夜が来て、世界を紺色の闇に染めた。
 誰もいないセントラルの照明も落とされて、非常灯だけが不健康な青い光を灯していた。
 ジェズイットは待っていた。
 明かりもつけないままの真っ暗な会議室には、彼以外に人の姿はない。
(……来たな)
 遠くから、靴の音が響いてきた。
 背中を柱にもたれさせたまま、ジェズイットは首だけを巡らして、扉が開かれるのを待った。
 ほどなく、彼が待っていた人間が現れた。
 彼らのオリジン、リュウだ。
――――よお、二代目。病院抜け出して平気なのか? お尻の可愛い看護婦さんにだけは、迷惑を掛けんようにな」
「…………」
 わざと軽い口調でそう言っても、リュウには反応らしい反応がなかった。
 ジェズイットは皮肉げに口元を歪め、笑ってみせた。
「なんだ、やっぱり俺をぶん殴りに来たか」
 ジェズイットにはその通りだろうと思えた。
 リュウはおとなしい顔をして、案外激情家だ。
 だが、予想に反してリュウは首を振った。
「……? なんだ、オリジン辞めにでもきたか?」
「そうしたいのはやまやまだけどね」
 リュウは俯いたまま、ぼそぼそと言った。
 あまり彼には似合わない仕草だった。
「ほかにどのくらい、隠し事があるんだ?」
「何のことだか」
「とぼけたって、駄目だよ……。教えてよ。ニーナは、あと何人くらいいるの?」
 リュウの口調には抑揚がなかった。
 それと似たものを、ジェズイットは以前に聞いたことがあった。
 人の醜さを見慣れた、絶望に浸りきった、一人のもう死んだ男だ。
 その男の名はエリュオンと言った。
 空を閉じたオリジンだ。
(……マズいな。あっちに行っちまったかな?)
 リュウは怒りも嘆きも不安もなんにもなく、真っ平らな無表情をしていた。
 空へ届くには似合わないと、エリュオンが自嘲気味に言ったことがあるあの顔だ。
 今の地上に必要なのはリュウのような若者なのだと、ジェズイットは考えていた。
 馬鹿だが余計なことに気を回さない。真面目でまっすぐ。世界の醜さを捨て置かない。
 それを維持させる方法は簡単だ。
 彼に綺麗なものばかり見せておけばいい。
 だが、今回は失敗だった、とジェズイットは思った。
(……大体、こいつのIDが悪いんだよな。立ち入り禁止、なんて便利なこともできねえ)
 世界の汚いところは、ジェズイットのような元統治者が引き受けてやればいいと思っていたのだが、どうやらリュウは知ってしまったようだ。
「……あんたはそのまんまでいなきゃならねーんだよ、二代目。前だけ見てろ。他であがいて生きてる奴のためにな」
「……綺麗な上辺だけ、昔みたいに見てろっていうのか?」
「おまえに迷子になられたら、後ろからついてきてる奴はどうすりゃいい?
オリジンなら、下にいる奴らを不安にさせるな。
大体おまえ、潔癖症なところがあるから、ひとつを切り捨てて全部を救うなんてこと、できねーだろう。
汚れる人間が他に必要になるんだよ。俺やセンターのじいさんみたいな」
「……全部が救われちゃ、いけないのか?」
「できもしないことを言うなよ。だからおまえはお子様なんだ」
 ジェズイットはやれやれと肩を竦めた。
 このオリジンは、どうやら理想郷を造りたいらしい。
 苦しみも悲しみも痛みもなく、不幸な人間もいない、そんな夢の中みたいな世界が現実にありえると思っているのだろうか?
