やれやれという溜息が、うつ伏せに寝かせられたリュウに降ってきた。
「オマエってさあ、絶対不感症だよ」
 尻にぬるぬるした感触。指で弄くられている。リュウは背筋を震わせた。
 やはりそんなところを人に触られるなんて、気持ちが悪い。
 微かに軟膏の匂いが漂ってきた。
 ベッドの下には無造作にきずセットの空き箱が転がっている。
 薬を塗られているのだ。
「なに、そんなに俺が怖い? ずーっとガタガタ震えて縮こまっちゃっててさ、口を開けば「ボッシュ、たすけて」。普通萎えるぞ、オリジン様」
「なんで……」
 制御装置の手枷が、ひどく重く感じる。
 指一本動かすことすら億劫だった。
 リュウはその男の方を見ないまま訊いた。半ばそれは独り言だったが。
「……おれを恨んでるなら、おれが憎いなら、ほかにどうとだってできるだろう……?」
 リュウは、シーツに顔を埋めた。
 くぐもった声でもって、一番不思議なことを訊いた。
「どうして薬なんか塗るんだ、おれに……」
「これっぽっちで壊してやるのも癪だろ」
 男はそっけなく、つまらない質問だ、というふうに答えた。
「オマエ、一生ここで飼ってやってもいいよ。今まで裏切ったもの全部に泣いて謝りながら毎日犯されて、そんなのはどう? 一生掛けてさ、何十年も、何百年も、もう1000年も、ずーっとこうしてようか」
「…………」
「怖い? 俺が怖いか、オリジン様」
「……そんなに……おれが、憎いか」
「そりゃあ当然だぜ」
 男はくすくす笑っていた。
 何故そんな顔をして、楽しそうに嬉しそうにしているんだろう、この男は?
 リュウには解からなかった。
「殺しても殺しても殺しても殺しても、全然殺し足りないくらい、俺はオマエのことが……」
 男は、そこで言葉を引っ込めて、なにか誤魔化すようにまたにやにやとした。
「……まあ、そういうこと」
「…………そう、か……」
 リュウはうつ伏せたまま、僅かに頷いた。
「……おれは、どうすればいい?」
「ハア? どうしようもないよ。助けも来ない、おまえはずうっとこのまま」
「それで、本当に満足か」
「まあね。でもさあ、これだけ苛めてやったらさすがに気がつくと思ったけど、やっぱりあれを殺さなきゃ駄目みたいだね、リュウ」
 リュウは怪訝に思って顔を上げた。
 ごく自然に、その男は初めてリュウの名前を呼んだ。
 それは本当に不自然なところも何もなく、ずうっと昔からそこにあったかのような、懐かしい呼び掛けだった。
 何故だろう。
 その男はリュウの髪を掴んで頭を上げさせて、顔を突き合わせて言った。
「『ボッシュ』を殺すよ」
「な……なんだって?!」
 リュウはぎょっとした。
 一体、何を言い出すんだ!
「オマエ、また泣くだろう? ボッシュのためにさ。犯されてもそいつの名前しか呼ばないくらいだもんな」
「そんなこと……絶対、」
「ゆるさない、とでも?」
 男は、リュウの頭を乱暴にベッドに押し付けた。
「オマエに何ができるよ、お飾りオリジン。あいつは殺すよ。そんでオマエはこれから1000年ここで飼ってやる。自分がオリジンだったことなんかもう思い出せなくなるくらい、ずうっとひどくしてやるよ」
「ボッシュに手を出すな! 絶対そんなことさせない!」
「ウザイね、オリジン様」
 手を伸ばしてコートの裾を握って、引き止めたリュウを、その男は心底うざったそうに蹴り上げた。
 ベッドの上で仰向けにされ、胸をぎりぎりと踏み躙られた。
 肺が潰れるんじゃないかというくらい。
「この腕、邪魔」
 空いた手で男は無造作に抜剣して、鋭い剣先でリュウの肩を貫いた。
 リュウは悲鳴を上げた。
「……っあああ!!」
「ここでおとなしくしてろよ。すぐに終わる。どうせおまえが来たって、なんにもできやしないよ」
「あああっ、待っ、待て……ッ!!」
 リュウはベッドから転げ落ち、這いつくばるようにして男を引き止めようとしたが、照明が落ちて真っ暗になり、目の前でごうん、と大きな音がしてシェルターの扉が閉じた。
 闇の中で、リュウがひとりきりで残された。







