落ち付いて主人の話を聞けるようになるまで、しばらく掛かった。
クピトは赤くなってしまった目尻を拭いながら、あなた死んだんじゃなかったんですか、と訊いた。
「ぼくを置いていってしまったんじゃないですか」
「さて、どこから話したものか……」
エリュオンはしばし迷う素振りを見せた。
これはすっとぼけているのではなく、元々彼はあまり人の話をまともに聞いていないんじゃないか、とクピトは思う。
そういう『もう本当にこの人はしょうがないんだ』と思ったのも久し振りだ。
それさえ嬉しいなんて、とクピトは溜息を吐いた。
ぼくも本当に弱っているみたいだ。そう思った。
「時間はあまりない……。オルテンシアの目晦ましに、あれがいつまで引っ掛かってくれているかもわからない」
「あれとは?」
「――――竜だ。我々の、竜だ」
エリュオンは静かに言った。
「私はもう死んでいる。死んだはずだ。――――だがまだ私は、眠らせてはもらえないらしい」
「どういうことです?」
「竜が、望むからだ……」
エリュオンは、俯いた。
「ここは、竜のなかだ。リンク者には、夢という概念で現れるだろう……」
「リンク者……リュウのことですね?」
クピトは、二代目のオリジンの顔を思い浮かべた。
いつも笑っている。
不器用で、真面目だがどこか抜けている、空を開けた男だ。
彼の主と対成すものでもある。
「あれは、我々を救済する……」
「……?」
クピトは眉を顰めた。
意味が理解できなかった。
「リュウが……彼が、なにを?」
「あれは優しいのだろう、私と違い。すべてを憐れみ、そのために……空でさえ、救えなかった哀れな存在のために――――全てを生かすことに決めた」
「リュウが?」
クピトは、エリュオンの言葉を反芻して、理解しようと努めた。
「ここは……リュウの夢なのですか?」
「夢では、ない……ここは、竜の」
クピトは、もういいです、と主の言葉を遮った。
彼には、そんなことはどうだって良かった。
「……ぼくはいいんです。あなたが死者でも、リュウが見ている夢でも構わない。そんなことは、どうだっていいんです」
そうして、主に縋り付いた。
その身体は冷たかった。
馴染んだ冷たさだった。
エリュオンはとても体温が低い。昔からそうだった。
「……ぼくをそばに置いてください。もう一人は嫌なんです。あなたがいない世界では、ぼくはどこにいたって一人きりなんだ」
「…………」
クピトは主に縋って微かな嗚咽を零した。
もう他のことなんて、どうでも良かった。
エリュオンはしばらくどうしたものか考えを巡らせていたようだが、やがてクピトの頭を撫でた。
そうして、泣くな、と言った。
「世界は……いまだ解放されていない……」
静かな声が降ってきた。
クピトはそれをとても心地良く思った。
このままずうっとこの世界に浸っていたかった。
現実は優しくない。
この竜の世界は、誰も区別せず、公平に優しかった。
まるで、あの新しいオリジンとなった若者と同じように。
エリュオンの声は、静かに響いていた。
「竜が……黒い竜が、再び、現れる……」
「――――黒い、竜?」
クピトは顔を上げた。
主はいつもの静かな無表情で、クピトを見下ろしていた。
「それが、どちらに属するものなのか……『その時』が来なければ、私にもまだ、わからない。ヒトの側につくか、それとも――――」
エリュオンは、そこで一旦言葉を止めた。
「それとも……我々の竜のように――――」
「あのさぁオリジン。いいかげん、無駄話はやめちゃってくれない?」
ふいに若い男の声が割って入ってきて、エリュオンの声を掻き消した。
クピトははっとして振り向いた。
そこには、あまりクピトと歳の変わらない少年がいた。
真っ白な空間を切り取って現れたように、いつのまにか突っ立っていた。
それは金の髪と、寝惚けたようだが鋭い目をしていて、緑色のレンジャージャケットを身に纏っていた。
クピトは、その少年に見覚えがあった。
「きみは……確か、ヴェクサシオンの……」
だがその少年は、クピトにまるで無頓着に肩を竦めて見せた。
「俺の相棒が結構可愛がってたガキが『入って』きたからさあ、迎えに行ってやってるうちに、こんな隅っこの方で何コソコソやってるわけ?」
「……私は……私がやるべきことをやる……それだけだ」
エリュオンはクピトを背後へ押しやった。
「今は……帰るがいい。我々の、やさしい竜を――――頼んだぞ、クピト」
「オリジン!!」
クピトは叫んだ。
だが、急激に視界が暗転した。
白から黒へ、廃物遺棄坑、ライフライン、省庁区の白い壁が急速に現れては消え、そうして――――
◇◆◇◆◇
「死の間際に呑みこんで、精神と記憶に寄生させ、棲まわせ、世界を生み出す……死者の、救済……」
「なにアンタ。悪趣味だって言うわけ? せっかく相棒がさぁ」
肩を竦めた少年に、エリュオンは静かに告げた。
「このままでは、いつか……あれは、世界そのものに、溶けてしまう……」
「溶けやしないさ、死人とおままごとごっこしてるぐらいじゃ。……おっと、なんか表現が適切じゃないんだけどなあ? 悪い悪い、上手く変換されないわけ」
そして、少年はにいっと笑った。
意地悪い表情だ。
だが、その目に嵌っているのは、硬質でガラス玉のような無表情だった。
炎のように、ぎらぎらと燃えている。赤い瞳だ。
「オマエも楽しみなよ、オリジン。馴染みのお尻が可愛いオネーチャンもやさしいオトモダチも、いっぱいいるんだぜ?」
エリュオンはくすくす笑う少年に取り合わずに、問うた。
「判定は……成されたのか……アジーン?」
少年はつまらなさそうな顔をしていたが、首を振った。
「いや。まだだ」
◇◆◇◆◇
「ただいまー」
「あ、おかえりボッシュ。どこ行ってたの?」
「ん? ああ、ガキが一名様、ご案内。メスだ」
「なに、それ。迷子の案内でもしてたの?」
おれはおかしくて、つい笑ってしまった。
ボッシュにそういうの、死ぬ程似合わない。
意地悪をして泣かしてやしないだろうか?
