リンは困ったような顔をして、旧中央省庁区の会議室にリュウを迎えてくれた。
 彼女はひどく心配しているようだった。
 だがもうなんでもないんだと言うと、そう、とだけ言って、静かに頷いた。
「本当なら、私らが出向くのが筋なんだろうけどね……」
「いいよ、忙しいんだろう? おれ、あんまりできることもないから……でも地下も久し振りだな。なんだか色々寂しくなっちゃってて……あ」
 リュウは失言に気がついた。つい口が滑ったのだ。
「……リュウ、またウロウロしてたのかい? あれほど言ったのに……あんたは一応は何かの間違いとは言え、確かに似合わないけどオリジンなんだから」
「……リン、おれやっぱりそんなに似合わないかな……」
「その上ボロボロの病人だ。命を狙われたり、誘拐でもされたらどうするんだい? あんたは確かに強いけど、一人でできることの限界っていうものがあるんだよ。わかってるのかい? 二ーナの胃に穴でも開ける気かい。 それで今回は何をやらかしたんだ、言ってみな」
「た、大したことじゃ……ちょっとラボまで、こっそり……」
「……なんであんたがこっそりする必要があるんだよ、リュウ。もう昔と違ってオリジンなんだから、胸を張って正面から入ってやりな」
「うん……なんか、いろいろあってさ」
 リュウは項垂れた。
「バイオ公社のことで。ほとんどのデータは一度地下に送られてるみたいだから」
「……あいつら、またなんかやらかしたのかい?」
 リンは、しょうがないね、と肩を竦めた。
「それで?」
「え」
「とぼけんじゃないよ。あんたがデータ覗いてそれで終わり、ってわけでもないだろ」
「ああ、実は……持ってきちゃった……」
「…………」
「だから、後で再生装置、借りてもいいかな……」
 リンは頭痛でも起こしたように、頭を抱えた。
「我らがオリジンは、ラボに忍び込んで窃盗罪を働いたってわけかい」
「ジェ、ジェズイットよりましだよ! 夜道で痴漢より、って、あ」
「……あんたは私と喋ってると、ものすごく失言が多いね、リュウ。正直過ぎるのかなんなのか知らないけど、後で二人仲良く拘置室送りだ。覚えときな」
「そんな。……て、そうじゃなくて、リン。なにかあったんだろう? そっちが優先じゃないのか?」
「まあ、話題をすりかえるにしては良いタイミングだね。なんていうか、実は私らにも良くわからないんだよ」
「え?」
 リュウはきょとんとした。
 リンもなんだか、自信のない答えを言うみたいな顔をしている。
「あんたはなにも気付かなかった? ジオフロントの近くで、黒い巨大ディクの目撃情報が相次いでるんだよ」
「ああ、それなら……なんだか、街で聞いたような……」
 それはこういうものだった。
 地上と地下の中継ポイントになっているジオフロント付近は、実験都市とは別に、本当に小さな、街とも呼べない建物が連なった地区になっている。
 居住者のひとりが、ある晩地下への物資供給のために、エレベーターに荷を積んでいる頃だった。
 月のない夜だ。
 街灯のちっぽけな照明だけが闇の中にほのかに白く光っていた。
 ふいに、影が落ちた。
 エレベーターの調整をしていた彼が不思議に思い、ふっと上を見上げると、音もなく巨大な影が、上空をすうっと過ぎていった。
 大きな角と、牙が見えたという。
 透明な光でできた翼は夜空を透過し、向こうに星が見えたそうだ。
 あれはドラゴンだ、とその男は主張したそうだ。
 あんなに巨大な生き物、伝説のドラゴンしかいない。
「どう思う? 本物のドラゴンとしては」
「おれに聞かれてもなあ……地上って何がいるかわからないし、ドラゴンくらい大きな動物がいるのかも」
「……空を飛ぶやつが?」
「だっておれ、なんにも感じなかった。共鳴もしなかった。ほかのドラゴンが近くにいた時は、何て言うのかな、びりびりするっていうか……そんなのも、なかったし」
「ふうん……」
 リンは良くわからなさそうに頷いた。
「それを聞いた時は、あいつが生き返ったのかも、って思ったんだよ」
「はは、まさか」
 真剣な顔をして言うリンに、リュウは笑ってそんなことないよ、と言った。
「ボッシュはここにはいないよ」
 リュウは断言した。








