視界が戻った。
 そこは夜の森の中だった。
 ニーナが心配そうにリュウを見ている。
 彼女を守るように、リンが背中に隠している。
 ジェズイットが、どうしたもんかね、という顔をして、クローで肩を退屈そうに叩いている。
 ニ匹のドラゴンは静かに目を閉じていた。
 そして、ボッシュがじっとリュウを見つめている。
 リュウはそして、はじめてまっすぐに、本当のボッシュを見た。
 少しやはりリュウより背が高くなって、彼のドラゴンと同じ闇色のコートを纏っている。
 金の綺麗な髪は、記憶の中よりも大分伸びて、首の後ろでひとつに括っていた。
 いつも掛けていた遮光グラスは、今はなかった。
 おかげで、彼の目を直に見ることができた。
 グレーがかった、薄い緑の綺麗な目。そのものがぎらぎらと鋭く輝いている。
 リュウは薄く口を開けた。
 何を言うべきか迷った。
 ただ言いたいことは沢山あったはずなのに、本当になんでもないことしか思い浮かばない。
「ボッシュ……きみ、だね」
「……久し振り、相棒」
「おれを、殺しにきたんだね……」
 リュウは微笑んだ。
 いつもの困った笑みだ。どうしようかなあ、というような。
「……何を言えば良いのかわかんないや」
「…………」
「謝ることしか思い浮かばないなんて、ほんとは、ちゃんとずっときみに言いたいこともいっぱいあったはずなんだけど、ボッシュ。……会えてうれしい」
 リュウは、静かに言った。
「きみが生きててよかった」
「なんだよ、オマエが殺したくせに」
 うん、とリュウは頷いた。
「……ずうっと今まで、憎み続けてたんだろう? チェトレが教えてくれた。これから1000年おれを憎むって言ったよね」
「そういうこと」
「……そう」
 リュウは俯いて、おれを憎んで、と言った。
「おれはそれでも、嬉しいのかもしれない。好きなのかもしれない。きみがなんでもいいからおれを見ててくれたことが。……おれはただ、ほんとは、もう……きみがおれの手を引いてなんて、くれないって、わかったことが、すごく、……寂しい」
 苦しい喉から言葉を絞り出して、リュウはボッシュを見た。
 ボッシュは静かにリュウを見返してきていた。
 彼はそんなにリュウを憎んでいるというのに、この目はなんだろう?
 彼に向けられるなら、それが激しい感情なら、もうリュウには何だって同じだった。
 憎しみも憤りも怒りも嫉妬も、愛さえも。
 すべてがリュウを満たし、それはとても嬉しいことだった。
 この憐れみの目さえもそうだった。
 リュウはその一瞥だけで満足だった。
 リュウには、過ぎた幸せだ。
 ボッシュの目に、姿を映せることが。
 これはリュウが思い描いた夢の中の『ボッシュ』じゃない。
 ボッシュがおれを見てくれている、そう思うだけで、リュウは胸がひどく熱いのだった。
 これが最後に与えられるなんて、とリュウは思った。