ちょっと心配だ。
「笑うなよー」
「わ、笑ってないよー!」
手が伸びてきたので、おれはまずいと思って、身体を引いた。
このままだといつもみたいに頬を抓られるか、頭を殴られるかするに決まってる。
ボッシュはとても意地悪なので。
でも、ボッシュはおれを無理に捕まえて、がしがしと力任せに頭を撫でた。
髪がばらけて、ばさばさと降ってくる。
殴られなかったのはいいけど、ああ、また後で結い直さなきゃ。
それにしても、
「あ、ちょっとやりすぎだって。痛い痛い、ボッシュ!」
「ん? ああ悪い」
「全然悪いなんて思ってないだろ?」
「当然。俺エリートだもん」
ボッシュは涼しい顔をして、すっとぼけた。
おれはそれがおかしかった。
なんでかわからないけれど、こうしてローディーと馬鹿にされることが……何故か、嬉しくてどうしようもないのだった。
「何笑ってんの」
「笑ってないよ」
これは本当だ。
笑ってなんかいない。
おれは震えていた。
今にも泣き出してしまいそうな衝動が込み上げてきていた。
こんないつもの何気ないことなのに、それがひどい郷愁と切なさと、安堵におれを埋めてくれた。
「リュウ?」
「あ、あはは、なに?」
おれはボッシュにまた馬鹿にされるとわかっていたので、おかしくてしょうがないから笑っているというふりをした。
でも顔を上げた時、ボッシュは真面目な顔をしていた。
……おれ、嘘は下手なんだった、そういえば。ごまかしもそうだ。
「リュウ、こっち向けよ」
「?」
「顔、上げてみろよ」
ボッシュはおれの目尻、ちょっと涙が滲んでいる辺りを、ぺろっと舐めた。
「しょっぱいなあ。おまえ、笑いすぎ」
「……あ、あはは、変なのー」
笑い泣きまですんなよ、と馬鹿にされて、おれはまた笑ってみた。
うまくいかないのに、ボッシュは騙されてくれた。
「はは、あははは、あ、あれ……?」
だけど涙のほうはおれに容赦もしてくれなかった。
ぽろぽろと頬を伝って、熱い水が零れてきた。
ボッシュとこうやってじゃれているということが、ひどく物悲しく、そして死ぬよりも嬉しいことなのだった。
なんか、変な感じだ。ボッシュは虐めっ子で意地悪なのに。
「バーカ、ローディー、間抜け、泣き虫」
「あははは、おれ、なんだかほんとに泣けてきちゃったよ……」
ボッシュはおれを抱き寄せてくれて、しょーがないね、と言いながら、顔が見えないようにぎゅっと抱き締めてくれた。
「ホントどーしようもないやつ。能なし。おまえは一生俺の背中に隠れてればいいの」
「……お荷物、だから、かなあ?」
鼻が詰まって上手く喋れない。
ボッシュはぎゅっとおれの手を握ってくれた。
そして、こう言った。
おまえが心配することなんてなんにもないの、ローディー。
「オマエを苛めて遊んでいいのは俺様だけなんだから、オマエは俺に苛められて遊ばれることだけ考えてりゃそれでいいの」
「そーかな……。そんなに苛められちゃうのかな……」
「苛めちゃう。俺、好きな子は苛めちゃう方だからさぁ」
何を言ってるの、と笑っていると、おんなじふうに笑いながらボッシュはおれに唇を寄せてきた。
おれは抗わなかった。
そのままボッシュにキスされた。
不思議と、静かな心地がした。
彼の体温は、どうしようもないローディーのおれを救ってくれるような気がするくらい、あたたかかった。
「下層区も、もうすぐできあがるよ。ちゃんと空もある。オマエと仲いいあの子もいるよ。えーと、なんだっけ。名前忘れた。金髪の子だよ、細菌実験体の」
ボッシュはたまに変なことを言う。
でもおれは馬鹿だからか良くわからないので、黙って笑って頷く。
そうするとボッシュは、おれの頭を撫でて、いい子だな、と誉めてくれるので。
ちょっと厳しい隊長と小さいエリーナと、おれの大好きなみんながいる。
おれはもう、この優しい世界しかいらない。
ずうっと、意地悪をするけどほんとはとてもおれに優しいボッシュと一緒に。
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