街とその他の境界は明確ではなかった。
 セントラルの北側に工業区とプラントがある。
 そこで働く人間の簡易宿舎がある。
 南側にはメディカルセンターと、商業地区、まだあまり多くはないが街の住人の居住区がある。
 この都市は実験のために建造されたものだったので、技師や医者、科学者などとその家族が住民の大半を占めている。
 日の出にはまだ1時間ほどある。
 リュウは街の北のほう、休止プラントの間を縫って走っていた。
 暗闇が先へと続き、あの化け物めいたディクがまた視界の端に現れるようになった。
 だが、不思議なことにそいつらはもうリュウを襲ってはこないのだった。
 ただ遠巻きに見ているだけだ。
 いや、そうではない。
(なに……?)
 街の北にあるのは、一本の道だった。
 プラントの終わりまで続いて、それっきり途切れてしまう開発途中の道だ。
 これ以上この先には何も無いのだから、途切れているのは当たり前だ。
 本当になにもない。
 人の手の入っていない、未知の地上がただ息を潜めている。
 ディクたちはその行き止まりの道の両端に集まっていた。
 みっしりと詰まっていた。
 まるでリュウが道に迷わないように、余計な方角の通せんぼをしているような感じだ。
 ただまっすぐに走れ、と言われているような感じだ。
 もうすぐ道が終わるというころ、リュウはやっと探していた背中を見付けた。
 まだ遠く、だが彼にはわかった。
 暗闇の中にあるのに鮮やかな緑。リュウは更に足を早めた。
 痛め付けてやった肺が軋んだ。
 だがまだ止まれない。
「ボッシュ……!!」
 リュウが彼の名を叫ぶと、ボッシュは意外なことに、立ち止まってくれた。
 彼の背中が近付く。
 あと少し、もう少しだ。
 リュウははっきりと彼の姿を捉えることができて、思わず腕を伸ばした。
 もうこれ以上、置いて行かれたくなかった。
(おれは、選んだんだ……!)
 だからボッシュ、どうかもう、これ以上そうやっておれを置き去りにして去っていかないでくれ。リュウは声なく叫んだ。
 ボッシュは少し早足過ぎるのだ。
「ボッシュ! 待って!」
 ボッシュは、そのままゆっくりと振り向いた。
 勢い良く駆けて、怖いことがあった時に小さな子供が良く庇護者にそうするように、リュウはボッシュに飛び付くようにして抱き付いた。
 微かなぬくもりの感触。
 それは一瞬のよろこびをリュウに与えてくれた。
 だが、ほんとうにそれは一瞬だった。
 夜明けが訪れた。
 空の端がうっすらと明るんだ。
 太陽はまだ昇ってはこない。
 朝焼けは、まだ遠くにあった。
 だがボッシュの身体はほんの僅かな明かりにすうっと透けていって、リュウが触れたところから空気に溶けるようにして消えてしまった。
 一瞬彼と目が合った。
 真っ赤な炎みたいな瞳が、泣くなよ、とでも言っているように細められたのをリュウは見た。
 透明なその目に映り込んだ自分の姿は、ひどく焦燥し、無様だった。
 寄る辺を失ってリュウは倒れ込んだ。
 先に道はもう無く、剥き出しのままの地上があった。
 禍禍しい姿をしたディクたちが光に怯えて、リュウに縋るように押し寄せてきた。
 それらは残らずリュウの中へ消えていった。
 そこにはもう誰もいなくなった。
 いるのは地に伏して、全身を泥塗れに汚したリュウがひとりだけだ。
「……待って……」
 もう誰も聞いてはくれないのだ、ということはリュウには良くわかっていた。
 だが、震えて唇をわななかせながら、リュウはかすれた声を上げた。
 のろのろと肘で身体を起こし、さっきまでそこにいたはずの相棒を探した。
 ボッシュは、いなかった。
 薄闇の中、どこを探してもいなかった。
「待ってよ、おいてかないでよ……」
 もう手を伸ばしても、なにも掴めなかった。
 あるのは少し薄い暗色をした雲と空だけ。手が空を切った。
 そして力なくリュウはうずくまった。
「待って……」
 頭を垂れて、リュウは俯いた。
 頭と顔がかあっと熱くなって、虚無感とさみしさと自己憐憫が彼を満たした。
「うう……」
 リュウは両手で顔を覆い、静かに泣き出した。
 昔より大分大きくなった手は、だがなにも掴めずなにも掬えない、役立たずの手になっていた。
 ボッシュは行ってしまった。
 この世界のどこにももうそんな男はいないのだと、本当はリュウは良く知っていた。
 彼が失われたのはリュウのせいであることも良く知っていた。
 誇り高い彼のプライドをずたずたにして、その胸を貫いた感触がまだ腕に残っている。
 一生取れることがないだろう。この生々しい、心臓を握り潰す感触。
「……っ、うぐ……っ、う」
 すすり泣きはやがて嗚咽を呼び寄せた。
 まだ朝焼けは来ない。
 闇がひどく恐ろしい。
 ボッシュにあんな優しい目をさせている自分が、リュウは許せなかった。
 いっそのことリュウが彼にそうしたように、この胸を貫いてはくれないだろうか。
 この世界から解き放ってくれはしないだろうか。
(……やだ。ここはいやだよ。きみのいない世界なんて。……ボッシュ)
 こんな世界はニセモノだ。
 歪みきってひずみが生まれている。
 その中心にいるのが、他ならないリュウだなんて、悪趣味な冗談だ。
「うあ……あああああっ、あああ……」
 目から涙が零れる、止まらない。
 リュウは幼子のように泣きじゃくった。
 泣いている彼を見ても、誰も手を差し伸べてはくれなかった。
 ひとりきりで、彼は泣いた。
 






