いつのまにか辺りの景色は変わって、ずうっと同じようなくすんだ灰色の壁が続いている通路に出た。
 時折隅っこのほうに、埃を被ったコンテナやトレジャーボックスが乱雑に並び、打ち捨てられていた。
 照明は弱く、ぱちぱちとはじけた音を立てながら、点いたり消えたりを繰り返している。
 腐食したコンクリートには白いカビが生えていて、湿った匂いがした。
 地下水に浸蝕されているようだ。
 先を走って走っている緑色の服を着た男の子は、そこにきてようやく立ち止まり、ぺたっとうずくまった。
(や、やっと、止まってくれた……)
 リュウは本当にへばってしまっていて、これ以上走れそうもなかったから、それはありがたかった。
 見失わなかったことで、自分を誉めてやったっていいくらいだ。
 その男の子は泣きながら母さまなんて言ってるくせに、走るのはリュウよりずっと早くて、全然疲れたふうでもなかった。
「お、お、おい、ついた……!」
 ぜえはあと身体全体で息をしながら、リュウはその男の子のそばまで駆けていって、おんなじようにぺたっと倒れ込むようにして座り込んだ。
 しばらく呼吸もままならなかったが、リュウは無理ににっこり笑って顔を上げた。
「は、はやいね……! すごいや……!」
 男の子はようやっと泣き止んだようで、まだ赤い目をしてはいたが、もうリュウから逃げていってしまうこともなかった。
「……あのね、おうちね……れんじゃーが、おくっていってくれるよ」
「……やだ。かえらないも……」
 ぶんぶんと首を振って、男の子はやだ、帰らない、と繰り返した。
「と、とうさま、こわいもん……。ぼく、かあさまのとこにいくんだもん。れんじゃーにつかまったら、ぜったいまたとうさまのとこにつれてかれるんだ」
「あー……」
 リュウはそこでようやっと理解した。
 ぽん、と手を打って、言った。
「「家出」だ!」
 リュウは施設で暮らしていたので良く知らなかったが、下層区の年上の子供から、たまに話を聞いたことがあった。
 家を出て、ひとりで過ごすのだ。
 それはとても大人みたいなことなのだった。
 リュウには怖くて、施設の外で夜眠るということはできないが(夜が来ると下層区の照明は少し様子が変わる。「夜空」を模して暗くなるのだ)だとするとこの男の子は、外の階層からリフトに乗ってやってきて、今ひとりで家出をしているのだろうか。
 それはすごい大それたことだ、とリュウは思った。
「ねえ、どこまでいくの?! 家出って、どんな感じ? 母ちゃんのとこにいくの?」
「うん……」
 リュウが目をきらきらさせて、すごい、と繰り返すと、男の子はくすぐったいような顔をして、それからさっきまで泣いていたのに、ちょっと得意げな顔になって、言った。
「ぼくは偉いから、強いんだ……ええっと」
 そう言って、彼はちょっと困ったようにリュウの顔を見た。
 何て呼んだら良いのかわからないふうだったので、リュウはもう一度自分の名前を教えてあげた。
「おれ、リュウ!」
「る、るー……? りぅ、んんと、ルー……」
 なんだか上手く発音できないようで、彼はちょっと困った顔をして口の中でもごもご言った。
「むずかしいね……」
「そうかなあ。覚えやすくていい名前だって、みんな言ってくれるよ」
「……んん、ぼくね、おなまえおぼえるの、へたなの」
 男の子はちょっと困ったように言って、でもちゃんとしってる人なら大丈夫なんだよ、と言った。
「る、ルー、あのね、ぼく、おなまえ言えない……とうさまが怒るの。リケドとナラカも、ダメっていうの」
「うん」
 さっき言っていたのを思い出して、リュウは頷いた。
 じゃあ何て呼べば良いだろうと、ううん、と考え込んで、あ、とリュウは顔を上げ、にっこりした。
「おなまえ、よばなくても平気。「きみ」って呼ぶよ、だいじょうぶ」
 ちょっと大人みたいな呼び方だ。
 割かし気に入ってしまって、リュウはへへっと笑った。
「ねえきみ、これからどこいくの?」
「かあさまのとこ、いくの」
「母ちゃん、どこにいるの?」
「……わかんない」
 力なく肩を落として、男の子は項垂れた。
「でも、ごんご……えっと、リフトで、すごく下におりてきたんだ。だから、上がらなきゃ」
「またのってくの?」
「ううん……リフト、もう、やだ……」
 男の子はふるふると首を振って、高いもん、と言った。
「落っこちたら、こわいよ。まっくらだし、がたがたゆれるし……」
 そう言って、男の子はすくっと立ち上がった。
「あのね、ルー、もうばいばい。ぼく、行くから……」
「え、もういっちゃうの……?」