 それは一時期子供が夢見る美しい世界だ。
 リュウはまだ若かった。
 彼は少々例外で、世界をどうこうするオリジンの力を持ってしまった子供だった。
「もう一度言うが、おまえは前だけ見てりゃあいい。そりゃあたまに後ろも確認してやれ、ちゃんとみんなついてきてるんだろうかってな。脱落したやつがいたら少し待ってやれ。そして、手を差し伸べてやれ。それでも駄目なら放っていけ、誰も彼もおまえが背負ってちゃ、そのうち押し潰されちまう。後の奴らは迷子になる」
「……押し潰されるのも、おれの役目のうちだろう? オリジンのかわりなんて、いくらでもいるよ。おれなんかより、ずうっとうまくやれる人が」
「あのなあ、二代目……」
 ジェズイットは、聞き分けのないリュウに溜息を吐いた。
 リュウは本当にまだまだガキなのだ。
「もう少し、賢くなれ。物分りが良くなれ。おまえ、なんだ。そんなら、『細菌実験体が必要ならおれの身体を使ってくれ』とか言い出すつもりか。アホなこと抜かすんじゃねえ。おまえにはおまえの役割があるだろうが」
――――でも、おれは誰にも必要とされてなんかいないんだ!」
 リュウはほとんど叫ぶようにして、ジェズイットの言葉を遮った。
「なんにもしないで、上で見ていることしかできないのか? おれは、誰も救えないのか? 空を開けたって、みんなが幸せになんてなれるわけじゃない。おれはニーナを救いたかっただけなのに、彼女はまだ泣いてる! おれが……」
 リュウは項垂れて泣きそうな顔をして、力なく呟いた。
「おれがいるから……」
「……おまえはあの子を救っただろう?」
「おれはニーナの新しい足枷になっただけだ。誰も、おれが守れるものなんて、もう何も――――
 リュウはまったく自覚がない、とジェズイットは面倒臭く思った。
 どれだけ特別になっても、自分に自信がまったくないようだった。
(ああくそ、まったくめんどくせえったらよ……)
 もし今自分の頭の中身だけを十何年か前にすっ飛ばせたら、とジェズイットは考えた。
 そうしたら下層区に直行、青い頭をしたガキを片っ端から捕まえてきてリュウ=1/4……いや、1/8192を探し出し、中央省庁区まで拉致でも誘拐でもなんでもして掻っ攫って連れてきて、挨拶、頷き方のひとつから帝王学に至るまで、ジェズイット自ら長い時間を掛けてエリート教育をイチから叩き込んでやったものを。
 このリュウは、もうちょっと傲慢になった方が良い。
 多分今から直すのは難しいだろう。
 性根までローディー気質が染み込んでいるようだった。
 まあそれはそれでいいんだろうが。
(そもそも、いきなりそこらのガキにオリジンになれ、ってのが無茶苦茶なんだよなぁ……レンジャー基地の一日署長でも手に負えなさそうなのに、こいつ。どんくさいしな)
 だがこの空の世界のオリジンは、リュウしかいないとジェズイットは思っている。
 エリュオンが長きにわたって待ち望み続けた男だ。
 資格どうこうの問題なら、完璧にクリアしている。
 問題は優し過ぎる、融通がきかないことなんかだが、今の世界に必要なのはそんなものだ。
 リュウはこれからも世界のひずみを受け入れることはないだろう。
 ならこの場で彼の追及を逃れ、なおかつうやむやにしてしまいたいのなら、方法はひとつきりだ。
 つまり、矛先を逸らしてしまえば良いのである。
 ジェズイットは俯いたまま半泣きになっているリュウをひっつかんだ。
「悪いね、二代目。あんまり聞き分けが悪いとお仕置きしてやらなきゃならん」
――――?」
 リュウは細い。軽い。
 はじめに見た頃より随分背は伸びたが、執務で剣を振るっている時間も取れないせいで、なけなしの筋肉も落ちた。
(……まあそんな戦闘訓練なんか、もうこいつには必要ないんだろうがな)
 地上も地下も、どこを探し回ったって、純粋にリュウとやりあって勝てるものなど存在しない。
 彼は最強のドラゴンなのだ。
 だが彼は、もうヒトに対してその力を使うことはまずない。
 だから抱いて自由を奪ってやるのは簡単だった。
 唇を奪ってやるのも簡単だった。
 リュウが目を見開いた顔が、暗がりの中でやけにくっきりと見えた。
(……さて、こういうのは俺の趣味じゃないはずだが……)
 弾力のある柔らかい美人の尻ならともかく、貧相な男の硬い尻など最悪だ。
 その最悪なはずの尻を弄りながら、口の中に舌を突っ込んでディープキスなどと、冗談であるはずもないのだが、ジェズイットは内心苦笑しながらそれを続けた。
「ん……んんッ!」
 呼吸がままならないようで、リュウはもがいた。
 酸欠を起こしかけたところを見計らって、ジェズイットはリュウを会議室の机に引き倒した。
