靴なんてもの、生まれてこのかた履いたことがないので、足になんだか違和感を感じる。
彼女はいつも素足で歩いている。
おかげで皮が厚くなって、固くなって、あまり美しい足ではなかった。
「シュニン」はちょっとだけ我慢してね、と言った。
彼女は頷き、抱いている赤ん坊の顔を覗いた。
静かなもので、眠っている。あまり泣かない。
赤ん坊っていうのは、こんなに手が掛からないものだったかしら、と彼女は首を傾げた。
皮の靴と、それから破れていない服を着せてもらった。
少しは小綺麗に見えると良いな、と彼女は思った。
「さあ行こう」
「シュニン」の手が差し出された。
彼女は頷き、その手を取った。
その時がきたのだ。
今日は脱走の日だ。
「男の子だから、強い子になるといいなあ」
子供の名前はまだ決まらない。
「シュニン」はうんうんと唸りながら、ずうっと悩んでいた。
彼女はくすくす笑いながら、頷いた。
あまり言葉を知らない。
彼女よりも頭の良い「シュニン」なら、綺麗な名前をつけてくれるだろう。
そう思って、名前は彼に任せた。
「あの竜みたいに、強く大きくたくましく生きる子になって欲しい……「アジーン」はどうだろう、確かレポートに個体名がそうあったはずだ。いやだけど本当にその名前で合ってたっけ……」
「あの「リュウ」の名前は、「アジーン」っていうの?」
「ううん、そのはずだけど、他の竜の名前も捨てがたいなあ。ちょっと考えさせて」
「シュニン」は笑って照れたように頭を掻いた。
「駄目だな、優柔不断なんだ」
「ゆうじゅう……」
「はっきりものをすぐに決められない奴だってことだよ、ううん」
結局それは最後まで決まらなかったのだった。
変装してリフトに乗ってしまえば、じきに上層区につく。
それからはすぐ空だ、そう聞いた。
彼女は赤ん坊をしっかり抱いて、手を引かれて、バイオ公社を後にした。
◆◇◆◇◆
「……オイ。人のなか、寝てる間に覗くんじゃねえよ……」
眠りから覚醒し、ぱっちりと目を開いて、アジーンは抗議した。
返事はなにもない闇から、すぐに返ってきた。
聞き慣れたものだ。
「ゴメンゴメン、だってなんか続きが気になっちゃって……」
「俺の夢はオマエの娯楽じゃないぞ、チェトレ」
「知ってるよー。だからゴメンってば」
ね?と手を「ごめん」の仕草で合わせて、弟のチェトレが姿を現した。
金髪、綺麗に切り揃えられた髪、その目は閉じられたままだ。
彼のリンク者の姿そのものだが、少しだけ軽薄そうな調子である。
あー、と欠伸をしながら背伸びをして、アジーンは目を擦った。
何故かこの弟のドラゴンは、アジーンのリンク者のなかに平気で入り込んでくる。
こういう事態は、今までのリンクで初めてだ。
「……なあ。なんでオマエまでリュウの中に入ってくるんだよ。ていうかなんで入って来れるんだよ。帰れよ、オマエんとこのリンク先に」
「えー、やだよー、せっかく遊びにきたのに、ていうかだってうちのリンク者可愛くないし」
「リュウは俺のリンク者なんだからな!」
「知ってる知ってる、姉ちゃんの過保護」
「ったく」
腕を組んで、ふん、とそっけなく鼻を鳴らし、アジーンはチェトレを睨んだ。
「それで、なんでオマエここに来れるんだよ」
「うーん、おれの考えたところによると、ほら、リンク者同士で繋がったことがあるからじゃ……」
「……確かに、リンク者同士で交尾なんて前代未聞だな。普通殺し合ってそれで終わりだもんな……」
「ねえ」
「ていうかリュウはすっげえ嫌がってたのに、ムリヤリやるんだもん。オマエんとこのアレ、発情期の奴。去勢してやれよ、もう」
「ねえちゃあん、おれたちも交尾してみようよ」
「……ハア? ……バカか? リンク者のアレが伝染したのか、チェトレ。いいか、あいつの行動は絶対真似しちゃ駄目なんだからな」
「だっておれたち世界でふたりっきりだもん。ちょっと子供とか欲しくない?」
「アホ」
かぷっと耳に噛み付いてきたチェトレに、アジーンは溜息を吐いた。
「兄弟で何やるっていうんだよ、バカ。それに、俺らの発情期はまだまだ先だろうが」
「だって人間はずーっと発情してるよ。うちのなんかさ、もうすごいんだから。頭の中のこと、全部書きとってリュウに見せてやったら、ボッシュどんな顔するだろうなー」
「いいぞチェトレ、それやってみろ。俺が許してやる」
「きっと恥ずかしくて大暴れだよ」
ニヤニヤと顔をだらしなく緩ませながら、チェトレはしばらくアジーンにべたっとくっついていたが、ふと顔を上げて、そう言えばさっきのあれ何、と聞いてきた。
「姉ちゃんの記録?」
「ああ、まあ……」
アジーンは肩を竦めて、そういうこと、と言った。
「オマエも暇なら見る? べつにいーけど」
◆◇◆◇◆
だぁん、と銃声がして、体の真横の壁でばしっと弾けた。
『彼女』はそれを見ていた――――このところ、良く見るようになった人間のつがいだった。
幼体を抱えて彼女の目の前を通り過ぎていった。
その後ろを、何か激しく叫びながら――――それは止まれとか撃つぞとかそんなような人間の言葉だった――――警備兵が何人か追っ掛けていった。
2匹の人間のつがいの雄のほうが、雌と幼体を上行きのリフトに押し込んだ。
だが雄は二体に続くことは叶わなかった。
足を撃たれたのだ。タラップから転げ落ち、そしてリフトは動き出した。
雄は叫んだ。
「――――僕たちの竜を!」
雌のほうは子供を抱いたまま悲鳴を上げて、何かしら叫んだ。
多分それは雄の個体識別名称だったのだと思う。
彼女は何かびりっとしたものを感じて、億劫に唸った。
腐り落ちた肉体のせいで、ひどく気だるい。
(繋がってやろうか?)