「うん。ぼく偉いから、知ってるよ。せんろを歩いていったら、かあさまのおうちにつくんだ」
 それを聞いて、リュウはびっくりしてしまった。
「だ、ダメだよ!」
「どうして?」
 男の子はリュウに引き止められて、ちょっと不機嫌そうな顔をした。
「ディク、いっぱい出るよ! 食べられちゃうよ!」
 怖くなって、リュウは半泣きで頭を振った。
 でも男の子は平気そうな顔をして、こわくないよ、と言った。
「ルー、よわむしだよ」
「う、で、でも、食べられるの、きっといたいよ……」
「ぼく、ディクなんてすぐにやっつけれるもん」
 そう言って、得意そうに胸を張った。
「ぼくはね、「けんせーにつらなる」なんだ。ディクなんか、へいきだよ」
 彼は、それをとても誇らしいことのように言うのだった。








「ルー、なんでついてくるの?」
 不思議そうに、男の子が振り返ってリュウを見た。
 ずっと続いていたくすんだ灰色の壁はそのままに、やがて照明が更に弱くなって、辺りは真っ暗になってしまった。
 何度か度胸試しで下層区の子供たちと入り込んだことがある、リフトの道だ。
 結局途中でいつも怖くなって、誰ともなく帰ろうよ、なんてことになるので、こんなに真っ暗になるくらい深いところまで来るのは初めてだ。
 誰かレンジャーに遭って、ここで何をしているんだ、って怒って連れ戻してくれないかな、とリュウはこっそりと思った。
 だけど、レンジャーに怒られるのもまた、恐ろしいのだった。
 ディクに遭いませんように、レンジャーに遭いませんように、と一生懸命に祈りながら、リュウはおどおどと男の子の後をついていった。
 彼は全然平気、みたいなふうに、堂々と、子供らしい早足で歩いていた。
「ぼく、ひとりでかえれるったら。きたない子といっしょだと、かあさまもきっとおこるもん」
「だ、だ、だ、だって、ひとりでいくの、こわくない……?」
 リュウは震えながら、そう言った。
 リュウがこれだけ怖いのだ。さっきまで泣いていた彼だって、きっと恐ろしいだろう。
「こ、こわくないよ! ルー、よわむしでこわがりなの?」
 ちょっと意地悪な調子で、男の子が言った。
 でもその声はちょっと震えていた。
 平気なふりをしていないと、また泣き出してしまいそうなふうにも見えた。
 リュウも少し意地になって、こわくないよ、と言った。
「し、し、しんぱいだからさ。ま、まいごになったらこまるだろうなって、おもっただけ!」
「……しょ、しょーがない、ねえ」
 男の子は大人ぶって、腕なんか組んで見せて、じゃあいっしょにきてもいいよ、とちょっとほっとしたみたいに言った。
「あ、あのね」
 リュウはびくびくとしてしまって、でもそれを同じくらいの年頃の男の子に見せるのはとても恥ずかしいことだったので、全然平気、という顔をしながら、言った。
「手、つなごうよ」
「……て? やだよ、だめ。きたないも……」
 急に遠くの方から、ディクの大きな鳴き声が聞こえてきて、男の子はそこでびくっと固まってしまった。
 ちょっと涙目になって、それからぎゅっと目を瞑り、こくこくと何度も頷いて、リュウの手を取った。
「だ、だいじょうぶだよ。ディクが出ても、いっしょうけんめい逃げればへいきだよ」
「う、うー……」
 男の子は本当に怖がってしまっていて、リュウの手をぎゅっと握りながら、ちょっと背中のほうに隠れて、ちょこちょことついてきた。
「あ、あのね、ルー」
「なに?」
「ひ、ひとりで逃げたりしたら、だめだよ」
「うん」
 リュウは頷いて、大丈夫、と言った。
「逃げない」
「ほんとにほんとだぞ」
「ほんとにほんと、逃げない」
「手、はなしたらだめだよ」
「はなさない」
「ぼく、こ、こわがってなんかいないんだから」
 リュウはちょっと首を傾げて、震えている男の子を見て、うん、と言った。
「お、おれも、こわがってなんかいないったら」
「こ、こわくないね。こんなの、ぜんぜんへいきだよね、ルー」
「うん、ぜんぜんへいきだよ」
 また遠くの方からディクの鳴き声が聞こえてきて、リュウとその男の子は二人して、びくっと固まった。
「……ディクって、なんでいるんだろう……」
 男の子はちょっとめそめそしながら、そんなことを言った。
「き、きっと、ぼくらをたべるためにいるんだ」
「ち、ちがうよ。かわいいのもいるよ。ナゲットとか……」
 慌ててリュウは、不安を吹き飛ばそうとして、そんなことを言った。
「……ナゲ?」
「ナゲット、しらない?」
「あ、ごほんではみたことあるけど……」
