下層に降りてから、ちょうど一月経った。
今日は実技試験の日だ。
筆記はすでに済んでいた。
もちろん満点で、リュウは目を丸くしていた。
いつの間に勉強していたの、全然そんなとこ見なかったのに、おれなんてほんとギリギリだったのに……それらの答えは、「俺エリートだから」――――普通はそれで済むのだが、リュウの場合はちょっと反応が違っていた。
「エリート……って、なに?」
「……すごい偉い奴のこと」
「へー……うん、エリートだねえ、ボッシュくんは!」
「……何それ」
「え? 「偉い」のことじゃないの?」
「使い方間違ってる」
「えー……」
「他で使うな。俺だけだ」
リュウは相変わらず何にもわかっていない馬鹿そうな顔で困惑していたが、うん、と頷いた。
「ボッシュくんはいろんなことを知ってるんだね」
「……オマエと比べられたくないけど」
「あはは! それもそうだ!」
「……なんでそこで笑うんだよ……」
リュウは、ちょっと変だ。
「おれ、馬鹿だからさあ……あ、もう黙ってた方がいいね。試験の教官はちゃんとしたレンジャーだから……」
「オマエもレンジャーだろ」
「う、うーん……おれ、あんまり候補生と変わらないよ。だってサードになってからまだ、」
リュウはそこで口をつぐんだ。
扉が開き、試験会場となっているホールに、レンジャーらしい男がふたりばかり入ってきたのだ。
色黒のハゲとツンツンに突っ立った金髪の二人で、どちらもリュウと同期のサードレンジャーであるらしかった。
彼らはリュウを見付けると、ごくろうさん、というふうに手を上げた。
「ひよっこローディ、どうだ、仕事は」
「は、はい! 大丈夫です!」
リュウは慌ててびしっと背筋を正して言った。
制服から見て同期なのだろうが、リュウは緊張してしまっていて、がちがちに固くなってしまっている。
エリートのボッシュを見てもふわふわと馬鹿みたいに笑っていたのに、変な奴だ。
「大変だな、まだリフトにも行ってないんだろ? あれはレンジャーの洗礼みたいなものだからなあ、早く回してもらえるといいな」
「おまえもどうだ、もう一度受けてみないか、試験」
「え、遠慮しておきます……」
リュウは自信なさそうに、ふにゃっと笑った。
レンジャーふたりは、しょうがない奴だというふうにくすくす笑った。
それからボッシュに気が付いて、慌ててぴりっと直立した。
そう、普通はこれだ。
ボッシュに無礼なことばかり言うリュウがおかしいのだ。
「では、試験を始める。内容は、一人ずつこちらで用意した試験用ディクを倒すこと。いいな」
「トッド=1/2048。前へ」
「は、はい!」
試験を受けに来たのはボッシュだけではなかった。
筆記はともかく実技に関しては、この弱っちそうな指導員でさえ合格したのだからなんとかなるだろうと考えたのだろう、何人かちらほらと来ている。
リュウは心配そうな顔で、がんばって、でも危なくなったら逃げてね、と言った。
試験を受ける候補生は緊張しきった顔をしていたが、へらへらしているリュウを見て安心したのか、ふっと肩の力を抜いて手を振った。
「制限時間内に現れたディクを倒せ。では、開始!」
ごうん、とケージのニ重扉が開き、試験用ディクが現れた。
ボッシュは落胆し、肩を竦めた。
「なんだ、邪公じゃん……」
「こ、怖いよね、顔がさ」
リュウはびくびくとして、ボッシュの服の裾をぎゅうっと握ったが、あ、と慌てて手を離して、大丈夫だよ、怖くないよ、と言った。
「……オマエ、レンジャーだろ……試験、受けたんだろ」
「お、おれの時は、すごく運が良くてさ。ナゲットだったんだ。それも、ちっちゃいやつで……」
「リュウ=1/8192! 私語は控えてもらおう」
「あ、す、すみません!」
リュウは慌てて頭を下げて、口をつぐんだ。
それからボッシュの方をちらっと見上げて、話し掛けてごめんね、と謝った。
二人で話し込んでいて、一人だけ怒られたというのに、それを疑問に思うふうでもない。
(……馬鹿って、結構やりやすいかもな)
ボッシュはこっそりそう思った。
視線を上げると、邪公はゆっくりとした足取りでもって、候補生の方へ近付いていた。
一歩踏み出すごとに、床が揺れる。
(……なんで俺が最後なんだ? この俺を待たせる気か)
(が、ガマンガマン。だいじょうぶ、緊張しないで。ね?)
