最下層を出ると、すぐそこには空がひろがっていた。
こんな近くにこんなに綺麗なものがあったなんてことに、彼女は驚いて、それから少し微笑み、空を見上げながら待っていた。
空の下で、待っていた。
いつ見付けてくれるかしら、そして、手をひいてくれるかしら――――そんなことばかり考え続けて、待っていた。
もうすぐきっと、約束を――――
◇◆◇◆◇
「どうしたんだい」
訓練学校の帰り道だろう、買って貰ったばかりと見える訓練用の剣を大事そうに抱えた少女が、ふいにぴたっと立ち止まった。
少女とその母親の二人連れである。
母親の方は訝しげに、何かに興味を引かれたらしい娘を見た。
「母さん、この人」
「おや、……行倒れかい。珍しいね、下層区で」
母親はちょっと眉を顰め、道の端で座り込んでいる女を覗き込んだ。
小奇麗な格好をしていて、こんなところで座り込んでいるのがあまり似合わないふうだった。
痩せ細って、衰弱しきっており、意識ももうないようだった。
「母さん、レンジャーでしょ。助けてあげてよ」
「言われなくてもそうするさ。でも、そうだね……」
人の生死に多く関わってきた彼女には、それが生きるか終わるかということが良く分かった。
なんとなくまだ幼い娘の前で言葉を濁し、母親ははっと気付いた。
「……おや。子供を、抱いてるのか……」
泣きもせずに、赤ん坊が女の胸に抱かれていた。
少女はあまり目にしない生き物に過敏に反応し、母親をせっついた。
「助けてあげようよ、うちで! お薬も食べ物もいっぱいあるじゃないか!」
「あんたねえ、一時の気まぐれでいい加減なこと言うんじゃないよ、ゼノ」
母親は娘を窘めたが、彼女は譲らなかった。
気が強いところは、良く似ているのだ。
母親は苦笑した。
「救える人を見捨てるのは、ディース=1/128の名を汚すことになりはしないか、母さん」
「口ばっかり達者になるね、あんたは」
「ねえ、お願いだよ、助けてあげて」
「……そのつもりさ。そうだね……」
母親は子供を取り上げ、女はそこではじめて反応らしい反応を見せた。
赤ん坊の名前らしい言葉を口にして、うわ言のように呼んだのだ。
大丈夫さ、と言って、彼女はふと妙なことに気が付いた。
「……ん? 角があるね、この子……」
赤ん坊の頭には、小さな赤い角が二本、生えていた。
◇◆◇◆◇
ばしっ、と投げ付けられた石が頭に当たった。
「リューウ! どんくせえ、本当に当たるなよ!」
「あはは、ごめーん!」
リュウはなんでもないように笑って、立ち上がって、またふらふらとしゃがみこんだ。
「あ、あれれ?」
ぽつぽつと赤いものが地面に落ちて、それを見た同年代の子供たちは、うわあ、と目を丸くして、リュウを指さした。
「うわっ、血だ!」
「きったねえ、寄るなよ、ローディー!」
「……あっ」
だっと走って、みんな行ってしまった。
「ま、まって!」
リュウは追い掛けようとしたが、べちゃ、とつまづいて転んでしまった。
「い、いたいよう……」
そうやっているうちに、誰もいなくなってしまった。
すりむいた膝と、鼻をさすって、血が出た頭を押さえながら、リュウはじわっと滲んできた涙をこらえて立ちあがった。
レンジャーごっこに混ぜてもらって、今日もまた、リュウはナゲットの役だったのだ。
頭にぴょんと突き出しているナゲットの触覚は、リフトに落ちていたものだ。
リュウはしゅんとして、とぼとぼと歩き出した。
リュウ=1/8192は下層区の施設に住んでいる。ローディーである。
先日5歳になった。親はいない。
良く分からないが、両親ともリュウとはどちらもD値が掛け離れているので、一緒には暮らせないそうだ。
生きてるのか死んでるのかは知らない。
施設にいる子供たちにしてみれば、誰もが同じようなものだ。
だから気にしたことはない。
……というのは建前で、本当は見たこともない両親だが、恋しい。
施設への帰り道、リュウは見知った顔を見付けた。
向こうが先に気付いて、リュウに声を掛けてくれた。
「ああ、リュウ。こんなところで、施設は昼食の時間じゃ……どうした、その傷は?!」
「あ……あそんでたら、石に、当たっちゃって……」
ごめんなさい、とリュウは謝った。
相手、サードレンジャーのゼノは、まったく、と腰に手を当ててリュウを叱った。
