夕焼け空とニーナの間に、ひょっこりと子供が顔を出した。
 女の子だ。
 彼女は心配そうに二ーナを覗き込んで、あどけない声で、お姉ちゃんどうしたの、と言った。
『どこか痛いの?』
 二ーナは少女を良く知っていた。
 同じ金髪と青い目をしている、とても可愛らしい顔立ちをした娘だ。
 彼女の名前は、エリーナと言った。
「……だいじょうぶ、どこも痛くないわ」
 二ーナは慌てて涙を拭った。
 エリーナに心配を掛けるわけにはいかない。
 最近、エリーナや年下の子供たちと良く話すようになって、二ーナはようやくリュウの気持ちが少し分かった。
 わたしはお姉さんなんだから、というぴっちりとした責任感が、二ーナの背筋をぴんと伸ばしてくれる。
 ニーナはちょっと背伸びをして笑うようになった。
 リュウ、彼もこんな感じなのかしら? そう思うと、二ーナはちょっとくすぐったく、嬉しくなるのだった。
 少しでもリュウに近付けたような気がするので。
 彼はニーナの理想の人間だった。
 リュウのようになりたい。
 二ーナはいつもそう思っていた。彼に出会ってからずうっとだ。
『お姉ちゃん、悲しいことがあった?』
「うん……ちょっと、どうしようって。わたし、ほんとになにもできないままなんだなあって……」
『リュウ?』
「うん」
 なんでエリーナには、わたしのことがなんでもわかるのかしらと、二ーナは思った。
 まるでずうっと一緒にいた姉妹みたいだ。
 エリーナは『ほんとにリュウったら!』と、ちょっと怒った顔をした。
『お姉ちゃんを苛めたのね? 苛められっこの泣き虫リュウ、あとで絶対に泣かせてやるんだから』
「エリーナ、それは違うわ。リュウがわたしを泣かせたんじゃない。リュウが、ひどいことをされてるの。わたしはなんにもできないの。わたしを泣かせてるのは、わたしなのよ」
 二ーナは、わたしは悪い子ね、と呟いた。
『お姉ちゃん、リュウ、心配?』
「うん……」
 二ーナは身体を起こし、膝を抱えて丸くなった。
『そっか……』
 エリーナは微かに微笑んだ。
『好き?』
「うん」
『うちのパパとママみたいに、結婚したい?』
「うん」
 二ーナは頷いた。
 そうすればずうっと生涯一緒にいられると、二ーナは最近知った。
 どんなかたちでも良かった。
 リュウのそばにいたいのだ。
『うちのパパとママ、仲が悪かったわ。パパはお仕事ばっかりで、ママは泣いてばっかり。わたしママのほうが好き。でもママは死んじゃった』
「……大好きなひとが死んじゃうって、どんな気持ち?」
 二ーナはそう聞いていた。
 いまひとつ実感が湧かないのだった。
 リュウがニーナを置いていってしまうというのが、ただ単純に信じられないだけなのかもしれない。
 エリーナは、そうね、と首を傾げた。
『はじめはね、悪い夢を見ているみたい。でもママはどこにもいないの。いつまでも、帰ってこないの。私は泣いて、泣いて、泣いて、パパはちょっと悲しそうな顔をしたけど、いつもどおり仕事に出掛けたの。私はそれが悔しくて、パパが死んじゃえば良かったのにって思った。ママがいなくなって悲しんでるのは、私だけなんだって思った』
「……今でもパパがきらい?」
 二ーナは聞いた。
 二ーナは許せるだろうか、リュウを閉じ込めてしまおうとしているあのクピトを。
 ジェズイットを。街の人たちを。リュウを助けてくれないみんなを。
 エリーナはニーナを、わかっているのよ、というふうに見た。
 その目はとても大人びていた。
『でも見ちゃった。パパは私が寝た後で泣いてた。私は知らなかった。パパは私にごはんを作ってくれるようになった。私が嫌いな食べ物のことも知ってくれた。夜中にトイレに起きた時、ドアの隙間からこっそり見ちゃったの。パパはママの部屋で泣いてたわ。大人のひとが泣く所、私は初めて見た。あ、リュウ以外でね。リュウ、泣いてばっかりなんだもん。ううん、まだ子供なのよ』
 二ーナはちょっと笑った。
 エリーナは、微笑みながら、それでね、と言った。
