封印の日。
この部屋に入れられてから、何度朝が来たのだろうか。
良く覚えていないが、そんなに長い間でもなかったように思う。
ほとんど眠って過ごしていたからかもしれない。
どうしようもない睡魔が、始終彼に付き纏っていた。
これもクピトの魔法なのかもしれない。でも違うかもしれない。どうでもいいが。
竜の間(知らないうちにそう名付けられていたらしい。前はほとんど物置きだったのに)は先ほどから少し騒がしくなっていた。
まず、セントラルお抱えのファーストバトラーが部屋の外を固め、ファーストメイジが何人か部屋に入ってきた。
これは部屋の隅でそれぞれ強化、弱体化魔法を詠唱している。
ニーナが使っていたのと同じものだ。
リュウの身体からはどんどん力が抜けていく。
竜ではなく、リュウの力を弱めてもあまり意味はないと思ったのだが、言わなかった。
「竜」と言う言葉は、それだけで彼らを怯えさせるものだった。
実際時折彼らは、リュウにおどおどとした、戸惑った目を向けてきた。
リュウは、とりあえず微笑んでおいた。だいじょうぶ、噛みつかない。安心して。
そして強化魔法の行き先には、ひとりの少年がいた。
クピトだ。
彼はリュウと目が合うと、困ったように微笑んだ。
(……ごめんね?)
唇だけ動かしてそういうと、クピトはかすかに首を振った。
かまいません、と言っているのだろう。
あなたはもう眠っていい。そう言っているのだろう。
リュウにはそれが少しありがたかった。
『相棒、苦しい?』
(……大丈夫だよ、ボッシュ)
すぐそば、耳元でボッシュの声がした。
リュウは目を閉じて、彼の声に耳を傾けた。
暗く閉ざした視界に、ほどなくボッシュの姿が浮かび上がった。
そう、彼はもう、すぐそこにあるのだった。
瞼の薄い肉と血管を隔てたそれっきりの先に、ボッシュはいるのだった。
手を伸ばせばきっと届く。
だがボッシュはゆっくり首を振った。
『もう少しだけ我慢な、リュウ?』
(うん)
『けど痛かったら言いなよ、あいつらすぐにぶっ殺してやるからさ』
(うん、だいじょうぶ)
リュウは答えた。
透明な手が、頭を乱暴にがしがし撫でた感触がした。
『いい子だ』
(もう、注射を我慢する子供じゃないよー)
リュウは口元を僅かに綻ばせ、大体ボッシュはさあ、と口の中だけで彼に語り掛けた。
(おれのこと子供子供って、過保護なんだよ)
『嫌い?』
(好きだよ)
『……なら文句言うなよな、バカローディー』
(ふふ、おかしいねえ……)
ボッシュと他愛無いやりとりをしていると、頭上から訝しげな声が降ってきた。
「なにニヤニヤしてんだ、二代目。気色悪いぞ」
「ひどいなあ……」
リュウはぱちっと目を開いて、ジェズイットを見上げた。
彼はリュウの身体がちょうど収まっている小さな魔法陣の上から、上半身を屈めて覗き込んできていた。
ふたりはほかに聞こえないように、こそこそと話し合った。
確か私語は厳禁だ。クピトに叱られる。
「またねボケてんのか。口元、ヨダレついてんぞ」
「え、嘘」
「嘘だよ。しかし、つまらんなあ。これじゃおまえさんの貧相な尻も触ってやれない」
「……触らないでいいよそんなのは」
リュウは憮然と言って、二ーナは、と聞いた。
「まだ泣いてる?」
「いや、朝から姿を見ない。どこ行ったんだか」
「お別れ、来てくれなかったな……。怒ってるかな。もうおれのこと、嫌いになっちゃったのかもしれない。ひどいことばっかりしてるし」
「いや、どっちかっつうと、ニーナがむしろこんだけ静かなほうが怖いんだが、俺は……なーに企んでんだか」
「え?」
「……いやこっちの話。おまえさんは知らなくていい」
「リンとメベトは?」
「メベトは管理を一手に押し付けられて大忙しだ。リンはなあ、……怖いな、アレ。いつランチャー持って乗り込んで来るか」
「はは……」
リュウは何と言って良いかわからず、曖昧に微笑んだ。
「あ、そう言えばおれのドラゴンブレード……」
「ん? そこだ。祭壇の上」
「封印て、あれを刺すんだろ。おれに」
