空き時間は自室のベッドに寝転がって、本を読んでいるのが大体のスタイルだった。
1000年前の航空力学の本の黄ばんだページを、慎重に捲りながら読み進めていく。
部屋の中には以前から読みたかった本が詰まって、壁中を占領していた。
今ではもう手に入らないものはない。
この二年間の放浪生活と比べれば、破格の待遇だ。
それにしたって、どちらにしても構わなかったのだが。
死なない程度の問題なら、なんだって一緒だった。
今の彼には、あまりこだわりというものがなかった。
『ボッシュのいじめっ子〜』
さっきから書物机の上に行儀悪く腰掛けて、足をぶらぶらさせながら、ボッシュのドラゴンが非難の声と視線をくれている。
それを意識しないように努めてはいたのだが、やはりうるさいものはうるさい。集中できない。
『風邪ひいちゃ駄目だからコート掛けてやったり、ずーっと手を繋いでやってたり、酔って真っ赤になって可愛いリュウを一人占めしたがったり、なんでそんな恥ずかしいことばっかりやってるのに、優しい言葉のひとつも掛けてあげらんないの? ちょっとちゃんとしてよ。じゃないと姉ちゃんにまたおれが怒られるんだからね。オマエんとこの狂犬、うちのリンク者になんてこと言うんだ!ってさ〜』
アジーンの口真似までして、チェトレが膨れている。
『それにしても、ボッシュったらはーずかしい〜。内緒でリュウに教えてあげちゃおっかなあ、ボッシュ、ほんとはこんなにかわいいリュウのことばっかり考えてるんだよ!って』
「……うるさいぞチェトレ。読書の邪魔だ」
『そんなこと言ってボッシュ、読んでる本、上下逆だよ』
「…………」
『俺の部屋に来い!なんてさあ、ボッシュのえっち。エロっ子。発情期。ああ、おれも姉ちゃんにそういうこと言えればなあ……』
「……いい加減、黙れ。暇ならオマエの姉貴に相手してもらってこい」
『駄目だよ、怒ってるもん。あーあーあー、うちのリンク者が姉ちゃんのリンク者泣かせちゃったから、さっきから口もきいてくれないんだよ。かわいそうなおれ。泣いていい?』
「勝手にしろよ」
言われるなり泣き真似をしだしたチェトレは、しばらくするとどうやらボッシュをからかうことにも飽きたようで、ふっと顔を上げた。
『まあそれはともかく。リュウ、来るかな?』
「さあな。どっちでもいい」
『ちょっとドキドキしながら待ってるくせに』
「……オマエ、なんでそういう余計なことばっかり言うんだ?」
『あ、来た来た。近付いてきてるよ。じゃ、ボッシュ。いじめちゃ駄目だからね。あんまりひどいと後でお仕置きだよ。身体、乗っ取ってやるんだから』
「……洒落にならんことを軽く言うな!」
ふふふ、と口元を押さえて気色の悪い笑い方をして、チェトレの姿は薄くなっていった。
『じゃ、お邪魔虫は消えるよー。ごゆっくり』
「とっとと消えろ!」
ばしっと本を投げ付けて、ボッシュは大きく溜息をついた。
ほんとに、ろくでもないドラゴンだ。
あれならアジーンのほうがまだましだ。
ドラゴンの交換は可能なのか真剣に考えながら、だがボッシュは仏頂面をして、口元をぎゅっと結んだ。
リュウが近付いてくる。
共鳴反応はかなり上擦った鼓動だった。
(……あのバカ、そのくらい上手く隠せよ)
リュウは死ぬ程緊張している。遠くからでもそれが分かる。
ボッシュのように上手く感情を抑えるということが、リュウにはできないようだった。
そういう性質なのだろう。馬鹿だし仕方がない。
(ったく、ローディー、しょうがない……)
本当のところはリュウに負けず劣らず、いい勝負で脈打っている心臓が、非常に気に入らない。
かなりの努力でもって、ボッシュはそいつを押さえ込んでいた。
ボッシュはリュウを憎んで、許しがたい敵として、蔑んで軽蔑している。
確かにそれは間違いではなかった。
激しく強い感情なら、何だって似たようなものだった。
それが憎しみでも、あるいは恐怖でも、愛でさえも。
ボッシュはリュウを憎み、畏れ、そして同時に愛してもいた。強い感情だった。
なんだか思い付く限りの感情を、いっしょくたにないまぜにしてしまったような感じだった。
(……チッ、笑われるわけだ、畜生……)
仏頂面のまま、ボッシュは自棄気味に嘆息した。
こんな感情が筒抜けになっている存在がいるということで、なんだか無性に暴れたくなってくる。
(優しくしてやって、で、何になるよ?)
