周りは真っ白な霧が立ち込めていて、自分の手のひらもうまく見えない。
クピトは頭を巡らした。
だが、やはりなんにも見えないし、覚えのある感覚もない。
「ここは、どこだろう?」
呟いた声は、うっすらと反響を帯びて消えていった。
どこか遠くのほうから聞こえてくる耳鳴りのようで、まるで自分の声のような気がしない。
「……オンコット。そばに」
すぐ傍らに、彼を守る無敵のガルガンチュアの気配が生まれた。
ひどく現実味がないが、夢というわけでもないらしい。
知覚と感覚ははっきりとしていた。
そして、クピトは歩きだした。
(……ぼくは今まで、何をしていたろうか?)
メディカルセンターから、彼ら判定者のいるセントラルに急な通達がきた。
オリジンが細菌実験被験者と接触したので、しばらく隔離と治療が必要だということだった。
確かそれを聞いてジェズイットが頭を抱えていた――――血清は完成したので心配するほどのことでもないと言われたのに、何故かは知らないが。
彼らの現在の主は今、睡眠薬を投与され眠っているそうだ。
効果が切れてもまだ意識が戻らないと騒ぎになっていたが、彼は仮にも適格者だ。
ウィルスごときでどうにかなるものでもないだろう。多分殺しても死なない。
クピトの心配はそれよりもニーナのことだった。
彼女はもちろん通達を受けるなり顔を青ざめさせて、すぐに飛んでいった。
あの少女はオリジンのこととなると、自分よりも真っ先に優先する傾向がある。
まるで昔の自分のようなものだとクピトは思う。
命にかえても守りたい人。恩人。彼のためなら、自分はなんだってするだろう。
その相手が致死性のウィルスに侵された上に意識不明なのだという。
ニーナの気持ちは我がことのように知れた。
まったく、どこの主も彼を想う者の気持ちには鈍感なものなのだ。
自分というものを全然大事にしない。
クピトはまたリュウに説教してやりたい気分だった。
……そして、彼の唯一の主にも、説教してやりたいところだった。
この世界を閉じた男。
彼らにはぼくらの気持ちなんて、全然わかっていないのだ。クピトはそう思った。
それで、重苦しい気分で会議室を出たのだ。
そこで彼は、声を聞いたのだ。
美しい女性の呼び声。
それはもうこの世界からは消え去ったはずの、透明な声だった。
そこから意識は混濁している。覚えていない。
(ここはセントラルじゃあない。地上ですらない?)
今の所彼を襲う敵の姿はないが、油断はできない。
オンコットに守られながら、クピトは冷静に分析した。
(狭間に迷い込んだ? だとしてもぼくが自力で戻れないなんて、今までなかったのに)
しばらく行ったころ、馴染んだ気配が先に生まれた。
クピトは立ち止まり、オンコットを手で制した。
霧はまだ晴れないが、クピトには分かった。
それは良く見知ったものだったからだ。
「あなたですね。オルテンシア」
先ほどの呼び声も、彼女のものだったのだ。
「久し振りですね、クピト。随分と背が伸びましたね」
「あれからもう二年になります、オルテンシア。ぼくを呼んだのでしょう?」
「ええ、クピト。ここから、貴方に声を届けられるのは、私だけですから……」
オルテンシアはそうして、それにしても大分時間が掛かりましたが、と言った。
「……ここは、どこなのですか?」
クピトはまた首を巡らせた。
何も見えず、なにもない。
ただ真っ白な霧だけが彼の身体を取り巻いていて、自分の手も、すぐそばにいるはずのオンコットとオルテンシアの姿も見えない。
ただ遠くからかすかに声が届くだけだ。
オルテンシアが答えた。
「ここは竜の胎内です、クピト」
「竜……?」
「さあ、早く、こちらへ……。あの竜に悟られないうちに」
そしてオルテンシアの紡いだ言葉は、クピトをひどく驚かせた。
「私達の主のもとへ」
◇◆◇◆◇
聖女の気配に導かれて歩むにつれて、徐々に霧は薄くなり、前を行く彼女の姿がうっすらと見えた。
二年前とまったく変わらない姿だ。
身長の差が縮まったせいで、妙な感じがした。
彼女はこんなに小さかったろうか?
そして、不透明な靄が掛かったような景色が、少しずつ現れはじめた。
そこは、不安定な世界だった。
旧中央省庁区の内部のようにも見えたが、誰もいなかった。
地下世界を保護しているトリニティの姿も見えない。
メベトとリンもいない。
ぐにゃりと何かを踏み付けて、クピトは慌てて足元を見た。
背景の一部に軟体の足が生えて、ぬるぬると逃げていった。
「…………」
何にしても悪趣味な世界だ。
だが、前を歩くオルテンシアは偽物ではない。
彼女の凛とした、はっきりした意思の色は、二年前までクピトが見ていたものと同じ色だ。
扉を潜ると廃物遺棄坑に通じ、そこから水没した中層区が覗いた。
「……誰かの記憶の引き出しを開けて、勝手に覗いているみたいな感じですね」
そう言うと、オルテンシアはちょっと笑って、もうすぐですよ、と言った。
気がつくとオルテンシアの姿はなかった。
クピトは真っ白な世界に立っていた。
さきほどまで視界を覆っていた霧はなかった。
いや、なんにもなくなっていた。
ただ真っ白だった。
軟体の背景も中央省庁区も、上層区のネオンもライフラインのパイプもなかった。
まっさらな世界だった。
「ここは……」
クピトは二三度瞬きをして、目を擦った。
まったくの虚無だった。
そして、ふいに声がした。
「久しいな、クピト。随分と背が伸びた」
クピトはびくっと引き攣って、恐る恐る顔を上げた。
幻聴だろうか。
それは彼が生まれてから今までで、最も大事だと思っていた人間の声だった。
そして、もう二度と聞けることはないだろう、と思っていた声だった。
「どこです!」
携えていた杖を邪魔っけに放りだし、クピトは辺りを見回した。
相変わらず真っ白な世界で、誰の気配もない。
誰かにからかわれているのだろうか、とクピトは思った。
だが、それでもいい。
彼に、主にもう一度会えるなら、クピトはなんだって良かったのだった。
「どこです、オリジン!」
ここ数年で、少しは大人びたとジェズイットに言われた冷静さもなにもなかった。
クピトは半分泣きそうになりながら、誰の姿もない白い世界で、主の姿を探した。
「……姿を見せて下さい。ぼくは……ぼくをもう、置き去りになんてしないで下さい……!!」
涙が零れた。
それと同時に、ぽん、と頭に手が乗った。
クピトはそれを良く覚えていた。
彼の主の、良くやった仕草だ。
クピトにとって唯一の主人、始原の唯人。
誰よりも世界を愛した男だ。
「クピト、泣くな。私はここにいる」
その男の名は、エリュオンと言った。
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