なけなしの荷物を詰め込んだぼろぼろのショルダーバッグを抱えて、彼女は上を見上げた。
 最下層区にはほとんど光が届かない。いつも真っ暗だ。
 四六時中薄暗く、それが何百年も続いていて、おかげで全ての最下層区民に良くあるように、彼女の目は悪かった。
 これが退化しているということなのかもしれない。
 そのかわり、耳は良かった。鼻も良くきくほう。
 ディクのようだ、そう巡回で訪れたここより上の階層のレンジャーには言われた。
 すりきれた衣服を引き摺り、裸足で、彼女はそれを見上げ、眼を細めた。
(……まぶしいなあ……)
 今まで見たことがないくらい、明るい白い光が、闇の中で晧々と輝いていた。
 そこはこれから彼女の『仕事場』になる、バイオ公社といった。





 日払いで、その仕事は最下層のどんな仕事よりも割が良かった。
 1日働くだけで、見たこともない金額の給料が入った。
 最下層区民の中で、その仕事は一種のステータスになっていた。
 金を貯めて下層区に行くんだ、と友達は言っていた。
 受け付けにはすごい列ができていた。
 そこには、小さな子供が一番多かった。D値を診断されなかった者たちだ。
 続いて彼女と同じような年齢の女、赤ん坊を抱えた母親までいる。
 彼らは自ら志願して、バイオ公社の被検体になるのだ。
 今、明日配給を受けられず、飢えて死ぬ生活よりも、少々危険でもこうやって一度実験被検者の仕事を受ければ、少なくとも大分長い間食い繋げた。
 バイオ公社で、まず彼女がほかの最下層区民たちといっしょくたに回されたのは、白い部屋の中だった。
 そこで殺菌、消毒をされ、ようやくラボの中に入れるようになる。
 それからばらばらに振分けられ、ナンバーを与えられる。
 ナンバー=×××、作業員の手で、認識票が彼女の首に掛けられた。
 みっつの桁の数字だった。
 だが彼女は文字も数字も読めなかったので、良く解からなかった。
 最下層区の民は元より教育なんて上等なものを受けられなかったから、それが普通だった。
 少なくとも、そのことを彼女もラボの人間も問題にすることはなかった。






 子供が多い理由は簡単だった、彼らは利用価値が高く、どんな実験にも使える。
 成長しきった大人の男などは、薬品の飲用実験やブースト実験などに回された。
 そして彼女らのような女は、子供を産めるという特性で買われたようなものだった。
 大体が、ディクとの交配実験に使われた。
 元々は人間の遺伝子を組み込まれて製造されているディクである。交われば孕んだ。
 生まれた子供は取り上げられ、どこかへ連れていかれた。どこに行くのか、誰も知らない。
 少なくとも妊娠し、出産するまでは、バイオ公社によって生活は保証された。
 それが最下層の女の普通だった。
 嫌悪はあったが、生きていくためだ。仕方がない。
 彼女は汚れた染みのできた床に座って、順番を待っていた。
 部屋の真中のガラスケースの中では、一緒にここまで来た友達の少女が薬を打たれ、ディクとまぐわっている最中だった。
 嬌声を上げて、後ろから突かれている。
 それを見ながら、彼女はちょっと顔を顰めた。
 彼女はまだ処女だった。
 この仕事を選んだのは、彼女にとってみっつの選択しかなかったからだ。
 男を取って売春婦として金を稼ぐか、バイオ公社で実験動物になるか、死ぬか、みっつだ。
 どうやら選択は最悪だったらしい。
 このまま舌を噛んで死んでやろうかしら、と彼女はぼんやり思った。
 少なくとも、そうすればこういうかたちで穢れることはない。
 だが彼女は自分がそうしないことを知っていた。
 彼女は自分が生き汚く、生きるためなら何だってするだろう、と知っていた。
 そして目の前で、ことが終わった。
 ぐったりしている友達は、まだ熱の篭った溜息をつきながら、ディクの腰に脚を巻きつけていた。
 やがて引き剥がされ、白い服を着た人たちに、どこかへ連れられていった。
 彼女がその友達に会うことは、もう二度となかった。
 彼女の番が来た。
 ガラスケースの中のディクは片付けられ、新しいディクが補充された。
 彼女のナンバーが呼ばれ、背中を押された。
 ふらふらとケースの入口に歩いていったところで、彼女はぐっと手を引かれた。
 顔を上げると、公社員の男がいた。
「No=×××、君はこっちだ。次の者、ケースに」
 そのまま手を引かれて、彼女は部屋を連れ出された。