(…………)
なんだかリュウはボッシュのうんざりした顔を勘違いしているようで、おずおずと励ましてきた。
邪公みたいな雑魚、どれだけ束になって掛かってきても平気だと言おうとしたが、子供っぽいので止めた。
試験用に捕まえられてきたらしい邪公は、武器も取り上げられて、何の脅威もないように見えた。
だが候補生の方は竦み上がってしまっていた。
無理もない、初の実戦ということになるのだろう。
加えて邪公は顔だけは凶悪だし、身体も巨大だ。
殴られただけで、骨くらいは折れるかもしれない。
トッドくんとやらは、哀れなことにもう腰が引けてしまって涙目だった。
剣先がぶるぶる震えている。
失禁でもしなきゃいいがな、とボッシュは皮肉に考えた。
そして傍観していた。
リュウはといえば、まるで自分のことのようにはらはらと心配そうにしている。
そして見かねたのか、網で囲われた檻の中にいる候補生に声を掛けた。
「トッドくん! 無理ならリタイヤして、レンジャーが止めてくれるから!」
大丈夫、試験なんていつでも受けられるから、とリュウは言った。
中にいる候補生は、目を潤ませながら何度も頷いた。
だが怖気づいて、声も出せないようだった。
レンジャーの二人は声が掛からなければ傍観を続けたままでいた。
気絶でもすれば別だろうが、まだ戦える状態である以上、手出しはしないつもりらしい。
候補生はがたがた震えたまま、助けを求めるようにリュウを見た。
(……馬鹿だ)
敵から視線を逸らしてはならない。それは戦闘における基本だ。
思った通り、目線が離れた途端邪公が突っ込んできて、その大きな腕で候補生に殴りかかった。
まだ子供っぽさを残した少年の身体は、あっけなく吹っ飛んで網に叩き付けられた。
邪公はなおもずんずんと大きな足音を立てながらそいつに寄って行き、さっきと同じような動作で腕を振り上げた。
そして再び候補生に殴り掛かろうとしたまさにその時、割って入ったリュウに蹴り上げられて後退り、よろめいた。
(へえ、馬鹿のくせにヒットバック力はあるんだ)
ボッシュは感心しながらそれを見ていた。
「試験官、彼にはもう戦う意思はありません、試験の中止をお願いします」
そうしている時は、リュウはいつものほわほわとした馬鹿そうな雰囲気は綺麗さっぱり消えてしまって、まっすぐに凛としてそこに立っていた。
その姿は、まだサードに受かったばかりだと言っても、レンジャーに見えた。
「リュウ=1/8192、候補生の意思確認をしていない。試験の妨害をしたことで、追って上から処罰があるだろう。トッド=1/2048、実技試験を中止するか?」
「は、は……」
はい、と言おうとしているのだろう、しかし上手く喋れないようで、トッド=1/2048はまだぶるぶると震えている。
そうしているうちに、邪公がまた向かってきた。
かなり怒っているようで、目を吊り上がらせ、鼻面が真っ赤に染まって、息が荒い。
「繰り返す、中止するか、続行するか。君の返事が無ければ、我々が手を出せば上からの処罰の対象になる。答えたまえ」
「う……う、う、」
候補生は、こともあろうにそこで泣き出してしまった。
リュウはそれに背中を向けたままにっこり笑って、大丈夫だよ、と言った。
「さあ立って、立てる?」
候補生は、無言で首を振った。
リュウはそれを咎めず、そう、とだけ言った。
「じゃあちゃんと立たなくてもいいから、ここを出るんだ。大丈夫だ、できるよ」
リュウは邪公の前に立ち、候補生を庇うように手を広げた。
丸腰なので、そうするしかないようだった。
「おれがいるよ。きみは安全だ。先輩のところまで行って、そしたらもう大丈夫だ」
リュウはまだにこにこしているのだった。
良く見ればその顔は蒼白だった。
少し口元が引き攣っていたが、リュウはそうして、言った。
「大丈夫だからね、なんにも心配なんてない。おれは、レンジャーなんだから、このくらい平気さ」
それはほとんど、リュウが自分に言い聞かせているように聞こえた。
候補生はそこで少し恐怖が薄らいだようで、口を開けて叫んだ。
「し、試験官、中止をお願いします……!」
だが邪公はもうそこまで迫っていた。
リュウの目の前で腕を振り上げ、リュウが今度ばかりはぎゅうっと目を瞑ったのが見えた。