 男の子はちょっと困ったふうに、アナセミの仲間だよね、と言った。
「たべたこともあるけど、平たいお肉のことだよね? ぼくのおうちの近くには、いないの」
「きみは、どこにすんでるの?」
 リュウは不思議に思って訊いてみた。
 ナゲットがいないなんて、珍しいところに住んでいるんだ、と思った。
「えっと、ちゅうおう、なんとかく……。とうさまのおうち。おっきくて、怖いディクしかいないの。あ、でも、グミはちょっと好き。ぎゅーってすると、すごくぷよぷよしてるんだよ」
「グミ……?」
「グミ、知らないの、ルー?」
 首を傾げたリュウに、さっきの仕返し、というふうに、男の子が言ってきた。
 リュウは正直に、知らない、と答えて、それから可笑しくなって二人で笑った。
 大きな声を出して、そのせいだろうか、急に足音が聞こえてきて、ふたりはぴたっと笑うのをやめて、物音がした方向をおっかなびっくり振り向いて見た。
「……だ、だ、だれか、きた?」
「れ、れんじゃーかな? れんじゃー、だよね?」
 小声でこそこそ言い合って、そうしている間にも砂を蹴る音はどんどん近付いてきた。
 子供の耳でも分かるくらい、人間よりもずっとすばしっこそうな、軽い足音だった。
「き、きみ、にげようか、ねえ?」
「そ、そうだね……あ」
「ど、どうしたの?」
「あ、あしが……ふるえて」
 動けない、と泣きそうになりながら男の子が言って、リュウは、だいじょうぶ?と慌てた。
「だ、だいじょうぶだからね。おれ、ひとりでにげないから!」
「う、うわああん、ルー……!」
 ぐす、ぐす、と泣き出してしまって、ぎゅうっと抱き付いてきた男の子の頭を、いい子、とするように撫でて、リュウは震えながらそっちを見た。
 そして通路の角から現れたのは、レンジャーではなく、ディクだった。
 ナゲットだった。
 それもまだ小さい、リュウたちの膝くらいまでしかない、小さな子供のナゲットだ。
 ほろっ、と鳴きながらそいつはリュウたちに気がついて、びっくりしたようにぴたっと止まり、戸惑うようにくるくると辺りを見回した。
 それでも、どうやらまだ小さな子供ふたりは脅威にはならないと判断したようで、気にせずにちょこちょこと歩きまわりはじめた。
「び、びっくりしたあ……!」
 リュウはほっと胸を撫で下ろして、ぺたんと座り込んでしまった。
 物凄く怖かった。
 男の子も気が抜けてしまったようで、リュウとおんなじようにぺたんと座り込んで、そしてそれがすごく恥ずかしいことのように顔を真っ赤にして、立ち上がって小さなナゲットをぽこっと蹴っ飛ばした。
「なんだい、こいつ!」
「あ、だ、だめだよ。かわいそうだよ……」
 リュウが慌てて止めたが、ナゲットの子供は、ほろろ、と悲鳴を上げて、じたばたと駆け回った。
 男の子はもう一度またぽこっとナゲットを蹴っ飛ばした。
 跳ねた子供はちょこちょこと必死で走っていって、通路の影に消えていった。
「あ、まてー!」
 男の子はナゲットを追っ掛けて行こうとして、そして、







「わああ!」



 



 悲鳴にびっくりして、リュウはそっちを見た。
 通路の曲がり角から顔を出している生き物と目が合った。
 それはリュウたちよりも少しばかり大きい、大人のナゲットだった。
 ちょこっとその足元から顔を覗かせているのは、さっきの子ナゲットである。
 母親を呼んできたようだ。ほろろ、と鳴いて、身体を跳ねさせている。
 ディクの言葉はわからないが、その中身はよくわかった。
 つまり、『ママ、あいつらだよ』『足で蹴っ飛ばして、いじめたんだ』――――案の定、ママナゲットはものすごい勢いで怒りだして、リュウと男の子は顔を真っ青にした。
 男の子はまたぺたんと座り込んでしまった。
 リュウは慌てて、レンジャーみたいに見えるように男の子を背中に隠して、そばにあった廃材のパイプを掴んで、震えながら怒っているナゲットの前に立った。
「だ、だ、だ、だいじょうぶだからね。おれは、れんじゃーになるんだから、こ、このくらい、へいきさ」
 それはほとんど、リュウが自分に掛けている言葉だった。
 武器を向ければナゲットは逃げて行ってくれるかも、と考えたが、ナゲットは興奮してしまっていて、鋭く鳴きながら突っ込んできた。
「わ!」
 どん、と体当たりされて、リュウはぺたっと尻餅をついてしまった。
 その拍子にパイプは転がっていってしまった。
 のしのしと歩いてきたナゲットに背中を踏み付けられて、リュウは震えて縮こまりながら、ぎゅうっと目を瞑った。
 突付かれる!