「ところで、二代目」
 ジェズイットは、ふてくされたような顔をして言った。
「クピトを知らないか?」
「……いや、地下に来てるものだと思ってたんだけど、いなかった。どこに行っちゃったんだろう」
「そうかよ。あのガキ、書類もほっぽりだしたままどっか行っちまうもんだから、この俺がデスクワークなんて……ああ、頭痛い」
「ジェズイットはいいよ、ほんとは頭がいいもの」
「ほんとは、って何だ、二代目」
「い、いや……」
 なんとなく、居心地が悪い。
 例の強姦未遂の説教からこっち、はじめて顔を合わせるのが拘置室の隣同士など、なにかがおかしいとしか思えない。
「なんで俺みたいな善良なメンバーが、お縄につかなきゃならんのだ」
「しょうがないよ、それだけのことしてるんだから」
「おまえも横で牢屋にぶち込まれてるくせに、偉そうに言える立場か」
「うーん、そうだねえ……」
 リュウは俯いて、はあ、と溜息を吐いた。
「……ジェズイットってさ」
「あん?」
「悪い大人の見本だよね」
「なんだ。そりゃこないだのことを言ってるのか?」
「いや、あれは関係ないよ。……むしろ、感謝してる」
「ん? なんだ、おまえそのケがあったのか? 俺はノーマルなんだが、なら最後までヤってやれなくて悪かったな。うん、じゃあ俺ももうちょっと頑張って、色々そっちの嗜好に目覚めてやった方が良かったか」
「ち、違うー!! そういうことじゃなくって! おれは子供なんだなあって、そう思ったんだよ! 方法は別! 大体どういう発想でアレがソレでそーいうことになるわけ?!」
「言葉は正しく発音しろ、二代目。アレとかソレとかじゃわからんぞ」
「だから……その……い、言えるか!」
 リュウは真っ赤に顔を染めて、鉄格子越しにジェズイットにバックルを投げ付けた。
「うわっ、こんなもん投げるんじゃねえよ! オリジンの御印じゃねーか!」
「いたっ! じゃあ投げ返さないでよ! ああもう、一生拘置室に入ってたほうがいろいろ人のためだよ、ジェズイット! また夜道で女の子のお尻触ったんだろう!?」
「なんでおまえが知ってるんだよ」
「街で有名な都市伝説にまでなってるよそれ」
「うっそマジ?」
「マジだよ。触られると良くないことが起こるとまで言われてるよ」
「うーん、困ったなあ……せっかくの能力が、宝の持ち腐れだと思わないか? せっかくバレずに可愛いお尻を触れるのに」
「……死んでいいよ、ほんとに」
「うわっ、おまえ最近口悪いぞ二代目。どうしちゃったんだよ、昔はそこは困った顔をして恥らうところだろう。ジェズイットさん、不潔です、とかなんとか言って」
「……あんたらは一体、何の話をしてるんだい」
 リンの声が割って入ってきて、リュウとジェズイットは一時休戦した。
 彼女を怒らせると、後が怖いのだ。
「なんでもないっス、リン姐さん。できれば早く出してくれないかな。俺、帰ってクピトが放り出している書類片付けないと。ていうか今、地上にニーナしかいないんだけど」
「心配ない、そっちはメベトが面倒見てるよ。痴漢はそのまま檻に入ってな。まったく、いい歳して恥ずかしいとは思わないのかい?」
「思いません」
「……一生檻の中で過ごしたいのかい?」
「まあまあ、リン。ジェズイットが一生檻の中っていうのは賛成だけど、でもどうしたの? 何か用があるんだろう?」
「ああ……リュウ、あんたは出な。頭ももう冷えた頃だろう?」
「うん……いいの?」
「端末を使いな。いつものとこだ、分かるだろう?」
「あ、ああ。……ありがとう、リン」
 リュウはリンに礼を言って、拘置室を出た。
 暗く冷たい牢屋には、リンとジェズイットだけが残った。
 リュウが行った向こうで、エレベーターの扉が閉じる音が聞こえた。
 そこで、リンはようやく口を開いた。
「……話があるんだよ、ジェズイット。リュウのことだ」
「なんでしょう、姐さん?」
 口調は冗談めかしているが、ジェズイットは真顔に戻って、訊いた。