「またリフトで遊んでいたんじゃないだろうな?!」
リュウは、ふるふると頭を振った。
ゼノは怒ると恐い。
彼女はサードレンジャーで、リュウの住んでいる施設まわりの地区の担当だった。
良く施設にも顔を見せた。
でも彼女がリュウを知っていたのは、それだけじゃなかった。
初めて顔を合わせた時に、ゼノはこう言ったのだ。きみか、久し振り、大きくなった。
もっとずっと小さかった頃のリュウを知っているのだという。
「すぐに手当てだ!」
ゼノはリュウを引き摺って、いつものように下層区メディカル・センターに連れていった。
頭の傷を見て、そうしてふと気付いたみたいに、彼女は言った。
「……もうあれは消えたんだな」
「……あれ?」
「角だよ。覚えてないか」
「……つの?」
「いい、忘れろ。それより止血だ」
「だ、だいじょうぶだよおれ、ゼノ姉ちゃ……」
「大丈夫じゃない。行くぞ、リュウ」
ゼノは、とても面倒見が良い。
頭にぐるぐる包帯を巻いてもらった。
危ない遊びはやめろ、とゼノに釘を刺された。
「特にリフト周りで遊んじゃいけない。ディクに取って食われてしまうぞ」
「うわあ……」
リュウは怖くなって、縮こまって震えた。
ゼノは、少し怖がらせ過ぎたか、とふうと息をついて、大丈夫だ、とリュウの頭を撫でてくれた。
「街には一歩も入れない。安心しろ、そのためのレンジャーだ」
「れんじゃー……」
リュウはその憧れの名前を繰り返した。
レンジャーは子供たちの間で、憧れの職業だった。
下層区で親がレンジャーの一員だという子供は、みんなの尊敬の的だった。
強く、街の人々を守る、格好良いレンジャー。
リュウも下層区の子供達に良くあるように、そんなふうに強く、格好良く、みんなを守るレンジャーに憧れていた。
「……れんじゃーに、なりたいな……。おれ1/8192だけど、れんじゃーになれるかな?」
ちょっと恐々とゼノに訊いてみた。
彼女は不思議そうな顔をしたが、すぐににっこりと、とても綺麗に笑った。
「なれるさ」
ふと見るそうした彼女の顔が、リュウは好きだった。
顔が赤くなってしまって、恥ずかしくて、それを隠すように、リュウはゼノにせっつくように聞いた。
「じゃ、じゃあおれもおおきくなったら、ゼノ姉ちゃんみたいにかっこよく「ぜつめいけん!」とかできるようになる?!」
「訓練次第だな」
ゼノはそう言って、リュウの頭をぽんと叩いた。
「強くなれ。きっと適性はあるんだ。D値は絶対じゃない。私が偉くなったら、ちゃんと特訓して、リュウを強くしてやる。いじめられてばかりじゃ駄目だぞ、リュウ。私も母さんも心配だ」
「……? うん、がんばる」
何故ゼノの母親までリュウのことを心配してくれるのだろう、とリュウはちょっと変に思ったが、ゼノに頭を撫でられて単純に嬉しくなってしまって、そんなことはすぐに忘れてしまった。
◇◆◇◆◇
施設は嫌いではなかったが、朽ち掛けた建物の重苦しく湿って暗い廊下よりも、リュウは下層区の空が好きだった。
同年代の子供たちは、外に出たら施設の親なし子と苛められるのは目に見えていたので、あまり外で遊ぶのを好まなかった。
だから、今日もリュウはひとりだった。
外であそぼうよ、と誘っても、やだ、と断られたのだ。
施設のまわりはあまり治安が良くなかった。
怖い大人がいっぱいいるのだ。
だから、リュウは大体はレンジャー基地やリフトに近い広場で遊んでいた。
他の子供達もそうだった。
今日もおんなじような顔ぶれの子供たちが遊んでいて、リュウは、今日は仲間に入れてもらえるかな、とちょっと気後れしながら彼らに近付いていった。
彼らは気まぐれにリュウと遊んでくれたり、仲間外れにしたりするので。
本当は親に施設の子供とは遊んじゃいけないと言われているそうだ。
でも彼らはたまにリュウを仲間に入れてくれた。
みんな、やさしいんだ、とリュウは思っていた。
だからレンジャーごっこで痛いことばっかりされるディクの役でも、全然かまわない。
「あれ……?」
リュウは目をぱちぱちした。彼らの中に、見慣れない姿を見つけた。
いつもの子供達に取り囲まれるようにして、ひとり、変な服を着た子がいる。
泣き声も聞こえてきた。
いじめられているのだろうか?
