名前、誰が付けてくれたのだろう?
 たしかそれは数列だった。
 本体から分割されたもの、ひとりめ、ふたりめ、さんにん、よにん……彼らはみんな兄弟で、全員で殺し合うことを約束した。
 最後まで生き残って空を開いたものがち。
 ふたりめ、さんにんめ、よにんめ……殺して、開いて、空へ届いた。
 彼は勝ったのだ。
 彼は生き残ったのだ。勝利者だ。
 だが血の繋がった、遺伝子すら繋がった、もとはひとつの身体を構成していた兄弟たちがだれもいない世界は、その空はひどく冷たく、青く、そして寂しかった。
 ひとりぼっちで空を見上げた。
 青空の色は弟の翼の色。夕焼けの赤は自分の身体と同じ色。
 そんなことばかり考えていたのは、彼が正統なプログラムではなかったからだ。
 きっとそうだと彼は思った。
 何故なら、プログラムである彼には寂しいなどという感情があるはずがなかったからだ。







『……ごめん……』






 ある時、彼は深いところで声を聞いた。
 弱々しく震え、かすれた子供の声だった。
 彼は興味を持った。そばに誰かいるのか?
 耳を澄ますともっとはっきりと聞こえてきた。
 彼にとって、それはひどい痛みを伴った。
 リンク者か、と彼は思い当たった。
 繋がればその感情が共有される。
 どうやら彼と共に空を開いたその小さきヒトは、強大な彼の心臓を貫くほどの痛みを抱えていた。







『ボッシュ、ボッシュ、どこ? はやいよ、戻ってきて、背中が見えないよ』
『ずっと手を引いていて。でなきゃ、おれはどこに行けばいいのか、わかんないよ……』
『怒ってるの?』
『まずいよ、邪公が来るよ。こっちにいっぱい……』
『こんなに暗くちゃ、なんにもわかんない……なんで、手を離さないで』
『ボッシュ、ねえ、どこだよボッシュ。おれを見付けてよ。あとで怒ってもいい、殴ったって蹴ったっていい、だから手を繋いでいて。引っ張って歩いて』
『背中で守って、おれを安心させてよ、ボッシュ、いつもみたいに……』
『なんで答えてくれないの?』








『おれが殺したからきみは怒ってるの?』






 
 真っ暗がりだ。
 だが、暗闇に見えるそれは、時折うねうねと蛇のように蠢いた。
 真の闇ではない。血管の赤が透けて見えることがある。
(……こんな、澱みが……)
 ちいさきヒトの中に、かたちを持たない怪物が蠢いていた。
 彼は少し、新鮮な驚きを感じた。そして興味を持った。
 足元では小さな子供が座り込んで泣きじゃくっていた。
『ボッシュ、ボッシュ、ぼっしゅう、ぼっしゅ……どこお?』
 子供らしく顔を涙と鼻水とよだれでべたべたにして、小さな手のひらで顔を覆っていた。
『て、つないでよぉ……』
 ぐるぐると不定形にそのかたちは変わっていく。
 下層区らしい質素な服を纏った泥まみれの子供、それからサードレンジャーのジャケットを羽織った少年、オリジンのコートを纏った青年、だがどれも変わらない。
 誰も彼も嘆き、悲しみ、醜い痛みを傍観者の彼に突き刺してくれた。
(……我は、痛みを?)
 彼は自問した。
 リンク者の人間としての言葉の記録から、その感情に照合するものを抜き出してみると、それは「憐れみ」というものだった。
(憐れんでいる。友よ、我は、汝が憐れだ)
 彼にとって、それはあまり馴染みのないものだった。
 彼はリンク者、友人の前に立ち、その望みを覗き、理解し、叶えてやった。
 すなわち最も求めているものを、目の前に差し出してやった。
 彼の姿は変わっていった。
 ヒト、少年の体躯に、髪は金に、瞳は緑。これはどうも上手くいかないせいで、すぐに本来の血の色が透ける。
 彼は手を差し出してやった。
 子供は彼の姿に気がつくと、弾かれたように飛び付いて、ぎゅうっとしがみ付いてきた。
 強く強く腕を掴んで、泣きながら、だが嬉しさもないまぜにして笑いながら、彼に懇願した。
『ずうっと手を離さないで』








『ずっとそばにいて。おれは世界なんかいらない。空もいらない。空はあの子のものだから、おれには優しくない。なんにも、誰も何もいらない。だから、おれに……』








 友人はひどく切ない顔をして、彼に願った。









『おれに優しくして、ボッシュ……』








 誰かに必要とされたのは、彼にはそれが初めてのことだった。



 