「ううー……!」
 頭を押さえてじっとしながら、でも一向に痛みは襲ってこないものだから、リュウはうっすらと目を開けた。
 そこにはもうナゲットの姿はなかった。
 恐る恐る身体を起こしてみると、リュウよりちょっと離れたところに、ナゲットが目を回して倒れていて、子供のナゲットが心配するように、ちょこちょことその周りを走りまわっていた。
「あ、あれ?」
 そして、リュウがさっき落としてしまったパイプを持って、男の子がふらふらと立っていた。
「……なんだ……弱いや」
 そう言いながら、その顔は真っ青だった。
 リュウは目をぱちぱちとしながら立ちあがった。
 土埃を払って、信じられなかったが、訊いてみた。
「……き、きみが、やっつけちゃったの……?」
「や、やっつけちゃった。ぼく、強いもん」
「す……」
 リュウはふるふると震えて、俯いた。
 男の子はリュウの様子に、ちょっと不安そうに目を伏せた。
 怖がられてやしないか、そんなふうに心配している顔で。
「あ……ル、ルー、あのね、」
 リュウは、ばっと顔を上げて、大きな声で言った。
「すごーい! すっごい、つよいー! れんじゃーみたいだ! かっこいい!!」
「あ……え? えっと」
 リュウは目をきらきらさせて、すごいすごい、と繰り返した。
 男の子は戸惑ったようだが、やがて誉められているんだ、と気がつくと、得意そうに胸を張った。
「ぼ、ぼくは、すごいんだもん」
「すごいねー! きみ、ぜったいすごいれんじゃーになれちゃうよ! ほんとにやっつけちゃった!」
「れんじゃーくらい、なんでもないよ」
 くすぐったそうに、でも誇らしい顔で、彼は言ったのだった。
「ルーより、ずっと強いんだ。ぼくは、「けんせいにつらなる」なんだから!」
 そうして大声でやりあっていると、また足音が聞こえてきた。
 リュウと男の子は、びくっとして口をつぐんだ。
「……だ、だいじょうぶだよね」
「へ、へいきだよ、ぼくは強いんだも……」
 こくっ、と唾を飲んで、ふたりはどんどん近付いてくる足音にびくびくとしながら、それを待ち受けていた。
 そして曲がり角から現れたのは、今度は人間だった。
 ふたりはほっとしてしまって、気が抜けてしまった。
 現れたのは、女の子だった。
 リュウたちより5歳ほど年上に見える。
 頭に猫みたいな耳がついていて、お尻には黒いふさふさした尻尾が生えていた。
「声が聞こえると思ったら……ゼブル、やっぱり子供がいるよ。ふたりだ」
 女の子は、自分だってまだ子供の部類に入るだろうに、もう一人前の大人みたいな話し方をした。
「逃走したディク、回収、と。なんで倒れてるの? まあいいけど。これで全部、レンジャーどもに偉そうな顔をされずにすむね、ゼブル」
 彼女はふたりのところまで来ると、腰に手を当てて、しょうがない子たちだ、と言った。
「あんたたち、ここで何してるのよ。子供がふたりもこんなリフトの奥まできて! 普通もうディクに食べられちゃってるよ?!」
 リュウと男の子は、怒鳴られて竦んでしまって、でも人間の顔を見て、なんだかじわっと涙が出てきた。
 そうしてふたりして、女の子にぎゅうっとしがみついて、泣き出してしまった。
 女の子は慌ててしまって、そして肩を竦めて、しょうがないね、と言った。
「はい、泣かない、泣かない……。男の子だろ。なんでこんなとこにいるのかってことは後で聞くけど、ともかく安全なところまで行こう。歩けるね?」
 リュウはこくっと頷いたが、男の子の方はぶんぶんと首を振って、やだ、かあさまあ、と泣き出した。
 それでリュウは、そう言えば、と思い出して、彼と同じようにぶんぶんと首を振った。
「あ、あのね! この子、母ちゃんにあいにいくんだ! だ、だから」
「……? レンジャーに頼みなよ。送ってってくれるよ」
「やだ、れんじゃーは、とうさまのとこにつれてくんだもん、ぜったい……」