 赤いラインの入った紺色のロングコートを剥がし、光沢のある黒いアンダーをはだけさせた。
 本当に、リュウは可哀想なくらい貧相な身体をしていた。
 そう言えば彼の身体は、反応ネガティブが出ていたと聞いた。
 あばらが浮き出て、腰なんか死ぬ程細い。
 まあ悪くないやな、というのがジェズイットの感想だった。
 及第点だ。女だと思い込めるかどうか、その辺のところは、ぎりぎり。
「……っなにをするんだ……!」
 リュウはようやく我に返って、ジェズイットに非難を浴びせてきた。
 当然の反応だとは思うが、止めてやるつもりはない。
 彼はたまにはこうやって、人に苛められなきゃいかんのだ、とジェズイットは思った。
 そうして自分の身体のことを――――自分にはちゃんと五体揃っていて、そいつらはきちんと痛みも感じることができるのだ、と教えてやらなければならない。
 リュウは自分に無頓着すぎた。
「やめ……はなせ!」
「なあ、大人ってのはな、二代目。ずるいもんなんだ。汚いもんだ。覚えときな。大人になるか、ガキのままでいるかはおまえが決めればいいことだ」
 ジェズイットはリュウの胸に噛みついた。
 痛い、とリュウが色気のない悲鳴を上げる。
「あのなあ、そういうときは、もうちょっと色気のある声を上げるもんだぞ。ほれ、あんあん言ってみろ」
「いっ、いた……いっ! なんなんだ!」
「観念しな。できるだけ痛くしてやるよ。気持ち良いと、おまえ嫌だろう。だから、そんなに「ひどいことしてください」なんて顔はやめとけ。オリジンなんだぞおまえは」
「おれ……」
 リュウはびくっとして、ぴたりと動きを止めた。
「おれ、そんな顔してるか」
「ああ。自殺志願者みたいな顔だ。ひどい顔だ。多分、二ーナが見たら泣くな」
「ニーナ……」
「なあ、二代目」
 ジェズイットは、リュウの目をまっすぐに見て、真面目な顔をして言った。
「おまえ、二ーナとしろ」
「……は?」
「は?じゃない、セックスだ。嫌いじゃないだろう? 貧乳で、貧尻だ。おまえさんの好みだろう」
「……な、な……!!」
 リュウは顔を真っ赤に染め上げた。
 そして怒り出した。
「なにを言い出すんだ!! 二ーナにそんな汚いこと――――
「汚い? じゃああれか、結婚も汚い。子供をつくるのも汚い。そーいう汚いセックスでできた子供も汚い。おまえはそう言うのか。人間はみんな汚いばっかりだ、って?」
「そ、そうじゃない……ニーナは、そんな……」
「あのなあ、二代目。もうそろそろ限界だから、言ってやるが……」
 ジェズイットは頭を振って、今まで言わないでおいてやったことをリュウにぶっ掛けてやった。
「いい加減にしろよ、このクソガキ。大人を舐めるんじゃねえ。あの子を崇めるな。ニーナは聖女様じゃないんだ、いつかはそういうことがしたいなんて思う。人間だからな。もしかすると、もう思ってるかもしれん。
それも一番愛してるおまえとだ。
おまえのガキが欲しいなんて思う、だがおまえは潔癖症だ。
どこの女だって惚れた男に卑しい女だと思われたくはない。
だからなんにも言えない。愛してます、とも言えない。
おまえはあの子を受け止められない。だが守るなんて言う。あの子はどこへも行けない。
ああくそ、むかつくな。このガキが、いっちょまえに可愛い顔をしてるからって女を泣かせやがって。犯し殺すぞ」
「おれ……」
 リュウは両手で顔を覆った。
 大分混乱しているようだった。
「おれは……」
「世界も人間もみんなおまえみたいに綺麗だと思うな。汚れているのが許せない? ふざけるな、この馬鹿野郎が。きたねえものを引き受けてる奴がいるから、綺麗に生きれるやつもいる。おまえみたいにな。ガキんちょ、適格者だかなんだか知らんが――――自分ひとりきりが特別だなんて思うんじゃねえ」
 ジェズイットはリュウの肩に思いきり噛みついてやった。
 血が滲んで、リュウがうめいた。
 いい気味だ、この馬鹿。ジェズイットは思った。そのまま反省してろ。
「おまえがどこの女とくっつこうが知ったこっちゃないが、おまえは間違いなくその子を泣かすことになる。俺にはわかるんだよ、大人だからな。その潔癖症、今更どーにかしろ、なんて言わない。無駄だろうし。だから、実地で教えてやることにした」
 リュウのコートを投げ捨て、ジェズイットは宣言した。
「おまえ、一回汚れてみろ。この俺が価値観とかいろいろ置いといて相手をしてやるんだ。ありがたく思いな、リュウ」
 ジェズイットは、呆然としているリュウの唇に、また舌を差し込んだ。
 キスに関しては悪くない。
 唇のやわらかさも唾液の味も、されてる時の顔つきもだ。
 男相手などおぞましいとしか思えなかったが、まあこれに関してはいろいろ目覚めてやってもいいくらいだ。