そこまでだった。
ボッシュが観察していたのは、そこまでだった。
檻の中へ、そして背後から邪公の頭を一突き。それでおしまいだ。
断末魔もなく、邪公は絶命した。即死だ。
巨大な身体が倒れ、地面が震えた。
「……見てらんないね」
肩を竦めて、ボッシュは言った。
返り血は浴びていない。
服も汚れていない。大丈夫だ。
見ると、リュウの顔にべったりと血が飛び散ってしまっていた。
彼はそれを気にするふうでもなかった――――いや、放心してしまっていた。
ぼおっとしたままで、しばらくしてやがてはっとしたように顔を上げて、ボッシュを見た。
その表情は、ボッシュに既視感を与えた。
前に見たことがある表情だった。
『……き、きみが、やっつけちゃったの……?』
その昔、彼女は――――いや、彼はそう言ったはずだ。
『すごいねー! きみ、ぜったいすごいれんじゃーになれちゃうよ! ほんとにやっつけちゃった!』
興奮して頬を上気させながら、ボッシュが初めて他人を「可愛い」と思った顔で、そう言ったはずだ。
レンジャーに憧れていたそいつは言うはずだ。
それは、見間違いじゃないはずだ。
記憶の中のルーはきっと笑って言ったはずだ、おれ、リュウ、と。
ボッシュは思い出した。
そう言えば、人の名前を覚えるのは苦手だ。
その必要がないものだから。
「……ルー?」
呼び掛けて、だがリュウから返事は返ってこなかった。
彼はようやく邪公がボッシュに倒され、候補生は生きていて、自分も生きているのだということを理解して、ふうっと気が抜けてしまったようで、そのままぶっ倒れてしまった。
「……おい! ル……リュウ!」
ボッシュは慌ててリュウを掴み起こし、抱き上げた。
内心ひどく混乱していたが、少しだけ安堵していた。
あの子を見付けた。
それがこんなかたちでなんて悪夢と言っても良かったが、あの子は確かにここにいるのだ。
(……まさか、馬鹿な……)
ボッシュは沈痛な面持ちで、げんなりとしていた。
婚約者が男だった――――しかも相手はボッシュのことを覚えてすらいない。
ものすごいローディで、無教養で馬鹿だ。
確かに女なら可愛い。
だが男だった以上、今のボッシュには悪夢だ。
(このボッシュ=1/64が……最悪の、失態だ。しかも、この先人生で最大の失敗だ)
リュウは鎮痛剤を打たれて眠っていた。
傷は無かったが、足を少し痛めてしまっているようだった。
蹴りを入れて足を痛めていればしょうがない。
試験はその場で半ばレンジャーを脅迫するようなかたちで合格、明日からは晴れてサードレンジャーになる。
一般的に普通の人間が1年掛かるところを1ヶ月で合格した。
周囲は驚いていたが、そんなことは当たり前なのでどうでもいい。
ボッシュの気分は鬱々としていた。
(この俺が……男を追い掛けて、こんな下層まで。くそ、馬鹿正直に婚約者を迎えに行くなんて、親父に報告していなかったことだけが救いだ。もしそんなことになってたら、俺ぁこの先、生きていけねえ……)
ボッシュはじいっとリュウの顔を見ながら、はあっと溜息を吐いた。
寝顔は可愛い。
これでもしリュウが女で「ルー」だったなら、キスのひとつでもしているところだ。
(なんで、女じゃないんだ……)
もしかしたら少年のふりなんてしてるんじゃないかと往生際の悪いことを考えて、服を捲ってやったが、残念ながら胸はなかったし、下半身にはちゃんとついていた。
立派に男だった。
いっそのことこのままラボに運び込んで、改造でもしてやろうかと考えたが、そういう思考に辿り付いてしまうあたり、どうやら余程ショックだったようだと自覚して、ボッシュはうんざりとしてしまった。
「くそ……くそ、くそっ」
がんがんとリュウのベッドの脚を蹴って、ボッシュはイライラと舌打ちをした。
(このボッシュが……失恋? それもこんな馬鹿なかたちで? ありえねえ、なんでだ、俺はホモじゃないからな。ああもう、なんでなんだ……!)
まだ気持ちの整理がつかない。
あの少女への想いはまだボッシュの中にあった。
勘違いならどんなにいいか、だがさっきの試験でリュウを見ていて、疑惑が確信に変わった。
だがまさか、男を嫁にするなんて言って中央省庁区へ連れて行って、どうなるだろうか?