「あのねえ……」
 女の子ははあっと溜息を吐いて、言い聞かせるように男の子の肩を掴んで、ゆっくりと言った。
「あんたの母さんは、あんたにこんな危ないところを通ってまで遭いにきてもらいたいと思うかい?」
「……だって、かあさま……」
「きっとすごく怒るよ。あんたのことなんか、危ないことして悪い子だって、嫌いになっちゃう」
「……う。や、やだ。かあさま、きらいになっちゃやだあ……」
「お、お姉ちゃん、いじめちゃだめだよ!」
 リュウは慌てて女の子を止めた。
 男の子は泣き出してしまっていて、リュウは一生懸命頭を撫でてやりながら、大丈夫、母ちゃんきみを嫌いになったりしないよ、と慰めてやった。
「いじわる、言っちゃダメだよ……」
「ああ、ごめん。あんたはいい子なんだね。でも、ちゃんと止めてやりなよ。ディクに食われたら、あんたも弟も、もう二度と母さんには会えないんだよ」
 リュウは変なふうに言われて首を傾げて、おれたち、兄弟じゃないよ、と言った。
「ともだちだよ」
「ともだ、ち……?」
 泣いていた男の子は、不思議そうにリュウの顔を見た。
 リュウは、うん、と頷いて、ともだちだよ、と繰り返した。
 女の子は、やれやれと肩を竦めて、まあなんでもいいけどね、と言った。
「とにかく出よう。ゼブル、この子たち、一旦公社に連れてくよ。家族にはそれから連絡する」
「いつも思っていたんだが、リン。いくら天才だって言っても、おまえってなんでそんなに子供らしくないんだろうな」
「何言ってんだい、私はもう立派な社会人だよ。ちゃんと仕事持ってるし」
 後ろからようやく追い付いてきた、10代半ばくらいに見える少年に、女の子は涼しい顔をして言った。
 そして、ああ、と気が付いたように、リュウたちに向直った。
「私は、バイオ公社のリン=1/256だよ。こっちはゼブル。うちの小間使いさ。よろしくね、ちびっ子たち」
「おれ、ちびじゃないよ」
「ぼ、ぼくだって、ちがうも……」
 リンは、はいはい、と肩を竦めた。







 バイオ公社の中なんて、はじめてだ。
 リュウはちょっとどきどきして、興奮していた。
 横を見ると、男の子の方もおんなじような顔をしていた。
「すごいね、さっきの見た? 箱の中に、ディクがいっぱい!」
「みた! ちゃんと箱のなかだと、ナゲットもかわいいね」
「でしょ?」
「でもぼくは、グミのほうが好きだなあ……」
「おれ、見たよ。青くてぐにょぐにょのやつだ」
「ほかにも、いっぱい色ちがいがいるんだよ、ルー」
「こら! 騒がない!」
 リンに怒られて、ふたりは縮こまってしまって、リュウはごめんなさい、と謝った。
 男の子の方は、そんなリュウを不思議そうに見ていた。
 リンはその男の子の頭を小突いて、あんたは謝らないのかい、と言った。
 男の子は首を振った。
「あのね、とうさまが、ひとにあやまっちゃだめっていうの」
「はあ?」
「ぼくはえらいから、あやまっちゃだめだって……」
「ああそう」
 リンは呆れたように肩を竦めて、ぼっちゃんなんだ、と言った。
「すぐに連絡はついたみたいだよ。迎えがすぐ来る。リフトが待ってるから、ここでお別れだ」
「……ルーは? いっしょにつれてっちゃだめ?」
「だーめ。その子は下層区の子だからね。なんでか下層にしては、連絡がついたのが早かったけど。すぐ迎えが来るよ、レンジャー基地からだ。家族にレンジャーでもいるのかい?」
「ん……いないよ、おれ、シセツの子だもん」
「ああ、そうかい……」
 リンはちょっと困ったみたいに笑って、ほらあんたはこっち、とリュウの手を引いた。
「じゃ、元気でね、ちびっ子。ゼブル、頼んだよ」
「ああ」
 男の子に、こっちだ、ついてこい、と言って、ゼブルはリフト乗り場の扉を開けた。
 男の子は振りかえって振りかえって、そしてリュウを呼んだ。
「ルー!」