◇◆◇◆◇






 不自由な身体で扉を開け、地上に出るまでに、思わぬ時間を食った。
 ロックはされていたが、リュウのオリジンのIDの前では何の役にも立たない。
 あの男はそこに気がつかなかったのだろうか?
 彼はなんだか、まるでリュウを昔みたいな1/8192のローディーとして蔑んでいるかのような、そんな感じだった。
 外は森の中だった。
 木々に遮られて、街はまだ見えない。
(いそがないと……)
 ボッシュに危険が迫っている。
 ボッシュが負けるはずない、とリュウは思ったが、あの男は危険だった。
 何がどう危険かと聞かれればすぐには答えられないが、それは圧倒的に大きなディクを見上げる時に感じる威圧感に似ていた。
 同じようなものを、リュウは昔感じたことがあった。
 確かバイオ公社の廃棄ディク処理施設で、初めてアジーンに出会った時のことだったように思う。
 踏み潰されるのを待つ小さな蟻のような気分。
 リュウはそれに不安と怖れを感じていた。
 ボッシュに知らせなくてはならない。
 あの『敵』ははっきりと危険だということ。
「……くっ!!」
 リュウは立ち上がろうとした。
 身体の中、破れそうなくらいに突かれていた奥の壁が軋んだ悲鳴をあげ、下腹を抑えてうずくまりかけたが、なんとか踏み止まった。
 肩には依然激痛があった。
 血が止めどなく零れる。
 適当に破れた服の布で止血して、リュウはほぼ這うようにして歩き始めた。
 痛みも汚れた身体への嫌悪も、そんなものは後回しでいい。
「ボッシュ……!」
 街は、まだ遠かった。






 そしてリュウは、あまりにまっすぐ前を見ていたせいで気がつけなかった。
 血の匂いを放ちながら弱った身体で歩いている生き物を見逃すほど、地上は優しくないのだということを。