まず、父に殺される。
父の弟子のリケドとナラカは泣くだろう。
首を括ってしまうかもしれない。
「ああ、くそ、くそっ……!」
勢いを付けてボッシュは立ち上がり、リュウのそばにかがんで顔を近付け、決意を固めてから、乱暴にキスをした。
唇は柔らかく、なんでほんとにこいつ、女じゃないんだ、とボッシュは恨めしい気分になった。
リュウが少し苦しそうに身じろぎした。まだ眠ったままだ。
満足するまでそうしてやって、ボッシュは身体をばっと離し、口元を拭った。
「これで、しまいだ……! 終わりだ、ルーはいなかった。いなかったんだ、あの子はどこにも……」
ボッシュはがくっと肩を竦めて、項垂れた。
「いや、もう、あれだ。ガキの頃の綺麗な思い出ってやつだ。リュウじゃなかった、下層でルーは見つからなかった。それで……いいだろ、俺、なあ……」
声はメディカルルームの中を、虚ろにぐるぐると回った。
そこでボッシュの初恋とも言って良いものは、がらがらと音を立てて崩れ、消えていった。
そうであるべきだ。
ルー、いやリュウが目を覚ましたのは翌日になってからだった。
まだ鎮静剤が効いていて、顔を見に行ってやったボッシュに、寝惚けた声でおはようなんて言った。
「――――あ。し、試験は?! どうなったの?」
「合格。他の奴らは、例の一番手以外全員試験放棄。俺だけだ」
「あ、そ、そうなんだ」
リュウはうんうんと頷いて、それからにこっと笑った。
その顔は昔見た「ルー」そのままで、可愛かった。
ボッシュは顔を顰めた。
だから、男だったのだ。もう終わりだ。
「おめでとう、ボッシュくん! じゃあ今日からレンジャーだね」
「……まあ、そういうこと」
「すごいや、1ヶ月なんて! あんなに簡単に邪公も倒しちゃって、ほんとにエリートっていうの、すごいんだなあ」
まだ意味が良く分かっていないらしかったが、リュウは頷いて、感心したようにすごいねーと何度も言った。
「よろしくね、同僚」
「そのうち先輩って呼ばせてやるよ」
「あはは、きっとすぐそうなるよ。おれ馬鹿だから」
おかしそうにリュウは笑って、何かお祝いしようか、と言った。
「何がいい?」
「……別にどうでも……」
「あ、じゃあ、楽しみにしててね! おれ、すごく美味しいハオチー焼きの店を知ってるんだ」
「…………」
「おれもちょうど1ヶ月でこの任務交代だから、いっしょにリフトに行けるといいね!」
リュウはボッシュの昇格を、まるで自分のことのように嬉しそうに笑って祝い、そして手を差し出した。
「仕事、頑張ろうね」
「…………」
ボッシュは仏頂面でリュウの手を握った。
リュウは嬉しそうにその手をぶんぶんと振った。
リュウは馬鹿だ。
可愛い顔をしているし、優しい性質をしていて、真面目だし、だが男だ。
(……オマエ、女ならほんとに上まで連れてってやったのに)
ボッシュの不服の目に気付いたのだろう、リュウはちょっと首を傾げて、困ったように笑った。
「……なんかボッシュくん、いっつもおれのこと、馬鹿だっていう目で見るよね……」
「そう見える?」
「あ、違ってた?」
「……それでもいいけど」
本当のところは絶対に知られちゃいけない。
このまま忘れてしまおう。
リュウは男で、嫁にはしてやれないが、まあ同僚で――――トモダチ、なんてものなら、いつかはそう呼んでやったっていいかもしれない。
馬鹿だけど、リュウは他のローディとは毛色が違った。
馬鹿だから気を回すことができない性質をしていた。
馬鹿は、割合やりやすいのかもしれない。
「よろしく、リュウ」
いろいろな想いを突き放す気持ちで、ボッシュはそう試みながら言ってみた。
なんにも知らないリュウは可愛い顔で、よろしくねとうれしそうに笑った。
(ほんとに、なんで女じゃないんだ……)
恨めしくリュウを睨みながら、ボッシュは溜息を吐いた。
今日からサードレンジャーとしての日々が始まる。
リュウは不機嫌なボッシュを見上げながら、おれ何かまずいこと言ったかなあと困ったような顔をした。
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