リュウが、あの自己卑下の塊みたいな奴が望むのはそんなものではないはずだ。
大体、ボッシュには良くわからないのだ。
人にやさしく、それは一体、どういうふうにしてやれば良いのだ?
誰かに優しくしてやった覚えなど、一度もない。
ボッシュにはそんなことをする必要が、今まで全くなかった。
他人にやさしくしてやったって、どうなるものでもない。
みんな敵だ。そういうふうに父に育てられた。
今まで生きてきて、まともに覚えている人との繋がりなんてものも、せいぜいがリュウを顔を見る度に苛めてやったくらいだ。
苛めてやって、だがリュウは笑っている。
彼は馬鹿なので、泣かせてやっても次に会えば笑っている。
全然気にもとめていないようで、それが少し腹が立つ。
慣れない「優しく」なんてことをしてやったって、きっと同じ顔をして笑っているに違いない。
あまり難しいことは、考えられないような頭の構造をしているのだろう。
やってられるかとボッシュは呟いて、同時だった。
扉が、おずおずとノックされた。
◇◆◇◆◇
ものすごくどきどきしている。
リュウは焦燥しながら、何度目かの溜息を吐いた。
廊下を行く足取りがひどく重かった。
死んでいる間に、以前の自分の部屋はボッシュのものに改装されていたので、今あるリュウの自室は以前「竜の間」と呼ばれていた最上階にあった。
一度損壊したが、今はもう修理され、以前より狭くはなっていたが綺麗になっている。
まさか死人が生き返ってくるなんて誰も思わなかっただろうから、大慌てで突貫工事がされたのだ。
住むのはセメタリーでいいよ、今までいたんだし、とリュウは提案したのだが、全員一致で縁起でもないと却下された。
じゃあボッシュと同室で、おれ邪魔にならないようにするから、という提案もニーナとリンとジェズイット、クピトらの反対で却下された。
多数決だ。
他ならぬボッシュは何にも言わずに知らん顔をしていた。
レンジャー時代は同室だったのだから構わないだろうと思ったのだが、その後リンに女の子としての自覚がまったくないと怒られた。
リュウはこんな身体になってしまったが、一応は男なのだから問題ないだろうと思うのだが。
それにしても、
――――今晩、俺の部屋に来い。
ボッシュの声が、あの強制的で底意地の悪い声音そのままに、頭の中で朝からこっち、何度も何度も再生されるのだった。
昨日放り出していた執務を終えたころにはもう日が落ちていて、外は真っ暗になっていた。
食事を取っても味らしい味もわからず、1日中ぼおっとしていたので、散々周りに心配された。
二日酔いなんだと言い訳をして(実の所アルコールどころではなかったのだが)ニーナも頭ががんがんすると寝込んでいたから、それはあっさりと信じてもらえた。
リュウは顔を真っ赤にして、ボッシュの言葉を思い出していた。
――――言ってる意味、わかるな?
わかる。
わかるから、こんなにどうしようもないのだ。
またからかわれているのだろうか。
部屋に行ったらもうボッシュは朝のことなんかすっかり忘れていて、何のこと、なんて言われるかもしれない。
洗いたてのボッシュのコートをぎゅうっと抱き締めながら、リュウはまたひとつ溜息を吐いた。
そんな時にはこのコート、きっと言い訳くらいにはなるだろうな、と思いながら。
返しにきたんだ、なんて言って。
ボッシュは気まぐれだから、部屋に来いなんてことも何でもないのかもしれない。
そんな事言ったっけ、で終わるのかもしれない。
ボッシュにとって、リュウはただ憎むべき敵だった。
そう、あのころそうあったように――――
『なんで邪魔するのボッシュ』
空を目指していたころ、リュウにとってそれはまったく不可解な疑問だった。
ニーナを空に連れてってあげたいだけなのに、なんでそんなひどい目で、ディクを見るみたいな目を向けるんだろうと、悲しい気持ちでいっぱいだった。
こんなにちゃんと強くなったのに、そんな目で見ないでくれ――――リュウはそう懇願したかった。
出会う度に向けられた、化け物を見るみたいなボッシュの目が忘れられないのだ。
そしてあのころの自分の感情というものもまた、リュウには恐ろしいものだった。
(おれは……あの時ほんとは、きみを殺して、それで仕方ないって、そんなことさえ思っていたんだ……)
アジ―ンのプログラム。空へ……ニーナを、空へ。
それ以外のことなどどうでも良かった。
自分のことも、大事にしまい込んでいたはずの感情も、なにもかも。
これもそうなのだろうか?
