はじまりのほうは良く理解できなかった。
 小さな子供が蟻の巣に水を流し込むような、無邪気で簡単で単純な破壊、殺戮があった。
 それはあまりリアルなものではなかった。
 空が赤く燃えて、夕焼けとは違う、焦げ付いた色に染まり、やがて煤けた。
 地上は黒い靄で覆われていた。
 地を這う蟻たちはそれに触れると、ばたばたと死んでいくか、それとも変質した。
 理性も意思もなくなって、身体を膨らませ、あるものは鱗がびっしりと生え、あるものは硬質の殻を持った虫のようになり、それは変わる前同じ種類だった人間を捕食しはじめた。
 瘴気があまねく地上に満ちていた。
 リュウは加害者だった。
 瘴気を吐き出して全てを焼き付くし、その目は世界の果てまでどこまでも続く燃え盛る炎を映していた。
(……これが、おれたちのはじまりか)
 そう、ぼんやり聞いた。
 あまり現実感はなかったが、今まで同じだったものに足の先からもう腹まで貪り食われているヒトの苦悶と絶望の表情を見ると、ああ、これほんとうのことなんだ、とぼんやり思った。
 いつものように憐れみやそんな感情もなかった。
 リュウはリンクしていた。感情も身体も意識もすべて共有していた。
 原初の1/1。これがきっと、オリジンのドラゴン。
 蟻たちは巨大な巣穴を掘り、逃げ込んで、土で蓋をした。
 掘り返してすべて殺してしまうべきか?
 彼は悩んだ。
 だが、彼は見た。
 小さき蟻にも等しい人間が、それは限られたものたちだったが、我が子を、友人を、つがいを守り、背中に隠し、巨大で強大な彼に向かってまっすぐ立っていた。
 彼ははじめてヒトに憐れみを覚えた。
 どちらが本当のことなのだろう。
 地を汚し、空を穢した裁くべきヒトか、それとも慈愛と友愛でもって彼にすら立ちはだかろうとする愛すべきちっぽけなヒトか。
 彼にはまだ判断がつかなかった。








 ならば判定しよう。







 100年、1000年、その先どれだけ掛けても、ヒトが空を手にする存在か、その資格があるかを、判定しよう。
 彼は身体を分かち、彼らの子供を地に溶かした。
 ヒトがその時、呼べば応えよう。
 そして決めよう、滅ぶべきか、生きるべきか、この空へ届く資格があるか。
 たとえ何千年、何万年掛けても、子供たち、ヒトを見届け、そして死すべき時を見付けるがいい。
 世界は閉じられた。
 生き残った人間たちは、地下世界でおどおどと暮らし始めた。
 1000年前のこと。










◇◆◇◆◇










 その男は相応の身分と、相応の野心を持って生まれた。
 父親は世界を統べる統治者のひとりだった。
 だが彼にやさしくなかった。








『とうさま、できました』









 ただ、上手く訓練用の模造剣を振るうことができた時だけ、誉めてくれた。
 よくやった、ボッシュ。一言だけだ。
 そのうち彼の父は、うまく敵を殺すことができた時だけ誉めてくれるようになった。








『とうさま、倒しました。みんな、殺しました』







 よくやった、ボッシュ。
 父は誉めてくれた。
 それはそっけないものだったが、父に認められると彼はほっと安堵するのだった。
 彼はいつだって父の背中を追い掛けてきた。









『とうさま、まって、まって、まって、とうさま……』









 走って走って、だがそれでも父の背中はいつだって遠かった。
 ある時、彼が転んだ時も、父は振り向いてさえくれなかった。
『とうさまあ!』
 膝を折って、父を呼んで、そうしている間に身体の横をすりぬけて、ひとりの彼と同じ少年が先へ歩いていった。
 背中には、見慣れない下層区のロゴがあった。
 馴染まないのは当然だ、彼はその少年の背中など見た覚えはない。
 それは彼の背中にいつもくっついてくるべきものだった。
『リュウ、先にいくなんて、ずるい!』
 彼は叫んだが、その少年は気がついた様子もない。
 どんどん歩いていった。
 やがて父の背中の代わりに、その青いジャケットのロゴが目の前にあった。
 彼は手を伸ばして、引っ掴んで、後ろにやろうとした。
 だがその手は届かない。
 また、ひどく遠い。
『ずるい、ずるい! 俺のほうがすごいんだ! おまえなんかに、おまえみたいなやつが、ずるい! こんなのはだめなんだ!』
 必死で追い掛けて、彼はまた転んだ。
 少年は、父とは少し違った。
 振り向いて、困ったふうに眉を下げ、手を差し伸べて、言ったのだ。