 まあ、ジェズイットは尻の可愛い女のほうが断然いいが。
 だが、なんとかやりきれそうだ。
 リュウは目をぎゅっと閉じて、苦しそうに目に涙まで浮かべている。
 空いた手で片手間に胸を触ってやっていると、急に背後に気配を感じて、ジェズイットは勢い良く振り向いた。
 少し遅れて、剣先が耳元を掠める風切りの音が聞こえた。
 棘のように鋭いなにかが、確かに今まで彼の頭のあった場所を貫通したのだった。
「……なんだ……!?」
 だが、誰もいない。
 ジェズイットが怪訝に思っていると、少し遅れて今度はずん、と衝撃がきた。
 さっきと違い、派手で、腹の中身がひっくり返るような重たさだ。
 やすやすとアブソリュードディフェンスを突き破り、生身にまでダメージを与えてくる方法はそれほどない。
 次はちゃんと声が掛けられた。
「……なにしてるの」
 少女の高くて静かな声だ。
 今は多分に怒りを含んでいるようだ。
 ジェズイットは手を上げて、降参の仕草をした。
「参った、降参、二ーナ」
「……リュウからはなれて、おじさん」
「オジサンはあんまりじゃないかなあ、二ーナ?」
 ジェズイットは精一杯の笑顔をニーナに向けたが、彼女は全くいつものように微笑み返す気もないようだった。
(……まあ、コイツに手を出すのは、二ーナの怒りを買うのと同義語だけどな)
「メコム、もう一度撃つわよ」
「降参、降参! 言ってるだろ? あーあー、親切なお兄さんの気持ちは女の子にはわかってもらえないのかねえ? なあ、どう思う、リュ――――二代目?」
 ジェズイットは救いを求めて(おそらくニーナに関しては、何があってもリュウがこれ以上けしかけることはないと踏んだのだ)リュウに声を掛けたが、返事はない。
「あ。ヤベッ」
 リュウは眠っていた。
(……活動限界……ってやつか……)
 彼は良く眠るようになった。
 許容範囲を超えた分、こうしていきなり眠り込んだりもする。
 これはいつものことだ。
 まだキスしかしていないのに、よほどショックだったようだ。
(お子様め。この分だとニーナが止めに入らなくても、最後までは無理だったな、うん。残念だ)
 ジェズイットがそんなことを思っていると、つかつかと歩いてきたニーナが、ジェズイットを押し退けた。
「どいて、おじさん」
「うぉっ……だからニーナ、俺はまだお兄さんだと言ってるじゃないか」
「リュウ……なんにもしてないよね?」
 二ーナは静かにジェズイットの顔を見上げた。
 その表情はひどく凄惨で、さしものジェズイットすらも寒気を感じるものだった。
 ジェズイットは思った。
(……この顔を二代目に見せてやればもう、守らなきゃ、とか気負うこともなくなるだろうな)
 その前にリュウなら「あの可愛かったニーナが」とか「育て方を間違ったかもしれない」とか言いながら、泣いてしまうかもしれない。容易に想像がついた。
 とりあえず、ジェズイットは首を振った。
 なんにもしてない、の答えだ。
 二ーナは黙ってリュウの肩を抱き起こし、乱れた着衣を整え、彼の身体を抱えて、きびすを返した。
「……リュウにほんとになにかしたら、絶対にゆるさないわ」
「オーケイ、了解です、二ーナ様」
 二ーナはリュウを連れて行ってしまった。
 おそらくセンターに戻すのだろう。
 個人的な感情はともかく、リュウを救えるのは今の所メディカルセンターしかない。
 勝手に抜けてきたせいで騒ぎになっているのかもしれない。
 しかしそれにしても、
(男が女の子にお姫様抱っこだけは、死んでもゴメンだよな、二代目……)
 リュウにはこのことは黙っておいてやろう。
 さすがに、あまりにも可哀想なので。
「……あー、格好悪いな、この俺が……なあ、オルテンシア?」
 ジェズイットは溜息を吐いた。
 もういない彼にとって最高の女の尻を思い出し、苦笑して手のひらを蠢かせてから、ふと真顔に戻った。
(しかし、さっきのは何だったんだろうな)
 あの殺気は、なんだったのだろうか?
 ニーナのものじゃない。もっと解りやすく、攻撃的だった。あきらかな殺意があった。
 まるで鋭く尖った武器を、スピアかレイピアか、そんなものを突付けられたような――――そんな張詰めた危機感があった。
 背中がまだ、緊張の汗でびっしょりと濡れている。
「……何だろうなあ?」
 身体がこれだけの反応をしている。
 これが錯覚であるはずはない。
 ジェズイットは無理に、にやっとした。
 寒気はまだ彼から去ってはいなかった。












 
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