「待って!」
呼吸の音が身体の中で反響している。
もうどのくらい走ったろうか?
リュウが全力で走っているのに、目の前のボッシュの背中は暗い方へ、暗い方へとどんどん遠ざかっていく。
いつも見ていた、ボッシュの背中が。
家紋をあしらった緑のレンジャージャケット、綺麗に切り揃えられた金髪。
昔とまったく変わらない姿で、だが今はリュウより幾分か小さい。
あの頃は少しだけ、ほんの僅かだけ目線を上げなければならないくらいだった。
リュウは思い出した。
そう、そして彼は今みたいに、決してリュウを待ってくれない。
時折、立ち止まってちらっと確認するだけ。
そして、追い付けなければほんとに置いていかれてしまう。
暗いリフトの線路の上で、ひとりきりで置き去りにされてしまうのだ。
「ボッシュ!」
リュウはボッシュを呼びながら、どんどん遠ざかっていくボッシュを懸命に追い掛けた。
曲がり角に、ちらっとジャケットの裾が閃いた。
急いで曲って、先のほうから子供の悲鳴が聞こえた。
真っ暗な路地に正体のはっきりしない闇がいくらか固まっていて、そいつが道を塞いでいた。新種のディクだろうか?
襲われているふたりの人間、彼らの顔は知っている。
子供のほうはメディカルセンターで良く会うジョーだった。
プラントで仕事をしている兄の後ろに守られて、なんだよこれ、と叫んでいた。
そして彼はリュウに気がついて、慌てたように言った。
「リュウ! おい、来んな! こっち、危ないって!」
構わずリュウは、固まって蠢いているディクを、駆ける速度をそのまま利用して蹴り飛ばした。
「邪魔だっ!!」
きっ、と短く鳴いて、それらはべちゃっと地面に潰れて落ちたが、またすぐにぼこぼこと地面が泡立った。
リュウに気がついたものたちが寄集って群れをなし、そのまま溶けて一体の巨大な怪物になった。
気味の悪い青い炎の球を身体に纏わりつかせながら、それはリュウ目掛けて突進してきた。
咆哮しながら鋭い爪を振り下ろした。
だが、それはリュウに届くことはなかった。
ばつん、とリュウの前に現れた光の壁を叩き、そこで止まった。
メンバーの証、絶対の防御、アブソリュードディフェンスに弾かれたのだ。
リュウはようやく剣を抜いた。
構え、まっすぐに見据え、腰を落とし、一気に駆け出した。
闇から生まれた怪物がまた闇に還るまで、そう時間は掛からなかった。
「――――オリジン、すまねえ!」
「怪我は?」
「いいや、大丈夫だ。弟もなんともない」
「そう……良かった」
リュウは剣を収め、弱々しく微笑んだ。
ジョーはまだびっくりしたように固まっている。
先ほどのディクが余程怖かったんだろう、とリュウは思った。
とりあえず、リュウは彼らに訊いてみた。
「あの……こんな人を見なかった?」
リュウは、自分の目の端っこをきゅっと指で下げた。
「垂れ目で金髪で、ええと、緑のレンジャージャケットを着た人なんだ。おれ、彼を追い掛けてきて……ここを曲ったところまでは見えたんだけど」
ジョーの兄は、まだ硬直したままの弟を見遣ってから、首を振った。
「いや、見てねえよ、オリジン。こっちには誰も来てねえ。先に行ってもプラントしかねえよ」
「そ、そう……」
リュウは項垂れて、慌ててきゅっと唇を引き締めて顔を上げた。
こんな不安そうな顔をしてちゃいけない。
リュウはオリジンなのだ。
「二人共、明るいところへ。あいつらは光を嫌うみたいだから、メベトがすぐに街中の照明をつけてくれるはずだ。それまではセントラルへ」
「ああ、わかった。なあオリジン……悪いがうちの親父がプラントにいる。心配で出て来たんだが、妙な化け物がわんさか沸いてきてどうにもならねえ」
「うん。おれ、見に行ってくるよ。大丈夫。あ、これを」
リュウはポーチごと銃を取り外し、彼らに渡した。
「気を付けて」
「おうよ、オリジン。あんたもな。ほら行くぞ、ジョー」
「……あ、う、うん」
ジョーはひどく混乱しているようだったので、リュウは少ししゃがみ込んで、彼に笑い掛けてやった。
頭を撫でてやろうとも思ったのだが、ディクを屠った直後だ。
気持ち悪がられるかもしれない。
「ジョー、お父さんは大丈夫だ。プラントは明るいだろう? おれ、気をつけてって知らせてくるよ。朝になったらみんな消えるさ」
ジョーはリュウの顔を見て、こっくりと頷いた。
リュウはもう一度にこっとして、また駆け出した。
もう少し冷静にならなければ、とリュウは自分に言い聞かせた。
(おれは、オリジンなんだから……みんなを守らないと)
それにしても、ボッシュはどこへ行ってしまったろう?