 乱暴にソファに押し付けられて、彼女は小さな悲鳴をあげた。
 さっき、彼女の手を引いて部屋から連れ出した男がのしかかってきた。
 彼女は首を振り、押し退けようとした。
 だが、その男は全く取り合わなかった。
「……その顔、青い髪も、ローディーにしては綺麗だ。ディクにくれてやるにしては、勿体無いと思ったんだ。光栄に思いたまえ、私はここの副主任だよ」
 彼女は更に首を振った。
 男は、不快そうに顔を顰めた。
「抵抗する気かね。ディクがいいと?」
 こんなこと、きたない、と彼女は言った。
 男は機嫌を損ねたようで、彼女の頬を張った。
「……ローディーの分際で、なにを言っているんだ。言う事を聞いてくれないと、私も少し手荒なことをしなきゃならん。薬は好きかね」
 腕に注射針が突き付けられ、彼女は目をぎゅうっと瞑って震えた。
 ああ、どっちにしてもひどい、と彼女は思った。
 こんなことなら、キレイにのたれ死ねれば良かった。
 針の先が、彼女の皮膚に潜ってきた。






――――何をしているんだ!」






 急に怒鳴り声、それから舌打ち。これは上に乗っかっている男のものだ。
 彼女は緩慢に顔を上げた。
 ドアを開けた入口、そこにはもうひとりラボの白い服を着た男がいた。
 その顔は、怒っているようだった。
「副主任、君は彼女になにをしているんだ」
「いえ、何にもしちゃいませんよ」
 着衣の乱れを直して、『副主任』が言った。
「ただ、ディクにはもったいないと思いましてね」
「……あの実験か」
「仕事の続きがあるので、もう行きます。この女のことは、まあ少々勿体無いが……知ったこっちゃない」
「……副主任!」
「では、これで」
 しゅん、とドアの開く音、『副主任』の姿が消え、あとには彼女を助けてくれたらしい男が残った。
「……大丈夫かい」
 彼は肩を竦めて溜息をつき、それから顔を上げ、彼女に手を差し出してくれた。
 びくっと身体を竦めた彼女を見て、その男は少し戸惑ったようだった。
 だが、すぐにしゃがみ込んで彼女と同じ位置に目線を合わせ、困ったように微笑んだ。
「もう心配いらない」
 彼女はおずおずと顔を上げ、聞いた。
 あなたは、優しい人なのか。
 彼は困った顔で笑ったまま、首を揺らした。否定の仕草だ。
「僕は、優しいわけじゃない。ひどいことをするのが仕事だから、せめて人には親切にすることに決めているんだ」
 それを聞いて、彼女は彼の手を取った。
 少なくとも、この人は嘘吐きではないと思ったのだ。
 いい人なのか悪い人なのか、それはまだ知れなかったが。






◇◆◇◆◇






「仕事辞めたいって?」
 はあ、と姉が溜息を吐いた。
「うん……」
「だからあんたにゃ似会わないってあれほど言ったんだ……ラボのどっかで主任やってるんだっけ、今?」
「まあ……姉さん、そう言えばまた昇進したんだってね。そのうちメンバーにでもなるんじゃないか」
「よしとくれ。それにしても、あんた会う度そんなこと言ってるね。まあ、辞めても小間使いくらいなら、うちの隊で雇ってやるよ」
「はは、ありがとう。なんだかね、なんとかもうちょっとましな環境にしてやろうと意気込んでたんだけど、僕が変えられるところなんてほとんどないんだよ」
「いっそのことあんたがメンバー目指せばいいんじゃないのかい?」
「僕には無理だよ。腕のほうはからっきしで」
「確かに、へタレだもんねえ……」
「そう言えば姉さんとこ、あの子は元気かい?」
「ああ……うちの娘なら、ビシビシしごいてやってるよ。筋がいいね、親馬鹿じゃないけどさ。まああんたよりはもう強いよ」
「はは、怖いな。あ、聞いたよ。またこっちに来るんだって?」
「ああ、それ。反政府組織の動きが最近活発で、何かやってるんだろ、またあんたんとこのラボ。下層に呼び出し食らってばっかり。いっそのこと来年にでも、下層区に引っ越そうかって話が出てるんだよ。娘もそろそろレンジャー試験受けたいって言うし」
「ううん、空気は、悪いよ……」
「だろうねえ。身体には気をつけなよ」
「うん、わかった。じゃあまた連絡するよ、ディース姉さん」
「あいよ」
 回線を、切った。