「だいじょうぶ? ボッシュ」








 それは屈辱だったが、ひどく温かいもので、彼を困惑させた。
 誰かに手を差し伸べられたことなんて、生まれてから一度も、彼にはなかった。







「行こうね」






 彼が立ち上がると、少年は彼の手を引いて歩き出そうとした。
 彼は慌てて、ばっと手を振り払った。
 少年は払われた手をちょっと困ったように見つめ、悲しそうにふわっと笑うと、また歩き出した。
『あ……まてよ、まてよ、まてよ、リュウ!』
 彼はまた走って、走って、追い掛けた。
 手を振り払わなければ良かった。
 彼は後悔したが、その少年の背中はまた遠くへ行ってしまった。
 いつのまにか少年は青年の姿に、レンジャーのジャケットは地上世界判定者オリジン・メンバーのコートへ変わっていた。
 本当に、手が届かないくらい、遠くへ。
『まてよ、リュウ――――!!』
 叫んだが、声は遠過ぎた。聞こえない。







 彼は地上を生き延びた。
 濾過されていない水を啜り、食えるものは何でも食った。
 何度か毒性のあるものにもあたった。
 地上は危険な生き物で溢れていたが、それは彼の敵ではなかった。
 彼はもう人間ではなかった。
 最強の生物ドラゴンと融合し、共存していた。
 たったひとつの目的のために。
「リュウ……」
 彼は憎んでいた。
 そして同時に、ひどくいとおしくもあった。
 時折嵐のような強い感情が、彼を襲った。
 それは嫉妬であったり、殺意であったり、なけなしの憎悪であったり、愛であったり、食欲であり、性欲だった。
 これは彼だけの感情なのか、正直判断がつかなかった。
 こんな強く彼の中に感情なんてものがあるとは、彼には信じられなかった。
 そのくらい、不自然に巨大な執着であった。
 判定者、オリジン、リュウ=1/4を判定するために、彼の中のドラゴンがそう仕向けているのでは、と思うことすらあった。
 時折街へふらっと出かけることがあった。
 街で、リュウの姿を見掛けることがあった。
 オリジンのくせに何やってんだあのバカ、と彼は思ったが、リュウはそんなことはお構いなしだった。
 プラントで収穫を手伝い、技師の使う鉄骨を運んだり、子供と遊び回っていたり、そんなことばかりしていた。
 そして決まって誰か上の方の奴に見つかって、怒られ、連れ戻されるのだった。
 リュウは幸せそうに笑っていた。
 生きていることが、そしてその街にいることが嬉しくて仕方ない、といったような。
 その顔を見ると、彼の憎悪は膨らんだ。殺意が頭をもたげた。
 リュウは、もう彼のことなど忘れてしまっているように見えた。
 彼の胸に、ひどい焦燥と寂しさが生まれた。
 それが何故なのか、彼にはわからなかった。








 竜の気配を感じた。
 ある夜のことだ。
 化け物みたいな、瘴気がかたちを成したディクがそこここに群れている夜だった。
 彼はリュウが泣いているのを見た。
 驚いたことに、昔の自分と寸分違わない姿をしたものがいた。
 リュウはそれを追い掛けて追い掛けて、走って、転んで泥塗れになった。
 手は届かなかった。
 リュウは子供みたいに泣きじゃくっていた。







「ボッシュ、ボッシュ、待って、置いてかないで……」







 そこには街を愛し、統べるオリジンの姿はなかった。
 笑顔もなかった。
 幸福も、あるのはただ子供っぽい絶望だけだった。
 彼は、そうして知った。


 





 リュウはずうっと泣いていた。









 その時彼が感じた感情、それはあのドラゴンが初めてヒトに抱いた憐れみに似ていた。










◇◆◇◆◇







 それからも目の前の情景はくるくる変わった。
 アジーンのこと、チェトレ再起動のさま、それらに彼らの周りのヒトの感情も上乗せして、続いた。
 最後になると、『リュウ』の姿をしたチェトレが言った。
『さあ判定を、判定者。きみが選んだことを、おれは判定する』
『エラソーなこと言うなよ、負け犬』
『犬って言わないでよー、ちょっと気にしてるんだから』
 彼らの姿は、もう『リュウ』と『ボッシュ』ではなくなりはじめていた。
 その身体は闇を混じらせはじめていた。
「……ずうっと、おれの望みを叶えてくれてたの、アジーン」
『ん……まあ、そーいうこと』
 『ボッシュ』が、少しばつが悪そうに頷いた。
「それが、おれの世界?」
『オマエに優しい世界だよ。おまえはサードレンジャーで、ずっとボッシュに愛されてる。それを俺は許してやる。オマエがたったひとつだけ願ったことだ。初めてのワガママだ。そのくらい聞いてやらなきゃ、相棒なんて言えないだろ?』
「アジーン……」
 リュウは眉を下げて、微笑んだ。
 そして、ごめんね、と言った。
「おれは……きみを捻じ曲げてまで、そんなことを、願っていたんだ」
『好きなんだろう?』
「……うん」
 リュウは顔を上げて、彼らに言った。
「もう戻ろう」
『判定するの?』
 『リュウ』が首を傾げた。
 リュウはにっこりと頷いた。
 そして首を振って言った。
『そんな大層なものじゃないよ。選ぶだけだ』

 

















 
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