リュウはちょっと緊張しながら、言った。
ドラゴンの封印はドラゴンの力で。
そう提案したのはクピトだそうだが、クピトにそれを教えたのはきっと「あの人」だろう。
「あのさあ、ジェズイット」
「なんだ、怖くなったか?」
「いや……いいんだけどさ。……あんまり、痛くしないでね?」
リュウは眉を下げて、顔を引き攣らせながら言った。
昔からこういうのは、苦手なのだ――――痛いぞ、痛いぞ、と予告されながら来る鋭い痛み。
注射もそう。注射のひとつで泣き言言ってる女々しいリュウ。
レンジャー時代には、そうひどく馬鹿にされたものだった。
だが言われたジェズイットは、微妙な顔をしていた。
「……だ、駄目? 無理?」
「あのなあ、二代目。そういう顔してそういうふうに、俺が誤解しちまうことは、言うなよな……」
「は?」
リュウがわけがわからず眉を顰めると、クピトの声が飛んできた。
「私語は禁止です、ジェズイット、二代目」
『はい……』
そして二人は項垂れた。
またしばらく詠唱の声だけが響いた。
さすがファーストメイジともなると違う。
これだけ続けていてへばらないんだから。リュウは感心して思った。
だがそろそろそれも終わる頃だろう。
「ジェズイット。剣を」
「あいよ、クピト」
ジェズイットは無造作にドラゴンブレードを祭壇から掴み上げ、とんとんと肩を叩いた。
「……こんな錆掛けてる棒っきれで大丈夫なのか? 俺でも傷ひとつつかねえぞ」
「あなたが選ばれてないからですよ。ドラゴンのリュウには効果があるはずです。ほら、彼が使ってる時は、ちゃんと凶悪なくらい破壊力があるじゃないですか」
「ふうん……」
ジェズイットはいまひとつ疑わしげに魔法陣を踏んだ。
光が弾け、障壁が消えた。
リュウを縛るものは何もなくなった。
「じゃ、悪いね二代目」
「ごめん、最期まで嫌な役を押し付けたね」
「まあアレだ。大人は嫌なことでもやらなきゃならん時があるんだよ。気にすんな」
そして、ジェズイットはリュウの胸に剣の先を僅かに触れさせた。
ぽうっと赤い光が、リュウの身体に触れた箇所から沸きあがった。
「へえ……マジで、おまえに触ると変わるんだ、この剣。すげえな」
「だ、だからあんまりそういう、これから痛いぞ、みたいなことはやめてくれよ……」
リュウは目を閉じて、唇をぎゅうっと結んだ。
「は、はやくして……あ、遺言とかは。おれニーナに、リンに、みんなにも伝えてほしいことが……」
「いや、却下。どうせオチも捻りもない一言ぽっきりだろ。「ごめん」、おまえはいつもそうだ」
「う……」
リュウは詰まった。図星だった。
「なあ」
ジェズイットが、珍しく――――いや、ほとんど初めて見るような真面目な顔で、リュウを見ていた。
こんな顔もできるんだ、とリュウはぼんやり思った。
ふざけてないだけで、全然別の人間みたいだ。
「おまえが女なら惚れてたかもな」
でも、言うことはふざけていた。
「きっと、ここから連れ出してやったよ。そんで逃げた。世界の果てまでさ」
「何を言ってるんだか」
リュウはくすくす笑った。
ジェズイットは最後まで冗談ばっかりだ。
「世界で2番目にイイ女になってたろうな。始終そばにいて守ってやらなきゃどうしようもない女に」
「おれ、そんなにどうしようもないかな……」
リュウは、ちょっと困ったふうに眉を寄せた。
ジェズイットはにやっとして、ああ、どうしようもない、と言った。
「おまえのおかげで最近、こだわりとかあんまり気にならなくなってきてさ」
彼は冗談を言ってるようでそうではないと、リュウはなんだかわかった。
ジェズイットは、リュウのもうひとつの可能性を提示してくれた。
「どうしようか、二代目?」
つまり世界の果てまで、この街からもオリジンからも逃げ出し、そこにも優しい世界があるのだということだ。
「それ、なんか変だよ? 女の子を口説いてるみたいだよ」
「口説いてるんだよ。ガキにはわかりにくかったか?」
「……また子供扱いして、変な冗談言って」
リュウは少し口を尖らせた。