◇◆◇◆◇





(どのくらい……歩いたかな)
 なにせ歩みの速度が遅い。
 あまり閉じ込められていたシェルターから離れていないのかもしれない。
 ふっと意識を失い掛けて、リュウは慌てて古木の幹に寄り掛かった。
「……っつ!」
 また激痛が戻ってきた。
 身体を開かれ、腹の中を抉られて、まだあの男の精液の残滓が、匂いが、身体中にこびりついていた。
 リュウはずるずるとそのまま座り込んでしまった。
 ボッシュ。
 ボッシュに知らせなきゃいけない。
 だがきっと彼はリュウを軽蔑するだろう。
 男に抱かれて、抵抗ひとつできなかったリュウ。
(……こんなところで、休んでる場合じゃない)
 リュウは朦朧とした意識を叱咤しながら、なおも足を前に進めようとした。
 だが、身体は前に進んでいかなかった。
 足が、動かない。
(……?)
 リュウはふっと視線を足元に落として、ぞっとした。
 ぶよぶよとして、表面に疣状の突起がある、そんな細長い蔓のようなものがリュウの足首を地面に縫いつけていた。
「……ディク?!」
 こんなところで、とリュウは焦燥を感じた。
 剣はない。
 身体もまともに動かない。
 ドラゴンの力もない。
 ボッシュはいない。
 そうしているうちにすごい力で引き寄せられて、リュウは仰向けにひっくり返された。
「うわ……!」
 がつ、と張り出していた木の根で頭を打って、顔を顰めた。
 細長いロープのようなものは、どんどんリュウを引き摺っていった。
 そしてリュウは見た。
 本体、突起の生えた肉の塊のようなものに、ぎょろっとした一つ目がついている。
 四肢のないサイクロプスを異様に太らせて、無数の触手を植え付けたような感じだった。
「くそっ」
 リュウは自由な足で、そいつを蹴り上げた。
 だが、ほとんど腰が抜けてしまっている状態で、ろくに力が入らない。
 ディクはなんでもない顔をして、触手を伸ばし、リュウを絡め取った。
「……う、」
 ぎりっと力が込められて、地面に引き倒され、木の根の上に押し付けられた。
「……っああ!」
 そしてそれはリュウの肩口に集まった。吸い付いた。
 さっきあの男の剣に貫かれたところだ。
 血はまだゆるやかに滲み出していて、ディクの触手はそれを啜っているようだった。
「ぐっ、う、ああああっ」
 リュウは必死に振り解こうとしたが、全く力が入らない。
 そうしているうちに、コートの裾から数本の触手が潜り込んできた。
 リュウは背筋をぞっとさせた。
 腿を這い、進んでくるその先にはなにがあるのか、リュウは理解はしていた。
 これは、血を啜るらしい。
 巨大な蛭のようなものなのだろうと見当がついた。
 そして、自分の身体のどこにどんな傷があるのか、リュウは良く知っていた。
 乱暴に貫かれ、突き上げられ、きっとそこは傷だらけになっていた。
「……う」
 リュウは顔を真っ青にして、その予感が当たっていたことを知った。
 さっきまで男のモノを咥え込んでいた場所に、慈悲なく、ディクの触手が侵入した。
「……っ!!」
 びくん、とリュウは跳ねた。
 気持ちが悪い。
 汚れるっていう問題なら、もう最悪のところまで行っているだろう。
 男に犯されて、今度はディクだ。
 腹の中で血を啜りながらのたくっている触手に、リュウは鳥肌を立てながら悲鳴を上げようとした。
「……! ……ッ!!」
 だが、声も出せない。
 発声できたからと言って誰が助けに来てくれるというわけでもない、ということを、リュウはもう知っていた。
 諦めていた。
 もう自分なんてどうにでもなってしまえばいいという狂暴に虚ろな感情が、リュウを支配していた。
「……くぅ、うっ、ふ……っ」
 触手の先はねばねばとしていて、その粘液が傷口を擦る度に、リュウはおかしな気分になっていくことに気がついた。
 痛みが、どんどん引いていくのだ。
 傷が治っていっているわけではない。
 なら、神経が麻痺しはじめているのだ。
 毒だろうか。
 だとしたら、これはリュウを動けなくしておいて、血を吸い付くそうとでも言うのだろうか。
 もっと簡単に、口を開けて食ってしまおうとでも言うのだろうか。
(ボッシュ……!)
 リュウはぎゅっと目を閉じた。
 もう誰も呼ぶことはできなかった。
 ボッシュはきっともうリュウを助けてくれない。
 ならこんな時、誰が、







「……!?」








 ひかりが、生まれた。







 真っ青の閃光がリュウの目の前を染めて、そしてこんなことが有り得るとするならば、そのディクを跡形もなく蒸発させて、消し飛ばしてしまった。
 リュウは呆然と光を見ていた。
 どこかで見た光だった。
 だが、それすらももうリュウには上手く考えることができなかった。
 頭の芯が痺れて、どんどん熱を持ってくるのだ。
 毒が回り始めたのかもしれない。
 ぼんやりとそう思って、リュウはせめて顔だけ上げた。







(……ああ、まずい……幻覚まで見えてきた……)








 リュウの目の前には、うっすらと透き通った真っ黒のドラゴンがいた。
 それを最後に、リュウの意識は途絶えた。










 
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