◇◆◇◆◇






 データを呼び出して、モニターを下から上に流れていく文字列を眺めている。
 二ーナ。データ照合。ナンバー=××××。
 これは数年前のものだ。
 ページが進むにつれ、ナンバーがどんどん新しくなって、それはごく最近更新されたものだった。
 エリーナ。データ照合。ナンバー=×××××。
 これは最新のものではない。
 その後にふたつばかり名前と数字が並んでいた。
 つまりはそういうことだろう。
 確かにリュウがオリジンとなってから、その数は減ったとはいえ、ラボとその分身とも言える地上のメディカルセンターでは、人体実験はいまだ続いている。
「…………」
 リュウは強張った無表情でそれを見ていた。
 そして、新たなデータを呼び出した。
 ここ最近の出来事。
 乾死病。これは徐々に終息に向かっている。
 地下でディクの異常発生。いつものこと。
 黒い巨大ディクの観測情報。
 かつてオリジンと敵対したドラゴン=チェトレが生きていたのではないか、という仮説が立っているらしい。
 朽ち果てて腐ったアジーンが再起動して世界を壊したように、復活して空を取り戻しにきたのではないか。
(馬鹿みたいだ)
 リュウは静かにモニターの電源を切った。
 ヒトは最悪の事態を空想し、そいつに怯えて暮らしている。
 そんなことがある訳ない。
 ボッシュは、ずうっとおれのそばにいるのに。リュウは思った。
(彼はおれを選んだのに)
 手を伸ばせばすぐそこに彼がいる。そんな気がする。
 最近、特にその気配は強まっている。
 まるで自分の身体の中にボッシュがいるような。
 あの頃アジーンに浸蝕されていたように、今リュウの身体がボッシュに浸蝕されているような。
 時がくれば身体を食い破って、彼が世界に再生するような――――それはリュウの錯覚でしかないのだろうか?
(いいよ、ボッシュ。もっとおれを食ってよ。はやくこの身体を食い破って。空をきみにあげるよ)
 リュウは僅かに微笑んだ。
 その時がひどく待ち遠しいのだった。
 まるで親が我が身を食い千切って雛鳥に与えるような、その感覚はリュウを昂ぶらせてくれた。
 身を焦がすような、熱いものだ。
 その感情が何というものなのか、リュウは良くわからないが、別になんだって良いと思う。
(おれは選んだんだ。覚えてるよ。もう忘れたりしない。夢なんて誤魔化せやしない。
ずうっと……ずうっと、きみのそばに……)
 そばにいる、リュウはそう呟いた。
 彼は幸せだった。
 この汚い世界から、きっとボッシュはリュウを救い守ってくれるだろう。
(……はやく……ううん、もうすぐだね?)






『ああ、そうだよ、相棒』







 頭の中でボッシュの声が聞こえた。
(ボッシュ……)
 リュウは目を閉じて両腕で自らの体を抱き、冷たい床に崩れ落ちた。
 大理石でできた床に、ぽつぽつと涙の染みが広がった。
 嬉しくて涙が出てくるということはあるんだ、と彼はそこだけは冷静に思った。
 もうすぐ、リュウはボッシュに食い尽くされる。
 それがひどく嬉しく、恐ろしくもあり、恍惚でもあった。
 そうなれば永遠に、優しい彼に抱かれて生き続けることができるからだ。











 
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