◇◆◇◆◇







「グレイゴル!」
 ニーナの氷結魔法が、ドラゴンの脚を張り出した木の根と一緒くたに凍り付かせた。
 邪魔っけな顔をした黒いドラゴンに、リンが放った銃弾がめり込んだ。
 だが、すぐに弾き出されてばらばらと地面に零れた。
 『ボッシュ』はその隙に、タルナーダでもってそいつを思いきり殴り飛ばした。
 炎の爪が同種の男に食い込み、引っ掻いた。
「……なんでそんなに頑張るの? たかがヒト一匹じゃん」
『リュウは「たかが」なんてものじゃないんだよ、テメェにはわっかんねーだろうけどな!!』
 目を爛々と輝かせ、『ボッシュ』は吼えた。
『リュウは俺が好きなんだよ! 俺が守る、そしたら俺を必要とする! 優しくしろって、アイツは言った!』
「あいつが好きなのは、ボッシュだろうが。言ってたよ、めそめそ泣きながらボッシュ大好きってさ。おれの手を引いて、おれを守って、アイツが欲しいのはドラゴンのお情けなんかじゃないみたい。残念賞?」
『うるさいよ!』
 怒りと焦りとが、『ボッシュ』に浸蝕していた。
『ならオマエを殺しちゃえば、リュウは俺の中にずうっといる。俺が全部食ってやる。もう泣かない、もう寂しいなんて言わない。俺がオマエになっちゃって、ずうっとリュウの手を引いていくんだよ!』
 憎々しく『ボッシュ』はその男の名を呼んだ。
『だからオマエはもう死んでいいよ、ボッシュ=1/64!!』
 『ボッシュ』は叫んだ。
 あの子供は、レンジャーの少年は、オリジンの青年は、彼を必要としている。
 『ボッシュ』を。
 『アジーン』を。
 ドラゴンを。
 兄弟を皆殺しにして空へ届いた勝利者を。
 空の下でひとりぼっちになってしまった彼を。
 彼に憐れむことを教え、はじめて彼に笑いかけ、はじめて彼を必要とし、助けを求めてすがったあのリュウを、アジーンは『ボッシュ』として守ってやろうと決めたのだ。
 リュウは『ボッシュ』を愛していた。
 やさしい『ボッシュ』を。
 純粋な思慕。
 そこには何の打算もなく、守ってくれるという無心の信頼と、憧れと、愛情、慕情があった。
 そうしている間、『ボッシュ』はリュウのヒーローだった。







『ひとりに、しないで……』







 今となっては、彼にはわからない。
 それはリュウだけの声だったろうか?
 もしかしたら、ほんとうは、








『リュウ、俺を必要としてよ。おれ、は、ひとりぼっち、なんだよ……』







 チェトレもドヴァーも他の兄弟もみんなもうどこにもいない。
 アジーンは唯一の1/1のドラゴンになった。
 それはほんとうに、ドラゴンは世界に彼ひとりきりしかいないということを、D値という人間が決めた数字で示していた。
 数値、数列、彼の名前と同じもの。
『リュウ、手を繋いだままでいて……!!』
 くるおしいほど強く、切なく。彼は切望した。
 今となっては彼を必要とするのはリュウだけだった。
 リュウはアジーンにヒトの手のひらの温かさを教えた。
 融合し、リュウのアルターエゴというかたちで世界に定着するようになって、彼の望みを叶えた。
 リュウは繋いだ手にひどく幸せそうに笑った。
 それは『ボッシュ』に、アジーンだけに向けられた笑顔だった。
 胸が熱くなった。
 リュウ、いとおしい、優しいリュウ。
 彼は世界よりも空よりも、『ボッシュ』を、アジーンを選んだ。
 アジーンにとって、もう世界はリュウだけでいっぱいだった。
 奪うものはヒトにとってのディクと同じ感触だろう。
 排除すべき生き物である。
 だから目の前の本当のボッシュも、彼の兄弟のチェトレも、いなくなってしまえばいい。
 そうすればまたリュウはアジーンに微笑み、アジーンを愛する。
 兄弟すべて失ったアジーンをひとりぼっちにしない。
 その矛盾なんて、もう彼にはどうでも良かった。
『終わりだチェトレ!』
 アジーンの腕から赤い閃光が放たれた。















 
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