「……でも、冗談でも嬉しいよ、おれ。そんなふうに言ってくれるの、ジェズイットくらいだから」
そして目を閉じ、穏やかに微笑んだ。
だがもう決めていた。
「……このまま、殺して。おれは、この世界に必要ない人間だ」
「そうか……」
ジェズイットが頭を振り、剣を逆手に持ち替え、振り上げるのが見えた。
『相棒、いいの?』
ボッシュの声がした。
『痛いかもしれないよ。殺そうか』
(ううん、ボッシュ。これでおれ、もうみんなに迷惑を掛けないで済むんだ)
リュウは穏やかにそう言った。
(もう……役立たずの、飾りだけのオリジンなんて……いなくても、みんな、きっと……)
リュウは安堵していた。
目の前には彼の世界が広がっていた。
彼が生み出した世界たちが。
地上の街。あがきながら生き続ける人々。
竜の世界。優しい死人たち。
リュウは微笑み掛けた。
顔見知りの、毎日を懸命に生きていく地上の住人たち。
リュウをオリジンと呼び、慕ってくれたひとたち。
ずうっと居心地が悪かった。
騙しているような気分だった。
おれは、みんなの上に立って、導いていけるような人間じゃないんだ……そう心の中で、ずっと叫んでいた。
(さよなら、みんな)
不思議と穏やかな気持ちだった。
奇妙に幸福な気分。これは多分、ボッシュがすぐそばにいて、リュウの肩を触ってくれているせいだろう。
リュウはひとつだけ、どうしても放ったままにしておけない心残りを思い浮かべた。
彼女は、きっとまた泣くだろう。でもこれで最後だ。
ごめんね、とリュウは、その少女の顔を思い浮かべた。
(……さよなら、ニーナ)
リュウから解放され、今度こそ本当に世界へ解き放たれる。
ニーナ、空へ。
リン、いつもごめん。
どうかニーナを、あのころ、空を開けてすぐに約束したように、どこまでも、世界の果てまでも、連れて行ってあげて欲しい。
ニ―ナに綺麗なものを見せてあげてほしい。
そうすれば彼女は今度こそ、その翼を取り除くだろう。
リュウは本当は知っていた。
ニーナがあの翼をきっぱりと捨て去ってしまわないのは、その原因と理由はリュウにあった。
彼女はリュウを踏み越えていくことができなかった。
翼を捨て、あるべき人の姿へ戻り、毎日空の下で幸福な生活をすることができなかった。
ぼろぼろに死に掛け、死ぬに死ねず、眠り込んでばかり。
そんなものをリュウひとりに押し付けて――――彼女はそれは自分のせいだと思っているようだった。
自分だけが綺麗な人間に戻り、生きていくことが許せなかったのだろうと思う。
優しい子だ。
今まで手を引っ張ってきたリュウが、うずくまって動けなくなってしまった時に、置いて先へは行けなかったのだ。
もう彼女はひとりで歩いて行けるというのに。
だが、それももう終わる。
必要なのは、結局こういうことだった。
背中を押してやらなければならない。
ニーナ、空へ。リュウは思った。
おれも見たことがない、綺麗なものばっかりの空へ。
ドラゴンブレードの鈍い輝きが照り返して、リュウの目に映った。
こんな時になっても安心しているのは、なんだか変だな、とリュウは思った。
目の前にはボッシュがいた。
エリーナがいた。
エリュオンが、統治者たちが、ゼノ隊長が、任務中に命を落とした何人もの友人だったレンジャーが、そして同じようにして空を目指したリュウを止めようと命を賭けて向かってきたレンジャーたちが、肺を患っていた下層区の街の子供が、リュウが殺したディクが無数にいた。
彼らはリュウを待ってくれていた。手を差し伸べようとしてくれていた。
私たちの、頼りない、可哀想なローディー。
リュウは誰にも期待されず、必要とされず、だが愛されていた。
しょうがない、手を掛けてやらなきゃどうしようもないローディーとして。
(これで、ずうっと一緒にいられる、みんな――――)
リュウは幸福だった。
ジェズイットが剣を振り下ろした。
その切っ先は、正確にリュウの心臓に向かっていた。
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