彼女はふとそんなことを思って、苦笑した。
気まぐれを起こすなど、珍しいこともあるものだと思ったのだ。
(呼べばいい。そうすれば、力を与えてやろう)
だが人間の雄には彼女の声は聞こえていないようだった。
そいつは彼女を呼ばなかったし、叫んだのだって覚えのない名前だった。
それは多分あのつがいの雌か、その子供の名前だったのだろうと思う。
彼女の繋がる隙間はどこにもなかった。
(残念だ……)
彼女は目を閉じた。
これで終わりだろう、そう思った。
◇◆◇◆◇
失血がひどい。
致命傷になっただろう、職業柄どこを損傷すれば死に至るのかははっきり知っていた。
だが、リフトは出た。
空へ――――あの下層区の空でも構わない、公社から逃げ延びればどうとでもなるだろう。
おそらくはじきにトリニティ・ピットから保護が来るだろう。
データは流してあった。
ここに来て、ようやくレンジャーたちが現れた。
これから裏切り者として抹殺されるだろうか?
血縁者に迷惑が掛かるだろうか?
しかし、今の彼にはそんなことを考えている余裕はなかった。
彼は死に物狂いだった。
彼女は、そして彼らのまだ名もない竜は、それだけはなんとしても――――
肩に突き刺された剣の刃を掴み、奪い、前を見据え、戦った。
戦い方など、なんにも知らなかった。
彼は学者になりたかった。
その為に勉強して、本ばかり読んでいた。
腕っ節は弱く、彼女の姉のレンジャー志望の娘にも劣っているらしかった。
彼は、争いを好まなかった。戦いが、剣の鈍い光が、血の匂いが好きではなかった。
人を殺すことに直接手を下すなど、考えもしなかった。
公社での実験で遠巻きに眺めていることはままあったが、人に対して剣を振り下ろしたことなど初めてだった。
だが、彼は戦った。
血が流れた。
返り血がべったりと腕に貼り付き、赤く染めた。
1/256というD値が、彼の最終到達点だった。
望めばファーストレンジャーにすら手が届くD値が、彼にはあったのだ。
そしてとうとう、抗いにも終わりの時が来た。
最後にやってきた者の剣によって、彼の喉はあっけなく切り裂かれ、貫かれた。
それが終わりだ。
そのはずだった。
◇◆◇◆◇
巨大な咆哮が木霊した。
廃棄ディクであるはずの巨体が大きく口を開け、慟哭するように、その赤い全身を震わせながら叫んだ。
既に終了しているはずの個体である。
現オリジン・メンバーエリュオンが、かつて適格者としてリンクしていたドラゴン、その名をアジーンと言った。
「馬鹿な……再起動だと?」
信じられないふうに、その男は呟いた。
オリジンが直接的に関わるプロジェクトの成果、人工の適格者を回収するべく、彼は中央省庁区からやってきたのだった。
結果は失敗だったそうだが、詳しい調査はまだ済んでいない。
「……?!」
男ははっとして、剣に貫かれ絶命しているはずのその裏切り者の研究所社員に目をやった。
ありえないものがあった。
瞳孔がすでに開ききっていた。
死んでいるはずなのに、しっかりと喉元に突き刺された剣を掴んで、空洞の目で男を睨んでいた。
その目を、ぞっとするほどに真摯でまっすぐな死人のまなざしを、男はきっと一生忘れることができないだろう。
血が吹き出し、剣が抜かれ、そして、
いくつか銃声が鳴り響き、剣を掴んだその手も、頭も粉々に吹き飛ばした。
「……なり損なったか」
死骸を見下ろしながら、男は呟いた。
レンジャーの銃撃に晒され、その胸から上は無くなっていた。
「――――見事な、闘志であった」
賞賛し、剣を振り血を払い、鞘に収めた。
「ヴェクサシオン様。省庁区より入電です」
「うむ」
端末を持った使いのひとりがやってきた。
姿勢を正し、報告を読み上げた。
「今しがた、奥方様が無事ご出産なされたとのこと……男児でございます」
「そうか……」
今は静まった竜を見上げ、剣聖と呼ばれる男はリフトの暗い線路の向こうを見遣った。
「……子供は」
「母体共々追っています。ですが、行き先が何分不明ですので、発見は難しいかと」
「草の根分けても探し出せ。我が子の生誕を祝し、その血を捧げよう」
「血でございますか」
男は頷いた。
「あれは我が子を憎むだろう。親を殺され、殺めた者に従属し……それでこそ良い、選ばれた者だ」
「共に育てられるので?」
「血塗られた栄光の道を行くための、この上ない踏み台だ。我が子に相応しい……」
そして、男は視線を下げ、足元の死骸を見遣って、口元を歪めた。笑った。
「資質は、十分だ……。我が元に、竜が2匹。これほど素晴らしいことはなかろう」
母子が乗ったリフトが消えた向こうは、真っ暗な闇が広がっているだけだった。
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