『「あの時」だって、パパはとても怖い顔をしてた。わたしはパパが怖くて仕方なかった。なにをされるのかわからなくて、でもされてたことがわかってもっと怖くなっちゃった。わたしはまたパパもパパのお仕事も嫌いになった。パパは私もリュウのこともいじめて、泣かせて、あんなに怖い顔をしてるんだもの』
「……リュウ? 泣かされたって、エリーナのパパが? どうして?」
 二ーナは奇妙なことを聞いて、エリーナに訊き返したが、彼女は答えてくれなかった。
 そもそも、エリーナは何の話をしているのだろう。ニーナにはわからなかった。
『でもパパ、夜になって、ひとりで家に帰って、……私が見ていたより怖い顔をして、泣いてたわ。私の部屋で、ママの時といっしょ。パパ、誰にも慰めてもらえないのよ。一人ぼっちで泣いてた。私はパパが可哀想だった。リュウが私にしてくれたみたいに、頭を撫でて、泣かないでって言ってあげたかった』
「…………」
 エリーナは遠い目をしていた。
 子供には似つかわしくない、世界のすべてを見とおすような、そんな目つき。
 二ーナは何にも言えず、ただ彼女の言うことを聞いていた。
 理解はできなかった。
 だが、なんだかとても悲しかった。
『ねえ、二ーナお姉ちゃん』
「……え? あ、な、なにかしら、エリーナ」
 二ーナは慌てて返事をした。
 エリーナは、リュウなんだけどね、と切り出した。
『「もう泣かないで」って言ってる。「ごめんね」って言ってる。
「ニーナが泣くのは全部おれのせいだ」って言ってる。
――――「おれがいなくなったら、やっとニーナは解放される、空へ」。そうなの?』
「違うわ!」
 二ーナはほとんど叫ぶように言って、否定した。
「わたし、リュウがいなきゃなんにもできないの! 世界なんていらないわ。空だっていらない。綺麗なものも欲しくない。リュウがそばにいなくちゃいやなの。……わたし……リュウのいない世界なんて、壊れてしまえばいいって……いらない、そんなの……」
『……リュウもそう言ってた。世界なんてもういらないって。全然優しくないって。もう、ひとつだけのことしか、いらないって……』
 二ーナは顔を上げてエリーナを見た。
 彼女はニーナを悲しそうな目で見ていた。
 頭を振って、リュウはほんとに悪い子、と言った。
『お姉ちゃんがこんなに心配してるのに、世界中のみんなが自分のことなんて大嫌いなんだって思ってる』
「……リュウ……」
 二ーナはもどかしかった。
 こんなに好きなのに、リュウは他ならない自分自身が、どうしてそんなに嫌いだなんて言うのだろう。
「……なにを選んだの、リュウ……」
 二ーナは顔を覆った。
「わたしじゃ駄目なの」
 ニーナはひどく悲しかった。
「わたしじゃあなたを背中に隠して、守ってあげられないの」
 ニーナはずっとリュウの背中を見てここまできた。
 守られながら、その実置いてかれないように、走って追い掛けてきた。
 リュウ、待って。リュウはいつも少しだけ振り返って、待って、二ーナに手を差し伸べてくれた。
 行こう、二ーナ。そう言って微笑んだ。
 だけど、今だけはリュウの背中がひどく遠かった。
 待って、リュウ。
 でもリュウにはニーナの声が、遠過ぎて聞こえないのだ。
 エリーナは震えているニーナにひどく困ったような顔をして、手を差し伸べた。
 だがその小さな手がニーナに届くことはもうなかった。
 二ーナは短く息を詰めた。
 涙の予感はすぐに消し飛んだ。
 エリーナのいつもの可愛らしい青いワンピース、その胸の真ん中から、細くて鋭い、針のようなものが生えていた。
 エリーナの背後から、男の声がした。
「……最近の地上では、地面にへばりついて泣き喚くのが流行ってるわけ?」
 真っ黒の闇色のコートが見えた。
 丸縁の黒い眼鏡を掛けて、表情はわからない。
 長い金髪をひとつに束ねていた。
 その格好から科学者かプラント技師ではないかと思われたが、この街では見掛けない人間だ。
 その男は手にした剣で無造作にエリーナを貫き、その小さな背中を足で踏み躙りながら肩を竦めた。
「終わってるね」
 その声は鋭さと悪意でできていた。




 





 
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