◇◆◇◆◇






 その人は「シュニン」と呼ばれていた。
 偉い人なのだそうだ。
 真っ黒な髪と、青みがかった緑色の目をしていて、とても落ち付いて見えた。
 バイオ公社員で、D値は1/256らしい。
 彼女のD値、1/32768よりも、100倍以上すごかった。(これは彼女が計算したわけではなく、他の公社員から聞いたことだ)
 だからまだ若いのに(彼女よりも、5つくらい年上に見えた)ラボで偉い人をやっていられるらしい。
 彼はとても親切だった。
 優しくない、と自分で言ってはいるが、本当にとても優しい人だと思う。
 なにより、人に親切にされたことが、彼女は今まで一度もなかった。
 ずうっとローディーだと馬鹿にされ続け、唾を吐き掛けられて生きてきた彼女にとって、それは初めての経験だった。






「やあ君、おはよう」
 「シュニン」は彼女のことを「キミ」と呼んだ。
 それは彼女の名前ではなかったが、「シュニン」は彼女を公社ナンバーで呼ぶことはなかった。
 それは彼女にとって、彼という人を他の公社員とはっきりと区別することがらだった。
 彼女はバイオ公社に飼われていた。
 なにか理由があるそうなのだが、彼女は良く知らない。
 道具はなにも知らなくていい、それが公社のルールなんだそうだ。
 一度「シュニン」に聞いたことがあったが、彼はひどく悲しそうな顔をしたので、それから聞いていない。
 あの怖い「フクシュニン」と一緒に顔を突き合わせて、彼女のことを話していることもあったが、その内容は難しすぎて、彼女にはうまく理解できなかった。
 今もそう、目の前で、






「適格者の方は上が必死に説得してます。彼女の容姿なら、まず問題はない。ただローディーだが……これは愛玩動物の一種だと割り切ってもらえばよろしいだろう。D検体と交配すればその子供にもドラゴンの力は宿るのか? これは、ラボが総力を上げてとりかかるべき、素晴らしい実験です」
「……これが? こんなものが、そうだっていうのか。彼女はどうなるんだ」
「彼女にとっても、素晴らしいことであるはずです。一介の最下層区民が、ドラゴンの血を受けることができるんですよ」
「…………」







 彼女には、良くわからない。
 あまり頭が良くないのだ。







◇◆◇◆◇









 怯えて身体を縮こまらせている彼女に、「シュニン」は安心させるように微笑んで、だいじょうぶ、と言った。
「もう死んでるよ。噛みつかない。……ほんとは、僕もはじめて見た時は、びっくりしたんだけどね……」
 彼らの目の前には、見た事もないくらいに大きなディクの死骸があった。
 千切れた胴体から、はらわたと脊椎が食み出している。
 ここは廃棄ディク処理場である。
 据えた死肉の腐臭が、室内に充満していた。
 「シュニン」は、女の子に見せるものじゃなかったかな、とばつが悪そうな顔をした。
「これは「竜」というんだよ。1000年前に世界を閉じたのは、こいつらだって言われてる。でもその前はどうやら、ヒトと共存していたという説もあるんだ……そんなに昔のことなんてだあれもわからないけど、僕はその話がとても好きなんだ」
 「シュニン」は照れくさそうに笑って言った。
「いろいろ、凹んだ時には、良くここに来るんだけど……君、ごめん、変なものを見せた。上がろうか」
 彼女はおそるおそる、「竜」を見上げた。
 首をせいいっぱいに上げても、まだ頭のほうが見えない。ずうっと上にある。
 赤い鱗に覆われた表皮はまだ、生きているように鮮やかに張っていた。
 彼女は、魅入られたようにそれを見上げていた。
「君?」
 彼女はゆるゆると首を振った。
 そして「シュニン」を見上げた。
 彼は背が高いので、こうして少し見上げるようにしなければ、きちんと顔が見えないのだ。
「……おはなしを、きかせてください。「シュニン」が好きなはなしを」
「い、いいのかい? ここ、死んだディクの臭いで空気は悪いし、女の子が見て面白いものじゃないだろう」
「いいんです」
 ふうっと、彼女は微笑んだ。
「あなたの好きなもののことを、わたしは知りたい」
「…………」
 「シュニン」はちょっとびっくりした顔をしていたが、すぐにちょっと嬉しそうな顔をした。
 彼という人は、割合子供っぽいところがあった。
「そ、そう。昔、1000年前、この「竜」はね、人間を見守っていてくれるものだったらしいんだ。いいことをすれば誉めてくれる、悪いことをすれば叱ってくれる、そんな。彼らは人の言葉を理解して、困った人が手を伸ばせば、助けてくれた。彼らは、「神様」と呼ばれていたんだ」
「……かみさま?」
「そう、竜の神様。みんなは優し過ぎる御伽噺だって言うけどね、僕は小さい時からこの話がとても好きだった。1000年前の世界は、とても優しいところだったんだって、信じてみたかったんだと思う。そういう世界があったんだってさ」
「……世界が、優しいんですか?」
「……夢見がちだってよく馬鹿にされるよ」
 「シュニン」は困ったように笑った。
 彼女はちょっと考えてみた。
 生まれてこのかた、優しいものに出会ったことはなかった。
 だが彼に出会った。
 彼は誰にも分け隔てなく優しく、それはローディーの彼女にも与えられるものだった。
 やさしさというものがどういうものであるのか、彼女はここで初めて知ったのだった。
 そして、そういうものでできた世界が1000年の昔、あったのだという。
 それは、とても素晴らしい話のように思えた。
「……素敵ですね」
「いや、僕が勝手に思ってるだけだよ。その後竜は、人間たちに怒って地下に閉じ込めてしまった。だけど、その空は今でもあるんだよ。このずうっと上に、「地上」っていうところがあるんだ」
「チジョウ……ソラ?」
 彼女が初めて聞く言葉を、「シュニン」は良く知っていた。
 頭の悪い彼女に呆れることなく、彼はひとつひとつ、ゆっくりと教えてくれた。
「ほんとは学者になりたかったんだ」
 彼は照れ臭そうに言った。
「優しい竜と地上っていう楽園、それから美しい空……そんなことを研究したかったんだが、父に「おまえは絵本作家にでもなるつもりか」って怒られてさ」
「……えほん?」
「ああ、ええとね、絵本というのはだね……」
 「シュニン」は本当に根気良く、彼女の簡単すぎる疑問にも真剣に答えてくれた。
 彼の目の前では、彼女は対等にひとりの人間だった。
 生きている、血の通った、ほかに誰一人代わりがいない大切な人間になれたのだ。