 背後に人の気配を感じて、リュウは慌てて顔を上げた。
 ボッシュが戻ってきてくれたのでは、と期待をしたのだ。
 だが、現れたのは全然別の人間だった。
 おそらく、戻ってこないオリジンを心配して、捜しにきてくれた街の人間だろう。
 顔に見覚えはなかったが、真っ黒のロングコートを羽織り、縁の丸い黒眼鏡を掛けていて、その背格好と雰囲気から、科学者かプラント技師だろうと推測された。
 リュウはしばし呆然と男を見上げ、それから自分がどれだけひどい顔をしているかということに気がついた。
「……っ! す、すみ……ません……」
 慌てて涙を拭ったが、上手くいかない。
 惰性で零れてくる涙は止まらなかったし、あれだけ泣きじゃくったせいで目も真っ赤に腫れている。
 リュウはゆるゆると首を揺らして、なんでもないんです、と言った。
 だが、黒い格好の男は呆れきったように肩を竦めた。
「泥臭いオリジンだね。なに? あんたが人間で一番偉い奴? 信じらんない」
「…………」
 リュウは羞恥を感じ、俯いた。
 その通りだったからだ。
「おれ……偉くなんか、ない……」
「たまにこんなろくでもない街に寄ってみたら、コレ。ディクは出るし、ほんとにろくでもない」
 はあ、と男は肩を竦めた。
 オリジンも絶望的だし、と彼は付け加えた。
 彼の言葉には棘があった。
 それをどこかで昔聞いたことがあるような気がしたが、リュウは思い出せなかった。
 見たところ、リュウと同じくらいの歳の青年に見えた。
 長い金髪を一纏めにしている。
 表情は、黒いグラスに遮られて見えない。
「……きみは……どこかで、遭ったことが?」
「どうだか」
 男は皮肉げに唇の端を吊り上げて、丸縁の眼鏡を取った。
 無礼なところはあるが、彼はとても整った顔立ちをしていた。
 鋭い色をしたグリーンの瞳。それそのものが鋭い武器のような。
 そんなものをどこかで見たように思ったが、リュウは思い出せなかった。
 もしかすると、レンジャーなのかもしれないな、とリュウはぼんやり思った。
 サード時代に、どこかで見掛けたことがあったのかもしれない。
「見覚え、ある?」
 訊かれて、リュウは首を振った。
「ごめん、気のせいみたいだ」
「あっそ」
 リュウは会話を交わしながら、その実上の空だった。
 目にはあのボッシュの、振り返ってくれた横顔ばかりが焼き付いて離れないのだった。
 綺麗に整った面差し。
 泣きそうなリュウを憐れむように細められた、美しい血の色をした真っ赤な目が。
(ボッシュ……おれを、可哀想だって思ってくれたの?)
 あの赤い瞳が好きだった。
 リュウに向けられる時には、どんなにひどいことを言う時だって、どこか彼の目は優しい。
 美しく、炎のように燃えていて、それがリュウを憐れんでくれた。
 僅かな幸福が、彼の胸を満たした。
 もう大丈夫だ。
 あと少し、もう少しだけ待てばいい。
 ボッシュは、リュウを見限ってなんていない。
 彼は優しいのだから、きっと。もう泣く必要もない。
 リュウは立ち上がり、服の泥を払った。
「ごめんなさい。もう、おれは戻るから。ありがとう……」
 迎えに来てくれて、と言い掛けて振り向いて、リュウは眉を顰めた。
 さっきの男の姿はどこにもなかった。
 リュウはまた、ひとりで立ち尽くしていた。
 ようやく朝焼けが訪れて、空は赤く染まり始めた。血の色をして。


 









 
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