プログラムの一環なのだろうか。
本当のところはリュウには分からない。
どこからどこまでが本当の自分なのか、リュウには分からない。
身体が、かすかにかたかたと震えだしていた。
あの時の暴力的な衝動を思い出すごとに、リュウは恐怖に苛まれるのだった。
(……おれほんとは、ボッシュを食っちゃいたいと、思ってた?)
ボッシュをリュウの中に全部入れてしまって、殺して食って、それで全部飲み込んでしまいたかった。
ボッシュ、彼が全部欲しい。
そうしたら、もうリュウには怖いものはなんにもない。
応えてもらえるはずのない想いも、向けてもらえるはずもない視線も、全部がもうリュウのものだ。
誰にもわたさない。
一人占めして、ずっとボッシュを抱き締めたまま、そしてリュウは1000年生きるだろう。
ボッシュと一緒に。
(生きるってことは……)
リュウは頭を揺らして、恐ろしい考えを振り払おうとしたが、うまくいかなかった。
不安と罪悪感がのしかかってきた。
生き残ることを諦めていたあのころに、そんな選択肢があるはずもなかった。
ということは、リュウは、今でも――――
(違う……)
否定して、だが本当にそうなのだろうかと、リュウは自問した。
わからない。
中に入ってきてほしい、という欲望は本当だった。
浸蝕されたい。
だが、そんなこと絶対言えない。
それは、望んではいけないことのような気がする。
ただひどくしてもらいたいという不確かな欲求だけがあった。
――――それは本当のところは純粋な性欲というものだったのだが、まだリュウは上手く理解できないでいたのだった。
リュウは頭を振って、今度こそその不穏な思考をシャットアウトした。
(ひどいやつだろ……。 サイテーだって、死んでいいよって、前みたいに言っていいよ)
そして無理に顔を苦笑の形につくって、心の中でボッシュに謝った。ごめん。
(ごめんね、ボッシュ。おれ、そんな資格はないのに……きみがそういうふうにおれを見て、話し掛けてくれてるっていうことが……)
ボッシュの部屋まで、その道のりがひどく遠かった。
悪い考えばかりが思い浮かぶのだった。
ドアをノックしたら、何を言おう。何を言えば良いのだろう。
コートを返しにきたから、そういうことにすれば良いだろうか。
ボッシュはもう朝の言葉なんて忘れてしまっているかもしれないのだから。
大体にして、リュウがボッシュに触れてもらえるなんて、そんなことが本当にあっても良いのだろうか?
(きみを裏切って、殺した。たくさんひどいことをしたのに、でもおれは……。おれ、は……)
(おれはこんなに幸せだよ、ボッシュ)
1000年憎み続けてくれるっていうのがどんなに嬉しいことなのか、きっと彼は知らないに違いない。
それは何の贖罪にもなりはしない。
リュウを悦ばせるだけだということにも、きっとボッシュは気付いていない。
――――なんだよ、手なんて握って。気持ち悪いな。
リュウが黙ったまま、俯いてぎゅうっとボッシュの手を縋り付くように握ると、彼は常に顔を顰めてそう言うのだ。
だがふりほどかれはしなかった。
罪悪感と後ろめたさだけがあった。
ひどくしてもらいたかった。
だが本当のところに、気が付いてしまった――――優しくして、おれだけを見て、ボッシュ。
ひどいことばかりしているのに、リュウはボッシュに優しくされたかった。
そして、そんな自分が許せなかった。
ごめんなさい、ごめんなさい、と何度もリュウは心の中で謝った。
ボッシュと手を繋ぐ。
引いて歩いてもらう。
手をはなさないで、そう懇願する。
それはいつもひどく痛く、でも幸せだった。
手のひらのぬくもりが。
いつのまにか、ボッシュの部屋の前に着いていた。
リュウは呼吸を整えて、いまひとつばくばくと鳴っている心臓のせいで上手くいかなかったが、ボッシュ、と小さく呼びかけて、扉を叩いた。
気のない返事があった。
扉を、開いた。
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