焦燥に混乱していた。
 どうすればいいのかまるでわからない。
 どうすれば彼女が助かるのか。
 だが、彼女がもうどれだけ死に捕われているのか、リュウには解かっていた。
「いやだ、死にたくない! 私やりたいことがいっぱいあるのに、だからパパのお仕事なんか嫌いなのよ。私はプラントに行くのよ、プラントに……」
「だいじょうぶ、エリーナ」
 リュウはエリーナを抱き締めた。
 そして、馬鹿みたいに何度も大丈夫だと繰り返した。
 そうする以外なかった。
 エリーナは、だがそれで少しはほっとした顔をしてくれた。
 リュウは泣けてきた。
「……リュウ、喉が乾いたわ。私、どんどん乾いていくのよ、ねえ、リュウ――――
 それで最後だった。
 彼女は黒ずんだ半分の身体がぼろっと中心から剥がれて、さらさらと崩れていった。
「……あ」
 リュウはそれを見ていた。
 見ているだけだった。
「ああああああ……!!」
 熱い塊が喉につっかえたようで、言葉がうまく出て来ない。
 彼にできるのは、ただ悲鳴に似た叫び声を上げるだけだった。
 実験灯が消えた。
 終了の合図と共に、閉鎖された部屋は自動的に殺菌された。
 気がつくと、ドクターたちに囲まれていた。
 彼らは全員一様に焦りを顔に浮かべて、何事か喚いていたが、リュウにはうまく聞きとることができなかった。
「オリジン様! すぐに血清を!」
「あなた様が発症なさるようなことがあったら、私どもは――――
「何をやっている! 早くこのお方を安全な場所にお連れしろ!」
 誰も死んだエリーナのことは言わなかった。
 リュウはのろのろと顔を上げた。
 エリーナの父親の老医師と目が合った。
 だが彼はすぐに目を逸らして、部屋を出て行ってしまった。
「……おまえたちは、最低だ……」
 リュウは虚ろに、誰にも聞こえないくらい小さく、呟いた。
 だが、彼自身にも良く解かっていた。
 最低なのは誰でもない、彼らを取り纏めている者だ。
 頂点で汚い世界を見下ろして、見ているだけの、そんな男だ。
 リュウは吐き捨てた。
「おれも、最低だ――――
 実験室の周りはちょっとした騒ぎになっていた。
 防護服のドクターに担ぎ上げられるようにして、それから後は良く覚えていない。






 世界は汚い。
 なんにも変わっていない。
 リュウが見ても見なくても、それは変わらない。
(……おれは本当は――――
 身体に点滴の管が通されるのを緩慢に見つめながら、リュウはぼんやりと思った。
 さっきから、ずうっとニーナの泣き顔ばかり浮かぶのだった。
 本当に彼女は救われたのだろうか?
 彼女を泣かせる世界で、本当に救われたと言えるのだろうか――――
(……ほんとうは、人間なんて――――
 こうまで汚れながらあがいて生きる必要なんて、もうあるはずもないのに、彼らはそれを止めようとはしない。
 そして悲しいことに、それは間違いではない。
 誰一人傷つくこともない綺麗な世界は理想論なのだろうか。
 少なくとも、ひとつの時期、世界は全てが彼らの敵だった。
 世界を壊し、空を目指す。
 目指した空の下で、今度はどこを目指せば良いというのだろうか?
 リュウは思った。
 誰も彼もニーナを助けてくれない。
 弱いものをディクみたいに扱う。
 そんな地下と、今ある地上の世界はなんにも変わっていない。
 本当は、人間なんか大嫌いだ。
 リュウは目を閉じた。
 まどろみだけが、今はせめてもの安らぎだった。







◇◆◇◆◇







『それがオマエの判定なワケ?』


 ……わからない。


『まあ、ゆっくり考えなよ。俺たちには、時間だけは死ぬほどあるんだからさ』


 うん、そうするよ。ありがとう。


『オマエが人間嫌だって言うなら、はっきり判定してくれて良いんだぜ』


 でもおれ、二ーナは好きなんだ。
 リンも、街の人も、みんな。


『オマエが嫌いな人間って、なに?』


 さあ……ラボかな?
 あんまり好きじゃない。


『じゃ、あいつらみんなぶっ殺しちゃう?』


 駄目だよ、みんな病気になったら困るし。
 彼らも真面目に仕事をしてるだけなんだ。
 それは知ってるんだ。


『なあ、ほんとはわかってるみたいな口ぶりだな?』


 …………。
 そうだね。
 ほんとに、きみは鋭いなあ。







 おれ、本当は、






 おれが本当に我慢ならないくらいに大嫌いな人間は、オリジンのくせになんにもできない、何の役にも立たないおれ自身なんだ。















 
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