 振り向くと、泣き出してしまいながら、男の子がリュウを見ていた。
 リュウもなんだかじわっと涙が出てきた。
 まともに友達なんて言って嫌な顔をしない子なんて、初めてだったのだ。
「また、あそびにきてね! いっしょにあそぼう!」
「こら、何てこと言うんだい。また家出させる気かい」
 リンに小突かれた。
 男の子はぎゅうっと目を瞑って、うん、と何度も頷いた。
「ぼく、ルーがすきなれんじゃーになって、ルーにあいにいくよ!」
 男の子はそう言って、またね、と言った。
 リュウも頷いた。
「おれもれんじゃーになるよ! そしたらいっしょに、またリフト、いこうね!」
「あいにいって、そしたらルー、ぼくのおよめさんにしてあげるね!」
「……およめさんって、なに?」
「ずーっといっしょにいられるんだ! ずーっと、また、あそぼうね?」
 ずっとまた一緒に遊べると聞いて、リュウは慌てて何度も頷いた。
「やくそくだからね!」
「おいボウズ、リフトが出る。行くぞ」
 ゼブルに引き摺られるようにして、そうして男の子は行ってしまった。
 リフトの発車ベルが鳴って、そして行ってしまった。
 リュウは小さく泣きながら、リンに手を引かれて、応接室に連れて行かれた。
「よかったねえ、あんた。お嫁さんにしてもらうんだってね?」
 リュウはこくっと何度も頷いて、そしたら、いっしょにまた遊べるよね、とリンに訊いた。
 リンはちょっと困った顔をして、ちょっとそういうのとは違うけどね、と言った。
「それにしても、あんたもうちょっと小奇麗にした方がいいよ。せっかく嫁に貰ってもらうんだからさ、ちゃんと女の子らしくしときなよ」
「……? おれ、男の子だよ、リン姉ちゃん……」
「……は?」
 リンはちょっと立ち止まって、それからリュウの顔をしげしげと見て、ああ、と溜息をついた。
「あらら……可愛い顔して、そんな髪の毛してるから、間違っちゃったんだ……」
 肩までつくくらいのリュウの長い髪を撫でて、リンはちょっと困ったように笑った。
「あの子、知らないまま行っちゃったんだね……」
 それからちょっと、彼女はくすくす笑った。
 リュウはよくわからずに、首を傾げた。
 どこも似たような廊下を、リンに手を繋がれて歩きながら、リュウはふいになんだか変な気分になってしまって、ぺたっとしゃがみこんだ。
 頭がくらくらする。
「どうしたの? 大丈夫かい?」
 全身がびりびりして、千切れてしまいそうな感じだ。
 でも痛みはなくて、それよりも、なんだか懐かしいふうな感じだ。
 リュウはうずくまって、そうしてふっと顔を上げた。
 目の前を、男の人が通り過ぎていった。
 真っ黒で赤い模様が光っていて、身体にぴったり張り付いた変な服を着ていた。
 その後姿が、背中が、ひどくゆっくりしたふうにリュウの目に映った。
 まるで自分以外の世界がスローモーションになってしまったような感じ。
(……だれ?)
 男の人は僅かに振り向いて、リュウを見たようだった。
 でも、その顔は良く見えなかった。
 頭が、ちりちりする。
――――大丈夫かい?!」
 リンの声がすぐ耳の近くで響いて、リュウははっとした。
「どこか痛い? 気分が悪いのかい?」
「あ、あの、さっきの男の人……横を、通った人は?」
「はあ?」
 リンは、わけがわからなさそうに言った。
「誰もすれ違いやしなかっただろう? なに言ってるの? 大丈夫かい?」
 リュウはぼおっとしたまま、首を傾げた。
 幻覚だったろうか?
 変なふうに鳴った心臓も今はいつも通りで、落ち付いていた。
「あれ……?」
 リュウは立ち上がって、へんなの、と呟いた。
 バイオ公社の廊下には、リュウとリン、ふたりのほかに誰の姿もなかった。













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