 おれはほんとに幸せものだ。そう、思った。
「アジーン、もういいよ」
『…………』
「おれのためなんかに、そんなふうにもう、自分を捻じ曲げないでよ。元の姿に。だいじょうぶ、」
 リュウはアジーンに、にっこりと微笑んだ。
「おれはきみをひとりにしない」
『……! リュウ?』
 アジーンは、驚いた顔をしてリュウを呼んだ。
 リュウは彼に、ありがとう、と言った。
「おれのワガママに付き合ってくれて。さみし、かったね。おれも寂しかったんだと、思う。ボッシュが好きだ。ボッシュは、でもおれを許してくれないと思う。1000年、憎み続けてくれるって、そう言ってる……」
 リュウは悲しげに、頭を振った。
「空はこんなに綺麗なのに」
 リュウは夜空を見上げた。
 夜空には無数の星が瞬いていた。
「どこまでも行きたいって、そう思うだけでほんとにどこまでも行けるのに。世界にはまだ綺麗なものがいっぱいあるのに。おれは死に損なったせいで、ニーナを縛り付けた。今度は、ボッシュも。おれがいたら、みんなどこにも行けないんだ」
 リュウは、また笑った。
 どうしようね、という感じ。
「ボッシュ、世界はきっと、すごく綺麗だ。きみは1000年おれを憎んで生きてくれるって言った。おれのことなんか、いつだってどうでもいいって言ってたきみが……ねえボッシュ。でも空は、世界はたぶん、きみを待ってた。おれよりきっとずっと、きみを待ってたんだ」
 アジーンの姿が、闇に溶けだした。
 金の髪は夜色に染まり、その姿は変わった。
 そこには、リュウの姿があった。
 頭のてっぺんで長い髪をひとつに纏め、今のリュウより少し幼い目をして、不安そうにリュウを見上げた。
 リュウはアジーンに、だいじょうぶだよ、と言って、安心させるように微笑んだ。
「だからいっしょに行こう、アジーン。人間にもう竜のちからは必要ない。ボッシュに、おれが必要じゃないみたいに。みんなあがいて、あがいて、一生懸命生きてる。おれはそれを見てきた、この二年で、ずうっと。竜なんていなくてもヒトは笑える。おれがいなくなったら、きっとボッシュは笑えると思う。二本の足で立って歩ける。ニーナも、ちゃんと歩けるようになる。間違いはある。でもきっとそれを正そうとするものもいる。きみたちが父さんから受け継いだ仕事は、もう終わるんだ」
『……死すべき時を、見付けた?』
「うん。ねえ、手を繋いで行こうよ」
『て、を?』
「そうすれば、もう怖いものなんてなんにもないよ。ボッシュがおれに教えてくれた。おれたち、友達だろ?」
『友達……相棒?』
 アジーンの身体は赤い光へと変わりはじめた。
 リュウは世界の全てを目に焼き付けようとするように、静かにそれらを眺めた。
 なにもかもがいとおしかった。
――――もう、さよならだね」
 それらはリュウを愛さない世界だったが、リュウはたしかに、彼らを愛していたのだ。