そんなことを考えて、リュウは首を振った。
駄目だ。今はそれを考えてしまうと、リュウは駄目になってしまう。
(おれだって守られてばっかりじゃ、きっとボッシュも怒るよね)
おれはレンジャーなんだから、とリュウは思った。
そして変な気がして打ち消した。
違う、おれはオリジンだ。
どっちにしろ、街の人間を守らなければならないことに変わりはない。
リュウはそう思って、余計な考えを吹き飛ばした。考えてる暇はない。
――――そして、縋っている暇もないはずだ。ボッシュに。
ほどなく、光が街を包み込んだ。
具現化した悪夢みたいなディク共は、照明に晒されるとうっすらと透けて消えていった。
まるで誰か、彼らを空想し、創り出した者が夢から覚めたように。
人工の明かりが昼間のように街を照らし出した。メベトがやってくれたようだ。
ほどなく朝が来るだろう。あと二三時間ほどで夜明けだ。
なけなしの影に逃げ込んでいくディクは徐々に萎んでいった。
それを見遣りながら、リュウは剣を腰に収めた。
ジェズイットかクピトあたりに後でまた怒られるだろう。
オリジン自らディク掃討なんか馬鹿げている。
一番上の奴は、上でどっかり座って指示を出さなきゃならない。
それはわかってはいるのだ。だが、納得はしていない。
(メベトがいるんだ。おれ、このくらいしかできることないよ)
リュウは歩き出した。
セントラルに帰ろう。
ボッシュも見失ってしまった。
「ボッシュ……」
彼は、本当にいたのだろうか?
リュウの中にいたのではなかったか?
胸に手を当てて、リュウは耳を澄ませた。
心臓の鼓動が聞こえる。
ボッシュは確かにそこにいるはずだった。
リュウはひどい焦燥を感じはじめた。
もしかしたらボッシュは、リュウから抜け出してどこかに行ってしまったのではないだろうか?
あんまりにもどんくさいローディーに愛想をつかして、リュウを置いて行ってしまったのではないだろうか。
冷たい汗がリュウの背中を濡らした。
「ボッシュ……」
リュウは振り返って、また走り出した。
向かった先は暗い闇だ。
彼はまだ、いるかもしれない。間に合うかもしれない。
あの闇の中なら、さっきのようなディクが蠢いているかもしれない。
まるでリュウの『あの悪夢』のように。
そして、そこならボッシュはまたリュウを見付けてくれるかもしれない。
(おれは……おれはオリジンなのに……!)
必死で引き止めるもう一人のリュウが、リュウの中にいる。
だけどその声は、身体にも頭にも、そしてリュウの心にも届かないのだった。
(おれは、みんなを守らなきゃいけないのに! セントラルに帰って、指示を出さなきゃ。みんな、おれを待ってくれてる。おれは人に頼ったりしちゃいけない。一番上で、ちゃんとみんなを見てなくちゃ……)
だが、リュウの口は全然別のことを叫ぶ。
「ボッシュ! ねえどこ?! おれはここだよ!」
セントラルに帰らなきゃ、ともう一人のリュウは叫ぶ。
みんながオリジンを待ってる。
オリジンの言葉が、姿が、彼らを安心させることができる。
だがリュウは、迷子の子供が親を探すように、泣きそうになるくらいの必死さで叫んだ。
「待ってよ! おれを見付けてよ。おれはここにいるよ、ボッシュ!」
もう振り返ってセントラルへ向かうという選択肢はどこにもないことに、リュウはひどい罪悪感を覚えた。
ただ走った。
闇へ、闇の中へ。
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