リュウは駆けて行った。
「とうさまぁ!!」
見たこともないくらいに綺麗な男の子で、緑色のだぼっとした変な服を着ている。
リュウが着ているぼろぼろの服みたいに、どこもほつれたり、破けたりしていない。
彼は意地悪をされて泣いているみたいだった。
「泣き虫、弱虫、変な服!」
「とうさま、だって!」
囃し立てているのは、いつも決まってリュウを苛める少年たちだった。
リュウは怖かったが、勇気を出して、彼らに近寄っていった。
「ど、どうしたの……?」
「お、泣き虫リュウじゃん」
「よお、なんか変なのがいるんだよ、ほら」
指差されて、その金髪の男の子は、びくっとしてリュウを怯えたように見た。
またいじめっこがきた、そんなふうに身体をきゅっと縮こまらせて、ふるふると頭を振った。
小さな声でまた、たすけて、とうさまあ、と言った。
リュウはその子が可哀想になってしまった。
「い、いじめちゃ、だめだよ……」
「なんだよ、いい子ぶりっ子かよ、リュウ」
「そうだ、シセツの子のくせに!」
囃されて、リュウはぐっと詰まってしまった。
怖かったが、でもぎゅっと歯を食いしばって、だめだよ、と言った。
「い、いじめっこは、れんじゃーになれないんだよ!」
「なまいき言うなよ、リュウのくせに!」
「そうだ、なまいきだ!」
手を振り上げられて、リュウはびくっと強張った。
だが、いつものように殴られることはなかった。
二人組の少年は、それよりもっと良いことを思い付いた、とでも言うように、リュウの肩を掴んで、前に押し出した。
「じゃあリュウ、おまえがいじめてみろよ!」
「お、おれ?!」
「そうだ、そしたらいっしょに遊んでやる」
「じゃなきゃ、一生仲間はずれにしてやる!」
やれ、やれ、と煽られて、リュウは戸惑ってしまった。
仲間はずれは嫌だ。
だけれど、ここで言うとおりにしたら、本当にレンジャーにはなれなくなってしまいそうな気がする。
ゼノも怒るだろう。
「だ、だめだったら!」
リュウは一生懸命、精一杯に大きな声を出した。
金髪の男の子はびくっとして、二人組はなんだ、つまんない、という顔をした。
「やっぱり、ローディーなんかとはもう遊んでやらないよ」
「行こうぜ、つまんない。リュウのバーカ!」
「あ……」
ぎゅ、と目を瞑って、その少年たちが行ってしまうのを待ってから、リュウは振り向いて、まだ泣いている男の子に手を差し出した。
「だいじょうぶ……?」
彼はびくっとして、リュウの手から逃げた。
「あ、あの……」
「さわっちゃだめ!」
金髪の男の子は、ぶんぶんと頭を振って、あっち行って、と泣きながらリュウに言った。
「きたないから、やだ! さわったら、とうさまにしかられるもん!」
リュウはどうすれば良いのかわからなくて、立ち尽くしてしまった。
きたないと言われるのは初めてではなかったが、それなら、どうすれば良いだろう?
目の前で泣いている子がいるというのに。
「あ、あのね」
リュウはせいいっぱいに笑顔を作って、その子に話し掛けた。
「おれ、リュウっていうんだ。きみは?」
「ひ、ひとにおなまえ、なのっちゃだめだって、とうさまがいうも……」
「あ、ご、ごめん」
リュウは困ってしまって、それからうんと考え込んで、あ、そうだ、と思い付いた。
「と、父ちゃんと、はなれちゃったの?」
男の子は震えながら、頭をこくっと振って、頷いた。
「ま、まいごなの?」
今度は、ぶんぶん、と頭を振った。
迷子じゃないらしい。
「か、かあさま……」
「え?」
「「ごんごん」にのったら、まえはかあさまにあえたの」
「ごん?」
リュウは首を傾げて、あ、リフトのことかな、と思い当たった。
「リフトに、ひとりでのってきたんだ。すごいねー」
リュウは感心してしまった。
子供が近付いたら怒られるリフトに、一人きりで乗って、ここまで来たという。
本当は、今は泣いているけれど、すごい子なのかもしれない。
リュウはそう思った。
「でもへ、へんな、とこに、ついて……ここ、どこぉ……? かあさまあ……」
また、くしゃっと顔を歪めて、彼は泣き出してしまった。
リュウは慌てて、泣かないで、だいじょうぶ、と言った。
「だ、だいじょうぶだよ! れんじゃーがおうちに連れてってくれるよ!」
「やだ、かあさまあ!」
だ、とその男の子は走って行ってしまった。
「ま、まって! あぶないよ! まいごになっちゃうよ!」
帰り道がわからないのなら、レンジャー基地に連れていってあげなきゃならないだろう。
リュウは慌てて彼を追い掛けた。
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