 D交配プロジェクトというものがはじまって、彼女はその中心となる材料のようだった。
 「シュニン」は直接の彼女の担当者となったから、彼に会える時間はずっと増えた。
 彼女はそれがとても嬉しかったが、「シュニン」は時折ちょっと悲しそうな顔をするのだった。
 ほんとはきらわれてるのかしら、と彼女はそのことでひどく塞いだ。
 だがやがて気がついた。
 今度の彼女の「仕事」は、多分ひどいものなのだと知れた。
 「シュニン」がこんな顔をするくらいのものだ。
 彼女の友達のように、ひどい目に遭うかもしれない。
 彼女は正直不安で恐ろしかったが、だが彼が毎日こうしてカウンセリングのために部屋を訪れるので、それでもほんとはかまわない、という気になってさえいた。
 彼女の薄汚い身体が、この「シュニン」の大きな手柄になるならそれで構わなかった。
 彼女はその男を愛しはじめていた。
 そして信じられないことに、「シュニン」は彼女の愛に応えてくれた。
 彼女はそれが被検体を安定させるための嘘だと空想し、そして疑り深い自分を恥じた。
 D値があまりにも違い過ぎた。
 だが彼は、彼女を本当に対等のひとりの人間として扱い、愛した。
 彼女のお腹にその男の子供が宿るまで、そう時間は掛からなかった。
 問題は、彼らのプロジェクトにあった。
 オールドディープの命を宿さなければならない身が汚されたと、「シュニン」には降格処分が下された。
 近いうちにプロジェクトから降ろされるらしい。
 そして新しい計画が立ち上げられ、彼女はそちらに回されることになった。
 お腹の子共々、利用されることになった。
 オールドディープの血液から抽出されたD因子を胎内に注入し、人工的にハイディーの適格者を創り出すことができるか?
 そういったものだった。
 彼女は当然抗ったが、そんなものはなんにもならなかった。
 そういう場所だった。バイオ公社のラボというところは。


 




 ほどなく子供が生まれた。
 実験結果は失敗のようだった。
 D値の簡易測定に掛けられたその赤ん坊のD値は、彼女よりいくらも高かったが、1/8192というものだった。
 両親のD値を考えれば、それは妥当なもののように思えた。
 保育器に入れられた赤ん坊には、D検体の特徴は微塵も見られなかった。
 刻印に浸蝕もされず、角も牙もない。
 本当に普通の子供だった。
 だが、その子供には名前がなかった。
 ただ失敗作のラベルが保育器に貼り付けられているだけ。








 何10日かぶりにラボの彼女の部屋に現れた「シュニン」は、子供を連れて逃げよう、と彼女に言った。
 彼女はなにも考えずに頷いた。
 ここから逃げて、そしてどこへ行くのか、彼女にはさっぱりわからなかったが、この「シュニン」がなにか間違いを犯すなどということは考えられなかった。
 いつだって正しい人間だった。
 どこへ行くの、という問いには、空へ、と答えが返ってきた。
 この世界では誰も救われない、と彼は言った。







 そして、彼らは










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