「さよなら、ニーナ」








 ニーナは顔を真っ青にしていた。
 ちがうの、わたしはそんなんじゃなかったの、リュウに縛られてるなんて、ぜんぜん。
 彼女の唇は、そう言いたげに震えていた。
 リュウは、にっこりとニーナに微笑み掛けた。
 やさしい、ニーナ。これで、自由になれる。








「さよならリン、ジェズイット」









 アジーンの身体は溶けて闇に消えてしまった。
 そして、リュウの手のひらに赤い光の粒が集まり、一振りの剣が生まれた。
 ドラゴンブレード。竜の欠片。アジーンそのもの。
 リュウはその剣を手に、この赤い輝きの中でもはっきり見えるボッシュに、ふうっと微笑み掛けた。
 ――――もういい。憎まなくていいんだ、ボッシュ。
 死者への憎しみはすぐに風化する。
 ならそれでいい。
 ボッシュに空を、それがリュウの望みだ。それだけだ。
 1000年間憎んで、憎んで――――愛してもらおうなどと、リュウだけを見ていてもらおうなどと、それはひどく傲慢だった。
 そんなものは、リュウの我侭だ。
 ボッシュは、そんなつまらないものに執着するべきひとじゃない。










「……さよなら、ボッ、シュ……」










 ボッシュが手を差し伸べてくれたのが、見えたような気がした。
 幻覚だ。リュウは思った。
 それがほんとのことだったとして、ボッシュを縛るわけにはいかない。
 彼の執着のほんとうのところは、あまり考えると苦しくなってしまうけれど、おそらくチェトレの精神操作にすぎないのだろう。
 リュウがはじめに成長した彼を見てもなんにも感じなかったのと同じように、判定するべきものへの異常な執着を植え付けられた。
 判定するべきアジーンがいなくなれば、きっとプログラムを完了したチェトレも終了する。
 ボッシュは本当の空を見る。
 ニーナも解き放たれる。
 人類は、完全なオリジンを手に入れる。
 もう竜の脅威もない、穏やかな人間だけの空だ。
 それは素晴らしい考えのように思えた。
 この胸の痛みも、寂しさも、忘れられたくないと泣き叫ぶ気持ちも、手を引いて歩いてと懇願する小さな子供も、尽きることのない、純粋な、いとおしさも。
 それはリュウひとりのものだ。
 抱えて持って行ってしまえば、それで済むものだ。
「ほんとは……きみに、殺されたかったけど」
 二年間、どれだけ幸せな夢を見たろう?
 それで十分だ。
 本物は手に入らなかった。
 それでいい。
 そんなものが、本当にリュウのものになるわけがない。
 ひどく胸が痛み、苦しく、呼吸もできず、切なかった。
 最後まで笑っていようと思ったのに、涙があとからあとから零れてきた。
 リュウは無理に微笑んでみせた。
「きみのお父さん、ちゃんと謝ってくるよ。もう一回殺してもらってくる」
 ボッシュ、彼がうまくリュウを忘れてしまうことができればいいのに。
 でもほんとは、かなうなら忘れないで、1000年ずっと憎み続けてくれればいいのに。
(……だめだったら)
 でも大丈夫だろう、きっとオリジンとしての日々は、ボッシュからちっぽけなリュウのことなど、すぐに消し去ってくれるだろう。記憶から。
 リュウ、誰それなんて、ハア?みたいな顔をして言っているボッシュが思い浮かんだ。
 忘れないで。
 リュウは叫びたかった。
 おれを見て、おれを見付けて。
 そう叫びたかった。
 必死でその叫びを飲み込んで、リュウはぽつりと、最後に言った。
 これで、最後にしよう。
 リュウは、自分が結構意地汚いことを知っていた。









「……おれ、好きなんだ。ボッシュ、ほんとにほんとに、きみのことが、好きだった」










「おれ、きみに見せられるような人間じゃないのに、ずうっとおれを見付けてほしかった」









「ほかになんにもいらなかった」








「ずっと手を引いていてほしかった」

 





「てを、はなさないで……」







 もう、終わらせたほうがいい。
 これ以上は、ほんとうに、駄目だ。
 リュウは、そのドラゴンに宣言した。彼が選んだ判定を。









「……チェトレ、おれは判定する。ヒトは自分の足で歩いていく。この世界には、もう竜は必要ない!」










 リュウは逆手に持ったドラゴンブレードで、勢い良く自らの喉を貫いた。
 後悔はなかった。
 迷うことなく、刃はリュウの喉の柔らかい皮膚を破った。突き抜けた。
 痛みはなかった。
 血も零れなかった。
 ただ赤い光がリュウそのものの奥深いところにある、魂と呼んでも構わないものに混じり、溶けた。
 心臓が停止した。
 光が、一層強く輝いた。
 自分がなくなっていく過程で、最後にリュウは見た。







 ――――ボッシュがその腕で、崩れ落ちたリュウの身体を、抱き止めてくれた。









(……ああ、ほんとに、さいごまで……)










 リュウはにこりと、精一杯に笑った。
 うまく笑えたかどうかは知らない。
 最期にボッシュの顔を見たくてリュウは顔を上げたが、もう目の前が真っ赤で、うまくなにも見えなかった。
 ただその腕の感触があって、それはリュウにひどい安堵を与えてくれた。











(おれは、なんてしあわせなんだろうなあ、ボッシュ……)










 リュウとアジーンが溶け合い、混ざった光がいっぱいに強くなって、赤い光が森を、夜を覆い、そうして――――





















 
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